山鹿素行 赤穂浪士の師
「武士道」に理論的な支柱をすえた思想家
やまがそこう(一六二二〜一六八五)
江戸前期の儒学者・兵学者。会津生まれ。儒学を林羅山に、兵学を北条氏長らに学ぶ。『聖教要録』を著して朱子学を拝し、幕府の怒りを受けて赤穂へ配流。後に赦免されて江戸に帰る。
高き身分の者にともなう義務
ミレミアムにあった昨年(二〇〇〇年)は、新渡戸稲造の名著『武士道』が発刊されてから、ちょうど百年ということもあってか、最近、良識ある人々の間で、武士道の論理道徳観を改めて見直そうとの機運が高まっている。
それは、薬害エイズ事件、警察官僚の汚職問題などを持ち出すまでもなく、本来、人の上に立つべき指導者階層にある人々がその義務と責任を忘れ、自分たちの保身のために「嘘をつく」といったことを、恥じも外聞もなく平然と行うご時世だからである。
振り返れば、この"失われた十年"の間に起きた諸問題、すなわち住専問題も、金融関連の不正事件も、あるいは高級官僚・政治家らの汚職事件も、もとを正せばその主役となった人々の倫理道徳観の欠如から出たものであり、「日本人はこんなはずではなかった」との思いが、世情の中にあるからだろう。
高名なクリスチャンで教育者であった新渡戸稲造博士が、封建的な遺物とされた武士道をなぜ書いたのかは、別項(第三章一一六頁)で詳述するのでここでは触れないが、その中に、「武士道の本義とは何か」を問うて、一言で言うならと、次のように言っている。
「武士道とは高き身分の者に伴う義務」であり、その精神を貫くもの「フェアー・プレイの精神」である。と。
別言するなら、武士は直接的な生産に従事しない支配者階級に属する人間であったがために、三民(農工商)の上に立って、彼らの平安と生命を守り、彼らの模範となって、"正しい人の道"を実践することを義務づけられていた、というのである。
もちろん、こうした"エリートの精神"というのは日本の武士道にだけあるものではなく、イギリスにおける「紳士たれ!」という紳士教育も同様である。フランスではこれを「ノブレス・オブリージュ」なる言葉で表現しているが、直訳するなら「貴族はその義務を負う」ということだ。すなわち特権階級にあるものないしエリート(ここでは国家社会を支える人の意味)は、その名にふさわしく強靭な心身と高貴な態度を保持し、庶民の上に立つものとして、彼らの生命と財産を守るために戦う義務を負っている。というものである。
新渡戸稲造博士は、「武士道は厳しい掟であった」と述べると同じに、「だからこそ彼らは貧しくとも尊敬に値する人々であった」と、かってのサムライの中に流れていた精神を、これぞに本陣の伝統的道徳観として高く評価したのである。
山鹿素行を論じるにあたって、なぜ新渡戸稲造博士の『武士道』を持ち出したのかというと、実は、この武士道の精神を確立した思想家が、江戸中期の儒学者であった山鹿素行その人であったからである。
泰平の時代における「武士の本分」
山鹿素行の詳細な経歴を述べる余裕がないので簡単に書くが、素行は徳川家光が三代将軍になる一年前、すなわち元和八年(一六二二)、会津藩士の子として生まれた。林羅山に儒学を学び、小畑影憲と北条氏長から軍楽を習得し、多くの兵法奥義書を書いて、あまたの大名や武士たちに軍学を教えて名声を博した人である。幼少から神童の誉れ高く、すでに十二歳のときに、二百石で召し抱えたいという大名があったほどだという。
山鹿素行は何を教えたのか。
それは泰平の時代における武士としての役割は何かと、ということだった。
そもそも武士は、戦いを職業とし、「武」をもって主君を守るというのが本分だったが、すでに江戸幕府も五代将軍綱吉あたりになると、社会は「武」よりも「文」の時代へと移行し、同じに武士はかっての軍人的要素をもちながらも、その実態は「行政官」(公務員)としての役割に変わっていった。
軍人がそのまま役人となって国家を治めるといった政治体制は、きわめて日本独自のものといえるが、その結果、武士たちはキバを抜かれたトラのようになってしまい、「武士の本分とは何か」といった、自分たちの存在理由が問い直されたのである。
そこで素行は兵法といった実践に即した戦術論から一歩抜け出し、泰平の世における武士の心構えとして、次のように述べたのであった。
「この世の万物は陰陽二気の微妙な配合によって、それぞれの使命を保っている。その配合がもっとも見事に組み合わされているのが人間であり、だから、人間は万物の霊長なのである。そのような人間のなかで、ある者は田畑を耕して食料を供給し、ある者はいろいろな器物を作り、また、ある者は品物を売買することで人間の生活の必需品を満たしている。こうして農・工・商に携わる人たちは、それぞれの使命をもって生活しているのに、武士だけは農民のように大地を耕すことなく、工人のように物を作ることもせず、商人のように売買に従事することもせず暮らしている。
わが身を振り返ると、自分は先祖代々の武士で幕府に奉仕する身分にある。つまり、耕さず、作らず、商売をせず、という境遇にいる"士"である。このような武士に生まれた以上、当然、武士としての職務がなければならない。なんの職分もなく徒食しているようでは、遊民と軽蔑されても返す言葉もないではないか。この点を深く考えねばならない」(山鹿語類)
ここから素行の、武士の本分についての反省と考察が展開されていくのだが、彼が何よりも忸怩(じくじ)たる思いにかられたのは「徒食」ということであった。動物や植物でさえそれぞれの役割をもって生きているというのに、三民の上に立つ武士だけが何もしないで飯を食うというのは"天下の賎民ではないのかと、と。こうして江戸期の「武士道」が誕生していくのである。
民の模範となる生き方
では、素行は「武士」の本分をどのように考えたのであろうか。
「つねに自分を顧み、主人を得れば誠心誠意仕え、同朋には信をもって接し、独り謹んで義をもっぱらにすることにある」
と、まず武士のあり方を説いた「忠・信・義」の教えである。
「義」とは正義のことで、人としての正しい行いということであるが、これはなにも武士だけに限られたものではない。だが、
「農・工・商にたずさわる人々は日常の仕事に忙しくて、容易にその道を尽くし得ない。ところが士にはそうした口実は許されず、したがって義(正義)の遂行に力を尽くし、農・工・商の三民がこの道をゆるがせにしないよう。そして、もし彼らが道を乱すならば、すみやかに罰して、すべての人が人倫をまっとうするようにさせる。そのためには、まず武士が模範とならねばならない。
と、いうのであった。
つまり江戸時代の武士は、行政官であるとともに、師表としての責任も、さらには裁判官や警察官の職務まで受け持つ存在であったため、三民の上に立つものとして、世の平和と秩序を保つために義の遂行を率先すべしである、と。
そして結論として、こう結んでいる。
「武士は民の師表(先生)であり、指針であらねばならない。日常身をつつしみ、廉恥を忘れず、いついかなることがあろうとも国(藩)の安泰を保ち、民の平安を守る。泰山富岳の重さと、北斗の星が示すたしかな方向を民に感じさせてこそ、武士の尊厳は保たれる」
ここに武士道は、単なる武術の練達者というより、「文武両道」をわきまえ、上に立つものとしても模範を実践する人となったのである。
今日流にいうなら、これこそ民の税金で給料をまかなわれている政治家、公務員(裁判官、警察官)あるいは先生という職業が全うしなければならない"職分"を規定したのである。
なぜ、赤穂浪士だけが「義士」となったのか
後に素行は、単なる「理」だけを求める朱子学から離れ、それを批判することによって、後の伊藤仁斎、荻生徂徠に先行して「古学(日本学)の祖」となるわけであるが、それによって江戸払いとなった。このとき召し抱えたのが赤穂藩だった。
いまや山鹿素行といえば、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の討ち入りで、山鹿流陣太鼓を使ったことから(事実はそうではない)、赤穂義士の理論的支柱と見なされているが、たしかに彼はこの赤穂に滞在すること十年の歳月で、藩主以下家臣たちに、「義」の実践者としての教訓を授けたのであった。
江戸三百年の中で、こうした理不尽なお家断絶やお家騒動はほかにもあったが、唯一、赤穂藩の四十七士だけが「義士」と呼ばれ、武士道の華と評価されたのは、山鹿素行こうした新たなる武士道の本義にもとづく「正義の遂行者」だったからである。
素行が朱子学を批判したのは、その「理」が空理空論にすぎなかったである。素行によれば、聖人の教えというものは、すべて日常の基準となるものであって、当然、平易であらねばならなかった。ところが朱子の儒学は、やたらと理屈をこねまわして本来の教えをねじまげているのではないか。これが素行の偽らざる朱子学への疑問であった。
そこで素行は朱子学から離れ、直接に経書を研究するに至るのである。この疑問は同時に伊藤仁斎、荻生徂徠の朱子学批判の論拠となったものである。伊藤仁斎は「古義学」と称し、荻生徂徠は「古文学」と称して一派を成すが、日本の儒学の中でもっとも独創性に富むものであった。
ということは要するに、日本の武士道は儒学をその根拠に置きはしたが、その性格はけっして融通のきかぬ朱子学の「理」から形成されているのではなく、どこまでも現実的な「情」を中心に成立したものとみてよい。
だからこそ武士道は、「正義」を道徳律の根本に置きながらも、その正義が衝突すると、「仁」(おもいやり)に重きを置き換え、「武士の情け」という情を発揮するのである。いわば、この「情け」が武士道の根底にあったからこそ、江戸時代は三百年という長きにわたって、世界史的に見てもほとんど戦禍のない平安な時代を築いた、といえるのである。
武士道が目指した究極の目標は、すべての徳を集大成した「誠」という徳目であった。これは武州・三多摩の百姓出身であった新撰組が本物の武士にならんと「誠」の旗印を掲げていることかもわかる。誠とはまごころのことであり、儒学でも「神の道なり」と最高の徳としている。武士道をあらわすとき「至誠」という言葉が象徴的に使われるのもそのためであり、しかもこの字は「言」と「成」からできているように、「言ったことを成す」ということで、ここから「武士道には二言はない」という言葉が生まれるのである。
いわば武士道はかっての、"美しき日本人"を鍛え上げたバックボーンだったのである。
こうした素行学の偉大なるところは、それが単に江戸時代のみならず、幕末の吉田松陰に受け継がれ、明治になってからは乃木希典(のぎまれすけ)が信奉者となって、今日まで「素行会」なる思想研究が続いていることである。江戸時代の学者というと、朱子学以外では「国学の祖」と言われる本居宣長を筆頭とするが、その両極にあって、言行一致をめざした行動哲学としての山鹿素行の思想も忘れてはならないものがあるといえる。