与謝蕪村   平凡なる非凡

 

 平凡な生活の中に美を求める心

 

よさぶそん(一七一六〜一七八三)

江戸中期の俳人・画家。摂津の人。本姓は谷口、後に改姓。幼児より絵画に長じ、文人画で大成するかたわら、早野巴人に俳諧を学び、正風の中興を唱える。

 

 

 芭蕉にあこがれ、芭蕉を目指して

 

   門を出(いず)ればわれも行人(ゆくひと)秋のくれ

 

蕪村の一句である。

 秋の夕暮れ、ふと、わが家を出てみる。べつにどこへ行こうというのではない。だが、一歩家を出れば、自分も旅人のような気分になれるのではないか、との思いを詠った句である。

 俳諧といえば、いつも蕪村は芭蕉と対比して語られる。事実、この二人は江戸時代を代表する俳人であり、俳句という短詩の世界の両極を占めている。

 しかも蕪村は、つねに芭蕉を心の師として仰ぎ、芭蕉の死後すっかり草むらにおおわれた俳諧の道を、もういちど、もとにもどそうとした人でもある。先の句も、芭蕉の有名な、「比道(このみち)や行人なしにあきのくれ」をもじったものとされている。

 とはいえ、二人の句ははっきりと違う。

 芭蕉の「比道」という中には、俳諧の道という意味が込められており、誰も行く人のいない寂しい道を自分は一人で歩んでいる、という孤高の句である。さらにいうなら芭蕉の句は、たとえば「旅人と我名よばれん初しぐれ」「しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮れ」と、いずれをとっても旅人の姿であり、その姿はそのまま求道者としての姿であった。

 蕪村はそんな芭蕉にあこがれ、そんな芭蕉を慕った。だが、彼には妻も子もいた。守るべき生活があった。芭蕉のような自由な生き方は憧れはすれ別の世界だった。そこでせめて「門を出れば」と、自分も芭蕉のような行人(旅人)に見立てることができるのではないか、と詠うのである。

 

 

 我が道、いまだ定まらず

 

 蕪村は享保元年(一七一六)摂津の国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島毛馬町)で生れた。八代将軍吉宗の時世が始まった年で、芭蕉が世を去って二十三年がたっていた。

 生家は村長だったとも郷農だったともいわれているが、その出自は定かではない。父母に関しても彼はいっさい口をつぐんみ、その幼年期もわからない。ただ二十前後の頃、江戸へ下り、日本橋に居を構えていた老俳人早野巴人(宗阿)のもとに身を寄せ、画業とともに俳諧に打ち込んだことだけはわかっている。

 時代は、我が国最初の大衆化社会ともいえる時期にさしかかっていた。

 芭蕉なきあと、俳諧は川柳とならんで大衆化し、俗化していた。そうした中で、夜半亭(やはんてい)宗阿だけは、当時の風潮に抗して、芭蕉の孤高を懐かしむ唯一の存在だった。蕪村はそこに惚れたのだ。

 ところが、師とも父とも仰いだ宗阿がほどなくなくなり、孤独の身となった蕪村は江戸を去って下総、結城に遊んだ。やがて思い立ち、芭蕉の“おくのほそ道”を訪ね、みちのくを一年余にわたってさまよい歩いている。

 だが、名もない蕪村の“おくのほそ道”は、弟子をともなった高名なる芭蕉の旅と違って、ただ辛酸をなめた旅だった。「宿かさぬ火影や雪の家つづき」という句がそれを示している。雪の中に行き暮れて宿を乞うたが、どの家も泊めてくれない、という意味である。

 そして三十歳半ばにして京都にのぼるが、そこに落ち着くでもなく、今度は丹後の宮津へおもむき、画の修行に没頭する。

 されど、結局、俳諧の道においては芭蕉におよばず、画業においては同時代の池大雅に一歩譲らざるをえず、彼は四十歳半ばで“旅人”たることをあきらめ、妻をめとって京に住んだ。そしてひとり娘のくのが生れ、蕪村は家庭人となるのである。

 人生の無難さというのなら、蕪村のそれ以後は、およそ目立たぬ家庭人の幸せな半生といえるだろう。画業において、蕪村は池大雅と腕を競うほどの位地を占め、師宗(巴人)の夜半亭を受け継いで俳諧の宗匠となり、気の合った門弟たちに囲まれて、それなりの楽しい日々を過ごしたのだ。一乗寺村の金福寺境内に芭蕉庵を再興して、その「再興記」を書いたり、あちこちで俳席を重ねたりと気楽な日々を送っている。

 

 

 蕪村の苦悩

 だが、それはあくまで上辺だけのことで、蕪村の苦悩は別のところにあった。傍目(はため)には人並みの生活を送っているかにみえたが、蕪村の心の中ではあいかわらず、「旅人、芭蕉」の面影を追い求めていたのである。

 蕪村は記している。

「さくら見せうぞひの木笠と、よしのの旅にいそがれし風流はしたわず。家のみありきてうき世のわざにくるしみ、そのことはとやせまし、この事はかくやさんなど、かねておもひははかりしことどもえはたせず、ついに煙霞(えんか)花鳥にこふするためしは、多く世のありさまなれど。今更(いまさら)我のみおろかなるようにて、人に相見(あいまみえ)むおもてもあらぬここちす」(『檜笠辞(ひのきかさのじ)』

 吉野にて桜見せふぞ檜の木笠、と笠に書きつけて、芭蕉先生は吉野の旅へ行かれたけれど、それに引き替え、自分はこうして家庭にとらわれて生活のために追いまくられている。そして、打ち込みたいと思っていることは何一つ果たせず、風雅とは無縁の日々を送っている。こういうありさまは、なにも自分ばかりではないのだろうが、なんだか自分だけが愚かなようで、人に合わせる顔もないような気がする、というのである。

 だが、と思い直して蕪村はこんな句を詠む。

 

   冬ごもり壁をこころの山に椅(よる)

 

   時雨(しぐる)るや我も古人の夜ににたる

 

 こんなぐあいに家にいて、壁に背をもたせていても、この壁を山に見立てれば、冬山のふもとに結んだ庵にいるように思われて、心が慰められるではないか。あるいはまた。檜の木笠を着て杖を突かなくても、しぐれの音にじっと耳を傾ければ、自分の夜も古人芭蕉の夜に似てくるではないか、と。

 このころの蕪村は、生活のために売り絵描きにおわれ、俳句を詠む時間がないのを嘆くのである。すでに、年は五十歳の坂を越えていた。人生の時間ものころ少なくなっている。

 思えば蕪村の生活は、なんとわれわれと似ていることだろう。やるべきこと、夢見ることを実行したいと思いながら、家族を養うために、その夢を削り、諦めきれればまだ救われるものを、いまだその夢を捨てきれず、今日も明日も変わりない日常の中で埋没している。蕪村はその意味でわれわれと同じ人種の人だったのである。

 芭蕉は「秋深し隣はなにをする人ぞ」と詠み、世俗に生きる隣人を突き放して、超然と山河に遊んだ。だが、生活人である蕪村はそうはいかない。妻子を残して求道の旅に出るような無責任なことは家庭人としてできなかった。浮世にがんじがらめになっている蕪村は、そこでこんな句を詠む。

 

   壁隣ものごとつかす夜さむ哉

 

 隣と薄い壁を隔てただけの侘しいわが家である。その壁をつたって、隣人がごとごとと音を立てている。それはせわしない俗世の音だ。蕪村には「我を厭(いと)う隣家寒夜に鍋ならす」という句もある。「隣」とは実際の隣というよりは、ここでは隣家に事寄せた「浮世」「俗世」と解するべきだろう。要するに、隣家の物音が騒がしい不風流な俗世間に身をおく自分を冷笑する姿である。

 蕪村は、ある意味ではたいへん不幸な芸術家であった。なぜなら、彼は画人であり、同時に俳人であったが、生活のために売り絵を描き、一方で芸術家として俳諧の究極を求めた。器用であったがゆえに、二足のわらじをはき、あるときは画の道で大成したいと寒夜に絵筆を噛み、あるときは俳諧に打ち込んで夜を徹して句作を試みた。

 だか、何ひとつ思うようにいかない。そんな自分の苦悩を、門人に宛てた手紙で、「とてもつらい」と愚痴をこぼしている。無理もない。

 たしかに芭蕉は“のざらし”を覚悟で生涯を俳諧の求道者として歩んだ。「故郷を去り六親(りくしん)を離れて」ひとり放浪の日々を重ねることは凡人のできるとところではない。つらい日々の連続だったろう。だが、考えようのよっては、むしろ蕪村のような生き方のほうが茨の道であったのではなかったのか、と私は思うのだ。

 なぜなら、いちど覚悟を決め、旅を住処とする人生行路は、日々おのれと忠実に向き合うことができる。だが、浮世のしがらみにどっぷりと浸かった詩人は、もっとも恐るべき「平凡な日常」と戦わねばならない。食うための苦労と、純粋芸術に生きようとする不断の努力。この二者の乖離(かいり)が、詩人の心をこのうえなくさいなむのである。

 誰にとっても、人生はいつの世も茨の道である。その茨の道に傷つきながら、ただ真実の道をひたすら求めて歩む旅人は、たしかに尊敬に値する。だが、茨の道にたとえられる浮世を、わがこころの中で夢の園に仕立て上げ、俗世こそを“美の国”に詠いあげようと志す詩人は、もっときびしい戦いを強いられるのである。夢を追う志しを持つ者の苦悩はそこにあるといえる。

いうなれば蕪村は平凡な日常を旅した旅人だった、というべきだろう。芭蕉だっていっているではないか。「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」と。旅に出たくても出られない蕪村だけに、芭蕉よりも、もっと苦しい旅をつづけていたのではなかったのか、と思うのである。

 そんな日常に埋没しながら蕪村は詠う。

 

   茨野(いばらの)や夜はうつくしき虫の声

 

 茨の生い茂った野原が夜になると、まるで虫かごになったように、美しい虫の声をひびかせている、との意味である。

 ただそれだけの平凡な句のように読み過ごしかねないが、しかし、よくよく味わってみると、昼間は何の興味もしめさない茨野が、ひとたび夜になると、美しい虫の声に彩られた別世界へと変わっている。自分の生活も昼間は家族を養うための苦行に追われているが、いったん夜になれば、好きな絵を描き、あるいは芭蕉のあとをたどって俳諧の道をさまようこともできる。

 すなわち蕪村にとって、昼間の茨野は「俗世」であり、美しい虫の声が聞こえる夜は、「芸術の世界」である、と解釈することができるのである。苦があるからこそ楽があるのだ。

 こうして蕪村は日常の中に確固たる“美の世界”を確立し、あの有名な「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」「菜の花や月は東に日は西に」という境地を開き、芭蕉と並ぶ俳人となったのである。

 この蕪村の生き方は、われわれ凡人にはかり知れない勇気と希望をあたえてくれるではないか、と私は蕪村の句を詠むたびに思うのである。