新潟市民芸術文化会館のオープンまでのあゆみ

(期間限定・オープン記念)

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 これは、新潟市民芸術文化会館の完成を、建設構想初期から心待ちにしていたあるひとりの市民が収集した、アルバム5冊分の関係記事や資料をもとにして作った新潟市民芸術文化会館年譜とでもいうべきものです。






1984(昭和59年)


11月20日
 元新潟市音楽文化会館館長である今井誠一氏が、設備より運営に重点をおいた音楽ホールのあり方を新潟日報に提言する。


1987(昭和62年)


11月14日 21日
 「新潟市に音楽ホールを」という投稿記事が3編も新潟日報に掲載される。


1989(平成元年)


1月9日
 長谷川義明市長が新春記者会見で、芸術・文化振興財団構想と市民文化会館構想について、建設地域を今年度中に決定したいと発言する。なお、昭和63年度から市制100周年事業の目玉として、市民文化会館建設基金の積立が始まった。同時に、市庁舎跡にできる開発ビル(現NEXT21)にホールを作ることにもふれる。
3月3日
 新潟市内の音楽愛好者が、新潟日報に「新潟市に本格的音楽ホール建設を熱望」との投稿を行なう。
6月
 新潟市議会に新潟市民文化会館建設特別調査委員会が発足する。
6月21日
 新潟市内の音楽教育者3名が「専用音楽ホール建設嘆願書」を新潟市に提出する。
8月1日
 新潟市議会で、音楽堂(ホール)建設に関する質問が出る。新潟市側は、国と新潟県・新潟市で開発を進めつつある勤労者福祉総合センター(現新潟テルサ)の建設企画において、音楽ホールの建設を考えていきたいと答える。
9月12日
 金子知事が、鳥野野湖畔に勤労者福祉センター内に音楽ホールを建設する考えを表明する。
11月30日
 新潟市内の演劇・音楽関係者8名が、市議会市民文化会館建設特別委員会委員と懇談して、施設計画に市民の声を取り入れてほしいとの要望をする。
12月
 この頃、長岡市でも市民による音楽ホール建設運動が始まっている。


1990(平成2年)


1991(平成3年)

10月31日
 市民文化会館建設基本構想検討懇談会が開催され、1800席の音楽ホールと800席の演劇・音楽中ホールの建設構想が話される。建設位置は白山地区ということで、新潟市側と意見の一致をみる。


1992(平成4年)


6月23日
 新潟市がセントラルパーク構想の一弾として、市民文化会館の建設を決め、具体的な建設計画を発表する。2000席の大ホール、900席の中ホール、350席の能楽堂の建設計画が明らかになる。
8月3日
 市民文化会館の設計コンペの応募が始まる。


1993(平成5年)


3月22日
 市民文化会館の設計コンペで、国内・国外から300件を越える応募作が寄せられ、長谷川逸子建築計画工房による作品が最優秀賞に選ばれる。
4月1日
 音楽専用ホールに対する反対意見の投稿が新潟日報に掲載される。
4月11日
 建設反対運動につながった「市民文化会館構想を見直せ」という強硬な投稿が新潟日報に掲載される。
9月28日
 新潟市議会特別委員会で169件の建設反対陳情を審査し、出席した趣旨説明者3名が反対意見を述べる。
9月19日
 市民文化会館構想に賛成し、建設反対団体を批判する投稿が新潟日報に掲載される。
10月9日
 市民文化会館構想に賛成し、音楽専用ホールを期待する投稿が、新潟日報に掲載される。
10月5日
 「文化会館構想の見直しを求める市民の会」が発足する。会長に画家の富川潤一氏が就任する。
10月7日
 「文化会館構想の見直しを求める市民の会」の考えを述べる投稿が、新潟日報に掲載される。 
10月8日
 多目的ホールではなく、音楽専用ホールの建設を主張する投稿記事が新潟日報に掲載される。
10月27日
 音楽専用ホールが建設されても、客席がうまらない危険性があるとする批判記事が掲載される。
11月3日
 いい音楽専用ホールが完成すれば、いい音楽文化が育ち、音楽人口も増加するとの反論記事が掲載される。
11月3日
 「市民文化会館構想の見直しを求める市民の会」は、白山会館で「文化の日の市民大会」を開催して、建設反対運動に理解を求める。
11月25日
 新潟市議会特別委員会が開催され、市民文化会館建設反対の陳情を大部分不採択とする。継続審査となったものは、299件。陳情書はコピーしたものや、新潟市外からのものもあった。
12月10日
 新潟市議会の特別委員会が開催され、市民文化会館の見直し陳情2877件を一括不採択とする。同時に新潟市は建築計画、管理運営計画(案)を発表した。アドバイザリープロデューサー制、準フランチャイズ制オーケストラの採用、音楽祭の開催などを発表した。
12月21日
 設計者の長谷川逸子氏を招いて、新潟市と市民文化会館利用者団体との座談会が開催される。


1994(平成6年)


1月
 「財界にいがた」1月号に批判記事が掲載される。
1月5日
 パイプオルガンの機種選定委員会が開催され、今後の運営方針を決めた。選定委員は、中央・地元で活躍する音楽関係者の8名。機種選定はコンペ方式をとることとなった。
1月11日
 昨年12月、新潟市議会の大野 久議長が建設反対の陳情を一括不採択にした行為が、市議会会議規則に違反したとして、「市民文化会館構想の見直しを求める市民の会」が行政訴訟を新潟地方裁判所に起こした。
1月28日
 市民文化会館の建設に賛成し、将来ホール運営を市民の側から支援する「にいがた音楽協会」が発足する。
2月
 「財界にいがた」2月号に2つの批判記事が掲載される。
3月13日
 「にいがた音楽協会」の設立総会がオークラホテル新潟で開催される。
4月29日
 「文化会館構想の見直しを求める市民の会」のメンバーである横山蒼鳳氏等が、新たに「立派な総合文化会館をつくる市民の会」を結成する。
6月10日
 新潟市議会の市民文化会館および周辺整備計画等特別調査委員会が開催され、実施設計の中間報告が提出される。これによれば、アリーナ型ホールはポピュラー音楽にも利用できるよう照明、音響用電源等に工夫を行なうとのこと。
7月7日
 市民文化会館の見直しを求める陳情が不採択となったこのに関する「文化会館構想の見直しを求める市民の会」の訴えを新潟地裁が却下する。
7月11日
 新潟テルサが(勤労者総合福祉センター)開館する。
7月11日
 新潟テルサのオープニング記念事業が始まる。
7月11日
 市民文化開館の500分の1の模型が新潟市役所で一般公開される。
7月22日
 市民に対する市民文化会館建設説明会が、午前・午後の2回、開催される。
7月18日
 反対陳情の不採択を提訴した「市民文化会館構想の見直しを求める市民の会」は、新潟地裁での却下を不服として、東京高等裁判所に控訴する。
8月20日
 新潟市劇場芸術講座の開講を記念して、「パブリックホールの未来とNーPAC」と題したシンポジウムが新潟市音楽文化会館で開催される。
9月24日
 新潟市劇場芸術講座が新潟市職員研修所をメイン会場にして開講する。指導スタッフには、設計者の長谷川逸子氏ほかがあたる。講座生は50名、聴講生として33名の合計83名で平成9年3月までの2年7ヵ月にわたって行なわれる。
11月2日
 新潟市公会堂で、「あなたからの提言、私からの提言」と題した、市民文化会館に対する提言集会が市民グループ「文化現場」主催で開催される。
11月27日
 新潟市公会堂で「さよなら音楽会」が開催される。
12月1日
 市民文化会館建設工事のため、取り壊されることになった新潟市公会堂が閉館する。


1995(平成7年)

   
新潟市公会堂の解体工事 1995.2.15   更地になった市民文化会館会館建設用地 1995.7.2


建設用地全景 1995.7.2


1月
 音楽ホールに設置されるパイプオルガンが、候補に上がった7社のうち、スペインのグレンツィング社製のものに決定する。
3月
 新潟市内の民間企業でつくる新潟プロジェクト研究会が(平成2年結成)、市民文化会館の運営方法に関する提言を行なう。
3月
 実施設計がまとまり、新潟市議会の新潟市民文化会館および周辺整備計画特別委員会で報告される。音楽ホールが1900席となることが決定する。
4月24日
 指名委員会が、市民文化会館本体および付帯建設工事の入札において、対象工事の選定と業者の資格要件を決める。入札方法は、「公募型指名競争入札方式」を導入する。
5月12日
 本体および付帯建設工事の入札参加の申し込みを締め切る。
5月25日
 新潟日報社に市民文化会館建設工事の入札にからむ談合情報が寄せられる。
5月26日
 新潟市が談合情報の調査を開始する。
5月31日
 新潟市の指名委員会が談合情報の調査の結果、談合疑惑が確認されなかったとの結論を出す。
6月1日
 建設工事の入札が行なわれ、3回目の入札で鹿島建設、福田組、本間組、加賀田組、第一建設工業、丸運建設の共同企業体が85億円で落札する。その他、本体工事の他、電気設備、衛生設備、空調設備、道路改良工事の入札も行なわれる。
6月29日
 新潟市議会6月定例会における総務常任員会で、建設工事議案が可決承認される。
7月
 「財界にいがた」7月号に批判記事が掲載される。
8月17日
 本体建設工事と市道地下化工事が着工する。
11月29日
 プレイベント「講演と音楽の夕べ」が新潟市音楽文化会館で開催される。森 千二氏による基調講演と、清水和音、追 昭嘉氏によるピアノデュオが行なわれる。


1996(平成8年)

 
建設中の新潟市民芸術文化会館と周辺工事(一番堀通町線市道トンネル化工事) 1996.11.4


3月
 新潟市議会定例会で長谷川義明市長が市民文化会館の関連質問に答えて、市民文化会館館長をおかず、支配人をおくことを表明する。また、複数の芸術顧問とアドバイザリー・プロデューサー、市民から構成される利用運営委員会の設置を発表する。
6月
 「財界にいがた」6月号に批判記事が掲載される。
7月14日
 プレイベントとして、チェコ少年少女合唱団演奏会が、新潟テルサで開催される。
6月25日
 市民文化会館の管理運営組織について、芸術顧問・アドバイザリープロデューサーの人選が新潟市議会総務常任委員会で発表される。また、管理運営が新潟市芸術文化振興財団に委託される。
6月25日
 実務責任者としての支配人の人選が発表される。
7月29日
 芸術顧問とアドバイザリープロデューサーへの委嘱状の交付式が行なわれる。
8月11日
 新潟市芸術文化振興財団の職員募集受付(1回目)が開始される。
10月15日
 利用運営懇談会の初会合が新潟市音楽文化会館で開催される。
12月19日
 来年度のプレイベントである「こうもり」公演に先立って、寺崎裕則氏によるレクチャー講座が新潟市音楽文化会館で開催される。


1997(平成9年)

 
工事中の新潟市民芸術文化会館(新潟市音楽文化会館から撮影) 1997.9.27)


1月12日
 プレイベントとして、ニューイヤー・シャンパン・オペラ「こうもり」が新潟市音楽文化会館で開催される。
2月16日
 新潟市劇場芸術講座の卒業公演として、「をどり衝動」が新潟市音楽文化会館で開催される。
3月日
 平成6年9月から行なわれてきた新潟市劇場芸術講座が閉講する。修了式がグランドホテルで行なわれる。
5月26日
 周辺工事のひとつである一番掘通町線のトンネル化工事が終了し、通行が開始された。7月19日
 舞台芸術創造ワークショップが開講する。これは新潟市劇場芸術講座に次ぐ市民参加のスタッフ養成講座の第2弾である。コーディネーターは、狂言作者の竹柴源一氏である。歌舞伎を通して舞台芸術制作を学ぶものである。
7月30日
 プレイベントとして、白石加代子による「百物語」の公演が行なわれた。
8月18日
 新潟市芸術文化振興財団職員の採用試験受験受付(2回目)が始まる。
9月5日〜6日、12日〜13日
 トヨタアートマネージメント講座・演劇編が、新潟市職員研修所で開催される。
9月27日
 歌舞伎ワークショップ公演に出演する歌舞伎役者の一般公募オーディションが行なわれる。
9月29日
 新潟市議会定例会で、音楽ホールで使用されるピアノや演劇ホール機材などの購入が承認される。
10月8日
 市民文化会館のオープン日が平成10年10月22日と決定される。また、オープニング事業の概要が発表される。
11月10日
 にいがた音楽協会主催の「新潟市民文化会館の活用のしかた」と題したパネルディスカッションが新潟市民プラザで開催される。
11月20日
 コンサートホールの専属オルガニストの公募が開始される。
11月22日
 正式名称として「新潟市民芸術文化会館」と決定する。
11月30日
 演劇ワークショップ出演者のオーディションが新潟市万代市民会館で行なわれる。
11月
 オープニング公演の「にいがた東響コーラス」の団員募集が開始される。このコーラスはオープニング公演である「カルミナ・ブラーナ」に参加する。
12月6日
 プレイベントとして、「カザルスホール・アンサンブル1997」公演が、新潟市音楽文化会館で開催される。
12月19日
 広報紙「新潟市民文化会館プレス第1号」が発行される。
12月22日
 新潟市議会定例会で市民芸術文化会館条例が可決承認される。



1998(平成10年)


1月
 「財界にいがた」1月号に批判記事が掲載される。
2月
 「財界にいがた」2月号に批判記事が掲載される。
2月2日
 コンサートホールの専属オルガニストのオーディションが、所沢市民文化センターで行なわれる。全国から14名の応募者があった。審査員は鈴木雅明氏以下4名。
2月7日
 演劇ワークショップが開講する。コーディネーターは堤 泰之氏で、市民参加のワークショップの第3弾である。
2月8日
 準フランチャイズで新潟公演を、今後、継続的に行なう東京交響楽団の歓迎コンサートがだいしホールで開催される。コンサート後、懇親交流会が「ホテルディアモント」で行なわれた。
2月20日
 オープニング公演の「カルミナ・ブラーナ」の合唱練習が新潟ユニゾンプラザで開始される。練習初日は300名を越す参加者があった。
2月27日
 市民芸術文化会館の利用説明会が万代市民会館で開催される。
3月
 「財界にいがた」3月号に批判記事が掲載される。
3月20日
 広報紙「新潟市民芸術文化会館プレス第2号」が発行される。
3月27日
 舞台芸術ワークショップの成果発表公演である「新潟発歌舞伎公演 歌舞伎再発見『小芝居伊達衣伽羅白萩』」が新潟市民プラザで開催された。
3月29日
 演劇ワークショップの成果発表公演である「ダイヤモンドの夜に会おう」が新潟市万代市民会館で開催される。
4月
 「財界にいがた」4月号に批判記事が掲載される。
4月1日
 会館の貸館受付が始まる。
4月30日
 会館の友の会組織が発足する。これはオリエンタル コーポレーションと提携したチケット販売システムと情報伝達システムと兼ねたもので、「NーPACMATE」と呼ばれる。また、同時に演劇系イベントの会員組織である「演劇パル」も同時に募集される。
5月
 吉田 恵氏がコンサートホールの専属オルガニストに就任する。
5月18日
 準フランチャイズオーケストラとして、今後、新潟で公演を行なう東京交響楽団と正式に提携契約を行なう。
5月30日〜31日
 オープニング公演「シャンポーの森で眠る」の地元キャストのオーディションが行なわれる。
6月
 「財界にいがた」6月号に批判記事が掲載される。
6月22日
 広報紙「新潟市民芸術文化会館プレス第3号」が発行される。
6月26日
 オープニング公演チケットの「N-PAC MATE」会員向け販売が開始される。
6月28日
 オープニング公演チケットの一般販売が開始される。
7月
 「財界にいがた」7月号に批判記事が掲載される。
7月24日〜26日
 市民に対する会館内部の一般公開を行なう。
7月30日〜31日
 パイプオルガンの部品搬入が行なわれる。
8月
 「財界にいがた」8月号に批判記事が掲載される。
8月
 会館のレセプショニスト、利用サービススタッフの一般公募が始まる。
9月1日
 市民文化会館整備課で行なわれていた会館業務が、新潟市民芸術文化会館事務室が使用可能となったことにより、会館内へ移転される。
9月4日〜6日
 トヨタアートマネージメント講座が、新潟市音楽文化会館で3日間にわたって開催される。
9月26日
 パイプオルガンの設置・整音作業が完了し、一般非公開の披露演奏が行なわれる。
10月
 音楽顧問の團伊玖磨氏が、新潟市長に「献堂式序曲」を献呈する。
10月
 「音楽の友」10月号に詳細な紹介記事が掲載される。
10月3日
 音楽ホールで、音響測定のための一般公開コンサートが開催される。
10月12日
 空中ブリッジ、空中庭園の一部、周辺駐車場の供用が開始される。
10月19日
 N-PAC MATE機関誌である「PRESS」の創刊号が発刊される。
10月22日
 開館記念式典がコンサートホールで開催される。
10月23日
 新潟市芸術文化振興財団主催のオープニング事業が「東京交響楽団披露演奏会」をかわきりに始まる。