12/29/98

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第10話」

 永住権の面接の時に、身体検査の結果を提出することが義務づけられている。それも、どこの病院でやってきても良いというわけではない。アメリカ大使館が指定する病院で検査を受け、その検査結果しか採用されない。

 東京周辺では3つの病院が指定されており、私はその中の下落合にある「聖母病院」で検査を受けることにした。横須賀にある指定病院の方が私の実家からは近かったのだが、そこは横須賀基地の米軍病院だったので、いささか気が進まなかったのだ。この「米軍病院」という響きが恐い。私はこの「聖母」という名前に魅かれて決めた。人間、心細い立場に立たされると、こんな名前にまですがってしまうものらしい。

 病院に予約を入れ、指定された朝一番の時間に行く。受付で事情を話して専用の用紙を受け取る。この用紙に記されている項目を上からすべて検査していくらしかった。受付の人達はすべてグレーの修道女、シスターの格好をしており、とても優しく説明をしてくれた。私はこの病院を選んで良かったと思った。人間、直感を信じるものである。

 シスターの一人が、一枚の用紙を差し出した。検査を受けるにあたっての注意事項と、それを私が承諾する旨の「署名」をする欄が目に入った。私はその項目を読み進んでいくうちに、一つの項目に目がくぎ付けになった。そこには、
「医師による性器に対する視検を含む」
ということが書いてあったのだ。つまりこれは、性病の有無を調べるために、医師が性器そのものを診るということであった。

 そんな話は聞いていない。誰も教えてくれなかった。これにはいささか驚いた。いや、ビビッた。そんな検査をされたのは、生まれてこのかた一度もない。恥ずかしさと屈辱的な気持ちでいっぱいになり、そうなるともうレントゲンを撮っているときでも採血をしているときでも、この「性器の視検」という文字が頭から離れない。その単語が頭の中をグルグル回っている。トイレで紙コップに採尿をしているときでさえ、
「これをこれから医者がジロジロ見るのか・・・」
などと思うと、逃げ出したい衝動に駆られる。

 そしてついに来た最後の検査、医師による直接の問診と触診である。
診察室に呼ばれるのを待っている間、廊下のベンチに腰かけたまま、生きた心地がしなくなっていた。妊婦などは産婦人科に行って堂々と診察してもらったりするらしいが、なんと勇気のある生物なのだろうかと、改めて女性を尊敬してみたりしていた。

 部屋に呼ばれて医師の前に腰掛ける。若い男性の医師である。
「どこか悪いところはありませんか?」
などと聞いているようであったが、そんなものは上の空である。
「まったくないです」
とかなんとか、適当に答える。永住権取得のための検査なのだ。たとえ決定的な疾病があったりしたって正直に言うものか。
それに、
「こいつが、こいつが今から俺のを見るのか・・・」
などと考えると、自然と医者を睨みつけたくなる。
「この野郎、変なまねしやがったら許さねえぞ」
などと思われている医者という職業も気の毒なものだ。

 しばらく聴診器を胸にあてたりしていたが、ついに医者の口から、
「はい、では、そこのベッドに横になって、下着一つになって下さい」
という言葉が、まるで判決を下すように出た。ベッドの横に立つと、後ろでカーテンが閉められ、私は一人になった。

 私は観念した。これも永住権のためなのだ。パンツだけの姿になって、ベッドに寝たら、看護婦さんが入ってきて私にシーツをかけてくれた。

 さっきの医者が入ってきた。シーツの下に手を入れて、胃のあたりやわき腹を押しながら、
「痛くないですか?」
などと聞いてくる。そんなもの、例え痛くたって「はい」などと言えるわけがない。こちらはそれどころではないのだ。

 そして最後に、パンツの腰のゴムに手がかかり、持ち上げて中をのぞき込むような素振りをした次の瞬間、
「はい、終わりです」
と、あっけなく言われた。

 そんなものでは見えない。見えていない。シーツだってかかっていたのだ。医師はのぞき込むふりをしただけだ。私はこれまでの緊張が一気に解け、訳もなく医者と両手で握手をしたい衝動に駆られた。

 考えてみれば、性病など、血液検査をすれば分かることなのだ(すでに採血されていた)。何も直に見る必要などないのだろう。ただ、規則で見なくてはならないということだったのだろうと思う。しかし、私にしたって医者にしたって、そんなもの見られたくないし見たくもないという共通の利害関係が存在するのだ。

 私は本当に安堵した気持ちになって、すべての検査を終えた。これが聖母病院ではなく、米軍病院だったらどうなっていたのだろうかなどと想像すると、背筋の寒くなる思いで病院をあとにした。

追記:
 アメリカ国内で永住権のための身体検査をした人の中で、
「肛門に指を入れられてグリグリする検査までされた」
と証言した人がいた。私は日本で、しかも聖母病院を選んで本当によかった。
この場を借りて、聖母病院にお礼を申し上げます。

その11に続く。


1/31/99

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第11話」

 検査の結果は一週間後に出る。血液検査で抗体の有無が調べられ、抗体を持たない病原体に対する予防接種が義務付けられる。電話で問い合わせると、私はいくつかの伝染病に対する抗体が消えており、三種混合ワクチンの摂取を言い渡された。

 この「血液検査」というのは、永住権を取得しようとしている人々にとって、俗に「エイズ検査」とも言われ、「HIV(エイズ・ウィルス)」が発見されると永住権は下りないというのは、公然の事となっているのだそうだ。

 アメリカに住んでいると、エイズは身近な存在だ。感染の可能性に対する身に覚えはないのだが、私自身、ゲイの大勢住む地区の中心に7年も暮してきていたし、周囲にHIV保持者も多い。実際にエイズで亡くなっていく人もいる。

 一年に一度、近所の公園にある噴水に、皆が一輪の薔薇の花を手向ける習慣がこの地区にはある。薔薇の数は、エイズで亡くなっていった友人や恋人の数と同じだ。大理石で出来た噴水の縁は、この赤い薔薇で埋まる。それは、綺麗だけれど、静かで悲しい風景なのだ。

 私に感染する理由はないのだが、不安にはなっていた。しかし、今回のこの検査で、「すべて異状なし」との結果が出てくれたことは、何かほっとさせられるものがあった。

 私は検査結果の書いてある、アメリカ大使館に提出する書類を受け取りに、ふたたび聖母病院を訪れ、そのときに足りなかった抗体のワクチン摂取を受けた。

 受け取った書類は大きかった。中に巨大な胸のレントゲンのフィルムが入っているためだった。こんなレントゲンのフィルムをアメリカ大使館員が見るとは思えなかったが、私はこれを折らないように丁寧に丸めて、持ち帰ることになった。受付けの人から渡されるときに、
「開封すると無効になってしまうから気をつけるように」
と念を押された。

 もうこれで出来ることは何もなかった。
 あとは面接のみが残されていた。
 これでしくじらなければ、私は永住権を持ってふたたびアメリカに帰り、またあの大好きな街で新しい生活を始めることができる。面接に対する不安でいっぱいでも、永住権取得後の新生活を想うと、少し心が軽くなった。

その12に続く。


3/17/99

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第12話」

 いよいよ面接の時がきた。
 前日はアメリカ大使館に一番近い、赤坂の全日空ホテルに宿泊した。
 私の実家からアメリカ大使館へは2時間とかからない。しかし、電車が事故で遅れる等、不測の事態を考えると、このすごく高い宿泊料を払ってでも、それは保健のようなものと言えた。

 都心に向かうギュウギュウ詰めの電車で疲れ果てて面接に向かうのも気が進まなかった。ワシントンDCという都会に住んでいても、狭い電車の中などで他人と身体が密着した状態などという経験はすることがない。乗り降りの際に人とぶつかっても、誰も「Excuse me」などと言われることはない日本は、私にとってすでに違和感のある国になってしまっている。日本の電車で人とぶつかるたびに「Excuse me」などと言っていたらきりがないのだから、そんな習慣が無いことだってよく理解している。それでも、気持ちが沈んでいく体験であることに変りはない。そんな気分で面接に行くことは避けたかった。

 こんな分不相応な高級ホテルに泊まることだってそうだ。
余計なことを考えたくなかったのだ。日本の社会的習慣にすっかり馴染めなくなっていた私は、日本の街を歩くだけで憂うつな気分になることがある。いろいろな物事が目に飛び込んできて、それはいちいちアメリカの自分の住む町と比較して、自分で暗い気分にさせてしまう。

 私は日本人としてアメリカに住んできた。アメリカに住むからといって、アメリカ人のようになりたいと思ったことはない。でも、自分の祖国である日本に住もうとは思えない人間になってしまっていることに、私は少なからず複雑な気持ちにさせられる。日本が嫌いなわけではない。日本人であることを誇りに思ってアメリカで暮してきた。でも、もう日本には私の住む時間と空間は残されていなかった。ヤドカリのようなものなのかもしれない。1度自分の殻を出て、次の居心地の良い殻に入ってしまうと、もうもとの殻には戻れない。私はもうアメリカという殻を背負って歩いていくしかないのかもしれない。

 ホテルは最高の立地条件にあった。
 アメリカ大使館までは徒歩で5分で行くことが出来る。
もう少し歩けば、もっと安いホテルだってあった。でも、「ケチ」のつくような可能性のあることはしたくなかったのだ。良いホテルに気持良く泊まり、気持良く起きて、面接に臨みたかった。

 ホテルに歩く道すがら、ジュースの自動販売機でカルピス・ウォーターを2本買った。高い宿泊料は払えても、ホテルの中で高い飲み物を買う気になれないところが貧乏性だなと思われておかしな気持ちがした。

 私は小さなころからカルピスが好きだった。
 両親の事情でしばらく祖父母の家に預けられていたときに、祖母が教えてしまったらしい。「カルピスを覚えてから牛乳を飲まなくなった」
と、母親があとでぼやいていたのを思い出す。
いつのまにかそのカルピスも缶ジュースになって販売されている。
販売機の中のジュースは一本が120円になっていた。私の知っているジュースはどれも100円だった。「随分と長い間、外に出ていたんだなあ」と、こんな些細なことででも感傷的な気分になる。

 カウンターでチェックインすると、姿勢がとても良い客室案内係の男性が荷物を持って部屋まで案内してくれた。黒いスーツが良く似合う、営業スマイルが板についた、それでいて嫌みなところのない男性だった。ホテルマンになるために生まれてきたような印象を受ける。

 彼が部屋を出るところで、私は躊躇した。アメリカでは部屋まで荷物を持って案内して貰った場合にはチップをあげるのが普通である。しかし、ここは日本。しかし、外国からのお客の多いホテルでもある。渡すべきか迷う。彼はベル・ボーイやポーターではない。変にチップを渡すのも気が引ける。しかし、思い切ってそっと500円硬貨を渡そうとした。
すると彼は、見本にしたくなるような完璧な笑顔と会釈をしながら、
「結構でございます」
と言い、優雅にドアを閉めて去ってしまった。
「どうやら私は本当にこのホテルに似合うような人間ではないのだな」
と、再確認させられたような気がして、行き場のなくなったその500円硬貨を財布にもどした。

 部屋を見回すと、そこはとても感じの良い部屋だった。東京の都心にあるにしては部屋も広く、家具やカーテンなども落ち着いていたし、窓も大きかった。ふとサイトテーブルを見ると花のバスケットが置いてある。これもサービスなのか、それにしてもここまでサービスが良いはずはない。良く見るとカードが刺さっている。宛名を見ると、発音が難しそうな中国人名が書かれていた。やはり間違いのようだった。フロントに電話をして事情を説明すると、またさっきの客室案内係の男性がすぐにやってきた。
「どうもすみませんでした。有り難うございました。」
と、先程とちょっと違う、すまなそうな笑顔と会釈で、バスケットと一緒にドアの向こうに消えた。こんなミスをされると、何だか気が軽くなったような気がするのもおかしかった。

 少し寂しくなったような気のする部屋のカーテンを開けると、そこには東京の夜景が広がっていた。大きな窓の前に小さな私が立っていると、夜景に飲み込まれてしまうような気がする。遠くに新宿副都心の高層ビル群が見える。その光景は、私の住むワシントンDCより遥かに都会に見え、未来的な光景だった。しかし、私の未来はもうここにはない。私は明日、アメリカの永住権を手にするのだ。私はまた感傷的な気持ちでしばらくその窓の外を見ていた。

その13に続く。


7/14/99

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第13話」

 朝は自然と目が覚めた。朝に弱い私には珍しい。やはり緊張しているのだろう。
人生の中で、いくつかの重要な関門があるとすれば、今日の面接がまさしくそれだった。
絶対にしくじるわけにはいかない、二度とやり直しの効かない、何が何でも通らねばならない関門など、これまでの人生にあったのだろうか。

 シャワーを浴びた後、二階にあるレストランで朝食をとった。
安くはないのだが、やはり和食・洋食両方が取り放題になってるのは嬉しい。
アメリカのホテルでは和食の朝食など望むべくもないので、ここは和食ばかりを取って席につく。
 これからアメリカの永住権を取得しようという朝に、和食に拘って食べている自分が妙におかしかった。私はアメリカ人になるのではなく、日本人としてアメリカに永住するのだ。暖かいご飯に納豆をかけ、海苔と塩鮭と味噌汁を食べながら、そのことを再確認しているような気がした。もう戸惑いや迷いはなかった。永住権を取得すること。それだけに集中できる。どこの国で人生をおくっていても、私は私であり、日本人は日本人である。

 このためだけにアメリカから持参したスーツを着込み、ホテルの部屋を出た。
チェックアウトをするためにロビーのカウンターに並ぶ。
すると、昨夜、部屋に案内してくれたあの案内係の男性が寄って来て、
「昨日はどうも有り難うございました」
と、朝から爽やかな笑顔でお礼を言ってくれた。
「いえ」
と、こちらも爽やかな笑顔で返そうとするが、そこはやはり格というものが違う。
明らかにギクシャクとした態度になってしまうのが情けなかった。

 社会人として自分の役割を完璧にこなすとは、ああいった姿勢なのだなと、こんな些細なことでも教訓的に取ってしまう。永住権が取れたらもう学生気分ではいられない。言い訳はできないのだ。私は私のできることとやりたいことで、一人の社会人にならねばならない。新しい気分で、新しい私になってアメリカに戻れるかどうかは、今日決まる。

 様々な、そして複雑な気分でホテルを後にした。
自分の感受性が敏感になっていたことで、何もかもが象徴的で教訓的な事象として、どこか感傷的に捉えやすくなっていた。
 4月のまだ肌寒い朝、空は曇り、雨が少しだけ降っていた。晴れでもなく、完全な雨でもなく、止むでもなく、傘をさす程でもない。何もかもが中途半端な天気の中、灰色の街を灰色の空の下で歩いた。朝の眩しい太陽に照らされ、日本の春を感じながら面接に行きたかったのになとも思ったが、今日の天気はまるで私の心そのものをぴったりと映し出しているようで嫌ではなかった。

 アメリカ大使館に8時半には到着した。
すでに査証受付の建物の前には20人程の列ができていた。それぞれが緊張した面持ちで、話をしている人もいない。どのような境遇で、どのようなビザを申請している人々なのだろうか。私のように抽選で永住権が当選した人もきっといるに違いない。それぞれが各自の人生と戦いに来ているような気がした。

 時間が来てガラスのドアが開かれた。一人ずつ、ゆっくりと入ってゆく。
入ってすぐのところに金属探知器のゲートがあり、そこで手荷物の中を空港などより厳密に調べられた。
 部屋は広かった。椅子が横並びに数列、全部で100近くはあるように見えた。そして、正面には分厚い透明アクリル板に仕切られた窓口が並んでいた(正確に窓口の数は覚えていないのだが、6〜8もあったような気がする。実際に使用されている窓口は、職員の人数の関係上か、4〜5だった)。それぞれの窓口の上には二桁の数字が表示されるようになっており、それが整理券番号を表示するものだということはすぐに分かった。

 部屋の隅に整理券を発行する自動の機械を見つけ、そこで券を引く。
22番。運の良い数字なのかどうかも分からない、中途半端な数字。
席は敢えて後ろの方に座らず、前の方に座った。
他の人が窓口でどのようなやり取りをするのかを見ておきたかったのだ。

 受付が始った。窓口の向こうのスクロール・カーテンが次々と上がり、数字が表示されてゆく。
それぞれの窓口の数字が、じれったい程ゆっくりと変わる。
このままのペースでは、2時間は待たねばならない。
私は持ってきた申請書類の束を抱え、何も忘れ物等のミスをしていないことを再確認し続けた。
面接とは、どこでどのくらいの時間、どのようなことをするのだろう・・・。
ここの窓口で書類を提出した後、どこか別室に呼ばれて、数名のアメリカ人職員を相手に英語で面接をしている場面を想像して、少し怖じ気づいてきた。
「あなたの大学院での専攻は陶芸だそうですが、具体的にあなたはアメリカ社会にどのような貢献が出来ますか?」
などと質問されている自分を想像していた。
何と答えよう。芸術が社会に貢献できることを説明するのはとても難しい。芸術に好意的な人であっても、なかなか理解してもらえるものではない。しかも、私の職業欄には「コンピュータ・コンサルタント」と記入してある。ちょっと考えれば無茶苦茶な話である。そのことを突っ込まれて質問されたらどう答えよう・・・。

 私はどんどんと精神的な悪循環にはまり込み、グルグルと暗い穴の中へと取り込まれないようにすることに必死だった。そんな精神状態で、そんな顔をして面接に臨んでは、結果を悪くしかねない。
 しかし、
「人生、どうにかなるさ」
などと楽天的になることもできなかった。
この面接が上手く行かず、ここまで待ち焦がれた永住権が取得出来なかったときのことを考えれば、「どうにかなる」などという想像はまるでできなかったのだ。

 ついに私の整理券番号が表示された。
窓口は偶然にも私が座っていた正面の窓口だった。
私は座ったままその数字を見上げ、腹をくくった。歯を食いしばり、唾を飲み込んだ後、席を立った。

その14に続く。


9/6/99

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第14話」

 窓口に立っていたのは日本人女性職員だった。
取りあえずは日本語で対応してもらえることに安堵した。
窓口の下に開いている狭い隙間から、分厚い書類の束をねじ込む。大きなレントゲン写真のフィルムなどもあるからかなり大きい。

 その場で立ったまましばらく待たされ、戻ってきた女性職員の手には、私が提出した一枚の申請書があった。私の方に向け、下の方をペンで指し示しながら彼女は言った。
「新しく質問が追加されましたので答えて下さい。」
私は一瞬何のことか分からなかった。なぜここで質問をされるのか。私の申請書類に不備な点でもあったのかと、引きつった笑顔の下で血の気が引く。そのような話は弁護士から聞いていなかった。ただでさえ膝が震えそうだった足の感覚が硬直に変わる。
「ミスはできない、許されない」
と、そればかりを考えていた私を直撃したその質問は、全文が赤インクのスタンプで捺されたようになっていた。心を落ち着けて読んでみると、
「これまでにテロ活動を行ったこと、もしくはその活動を支援したことはありますか?」
とある。赤インクの文字が怖い。あまりの質問の内容に私は目を疑った。形式上であるにせよ、この質問に何の意味があるのだろうか。
「はい、昔、ちょっとやってました」
などと言う人物がいるのだろうか。私はすっかり拍子抜けしたまま「いいえ」に丸をつけた。

「それでは午後2時にまた来て下さい」
と言うと、職員は中から幕を下ろし、奥に消えた。
ただそれだけだった。他には何の指示もなかった。
今のが面接だったのか。それとも、午後2時から厳しい面接が待っているのか。
私は釈然としないまま窓口を離れた。

 赤坂などというところで、落ち着いて時間を潰せる場所など知るわけがない。結局全日空ホテルまで戻り、ロビーにある喫茶スペースで時間を潰した。お昼時であったが食欲など出るはずもなかった。とんでもない値段のする紅茶を、いかにも勿体なさ気にチビチビとすすりながら、やはり私にとってこの国に住むのはなかなか大変そうだなと、レモンの酸っぱさもそう教えてくれる。

 午後2時はすぐにやってきた。
午前中に受け取った整理券番号が表示されるのを座って待つ。今度は数字の進みが早い。すぐに私の番号が表示された。

 窓口に立ったのは、ダークスーツを着た背の高い、ちょっと難しい顔をした白人男性だった。
これからが面接の本番なのだと腹をくくった。ここにたどり着くまでの苦難を思えば、最後の難関であるこの数分を、どんなことがあっても切り抜けなくてはならない。

 印象を良くしようと、再び笑顔を引きつらせながら、
「Hello」
と挨拶する。
どのような難しい質問が来るかと待ち構える私に、その男性が1枚の書類を提示しながら言った。
「ここにサインをして、あそこで料金を支払って下さい」

 目が点になるとはこのことだった。
「面接」などと呼ばれているこの一連の作業は、これでお終いなのであった。これまでの長くて苦しい道のりを考えると、これはまったく呆気なさすぎた。こんなに簡単でいいわけがない。また何か想像もしていなかった次の落とし穴に突き落とされるのではないかという強迫観念に駆られる。
眉間に「懐疑的」という漢字をシワで書いたような顔で、
「Is that all?」(これで全てですか?)
と、思わず聞いてしまった。

 部屋の反対側にあるキャッシャーでお金をドルで支払った。
極度の緊張状態から急に緩んだ格好になったことで、頭がぼうっとして物事がうまく考えられない。本当にこれで終わりなのかという疑念と、これで終ったのだという安堵感が交錯し、歩く足がおぼつかないくらい混乱していた。そのようなわけで、正確な金額は覚えていないのだが、400ドルくらい支払ったと思う。

 念願の、心の底から切望していた永住権が下りるのだ。
あとは最後の入国手続きを残すのみ。無事に入国できればアメリカ国内で正式な永住権(カード)発行の手続きが開始される。

 しかし、これまでの苦しく長い道のりは、私をまだ疑心暗鬼の中に閉じ込めておくに十分なものであったのだろう。私はまだ半信半疑のまま、アメリカ大使館を後にした。

その15(最終話)に続く


9/9/99

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第15話(最終話)」

 面接の3日後、私はワシントンDC行に帰る飛行機に乗った。
「帰る」のである。学生として一時的に滞在をさせてもらっていたこれまでとは異なり、永住を許可された人間として、私は私の愛している街に帰る。すっかり春になっているはずの街は、どんな顔をして迎えてくれるのだろう。

 晴れ晴れとした爽快な気分というわけにはいかなかった。入国審査がまだ残っている。日本にあるアメリカ大使館が永住権取得を約束しても、それはまだ正式なものではない。面接後の、最初のアメリカ入国時にやらねばならない入国審査を終えて、そこで初めてアメリカ本土にある移民局が、正式なカードを発行する手続きを開始する。この入国時の審査で不審に思われたり、却下されたりすると、その場で強制送還される可能性もあると聞いていた。
「日本のアメリカ大使館が許可しても、アメリカ本土の入り口である我々が駄目だと思えば駄目なんだからな」
という構えなのかもしれない。

 ワシントンDC郊外、正確に言うと、ヴァージニア州に入った所にあるダレス国際空港に、私を乗せた全日空機はいつものように着陸した。

 フランク・ロイド・ライトがデザインしたこの空港は、私をいつも複雑な気分にさせる。建築家としてのフランク・ロイド・ライトはとても好きなのだが、どうもこの空港のデザインは、彼にしては駄作のように思えてならないのだ。しかし、作品に点数をつけるならば、すべてが80点の芸術家より、駄作もあるけれど、たまに満点を超越した200点の作品を生み出してしまう芸術家の方が、本当の天才と言えるのかもしれない。沢山の80点の作品に囲まれて生きるより、200点の作品ただ一つと暮したほうが、幸せになれるような気がする。

 緊張の為か、約12時間のフライト中、殆ど眠れなかったので、時差ボケも手伝って少し朦朧としていた。

 入国審査の為、窓口に列ができる。これまで外国人用のラインに並んでいた私が、今回は米国市民用の列に並ぶことになる。ここでも何となく自分が偉くなったような気持ちがしたが、これから始る未知の最終手続きを考えると、そんな意識に取りつかれている場合ではないことは自覚できた。

 外国人用の長くて進みが遅い列とは異なり、短くて進むのが早いこの列は、あれこれと躊躇しているような時間も与えずに私を窓口に引き寄せていく。私の番になり、パスポートと一緒に、日本のアメリカ大使館で渡された書類一式を提出する。職員は慣れているのか、表情ひとつ変えずに別室に行くように指示をした。

 入国審査窓口をぬけてすぐ横にその部屋はあった。すでに私の他にも数人の人がいた。ここは、入国に際して不審な人物を取り調べる部屋でもあるのだろう。少し厳しい顔をした審査官らしき職員が働いている。名前を呼ばれるまでベンチに座って待ち、呼ばれると、職員と机を挟んで、面と向かって座ることになる。そこでも右手の人さし指の指紋をとられた。指紋をとられるなどという行為は、例えどのような場合であっても良い気分になることはない。しかし、今回は職員に腕を掴まれてなどということはなく、自分で捺させてくれたので、嫌な気分はかなり薄らぐ。

 そして、ついに、仮の永住者であることを証明するスタンプがパスポートに捺された。このスタンプは、私が永住権発行のプロセス中であることを証明してくれる。これは1年間の有効期限付きで、正式に永住権のカードを手にするまでの間、海外に出ることも可能になるとのことだった。

「正式のグリーンカードが郵送されるのは3ヶ月くらい後です。半年待って届かなかったら移民局に問いあわせて下さい」
と、面白くもなさそうに告げる。私にとっては感動の一瞬なのだから、もう少し笑顔で、私の顔を見て言ってくれてもよさそうなものなのになと、筋違いではあるけれどそんな感想を抱く。

 その部屋を出ると、あとはいつもと同じ経路であった。税関で申告するようなものは何もないことを告げ、空港のロビーに出た。

 そこからはタクシーでアパートに戻る。これからの生活に必要な物を、大きなスーツケース二つに分けて持ってきていた私は、バスと地下鉄を乗り継いでダウンタウンに戻ることなどは選択肢に入れられなかった。本や日本食材をはじめ、漆器や和食器まで持ってきていたために、スーツケースの合計重量は60キロを越えており、成田でチェックインをするときに追加料金を取られそうになって焦ったのだが、なんとか許してもらった。DC市内まではチップを含めると50ドル前後と、とても安いとは言えない料金ではあるけれど、今回は贅沢をしてタクシーに乗り込む。トランクにスーツケースを積み込むときに、そのあまりの重さに運転手が陽気な悲鳴をあげた。ちょっとチップを奮発しなければならない。

 ワシントンDC市内へ向かうタクシーの中、私はぼんやりとした頭と眠い目で、流れていく郊外の風景を見ていた。8年半前、私は留学生として初めてこの地に下り、同じようにタクシーに乗って市内へ向かった。あの時の風景は秋だった。紅葉が綺麗だったけれど、そんな風景に心を奪われるような精神的な余裕はなかった。何もかもが広く感じられ、ひどく殺伐とした風景のように思えた。タクシーの運転手は、無事に私を英語学校まで連れていってくれるのだろうか、料金をふっかけてきたりはしないだろうかと、そんな心配ばかりしていた。沢山の不安と少しの希望が混然となった、若く、心細かったあのときと比べると、今回は明るい春の日差しの中、静かに暖かく迎えてくれているような気がする。

 これからが本当のアメリカ生活が始るのだ。お客さんとしてではなく、アメリカで働き、生計を立て、税金を払う一市民となって、日本から来た日本人の米国住人となる。仕事をどうするか、実際に暮していけるのか等、多くの新しい問題と不安が山積していたが、今はもうビザの心配をすることなく、好きな街に好きなだけ住めることの幸せと安堵と感謝だけで一杯だった。

 4月半ば。もうワシントンの桜は散ってしまっていたけれど、私は晴れ晴れとした気持ちでアパートのドアを開いた。長くて苦しい、幾多の眠れない夜を過ごした部屋に、新しい希望と不安を持ち込んで。

 

後日談に続く(しばらくお待ち下さい)



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