上杉鷹山   藩政改革者

藩や領民は領主の私物ではなく国家人民のためにある

うえすぎようざん(一七五一〜一八二二)
江戸後期の米沢藩主。名は治憲。高鍋藩主秋好種実の次男。細井平洲を師とし、米沢藩の財政改革を施行。

 ケネディ大統領が尊敬した人物

 かってアメリカのケネディ大統領は、日本の記者団から「日本でいちばん尊敬する人物は誰か」と聞かれたとき、即座に上杉鷹山の名前をあげ、

  為せばなる為さねばならぬなにごとも
   成らぬは人の為さぬなりけり

 と鷹山が愛唱していた歌を詠んだ。
 じつはケネディ大統領は、若き頃、内村鑑三が英文で書いた『代表的日本人』を読んで上杉鷹山を知り、上に立つ者の姿、すなわち政治家としての理想像をそこに見ていたのである。
 一般に修身の教科書に登場するような人物は、戦後の教育制度の中では「不当な扱い」をされがちだが、この鷹山だけは存命中から「藩政改革の名君」として敬われ、今日においてもなお「財政再建の神様」として、その評価は高い。
 なぜか、それは鷹山が藩政を改革した人というだけでなく、「至誠実行の人」であり、「為せば成る」の気概の精神をもって部下の先頭に立ち、すべからく率直垂範をしたからである。


 藩政建てなおし

 鷹山は、宝暦元年(一七五一)、日向高鍋藩三万石の藩主秋好種実の次男として生まれた。将軍家でいえば第九代家重(吉宗の子)の頃である。やがて十歳のとき、東北米沢藩主上杉重定の養子に迎えられた。
 上杉家といえば、戦国の名将かの上杉謙信を祖とする天下の名門だったが、時すでに全盛期の面影はなかった。二代景勝のとき、百二十万石を領していた上杉家、関が原で西軍にくみして敗れたため、一挙に三十万石に減らされ、会津から米沢へと移された。ついで四代綱勝のときには、後継ぎの不手際から、さらに半分の十五万石に減らされた。しかも、五代目を継いだ養子の綱憲は、「忠臣蔵」で有名な高家吉良義央(よしなか)の長男で、格式と見栄に浪費する生活を送り、財政は逼迫していた。にもかかわらず、その所帯は謙信時代からの家臣団を抱えていたので、鷹山が養子にきた頃は全国でも一、二をあらそう貧乏藩だったのである。
 今風にいうなら、高度成長期に急激に膨れ上がった大企業が、時代の波に乗り遅れて、その実態は中小企業でありながらも、なお大企業時代の格式と人員を抱えて倒産寸前にあった、ということである。しかも、重役連中は先代社長とともに苦労した旧主派の高齢者となっていたので、保身だけを願ってなかなか改革に乗り出させない。
 そういう最中の明和四年(一七六七)、先代の重定が退き、養子の鷹山が藩主となったのだ。時に十七歳のことだった。
 十七歳の若造にどうして藩主の重責がつとまたっかということだが、鷹山は上杉家に養子に入ってからというもの、徹底的に"帝王学"を仕込まれていた。
 師匠は、折衷学派の儒者として知られたる細井平洲。折衷学派とは、朱子学や陽明学など儒学各派の長所を採り入れて総合し、単に書物を読むだけではなく、それを自分のものとして実践することを説く学派である。いわば鷹山は平洲から、名君となるべき、"上に立つ者"の学問を学び、それを実践したのだった。
 その一つが十二か条におよぶ「大倹約令」である。
 「・・・・居ながら亡びるを待たんより、君臣心力尽きるまで成るべきだけの大倹約をとりおこない・・・・」として、

 一、参勤交代などの行列を減らすこと
 一、普段、木綿の着物を着ること
 一、平常の食事は、一汁一菜にかぎること
 一、近親のものを始め軽品たりとも音信贈答を堅く禁じること

等々を定めた。
 鷹山は、こうした大倹約令を出すにおいて、みずからの生活費も年間千五百両から七分の一の二百両に削り、五十人いた奥女中も九人に減らすなど、殿様の生活とは縁遠い倹約生活に入ったのだ。もちろん、食事も一汁一菜、着物も木綿である。
 当然、従来の特権にあぐらをかいて、自分たちは特別だとたかをくっていた重臣たちから抵抗があった。世にいわれる「七家騒動」である。千坂対馬ら七人の重臣がスクラムをくみ、改革に対する四十五条の抗議書を提出して、鷹山を城内の一室に軟禁したという事件である。
 「大藩には大藩の面目があり、小藩からの養子ではわからない」というのだ。
 そこで鷹山は、重臣たちの言い分が正しいか、自分が正しいかを、下級武士たちも同席する中で大目付や御使番といった"監察職"に吟味させた。その結果、「改革すべし」との決をもって、重臣たちを切腹、隠居、閉門といった断固たる裁断を下すのだった。


 特産物の奨励で産業を起こす

 鷹山の果敢なる対応は、思いがけない効果を生んだ。「今度の殿様は口先だけではなく、みずから本気で改革なさろうとしている」と、藩士や領民たちに求心力をもたらせ、前藩をあげて、改革実行へと拍車をかけたのだ。
 とはいえ、当時の米沢藩の財政を支える農民の生活は、倹約のしようがないほど貧しく、農地は天災つづきで荒れ放題だった。
 そこで鷹山は倹約令をつづける一方、農村の再建に努めた。みずから鍬を持って、水田を耕し、農耕の大切さを人々に示した。また、家中の武士を集めて、農民とともに新田開発にあたらせた。
 そのおかげで、天明三年(一七八三)のいわゆる"天明の大飢饉"のときは、東北全体が大惨事を招く中、南部藩や秋田藩が多数の餓死者を出したにもかかわらず、米沢藩だけは一人の死者も出さなかった。
 改革はそれだけではなかった。鷹山は倹約や備荒貯蓄で飢饉を乗り切ると、次いで積極的な殖産興業に転じた。各地の特産品を調べ、桑、漆、青痲、紅花など、米沢の地で育つものを選んで、農民の間に広めている。
 安永五年(一七七六)には、越後の小千谷から機織の職人を呼び、まず家中の女子に習わせ、次いで武士、農民を問わず、一般にも勧めた。今日伝わる米沢織りの始まりである。
 当時、農民は「生かさぬよう、殺さぬよう」という状態に置かれるのが常であったが、鷹山は、藩の財政が潤うためには、まず農民の生活が豊かにならねばならないと考えていたのである。藩主の大方針のもと、この改革を指導したのは、最初が執政竹俣当綱、次いで中老莅戸(のぞきと)善政らを中心にすすめられた。


 民主制度の原点「伝国の辞」

 こうして改革が軌道に乗り始めた天明五年(一七八五)二月、鷹山は、突然、三十五歳の若さで隠遁し、養父重定にその後生まれた実施の治広に家督を譲った。養父重定への思いやりからであったというが、実子がいる以上のちのち継承問題がおきるのをあやぶんで先手を打ったというのが真相のようだ。
 この隠遁の時、二十二歳の藩主治広に与えた言葉が、有名な「伝国の辞」といわれるものである。

 一、国家の(藩のこと)は、先祖より子孫へ伝候(つたえそうろう)国家にして、我私すべき物にはこれなく候。
 一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれなく候。
 一、国家人民のために立ちたる君にて、君のために立ちたる国家人民にはこれなく候。
右、三条御遺念あるまじく候こと。

 要するに、国家(当時は藩)や人民は、藩主の私物ではなく、国家人民のために存在するものだと言っているのである。藩主は単なるリーダーに過ぎない、と。
 これは現代の民主主義に相通ずるものがあるが、この考え方の根底は儒学の「仁の思想」である。
鷹山の偉さは、これまで書斎の学問としてもてあそばれがちだった「仁の思想」を、改革を通して徹底して実践してみせたことである。藩主という立場をこれほどまでに規定した殿様は、江戸期の名君の中でも鷹山一人といっても、いいすぎではないだろう。


 諸侯中随一の名君

 もちろん鷹山は隠遁したといっても、政治の一線からまったく身を引いたわけではなかった。「中殿様」と呼ばれながら水戸黄門よろしく領内を見回った。
 明和八年の夏、米沢地方が旱魃に襲われたときは、断食をして山上の愛宕神社に籠もり、雨乞いをした。やがて願いかなって雨が降ってくると、彼は農民たちと一緒に濡れながら喜び合ったという。
 米沢藩の改革は治広の時代になってからも続行された。とくに旱魃に備えての灌漑用水は寛政年間に作られ、当時の普請奉行黒井半四郎忠寄にちなんで「黒井堰(せき)」と呼ばれている。
この長さ四十キロの用水は、延べ十万人が工事にあたり、二年ががりで完成した。今日でも、この用水は旧三十三か村の水田を潤している。
 当時、幕府はもちろん全国二百八十の諸藩がすべからく財政窮乏に苦しみ、幕藩体制そのものが根底から揺らごうとしている時代であった。東北の一小藩が行った改革の成功は、幕府や各藩の大名たちを驚かせた。そこで天明七年(一七八七)、将軍家は鷹山野在職中の善政を賞賛して褒美を取らせている。まさに"藩政改革の見本"となったのである。
 やがて文政五年(一八二二)三月十二日、鷹山・上杉治憲は城内の隠居所において、眠るように息を引き取った。享年七十二歳。疲労と老衰がその原因であったという。
 鷹山は、かって十七歳で家督を継いだとき、

 受け継ぎて国のつかさの身となれば
 忘るまじき民の父母

 という歌を読んでいる。君主は領民たちの父母だというのだ。
 事実、彼は「民の父母」として、その一生を貫いた生涯だったといえる。改革成功後も倹約生活を変えず、死ぬまで一汁一菜の食事と木綿の着物を守り、その暮らしぶりは民百姓とおなじものだった。
松平定信は、その死に際して「三百諸侯中随一の名君を亡くした」と、嘆き惜しんだという。「民(部下)の見本と成れ」。鷹山は上に立つ者の精神をそう教えるのである。