橘曙覧 清廉の歌人
市井の中で楽しく美しく生きる
たちばなあけみ(一八一二〜一八六八)
江戸末期の歌人。福井の人。名は尚事(なおこと)、後に曙覧。田中大秀に国学を学び、万葉調の歌をよくした。
クリントン大統領が絶賛した歌人
今日の日本でもっとも失われたものは「美しく生きる」という美意識である。「清廉」という倫理観の喪失と言ってもよい。すなわち心に汚れがなく無私無欲で生きる姿。そうした人の典型として、私のもっとも好きな人でもある橘曙覧という人を上げたい。
曙覧は、江戸末期(一八一二年=文化九年)、福井で生まれた歌人である。だが歴史上格別の名を残し、功をあげた人ではない。むしろ歌人としても無名にちかく、おそらく読者の中でもこの名を知る人はよほど文学的な人だろう。
だが、近年、思わぬところから評価され、いま静かなブームになっている人である。
たのしみは朝おきいでて昨日まで
なかりし花の咲けるみるとき
この歌は曙覧の代表作の一つといわれるものだが、じつは、この歌と曙覧を思い出させてくれたのは日本人ではなかった。すでに平成六年六月のことになるが、天皇・皇后両陛下がはじめてアメリカを訪問されたとき、クリントン大統領がその歓迎レセプションで、この歌を読んだことから逆輸入のかたちで注目されだした人なのである。
なぜ、クリントン大統領は、あまたいる日本人の有名歌人をさしおいて、曙覧の歌を引用したのか。伝記によれば、大統領のスタッフがドナルド・キーン(日本文学研究者)の著述から引用した
とのことである。
その真意は、曙覧のこの歌に心打たれ、日本文化の清浄たる精神を尊び、新たなる日米親善によって“昨日まで無かりし花”を築いていこうとの気持ちを込めて披露したのだと言う。恥ずかしい話だが、いまや曙覧を理解していたのは日本人よりアメリカ人だったのである。
生きる喜びの一瞬を歌う
曙覧はじつにいい歌を詠っている。この歌も「たのしみは」ではじまる『独楽吟(どくらくぎん)』のなかの一つであるが、ほかにもこんな歌がある。
たのしみはまれに魚煮て児等(こら)皆が
うましうましといひて食う時
たのしみは心おかぬ友どちと
笑いかたりて腹をよるとき
たのしみはめずらしき書(ふみ)人にかり
始めの一ひらひろげたる時
たのしみはあき米櫃(こめびつ)米いでき
今一月はよしという時
たのしみはとぼしきままに人集め
酒飲め物を食えという時
どれも物質的には貧しい生活の中で、生きる喜びの一瞬を歌ったものだが、この清浄たる晴れやかな心映えはどうだろう。詠めば読むほどその情景が目に浮かび、ほのぼのとした幸せが心に染み込んでくるではないか。
あの幕末の喧騒の中でこうした自由で斬新な生活歌を作った人がいた、ということ自体すでに感嘆を禁じえないが、曙覧はこの種の歌を五十二首残している。
しかも、その歌の心は「至誠」にして「素直」。なにごとにも正直に、一片の邪心も無く、心に浮かぶよしなしごとを思うがままに歌っているのである。
これはできるようで、できるものではない。人は才能があればあるほど、その才に溺れ、技巧を凝らし、自慢したくなるものだが、曙覧の歌にはまったくそれが見られない。あくまでもしぜんであり、正直である。こうした素直な歌が歌えるということは、なにものにもとらわれない広い心と、自分に対する自信があるからだろう。これはまさに老荘思想の「無為自然」の境涯で人生をまっとうした人でなければ作れない歌なのである。
曙覧の歌こそ実朝以後のただ一人の歌人
曙覧の歌を最初に高く評価したのは、福井藩の家老の中根雪江であった。雪江は松平春嶽公のもとで一橋慶喜(徳川十五代将軍)の将軍擁立、公武合体運動などで活躍した幕末の功労者として知られているが、じつは最初、彼のほうが曙覧に歌を教えていた。ところが、「余は始めの程こそ先達めきて物しつけれ、いまはかなわぬ」といって、後に曙覧の弟子となった人である。
雪江は、曙覧の歌を「世のありきたりの風を抜きんでて、なによりも上世の心映えを主んじ、世間に起こる事や意表に思うことどもを、ただそのままに詠みあげている。と、その斬新さを褒め称えたのであった。
だが、それだけなら曙覧は、たんなる江戸末期の福井における歌人として歴史に埋もれておたであろうが、誰の胸にも自然としみこんでくる曙覧の歌を、天は地方歌人のままにはしてはおかなかった。
江戸が明治という新しい時代を迎えたとき、天才は天才を知るというべきか、あの正岡子規が「曙覧こそ実朝以後のただ一人の歌人である」と絶賛したのである。
いうまでもなく子規は、明治以後の歌壇・俳諧をリードした歌人で、有名な『歌よみに与ふる書』では、「貫之は下手な歌よみにして」などと、『古今集』の歌人を否定し、『万葉集』を高く評価した人物である。その彼が明治三十二年(一八九九)四月の『日本新聞』で、曙覧の歌を次のように評価したのである。
「・・・・・・その歌は、古今・新古今集のありきたりの古くささが無く、万葉に学びながら万葉でもなく、日常一般の生活を思うがままに歌いながら、いささかの俗気もない。歌といえば、誰しも花や月の風雅を貴しとするのに、そのようなことは捨てて、直接に自分の心を詠んでいる。それでいて、その見識は高く、凡俗を超越している。こんなすばらしい歌人を世間の人は知らない、というのはなんと言うことか。(中略)歌人として彼を賞賛するのに千万言をついやしても褒めすぎることはない。
い」
まさに絶賛の評価である。
とはいえ、この評価が与えられたのは、曙覧の死後(曙覧は明治に改元される十一日前の慶応四年、五十六歳で死んでいる)三十余年が過ぎたときのことであった。いわば曙覧は、このとき始めて中央歌壇に認められたわけだが、曙覧がそのことを草葉の陰で喜んだどうかはわからない。なぜならば彼は、みずから、
歌よみて遊ぶほかなし吾はただ
天にありとも地(つち)にありとも
と歌っているように、功名のために歌を詠むような人ではなかったからだ。
だが、それ以後、後世の文芸評論家たちは子規のお墨付きを得たことで、「清貧の歌人」として今では教科書や人名辞典にも掲載される歌人となったのである。
だが、私にいわせれば曙覧は「清貧の歌人」というより、むしろ「清廉の歌人」というべきではないかと思っている。なぜなら江戸期の歌人たちはおしなべて清貧であり、曙覧が清貧で会ったわけではないからだ。
それよりむしろ曙覧の非凡なところは、求められる立場にありながら世俗を排して利欲を求めず、清く正しく清廉に生きた、その生活態度にこそ賞賛に値するのである。
詩的に生きることは詩をつくることよりむずかしい
もともと曙覧は大商家の後継者であった。だが、その仕事が自分にあっていないと、みずからその地位を捨て、甘んじて清貧を友とし、名利を求めず、だだひたすらに歌だけを詠ったのだった。
その証拠に、その才能を惜しんだ福井藩主・松平春嶽公は、再三にわたって仕官することを要請したが、曙覧はそのたびに辞退している。仕官すれば生活も安定し、名も広められたであろうが、曙覧はそれを嫌い、市井の中でひっそりと自然を愛し、家族を慈しみ、孤高の中で生きたのである。
こういうと、何か世をすねた“変わり者”のように思われるかも知れないが、もちろん曙覧は変人ではない。かといって説教がましい隠遁者でも、出家者でもなく、どこの村や町にもいそうな、ごく普通の穏かな人柄の人であった。ここがいいのである。
功なり名を遂げんと夢見る若い人には、名もなく貧しく生きた曙覧の、どこにそんな魅力があるのかと思われようが、その夢を削りながら、だんだん馬齢を重ね、人生の酸っぱいも甘いもかみしめてくると、ただながれる雲のごとく悠々と生きた曙覧の人生が、いかに尊く、いかに尊厳に充ちた美しい生き方であるか、私も五十をすぎて初めてわかってきたのである。
人を純粋に愛し、自然と調和し、家族を大切に思い、利欲を求めず、かといって世を恨むこともすねることもなく、だだひたすらに自分の魂に忠実に生きた曙覧の人生は、言葉で書くと簡単なように聞こえるかも知れないが、こうした生き方はなかなか求められるものではないのである。
西洋の詩人の言葉に、「詩的に生きることは詩をつくるよりもむずかしい」というのがあるが、曙覧の人生はまさに「詩的」であった。そしてなによりも素晴らしいのは、貧しさの中で、その生活すべてを「たのしみ」に変えてしまう、素直な心と至誠の精神をもって、おのが人生を楽しく充足して生きたという、その生き方である。だからこそ彼は、なんでもない日常の中から、先の歌のような、われわれ現代人が忘れたしまった「たのしみ」を想起させてくれるのである。
曙覧の「三訓の教え」
曙覧は子供たちへの遺訓でこう書き残している。
「うそいうな。ものほしがるな。からだだわるな(体を怠けさせるな)。求むるはただ至誠の二文字」
現代風に訳せば、正直であれ、物をほしがるな、骨身を惜しむな、ということであるが、曙覧は人が人として生きるために守らねばならない信条として、この三訓を「人生の掟にせよ」といったのである。
人が人間として社会の中で生きていくとき、いちばん大切なことは「正直」ということである。それは人間が秩序ある平穏な社会を築こうとするとき、守らねばならない根元的な道徳だからだ。それゆえに親は子に「嘘つくな」「約束を守れ」「卑怯なことをするな」と教えるのである。
次いで第二の鉄則が「モノ欲しがるな」。つまり足ることを知る「知足の精神である。」「小欲は幸福の原点」と教えたのは釈迦であるが、身のほど知らずの欲望は身を滅ぼすもとであり、心を惑わす元凶となる。曙覧は子供たちに身を慎み、心を養い、慳貧なる賤しい心の人間になるな、と戒めるのだ。
そしてさらに「骨身を惜しむな」という。これは単に体を動かせという物理的な意味ばかりではない。人はえてして安易なほうに流れやすいので、楽をするより、より難しいほうを求めて、向上しろということだ。いわば曙覧は「正直」「知足」「勤勉」の三つの鉄則を人生の幸福の三原則として遺したのである。
いま、こうした訓戒を垂れうる親がどこにいようか。それは私を含めて親自身がこうした徳を忘れているからである。とくに「正直」に関しては、誰もがそうありたいと思いながらも、「正直者は損をする」との卑語があるように、正直であることがバカを見る世の中になっているからだろう。
そして、曙覧は、三訓の教えの結論として「至誠の二文字」と結ぶ。至誠とは正直をさらに高め、すべての徳をふまえた“まごころ”の意味である。
この言葉こそ嘘と欺瞞がまかり通る現代社会で、美しく生きるとはどういうことかを問う根元的なテーマである。曙覧はわれわれにそれを投げかげているのである。