安田善次郎 金融王国を築く
金持ちになる秘訣は勤勉・質素・倹約にあり
やすだぜんじろう(一八三八〜一九二一)
実業家。越中富山生れ。江戸で両替屋を起こして成功。維新後政商となり、安田銀行などを中心に安田財閥の基礎を築く。刺殺。
「安善駅」という名の由来
JR鶴見線のほぼ中央に“安善”という名の駅がある。この駅の名がどうしてついたのか、この線を利用する大多数の人も、おそらくその由来を知る人は少ないのではないか。
場所は横浜市鶴見区安善町。それは京浜工業地帯の中心部に位置する。じつはこの地は大正の初めまで海の中にあった。それを二人の実業家が、日本の工業化を目指して、この地域の海岸を埋め立て、現在に残る大工業地帯の礎としたのである。
その二人の実業家とは安田善次郎と浅野総一郎。戦前において「安田財閥」「浅野財閥」といわれたコンツェルンを築いた創始者である。つまり、この工業地帯の大功労者である安田善次郎の名をたたえて、この地は「安善町」と命名され、そこに「安善駅」が生れたのである。もちろん、その隣には「浅野」と言う駅もある。日本全国にJRの駅は約5000ヵ所といわれているが、人名が名づけられた駅名はおそらくここぐらいなものだろう。
さて、本編の主人公安田善次郎であるが、彼は一般には「ケチの安田」として吝嗇家(りんしょく家)として通っているが、それは大いなる誤解といってよい。節約家ではあったがケチではなかった。その証拠に、たとえば東大の安田講堂や日比谷公会堂は安田財閥からの寄付金で建てられたものである。現在の財界人でこんな芸当のできるものはいないだろう。
あるいはまた、小伝馬町に「十思公園」というのがあり、この公園の入り口前に「大安寺」というのがある。ここは江戸時代に牢屋敷があったところで、その名残として公園内には安政の大獄で処刑された吉田松陰の石碑がある。明治になって牢屋敷が廃止されたあと、この地は荒廃したままだった。
「たたりがある」と市民が近寄らなかったのだ。そこで、その霊を慰めるために明治十五年(一八八二)に大安寺が建立されたのだ。その資金をポンとだしたのが「大倉財閥」の創始者・大倉喜八郎と安田善次郎の二人。だから二人の頭文字をとって「大安寺」としたのである。こうした功績を思うと安田善次郎なる人は、ケチどころか篤志家というべきなのである。
『太閤記』の秀吉をめざした男
一代にして安田財閥をつくり、“金融王”の異名をとった安田善次郎とはどのような人物だったのだろうか。まずはその生い立ちを探ってみよう。
安田善次郎は、天保九年(一八三八)富山で生れた。父善悦は富山藩の下級武士。といっても善悦の代に士分の株を買って、やっと武士階級にもぐりこんだという半士半農の家であった。
そのため幼少のころの善次郎は、青物を行商しながら寺子屋通い、かたわら当時流行していた軍談本の『太閤記』などを筆耕した家計を助けている。このことが後に大いに役立った。というのも、善次郎は行商で商売の面白さを覚え、『太閤記』を自分の人生の目標としたのだった。
秀吉が二十五歳で墨俣城主になったのを知ると、彼もまた二十五歳で独立し、自分の店を持とうと志すのである。それには江戸だ、というので二十一歳のとき江戸へ出奔した。最初は玩具屋、ついで鰹節兼両替商に勤め、秀吉より一年遅れて、目標の独立のためにとりあえず店を辞めた。
手元にはこの六年間で蓄えた二十五両があった。けっして少ない額ではない。当時の年期奉公の約十年分にあたる金額である。だが、それでは不足と思ったのか、善次郎はそのカネで大きな賭けにでた。有り金の全部をはたいて横浜でスルメを買い、江戸に持ち帰って高く売った。十七両の儲けがでて、合計四十に両となった。そして、それを元手に日本橋小舟町で露天の小銭両替商として独立したのだった。といっても、露天の小銭両替というのは、戸板の上に小銭を並べて、道行く人に両替するという小商いであった。が、ともかくも、これが後に「安田財閥」となる善次郎のスタートだったのである。
「正直第一」をモットーに大出世
安田の元の名は岩次郎であった。だが、商売の鉄則は「正直を第一」ということから善次郎と改名している。改名したのは独立した翌年の元冶元年(一八六四)。小銭両替が受けて、この年には日本橋人形通りに小店を借りられるまでになったからだ。ここでは両替商と海産物を商い、屋号を初めて「安田屋」とつけた。
そして二年後には、店を小舟町に移し、店名を「安田商店」として、いよいよ大店と呼ばれる両替専門店となった。当時の帳簿によると、両替専門店になって一年後には純資産六百五十九両、翌明治元年には千九百八十四両、その二年後には五千二百六十三両と倍々で急成長し、明治五年になると実に二万百九両に膨張している。
徒手空拳にひとしかった善次郎が、わずか十年あまりで、これだけの財をなした秘訣はなんだったのか。その理由は、動乱のさなかでも「安田商店」だけは店を開けていたという体当たりの逸話も残っているが、それにもまして功ならしめたものは、善次郎の生真面目さと才覚だったというべきだろう。彼は危険な相場などにはいっさい手を出さず、「積小為大」(小を積み上げて大とする)を第一としたからである。
同時に彼は情報がカネを生むことを知っていた。たとえば明治二年のこと。財政基盤の薄かった明治政府は紙幣発行の混乱で信用をなくしていた。そこでこの明治二年に「金札正金の等価交換」の布告をだした。当時、市場の実勢価格は紙幣百両に対して正金三十八両。この情報をいちはやく察知した善次郎は、有り金の全部をはたいて約三分の一二なっている紙幣を買いあさり、正金と同時に交換することで一挙に三倍の利益を得たのである。
こうして善次郎の安田商店は莫大な利益をあげ、明治五年には、両替店の中で最高の地位である本両替の許可を得、以後明治六年には金銀貨取引所の設立、同旧年には「国立銀行条例」の改正を機に、安田商店と路地ひとつ隔てた向かい側に「第三国立銀行」(後の安田銀行・富士銀行)を設立して頭取となった。まさにトントン拍子の出世を重ねて明治財界人の主要な人物となったのである。時に三十九歳であった。
誤解された善次郎の悲劇
善次郎の成功の鍵はひとえに金融専門を固守したことにあった。彼はモノもつくらず、また売り買いもせず、ただひたすらに金融資本を拡大させることに従事した。そして、みずから「金儲けの秘訣は勤勉・質素・倹約にあり」といい、人一倍働き、爪に火をともすような生活を実行した。現に、両替商として独立したときには、次の三つの誓いを立てている。
「他人を頼らず独立独行」
「正直に生きる」
「生活費は収入の八割をもって、あとは貯蓄する」
したがって、一般の人が憂さ晴らしと称して“飲み打つ買う”をやるときでも、彼はせっせと働きせっせとカネを貯蓄したのである。これでカネが溜まらないわけがない。人はこの善次郎の生活ぶりを見て、「金の亡者」「守銭奴」という烙印(レッテル)を押した。
しかも善次郎は、その蓄財の一部で明治十二年、本所横綱町にあった徳川御三卿の一つ田安邸を買い取った(この地は後に周辺の大名屋敷も買収して、その敷地面積約四万五千坪。現在、旧安田庭園、安田学園、同愛病院、両国公会堂として残っている)そして、田安邸の中に当時の私邸としてはド肝を抜くような豪華な洋館を建てた。となると世間の羨望の目は嫉妬に変わり、守銭奴善次郎の名はさらに増大した。
当時、稀代のジャーナリストとして名を馳せていた山路愛山も『現代金権史』の中で、善次郎に対してこう批判している。
「簡素倹約を家風として給金を与うるも一定の限度を超えず、花々しき儲けをするものはかえって身代を持たぬものなりというを雑言とし、その関係する所の事業は、他の英雄豪傑を加うるを欲せず。
権力を一身にあつめ、(中略)これをもって安田氏の自己中心主義なるを改むるものなきにあらず」
要するに、従業員を安い給料で使い、部下を信用しないので幹部にも登用せず、ワンマン独裁者であったというのだ。
だが、善次郎にいわせれば、それはカネの価値を知らぬもの戯言だった。金融業は信用第一である。
カネがあるといってもそれは他人からの預かりもので、その運用をまかされているにすぎない。もし、カネを預かっているものが贅沢をしたり、不真面目であっては人はカネを預けてくれない。豪華な邸宅にしても信用の一部に過ぎなかった。善次郎は資本主義というもが「信用」と「勤勉」の上に成り立っていることを身をもって示していたのである。
それゆえに、善次郎がもっとも嫌ったのは個人的な寄付の申し込みだった。「人のカネをあてにして頼って寄付を請うて歩く輩は、汗水を垂らして働こうとしない怠け者である。寄付はいっときの自己満足と名誉心を多少くすぐるが、それは見栄にすぎず、その人のためにもよくない」といっている。
克己、倹約して今日の財を築いた者からすれば、当然の解釈である。だが、善次郎にとっては、この“守銭奴”の風評が結局は彼自身の命まで奪うことになるのだ。
大正十年(一九二一)九月のこと。大磯の別邸に朝日平吉という男が訪ねてきた。労働ホテルなるものを建設するから寄付をくれという。勿論善次郎は断った。が、その男は断られた腹いせに短刀で突き刺し、善次郎は八十四歳の生涯を閉じることになるのである。
浅野財閥を支援した善次郎
とはいえ、安田善次郎は他の事業展開を嫌っていたわけではない。ただ彼は愛山も指摘していたように、自分が独善的だったため人を信用することができなかったのだ。いつまでもたっても、重役も社員も奉公人扱いだったという。人に任せることができない性格だったので、他の事業分野まで手が回らなかったのである。
そのため善次郎が取った戦略は、グループ内に金融機関をもたない他の財閥の資金・金融を担当して、他の分野を席巻したのだった。他の財閥とは、浅野、大倉、日産、片倉、根津、森である。今日これらは富士銀行を中心とする“芙蓉グループ”に参加しているが、その遠因はここに由来する。
とくにセメント王と呼ばれた浅野財閥の創始者・浅野総一郎との関係は深く、善次郎みずから「浅野に対する投資には危ぶむ者もあるが、たとえ回収不能となっても惜しくない。大事業を援助することこそ真に国家的な使命があり、慈善博愛の根本義にもかなっている」と豪語している。
また、二人の関係をよく知る大倉喜八郎は、「浅野が機関車で安田は石炭のようなもの。浅野が今日あるのは安田のおかげであり、浅野は安田の産業部門だった」と評している。冒頭で記した京浜工業地帯の埋め立てという大事業もこうした関係で生れたものだった。