日本各地での拉致事件

 1977年と1978年は、日本各地で不思議な失踪事件が相次いだ。一連のそれらがどうも単なる失踪事件でないことがわかったのは、1978年8月15日に富山県高岡市雨晴海岸で起きた拉致未遂事件での異様な状況である。
 海岸で4人のステテコ姿の男たちが2人連れのカップルを襲い、大人一人がすっぽり入る袋2つに2人を入れて運ぼうとしたとき、犬を連れて散歩に来た人と出会い、2人を置いて逃げた事件である。逃走現場には、日本製とは思われない品物が残されていた。暴れて抵抗した女性に4人のうちの1人が話しかけた言葉は、とても日本人の話す日本語でなかったという。
 このように、単なる誘拐事件とは思われない状況がある。政府で認めた北朝鮮の拉致事件は7件10名であるが、そのうちの3件と未遂事件の1件は、日本海側の都市で発生している。福井県、富山県(未遂事件)そして新潟県(新潟市、柏崎市)である。
 しかし、1963年5月に石川県の海上で3人の船員が失踪して、破壊された船だけが残されていた事件も、拉致事件にまちがいないだろう。
 寺腰昭二(当時36歳)、外雄(当時24歳)、武志(当時13歳)の3人が海上で行方不明になり、捜索の結果、舳先に大きな穴のあいた船だけが発見された。家族は当然事故で死んだものとして遺体未発見のまま、葬式を出してあきらめていた。ところが、何と24年後の1987年1月22日に、北朝鮮にいる外雄から、突然手紙が届いたのである。後には武志からも手紙が届いた。
 このいわゆる寺腰武志事件も極めて不可解である。その後、武志の母親は4回、社会党(現社民党)の代議士と北朝鮮に渡り、武志と再会を果たしている。
 しかし、昭二と外雄は現在ではすでに死亡しており、外雄の死因はベッドから転げ落ちて死んだという不可解な状況である。
 北朝鮮は、この3人は海難事故に会い、北朝鮮の船が救助したと述べている。しかし、救助したままで、日本に返さないというのは拉致以外のなにものでもないだろう。当時13歳の少年をたとえ海難事故で救助したとしても、わが国に通告しないのは、拉致である。
 幸い、外雄と武志は先ごろ、帰還した15人の日本人妻のように洗脳されたか、洗脳されたふりをして、北朝鮮にとっての模範生になったから、手紙が書けたのではないか。そうでなかった一番年嵩の昭二は殺されたのではないだろうか。ベッドから落ちて死んだといわれる外雄も同じように殺されたのかもしれない。

 


      

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