内村鑑三   高尚なる生涯

 

誰もが遺せる最大遺物、それは勇ましく高尚なる生涯である。

 

うちむらかんぞう(一八六一〜一九三〇)

宗教家・評論家。高崎藩士の子。札幌農学校出身。教会的キリスト教に対して無教会主義を唱えた。教育勅語の敬礼を拒み不敬事件を起こし、また非戦論を提唱。雑誌『聖書之研究』を創刊して活躍する。

 

 

なぜ『代表的日本人』は書かれたのか

 

 すでに何度も触れたことだが、内村鑑三の著作の一つに『代表的日本人』という名著がある。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人を取り上げたもので、日清戦争(一八九四)のさなかに書かれたものである。現代を『Japan and Japanese』(のちに改題されて『Representative Men of Japan』)といい、それは英文で書かれている。

 なぜ英文で書かれたのか。

 内村はその執筆動機をこう語っている。

「日本を世界に向かって紹介し、日本人を西洋人に対して弁護するには、いかにしても欧文をもってしなければなりません。私は一生の事業の一つとしてこの事を成し得たことを感謝します。私の貴ぶ者は二つの“J”であります。その一つはJesus(イエス)であり、いま一つはJapan(日本)であります。本書は第二のJに対して私の義務の幾分かを書いたものであります」

 いわば内村は、当時、好戦的な野蛮国と日本を批判していた欧米列国の人々に対して、「日本にはこんなにすばらしい偉大な人物がいるんだぞ、なにが野蛮こくなものか」とキリスト教徒の殉教者にも劣らぬ彼らを、日本人の“誇り”として書いたのである。

 たとえは、その一人、二宮尊徳に対しては、「彼がいかに“土地の衰廃と人気(じんき)の汚悪”と戦ったか。彼には術策と攻略は皆無であった。「至誠の感ずるところ、天地もこれがために動く」として、この人には清教徒の血が通っているところがあった」と、尊徳の中に「慈悲」「勤勉」「正直」「忍耐」といった美徳を見つけ出し、敬虔なるプロテスタントの清教徒と対比して見せている。

 むろん、この本は単なる「偉人伝」ではない。西郷に対して「余輩は彼ほど人生の欲望の少なき人を知らない」と、無視無欲を称えているように、身を挺して仁を貫く「武士道的精神」をプロテスタントにも劣らぬ伝統的精神として活写し、不屈の意思力で人生を誠実に生きた彼ら五人の精神の美徳を、自らの生き方の指針とし、世に棲む人々にも「かくあるべし」と願って書いたのである。それはまさしく内村の生き方そのものであったといえる。

 なぜなら、内村は一般的には「日本的キリスト教」の創始者として知られているが、じつは彼こそサムライ的な矜持を保ち、生涯その生き方を貫き通し人はいなかったといってよいからだ。その証拠に、『代表的日本人』が出た翌年、内村は『余は如何にして基督教信徒となりし乎』(これも英文)を書くが、彼はこの中で自分のキリスト教への回心が「武士道の台木に接ぎ木するものだった」と述べ、その根底の精神に一貫して武士道的精神が流れていることを告白している。

 キリスト教徒といえば、とかく多くの人が西洋かぶれしたバタ臭い人を想像しがちだが、内村は墓碑に、

 「われは日本のため

  日本は世界のため、

  世界はキリストのため、

  すべては神のため」

 と標したように、彼はすぐれた愛国者であり、もっとも日本人の美しき道徳律をもって生きた国際人であり、かつまた神の忠実なる下僕だったといえる。だからもし、今日の国際社会の中で、あらためて「新・代表的日本人」を選ぶとするならば、私は迷わずこの内村鑑三をその筆頭に上げたいと思うのである。

 

 

キリスト教徒としての萌芽

 

 さて、その内村鑑三は、文久元年(一八六一)三月、つまりペリー来航から八年後、明治維新から七年前、高崎藩松平家の家臣の子として生まれた。明治キリスト教徒として同時代に活躍する植村正久、海老名弾正、小崎弘道からは三〜五年遅れ、よき友あるいは論敵だった徳富蘇峰、山路愛山には二〜四年長じている。

 父・宣之(よしゆき)は謹厳実直な武士であると同時に儒学者でもあった。だが明治四年の廃藩置県で職を解かれ、内村が札幌農学校へ入学したころには早くも隠居し、没落武士の身となっていた。

 鑑三少年は、父の影響で最初は政治家を志し、十三歳で東京帝国大学の予科である

東京外語学校へ進学した。が、先の家庭の事情から学資がつづかず、三年後、無料で北海道開拓使の道が約束されている札幌農学校(北海道大学の前身)へと転身する。

 札幌農学校というと誰しも、前述した「少年よ大志を抱け」という言葉で有名なクラーク博士を思い出すが、クラークと内村の直接の関係はない。なぜなら、クラークが教鞭をとったのはわずか八ヶ月間のことで、直接の薫陶を受けたのは一期生のみだったからである。同級生には五千円札で知られる新渡戸稲造がいるが、内村らは二期性だった。

 とはいえ、内村にとって札幌農学校での四年間は、彼の人生を決定する期間だったといってよい、内村はここで、クラークが残した「イエスを信じる者の契約」にサインし、初めて生涯の愛読書となる英文聖書に出会い、キリスト教の「神」を知った。

 もちろん武士の子として育った。内村は、簡単にキリスト教に入信したわけではない。その経緯は『余は如何にしてキリスト信徒になりし乎』に詳しいが、彼は「わが内なる精神には武士道あり」と、当初はキリスト教を耶蘇教として認めていなかった。それどころか、友人たちがつぎつぎ入信するのを苦虫をかみしめる思いでながめ、札幌神社に参拝して「耶蘇教を我が国から追い出したまえ」と祈りつづけるのどの青年であったのだ。

 ところが、いったん、キリスト教と武士道の精神が矛盾するものではなく、ともに自己を鍛える崇高なる道徳律であることを理解すると、在学中に「信仰の独立」を唱え、外国の援助や干渉を受けない独自のキリスト教を主張したのだ。

 明治十四年(一八八一)札幌農学校を主席で卒業した内村は、農学校の規定にしたがい開拓使として勤め、のち農商務省に転ずるが、やがて明治十七年、その農商務省も辞めて自費でアメリカへ留学した。ペンシルバニア州精神薄弱児の施設などで苦労して働き、その後クラークの母校でもあるアマスト大学進学して神学を修めた。そしてここでシーリー総長と出会い、決定的な「回心」を体験して福音主義的信仰に導かれたのであった。

 

後世への最大遺物

 

 帰国後の内村は第一高等学校の講師の職にあった。だが明治二十四年(一八九一)一月思わぬ試練に遭遇する。明治天皇の教育勅語法載式で「敬礼」を躊躇したことで職を解かれてしまうのだ。

世にいう「不敬事件」として知られているが、その後内村は「国賊」「不敬漢」として、井上哲次郎らの国権論者を中心に、日本中のジャーナリストから総攻撃された。もちろん内村にすればキリスト教徒の良心から出たものであったが、「忠君愛国」に燃える世間はそれを許さなかった。

 犯罪者のごとき烙印を押された内村には、身の置き場もなかったほどだ。友人をたずねてネグラを探す内村は、ある時盛岡で宿をとった。「内村鑑三」の名では泊めてくれないだろうと、「内村三蔵」という偽名をつかった。ところが、ちょうどその年の五月、ロシア皇帝を大津で切りつけた犯人が「津田三蔵」という名であったため、宿の主人はその人物と疑って内村をたたき出したという。

 あるいはまたこんな話も残っている。

 日本中を転々とする内村は、京都に札幌農学校の先輩でクリスチャンでもあった大島正健を尋ねた。腹がすいているだろうと大島がすき焼きをご馳走すると、内村は鍋のものを全部平らげたのち、「大島君、この残りの汁も飲んでよろしいか」と一気に鍋を持ち上げて飲み干したという。

 内村によれば、不敬事件のあとの数年は、「餓鬼戦上をさまようごとく」であったと記している。だが、この間に処女作『基督信徒の慰め』をはじめ、『日本人および日本人』『余は如何にして基督信徒となりし乎』などの名著を著し、その精神は「日本のため、世界のため、キリストのために」と、いっそう磨かれ、昂揚していくのである。

 なかでも私が感銘を受けるのは、こうした受難のときに、若きキリスト教徒たちのために夏季学校でおこなった「後世への最大遺物」という講演である。

 内村はいう。

 「一人の人間として我々は何をこの世に遺せるか。金か、事業か、文学か・・・・・。だが、それらは誰しもが残しうる最大の遺物とはいいがたい。誰もが遺せる最大の遺物、それは勇ましく高尚なる生涯だと思うのです。」(岩波文庫版)

 後にこの講演は一冊の本とてまとまり、内村の大志を志す精神を唱えるものとして、若きキリスト教徒たちの「和製聖書」とまで呼ばれるが、この後、内村は先の著作のベストセラーとともに、不死鳥のようによみがえったのである。

 

 

日本の天職とは

 

 いまや内村は、マスコミ界きってのの売れっ子として国民的寵児となっていた。明治三十年(一八九七)二月十四日、当時、日本一の発行部数を誇っていた黒岩涙香の『萬朝報』に、内村が英文欄の主筆として迎えられると、同紙はその入社を一面トップで紹介したほどだった。

 だが、やがて日露戦争が勃発し、社長の黒岩涙香が時勢におもねて参戦論を展開すると、内村は堺枯川、光徳秋水らとともに「非戦論」を唱えて、同社を退社した。明治三十六年十月九日のことだ。その日、萬朝報に掲載された「退社の辞」は日露戦争に反対する内村の心の叫びであった。

 この間、内村は社会評論雑誌『東京独立雑誌』(明治三十一〜三十三)、個人雑誌『無教会』(同三十四〜三十五)などを創刊しつづけるが、内村のライフワークとなったのは、明治三十三年から史にいたる(昭和五年六十九歳で死去)まで出版された個人雑誌『聖書之研究』であった。

 これは、全三百五十七号におよぶ聖書講義であり、内村はこれを「紙上の教会」とみなして、全国三千人の読者に三十年間送りつづけたのである。それは「無教会主義」と呼ばれる内村の独自の布教活動であった。

 内村にすれば、キリスト教信仰は、「キリストを信じる」という、ただそれだけのことで十分であり、洗礼を受けたり教会に通うことなどといった制度や作法は重要視しなかったのである。

 また日曜日ごとに行われた聖書講義は、東京市民の人気の的であり、会場となった場所は常に満員であった。内村は聖書との関連で、人生を語り、世界をながめ、歴史を解釈したが、進んで人に信仰をすすめたり、信者を作ろうとはしなかった。

 内村の真骨頂は、膨張する国家に対してその堕落ぶりを批判し、信仰と愛国心に裏打ちされたナショナリズムを提唱したことだ。いわゆる「日本天職論」であるが、彼は福沢諭吉の「脱亜論」とは違う意味の欧米と東洋の折衷を説き、次のような主旨を述べたのである。

「日本のあるべき姿は東西の架け橋となることであり、軍事力や経済力とは別の、“信仰の国”として、平和国家を建設することである」と。

 この言葉は今日の日本でも通用する一つの国家論といえるのではないか。ちなみに、こうした内村から薫陶を受けた人々として有島武郎、志賀直哉、正宗派白鳥、前田多門、南原繁、矢内原忠雄、高木八尺などがいる。