■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第10話」 永住権の面接の時に、身体検査の結果を提出することが義務づけられている。それも、どこの病院でやってきても良いというわけではない。アメリカ大使館が指定する病院で検査を受け、その検査結果しか採用されない。 東京周辺では3つの病院が指定されており、私はその中の下落合にある「聖母病院」で検査を受けることにした。横須賀にある指定病院の方が私の実家からは近かったのだが、そこは横須賀基地の米軍病院だったので、いささか気が進まなかったのだ。この「米軍病院」という響きが恐い。私はこの「聖母」という名前に魅かれて決めた。人間、心細い立場に立たされると、こんな名前にまですがってしまうものらしい。 病院に予約を入れ、指定された朝一番の時間に行く。受付で事情を話して専用の用紙を受け取る。この用紙に記されている項目を上からすべて検査していくらしかった。受付の人達はすべてグレーの修道女、シスターの格好をしており、とても優しく説明をしてくれた。私はこの病院を選んで良かったと思った。人間、直感を信じるものである。 シスターの一人が、一枚の用紙を差し出した。検査を受けるにあたっての注意事項と、それを私が承諾する旨の「署名」をする欄が目に入った。私はその項目を読み進んでいくうちに、一つの項目に目がくぎ付けになった。そこには、 そんな話は聞いていない。誰も教えてくれなかった。これにはいささか驚いた。いや、ビビッた。そんな検査をされたのは、生まれてこのかた一度もない。恥ずかしさと屈辱的な気持ちでいっぱいになり、そうなるともうレントゲンを撮っているときでも採血をしているときでも、この「性器の視検」という文字が頭から離れない。その単語が頭の中をグルグル回っている。トイレで紙コップに採尿をしているときでさえ、 そしてついに来た最後の検査、医師による直接の問診と触診である。 部屋に呼ばれて医師の前に腰掛ける。若い男性の医師である。 しばらく聴診器を胸にあてたりしていたが、ついに医者の口から、 私は観念した。これも永住権のためなのだ。パンツだけの姿になって、ベッドに寝たら、看護婦さんが入ってきて私にシーツをかけてくれた。 さっきの医者が入ってきた。シーツの下に手を入れて、胃のあたりやわき腹を押しながら、 そして最後に、パンツの腰のゴムに手がかかり、持ち上げて中をのぞき込むような素振りをした次の瞬間、 そんなものでは見えない。見えていない。シーツだってかかっていたのだ。医師はのぞき込むふりをしただけだ。私はこれまでの緊張が一気に解け、訳もなく医者と両手で握手をしたい衝動に駆られた。 考えてみれば、性病など、血液検査をすれば分かることなのだ(すでに採血されていた)。何も直に見る必要などないのだろう。ただ、規則で見なくてはならないということだったのだろうと思う。しかし、私にしたって医者にしたって、そんなもの見られたくないし見たくもないという共通の利害関係が存在するのだ。 私は本当に安堵した気持ちになって、すべての検査を終えた。これが聖母病院ではなく、米軍病院だったらどうなっていたのだろうかなどと想像すると、背筋の寒くなる思いで病院をあとにした。 追記: その11に続く。
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■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第11話」 検査の結果は一週間後に出る。血液検査で抗体の有無が調べられ、抗体を持たない病原体に対する予防接種が義務付けられる。電話で問い合わせると、私はいくつかの伝染病に対する抗体が消えており、三種混合ワクチンの摂取を言い渡された。 この「血液検査」というのは、永住権を取得しようとしている人々にとって、俗に「エイズ検査」とも言われ、「HIV(エイズ・ウィルス)」が発見されると永住権は下りないというのは、公然の事となっているのだそうだ。 アメリカに住んでいると、エイズは身近な存在だ。感染の可能性に対する身に覚えはないのだが、私自身、ゲイの大勢住む地区の中心に7年も暮してきていたし、周囲にHIV保持者も多い。実際にエイズで亡くなっていく人もいる。 一年に一度、近所の公園にある噴水に、皆が一輪の薔薇の花を手向ける習慣がこの地区にはある。薔薇の数は、エイズで亡くなっていった友人や恋人の数と同じだ。大理石で出来た噴水の縁は、この赤い薔薇で埋まる。それは、綺麗だけれど、静かで悲しい風景なのだ。 私に感染する理由はないのだが、不安にはなっていた。しかし、今回のこの検査で、「すべて異状なし」との結果が出てくれたことは、何かほっとさせられるものがあった。 私は検査結果の書いてある、アメリカ大使館に提出する書類を受け取りに、ふたたび聖母病院を訪れ、そのときに足りなかった抗体のワクチン摂取を受けた。 受け取った書類は大きかった。中に巨大な胸のレントゲンのフィルムが入っているためだった。こんなレントゲンのフィルムをアメリカ大使館員が見るとは思えなかったが、私はこれを折らないように丁寧に丸めて、持ち帰ることになった。受付けの人から渡されるときに、 もうこれで出来ることは何もなかった。 その12に続く。
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■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第12話」 いよいよ面接の時がきた。 都心に向かうギュウギュウ詰めの電車で疲れ果てて面接に向かうのも気が進まなかった。ワシントンDCという都会に住んでいても、狭い電車の中などで他人と身体が密着した状態などという経験はすることがない。乗り降りの際に人とぶつかっても、誰も「Excuse me」などと言われることはない日本は、私にとってすでに違和感のある国になってしまっている。日本の電車で人とぶつかるたびに「Excuse me」などと言っていたらきりがないのだから、そんな習慣が無いことだってよく理解している。それでも、気持ちが沈んでいく体験であることに変りはない。そんな気分で面接に行くことは避けたかった。 こんな分不相応な高級ホテルに泊まることだってそうだ。 私は日本人としてアメリカに住んできた。アメリカに住むからといって、アメリカ人のようになりたいと思ったことはない。でも、自分の祖国である日本に住もうとは思えない人間になってしまっていることに、私は少なからず複雑な気持ちにさせられる。日本が嫌いなわけではない。日本人であることを誇りに思ってアメリカで暮してきた。でも、もう日本には私の住む時間と空間は残されていなかった。ヤドカリのようなものなのかもしれない。1度自分の殻を出て、次の居心地の良い殻に入ってしまうと、もうもとの殻には戻れない。私はもうアメリカという殻を背負って歩いていくしかないのかもしれない。 ホテルは最高の立地条件にあった。 ホテルに歩く道すがら、ジュースの自動販売機でカルピス・ウォーターを2本買った。高い宿泊料は払えても、ホテルの中で高い飲み物を買う気になれないところが貧乏性だなと思われておかしな気持ちがした。 私は小さなころからカルピスが好きだった。 カウンターでチェックインすると、姿勢がとても良い客室案内係の男性が荷物を持って部屋まで案内してくれた。黒いスーツが良く似合う、営業スマイルが板についた、それでいて嫌みなところのない男性だった。ホテルマンになるために生まれてきたような印象を受ける。 彼が部屋を出るところで、私は躊躇した。アメリカでは部屋まで荷物を持って案内して貰った場合にはチップをあげるのが普通である。しかし、ここは日本。しかし、外国からのお客の多いホテルでもある。渡すべきか迷う。彼はベル・ボーイやポーターではない。変にチップを渡すのも気が引ける。しかし、思い切ってそっと500円硬貨を渡そうとした。 部屋を見回すと、そこはとても感じの良い部屋だった。東京の都心にあるにしては部屋も広く、家具やカーテンなども落ち着いていたし、窓も大きかった。ふとサイトテーブルを見ると花のバスケットが置いてある。これもサービスなのか、それにしてもここまでサービスが良いはずはない。良く見るとカードが刺さっている。宛名を見ると、発音が難しそうな中国人名が書かれていた。やはり間違いのようだった。フロントに電話をして事情を説明すると、またさっきの客室案内係の男性がすぐにやってきた。 少し寂しくなったような気のする部屋のカーテンを開けると、そこには東京の夜景が広がっていた。大きな窓の前に小さな私が立っていると、夜景に飲み込まれてしまうような気がする。遠くに新宿副都心の高層ビル群が見える。その光景は、私の住むワシントンDCより遥かに都会に見え、未来的な光景だった。しかし、私の未来はもうここにはない。私は明日、アメリカの永住権を手にするのだ。私はまた感傷的な気持ちでしばらくその窓の外を見ていた。 その13に続く。
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■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第13話」 朝は自然と目が覚めた。朝に弱い私には珍しい。やはり緊張しているのだろう。 シャワーを浴びた後、二階にあるレストランで朝食をとった。 このためだけにアメリカから持参したスーツを着込み、ホテルの部屋を出た。 社会人として自分の役割を完璧にこなすとは、ああいった姿勢なのだなと、こんな些細なことでも教訓的に取ってしまう。永住権が取れたらもう学生気分ではいられない。言い訳はできないのだ。私は私のできることとやりたいことで、一人の社会人にならねばならない。新しい気分で、新しい私になってアメリカに戻れるかどうかは、今日決まる。 様々な、そして複雑な気分でホテルを後にした。 アメリカ大使館に8時半には到着した。 時間が来てガラスのドアが開かれた。一人ずつ、ゆっくりと入ってゆく。 部屋の隅に整理券を発行する自動の機械を見つけ、そこで券を引く。 受付が始った。窓口の向こうのスクロール・カーテンが次々と上がり、数字が表示されてゆく。 私はどんどんと精神的な悪循環にはまり込み、グルグルと暗い穴の中へと取り込まれないようにすることに必死だった。そんな精神状態で、そんな顔をして面接に臨んでは、結果を悪くしかねない。 ついに私の整理券番号が表示された。 その14に続く。
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■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第14話」 窓口に立っていたのは日本人女性職員だった。 その場で立ったまましばらく待たされ、戻ってきた女性職員の手には、私が提出した一枚の申請書があった。私の方に向け、下の方をペンで指し示しながら彼女は言った。 「それでは午後2時にまた来て下さい」 赤坂などというところで、落ち着いて時間を潰せる場所など知るわけがない。結局全日空ホテルまで戻り、ロビーにある喫茶スペースで時間を潰した。お昼時であったが食欲など出るはずもなかった。とんでもない値段のする紅茶を、いかにも勿体なさ気にチビチビとすすりながら、やはり私にとってこの国に住むのはなかなか大変そうだなと、レモンの酸っぱさもそう教えてくれる。 午後2時はすぐにやってきた。 窓口に立ったのは、ダークスーツを着た背の高い、ちょっと難しい顔をした白人男性だった。 印象を良くしようと、再び笑顔を引きつらせながら、 目が点になるとはこのことだった。 部屋の反対側にあるキャッシャーでお金をドルで支払った。 念願の、心の底から切望していた永住権が下りるのだ。 しかし、これまでの苦しく長い道のりは、私をまだ疑心暗鬼の中に閉じ込めておくに十分なものであったのだろう。私はまだ半信半疑のまま、アメリカ大使館を後にした。 その15(最終話)に続く |
9/9/99 ■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第15話(最終話)」 面接の3日後、私はワシントンDC行に帰る飛行機に乗った。 晴れ晴れとした爽快な気分というわけにはいかなかった。入国審査がまだ残っている。日本にあるアメリカ大使館が永住権取得を約束しても、それはまだ正式なものではない。面接後の、最初のアメリカ入国時にやらねばならない入国審査を終えて、そこで初めてアメリカ本土にある移民局が、正式なカードを発行する手続きを開始する。この入国時の審査で不審に思われたり、却下されたりすると、その場で強制送還される可能性もあると聞いていた。 ワシントンDC郊外、正確に言うと、ヴァージニア州に入った所にあるダレス国際空港に、私を乗せた全日空機はいつものように着陸した。 フランク・ロイド・ライトがデザインしたこの空港は、私をいつも複雑な気分にさせる。建築家としてのフランク・ロイド・ライトはとても好きなのだが、どうもこの空港のデザインは、彼にしては駄作のように思えてならないのだ。しかし、作品に点数をつけるならば、すべてが80点の芸術家より、駄作もあるけれど、たまに満点を超越した200点の作品を生み出してしまう芸術家の方が、本当の天才と言えるのかもしれない。沢山の80点の作品に囲まれて生きるより、200点の作品ただ一つと暮したほうが、幸せになれるような気がする。 緊張の為か、約12時間のフライト中、殆ど眠れなかったので、時差ボケも手伝って少し朦朧としていた。 入国審査の為、窓口に列ができる。これまで外国人用のラインに並んでいた私が、今回は米国市民用の列に並ぶことになる。ここでも何となく自分が偉くなったような気持ちがしたが、これから始る未知の最終手続きを考えると、そんな意識に取りつかれている場合ではないことは自覚できた。 外国人用の長くて進みが遅い列とは異なり、短くて進むのが早いこの列は、あれこれと躊躇しているような時間も与えずに私を窓口に引き寄せていく。私の番になり、パスポートと一緒に、日本のアメリカ大使館で渡された書類一式を提出する。職員は慣れているのか、表情ひとつ変えずに別室に行くように指示をした。 入国審査窓口をぬけてすぐ横にその部屋はあった。すでに私の他にも数人の人がいた。ここは、入国に際して不審な人物を取り調べる部屋でもあるのだろう。少し厳しい顔をした審査官らしき職員が働いている。名前を呼ばれるまでベンチに座って待ち、呼ばれると、職員と机を挟んで、面と向かって座ることになる。そこでも右手の人さし指の指紋をとられた。指紋をとられるなどという行為は、例えどのような場合であっても良い気分になることはない。しかし、今回は職員に腕を掴まれてなどということはなく、自分で捺させてくれたので、嫌な気分はかなり薄らぐ。 そして、ついに、仮の永住者であることを証明するスタンプがパスポートに捺された。このスタンプは、私が永住権発行のプロセス中であることを証明してくれる。これは1年間の有効期限付きで、正式に永住権のカードを手にするまでの間、海外に出ることも可能になるとのことだった。 「正式のグリーンカードが郵送されるのは3ヶ月くらい後です。半年待って届かなかったら移民局に問いあわせて下さい」 その部屋を出ると、あとはいつもと同じ経路であった。税関で申告するようなものは何もないことを告げ、空港のロビーに出た。 そこからはタクシーでアパートに戻る。これからの生活に必要な物を、大きなスーツケース二つに分けて持ってきていた私は、バスと地下鉄を乗り継いでダウンタウンに戻ることなどは選択肢に入れられなかった。本や日本食材をはじめ、漆器や和食器まで持ってきていたために、スーツケースの合計重量は60キロを越えており、成田でチェックインをするときに追加料金を取られそうになって焦ったのだが、なんとか許してもらった。DC市内まではチップを含めると50ドル前後と、とても安いとは言えない料金ではあるけれど、今回は贅沢をしてタクシーに乗り込む。トランクにスーツケースを積み込むときに、そのあまりの重さに運転手が陽気な悲鳴をあげた。ちょっとチップを奮発しなければならない。 ワシントンDC市内へ向かうタクシーの中、私はぼんやりとした頭と眠い目で、流れていく郊外の風景を見ていた。8年半前、私は留学生として初めてこの地に下り、同じようにタクシーに乗って市内へ向かった。あの時の風景は秋だった。紅葉が綺麗だったけれど、そんな風景に心を奪われるような精神的な余裕はなかった。何もかもが広く感じられ、ひどく殺伐とした風景のように思えた。タクシーの運転手は、無事に私を英語学校まで連れていってくれるのだろうか、料金をふっかけてきたりはしないだろうかと、そんな心配ばかりしていた。沢山の不安と少しの希望が混然となった、若く、心細かったあのときと比べると、今回は明るい春の日差しの中、静かに暖かく迎えてくれているような気がする。 これからが本当のアメリカ生活が始るのだ。お客さんとしてではなく、アメリカで働き、生計を立て、税金を払う一市民となって、日本から来た日本人の米国住人となる。仕事をどうするか、実際に暮していけるのか等、多くの新しい問題と不安が山積していたが、今はもうビザの心配をすることなく、好きな街に好きなだけ住めることの幸せと安堵と感謝だけで一杯だった。 4月半ば。もうワシントンの桜は散ってしまっていたけれど、私は晴れ晴れとした気持ちでアパートのドアを開いた。長くて苦しい、幾多の眠れない夜を過ごした部屋に、新しい希望と不安を持ち込んで。
後日談に続く(しばらくお待ち下さい) Top |