12/7/98

なんと一年以上もエッセイが止まってしまいました。
何事もいい加減な私にとって、これは普通の出来事のように思われますが、実は深い、不快な出来事のために、いきなり一週間書いただけでストップしてしまったのでした。
以下は、その言い訳エッセイです。


■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第1話」

 ことの始まりは、私のビザの問題だった。

 御存知のようにアメリカでは、長期滞在をしようと思えば、ビザが必要になる。私のそれまでのビザは学生ビザで、5年間の有効期限があったのだが、大学院に入学するまでに、民間の英語学校に通ったり、大学の聴講生をやったり、大学院に入ったら入ったでズルズルと3年半もいたのとで、すでに期限切れギリギリの状態だった。

 通常、大学を卒業すると、「Practical Training」ビザというものが申請できる。これは1年間有効の「職探しや、職に就いて経験を積むことで滞在を許される」ビザ。つまり、たったの1年ではあるけれど、おおっぴらに働くこともできる、夢のようなビザとも言える。

(こんな制度があるアメリカは改めて寛大な国だなと思ってしまいますが、じつは、雇う企業にとってもこの制度は非常に「美味しい」のです。つまり、物凄く安い賃金で人を雇えるし、1年で「ポイ」できるというメリットがあるのです。学生にしてみれば、1年そこで働いて、なんとか就労ビザを取得してもらって、ゆくゆくはグリーンカードを申請するときのスポンサーになってもらおうなどと考えますから、どんなに安い賃金でも働く人は多いのです。そこを逆手にとった悪徳企業もあり、タダ同然で1年働かせ、結局就労ビザも取ってあげずに、帰国を余儀なくさせてしまうという話もあるそうです。)

 私は職探しを理由に「Practical Training」ビザを申請した後、職探しはおろか、どこにも就職などせずに、趣味だったマッキントッシュ・コンピューターの知識を使って、一人でコンサルタントを始めてしまっていた。ワシントンDCには日本の企業や政府関連の事務所が多くあり、そこのマックのシステムの日本語化やトラブルを修復したりする仕事は、なんとか生活していけるだけの収入が得られそうだった。生活はギリギリだったけれど、組織内でうまくやっていくことの出来ない私のような性格の人間には、
「誰にも使われない、誰も使わない」
という生活は、とても精神的に快適なものだった。

「大学院を卒業したら日本に帰って就職する」
と、その実感こそ無かったものの、漠然とそう考えていたこれまでの私の人生設計が、この1年によって、次第に「アメリカ永住」に移行していくのを感じていた。
「私は日本に帰って生きていけるのか?それは私にとって、幸せなことなのか?」
これを幾度となく考えた。

 私の住む「Dupont Circle」という地区は、ワシントンDCの町中でありながら、古い町並みの残る活気のある美しい街で、初夏の光の中、大きな街路樹達が生き生きと美しく生い茂り、道路に緑のアーチを作る。その緑が街のレンガ色と見事なコントラストを作り出す。その町中を歩きながら、あるとき、突然結論が出た。そして出たその結論は極めて単純明快で、
「無理だ・・・」
であった。私は日本帰国を諦めた。

 しかし、そんな1年が過ぎ、再びこれ以上は就労ビザを取得する以外、もうアメリカに滞在出来ないということろに追いつめられてしまった。
「嫌なことは例え重要なことであっても後回し」
にするこの悪い性格も手伝って、その1年間の間、就労ビザを取得する策を考えることなく生活してきてしまったし、フリーランスでやってきたので、どこの会社も私の就労ビザのスポンサーになどなってくれなかった。

 どうしようかと悶々と悩む日々が続き、そんなとき突然、ビザの切れる2週間前になって、私がコンサルタントをしていた、ある個人経営の旅行社の社長さんが、
「就労ビザのスポンサーになってあげてもいいよ」
と言ってくれた。マックの使い方の説明からホームページの作成まで私がしていたので、私がワシントンにいなくなられると困るということだった。

 言うまでもなくこの話に私はすぐさま飛びついた。すぐに紹介された弁護士事務所に書類をそろえて提出し、就労ビザの手続きに入った。その弁護士事務所は日本人が受付で働いており、日本語ですべて難しい話などもできるのでこれは有り難かった。
「最初に400ドル、ビザが取れてから残りの400ドルを支払う」
ということだった。弁護士事務所の日本人女性は、
「大丈夫ですよ〜、簡単にすぐにとれますよ〜」
と軽く請け合ってくた。

 その事務所は、ワシントンDC近郊で大々的に日本語で宣伝しており、多くの日本人のケースを取り扱ってきているので、安心してその言葉を信じた。ビザのことで鬱屈していた日々が嘘のようだった。いきなり背筋が伸びて、目の前が明るくなり、走り出したい衝動に駆らた。
「これでアメリカに残れる!」
と確信した私は、ホームページを作成し、そこにこの日記風エッセイを「ワシントンその日暮らし」と命名してスタートさせた。

 しかし、世の中、そんなに美味い話はなかったのである。追いつめられた人間が、怪しくても希望のある話に飛びつき、ますます悪い方向へと人生を向けていってしまうということはよくあることと知りながら、まさか自分がその道を歩んでいるとはまったく考えもしなかった。

 申請してから約3ヶ月後、日記を書き始めてから一週間目、弁護士事務所から電話があり、私の申請が移民局から蹴られたことを告げられた。理由は、
「雇う側の会社の経営規模が、人を一人雇うに十分でないから」
だった。一気にどん底に突き落とされた私は、震える声で、
「再申請などの手段はあるのでしょうか」
と聞いた。受話器を持つ手が震えているのが分かった。「簡単に取れる」と安請け合いした担当の日本人女性は、いつの間にか日本に永久帰国しており、すでにその事務所はおろか、アメリカにもいないことが判明したことも追い打ちをかけた。新しく雇われたその若い日本人女性は、
「あと500ドルかかりますけれど、移民局にもう一度だけリクエストすることはできますよ〜、リクエストしますか〜?」
と、何かとぼけているのかと思わせるような、非現実的な声で明るく言った。私は、
「そうする以外に手段がないなら、そうするしかありません」
と、落胆と怒りで震えながら言うと、その女性は、
「あははは〜、それはそうですね〜」
と、笑いながら答えた。

 まるで、別世界のできごとで、こんなことが自分の身に起こっているのだということを認識させられるには、あまりにも両者の置かれた立場と精神状態が違いすぎる会話たった。

 なぜこの女性は笑ったのか?
なぜ、「簡単に取れる」と請け合った女性は突然消えたのか?
そんなことばかりが頭を駆け巡り、今、自分がどう考えて、何をするべきなのかを考えることが出来ず、私はこの理不尽な出来事を冷静に判断する能力を失っていた。

その2に続く。


12/8/98

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第2話」

 冷静になろうとかなりの努力をした後、
「この弁護士事務所には任せておけない」
そう思った私は、今度はニューヨークにある大きな移民法専門の弁護士事務所に相談をすることにした。ここは日本人のかなり難しいケースを扱ってきた経歴があり、
「費用は高めでも仕事はとても確実」
という評判からだった。この事務所も日本人スタッフが2名働いており、日本語でこの複雑な状況を説明できるのは精神的に大きな助けだった。私はこれまで6年もアメリカに住んでいたと言っても、陶芸専攻で大学院に在籍し、主に粘土と会話をしていただけで、英語で、しかも法律の専門用語が飛び交う会話など、とてもする気にはなれなかった。

 相談した弁護士事務所で私を担当してくれた日本人女性スタッフは、電話での印象はあまりフレンドリーな感じではなかったのだが、質問やアドバイスがとても的確で好感が持てた。曖昧なことや希望的観測で判断されないことのほうが重要だった私にとっては、こういった人物の方が信頼出来、助かった(後に親しくなると、とても親切な女性であることが判明)。

 私はこの弁護士事務所に、移民局に対する再度のリクエストをお願いすることに決めた。

 指示に従い、前の弁護士事務所に、移民局に提出した書類(私の卒業証明書やその弁護士が申請のために作成した書類)を取りに行くことになった。私は、その弁護士事務所では再度の申請を行わない事、新しくお願いした弁護士事務所を通じて行うこと、ついては、これまでの書類、つまり、その弁護士事務所が移民局に申請するために作成した書類の全てが必要であり、それらを引き取りたい旨を電話で伝えた。ところがその弁護士事務所は、再度の申請を行わない場合でも
「残金の400ドルを支払わないと書類の引き渡しは出来ない」
と言いだした。

 そんな理不尽な。
『ビザが取得出来た後に残りの400ドルを支払う』
と聞いていた私は、ただでさえ頭に来ていたその対応に怒りを隠せなくなってきた。しかし、担当の日本人女性は弁護士の先生からの命令を伝えているだけで、交渉する権限も何の決定権も持っておらず、当の弁護士は電話に出てはくれない。2度ほど、
「ちょっと先生に聞いてきます」
と電話を置き、当の弁護士にお伺いを立てに行くという会話に苛立つ。しばらくして戻ってくると、申し訳なさそうに、
「やはり全額支払ってもらわないとお渡しできないそうです」
を繰り返すだけになってしまった。

 弁護士と喧嘩して勝てるわけがない。とにかく時間の無かった私は、残金の400ドルを支払ってこの弁護士事務所との縁を切ることにした。一刻も早く、移民局に申請した書類を手に入れて、新しくお願いしたニューヨークの弁護士事務所に送らなければならなかったからだ。私にとって一番重要なことは、ビザの取得であって、いい加減な弁護士事務所との喧嘩で400ドルを払わずに済むことではなかったのだ。

 結局私は折れ、急いで400ドルと、その書類を速達で郵送してもらう費用を足した小切手を郵送し、書類を送ってもらうことにした。2日後、届いたその書類に目を通して、私は再び憤りを感じることとなった。

その3に続く。


12/9/98

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第3話」

 弁護士を通じて就労ビザの申請をする場合、その弁護士が移民局に出す申請書類を作成する。その中で、
「私が就労ビザを取得するだけの条件を備えていること」
を証明することが必要となり、この文章の書き方如何で、移民局の審査をする人間が納得するかどうかが違ってくる。審査する側だって人間なのだから、余計な事を書くのは御法度だが、必要十分な内容と丁寧な説明の文章が良いに決まっている。それに、自国民であるアメリカ人ではなく、日本人を雇わなければならない明確な理由を示すのであるから、そこにはかなりの「こじつけ」や「誇張」表現を記すのが事実上当然のこととなっている。そしてこれも当然の事ながら、この「上手な申請文章」を作成するのは、ひとえにその弁護士の腕にかかっていると言える。

 私は弁護士の書いた申請書類を読んだ。しかし、そこにはとても私の申請を通そうという努力の跡を見いだすことは出来なかった。はっきり言ってしまえば、「おざなり」な仕事であるとの印象を受けざるをえず、この弁護士は、最初から私の申請が通るなどと思っていなかったに違いなかった。私はその、あまりにも短く、そしてやる気のなさそうな文章を読みながら、自分の甘さを思い知ることとなった。

 私はそれらの書類を全て、ニューヨークの弁護士事務所に送った。そして、電話で話を聞いたところ、やはり、
「この申請内容では通る可能性はなかった」
と言われてしまったのである。

 そして、更に最悪の報告を聞かねばならなかった。それは、このまま再度の申請をしても、通る可能性はないとのことだった。
「私どもの事務所だったらこんな書き方はしないんですけれどねえ・・・」
と、残念そうに言われた。

 つまり、再申請するにしても、最初の申請内容とまったく異ったアプローチで書類を作成することは出来ないのであった。最初に申請した内容と異なるような内容では、最初の申請か、再申請の書類のどちらかが虚偽の内容で行われたということになり、事態は益々悪くなってしまう。私の置かれた状況は最悪の方向に向かっていた。

 その弁護士事務所でも再度の申請をすることは可能だけれど、それが通る可能性は無く、単にアメリカでの滞在期間を延ばすだけの「延命措置」でしかないことを告げられた。つまり、ビザの申請中は、これまでのビザが切れていても「申請中」ということで合法的に滞在することが出来るためだ。逆に、申請中に1度アメリカを出て、日本で待つということをしてしまうと、もしビザがおりなかった時には、今度入国するときにはいわゆる「観光ビザ」でしか入国出来なくなってしまい、90日間の滞在しかできなくなってしまう。「生活の基盤」というより、「人生をおくる場」がすっかりアメリカに移ってしまった今、何としてでもアメリカから出国する事態は避けたかった。だから私にとって、例え延命措置でしかないにせよ、この再度の申請は行わない訳にはいかなかった。

 私が次にしなければならないことは、新しく就労ビザのスポンサーになってくれる会社を探すことだった。2度目の申請が蹴られるまでの間、おそらく2ヶ月前後の期間内で探すことができなければ、もう私はアメリカに滞在出来なくなってしまう。毎日胃が痛く、夜もよく眠れない日々が続いた。アメリカに残れなくなるかもしれない可能性が大きくなってしまった私にとって、「ワシントンDCその日暮らし」という題名は、とても皮肉なものに思えた。ワシントンに残れないのであれば、この日記風エッセイの存在価値も理由もなくなってしまう。私はこのエッセイを書くのをやめた。

その4に続く。


12/10/98

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第4話」

 「捨てる神あれば拾う神あり」と言われるが、私が追いつめられている事を知ったある人物が、その「拾う神」になってくれた。それは後に「神」などではなく、最悪の「悪魔」であることが判明するのであるが、その時は神様にしか見えなかった。私はまだ困り切った盲目の男でしかなかったのだ。

 私のこの「アメリカに合法的に残れるようになった」までのお話が完結するには、まだ不快なお話に付き合ってもらわなければならない。

 その神様は、ワシントンDCに支局のある、ある日本の新聞社(仮にS新聞とする)の室長(仮にM室長とする)さんであった。私はこの事務所のマックのコンサルタントをしており、インターネットを使って日本に記事や画像を送る新事業システムの構築を手がけていた。

 私がこれ以上アメリカに滞在することが出来なくなりそうだと知ると、そのM室長は、
「S新聞社が私の就労ビザのスポンサーになってくれるようにする」
と約束してくれた。これはまさに夢のような話であった。日本の大きな新聞社がスポンサーになるのである。この申請なら確実に就労ビザが下りる。

 S新聞社のアメリカ支局(アメリカ法人)をスポンサーに就労ビザが下りるということは、私はS新聞社の現地雇用社員ということになる。陶芸などというものに没頭して、まともにお金も稼げない道楽人生を送る男のように思われていたこの私が、S新聞社の肩書きとその名刺を持って生きるのだ。これまでさんざん心配をかけた両親がどんなに喜んでくれるだろう。馬鹿息子だと思われていたに違いない松本家の長男が、S新聞社の現地社員に採用されるなんて、祖母や親戚にも胸を張って言えるに違いない。「アメリカに行ったきり何やってんだか」と思っていたに違いない私の日本の友人達にもこれで大きな声で報告することができる。

 私はあまりの嬉しさと有り難さに、
「働いてもらっている分の支払いは、就労ビザが取れてからでないと払えないんだけど」
というM室長の言葉を軽く受け流し、
「いや、ビザのスポンサーになってもらうんですから、いつでもいいですよ〜」
などと答えて、S新聞社での仕事は無料で働くようになった。

 早速、S新聞社とそのグループのパンフレットなどの資料をニューヨークの弁護士事務所に送った。その頃になると、すっかり私の身の上に同情してくれていた担当の日本人女性も、
「このスポンサーだったら確実に就労ビザが下りる」
と喜んでくれた。私はすぐに就労ビザ申請書類の作成に入ってくれるように頼んだ。

 ニューヨークの弁護士事務所に、申請料の支払いをする前日に、私は再度、M室長に確認の意味でもう一度念を押して尋ねた。
「本当に、就労ビザの申請を弁護士を通じて始めてしまいますよ?明日、送金します。本当にいいんですね?急に駄目になるなんてことはありませんね?」

M室長は軽く答えた。
「うん、いいよ。仕事はあるからね。」

 そして、最悪の落とし穴が大きな口を開けて待っていた。

その5に続く。


12/11/98

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第5話」

 翌日、私は就労ビザ申請料とその他の経費、1150ドルの小切手をニューヨークの弁護士事務所に郵送した。そして数日後、弁護士事務所から、
「S新聞社のアメリカでの連邦税金登録番号(Federal Tax ID Number)を知らせて下さい」
との連絡が来た。

 この連邦税金登録番号(以後「TAXナンバー」)は、アメリカで法人として活動しているすべての会社が持っている番号で、この番号を調べるとこれまでの税金支払い、つまり、会社のこれまでの業績が分かることになる。会社が外国人を雇い、就労ビザを移民局に申請する場合、この番号が無いと申請は出来ない。この番号を移民局とはいえ、アメリカ政府にあらためて知らせて、会社の経営、つまり具体的に言うと、脱税などをしていないかどうかを調べられる材料を渡すことに抵抗を示す企業が多いので、依然として外国人に就労ビザを出したがらない企業が多い。

 私はM室長に、
「弁護士の方からS新聞社のアメリカでのTAXナンバーを聞かれているのですけれど、教えていただけますか?」
と、電話で聞いた。

 最悪の瞬間はこの次に訪れた。
 M室長は一瞬戸惑った風であった。そしてこれまでの態度が一変し、次の瞬間私は耳を疑う発言を聞いた。
「いや、それは教えられないよ」
私は自分の耳が信じられなかった。

 このナンバーが申請書類に書けないということは、就労ビザの申請が出来ないということである。
私はすがるような思いで
「これでは弁護士も申請手続が出来ないということ、すべての書類がそろった時点で、M室長のサインが必要であること」
などを、再び丁寧に教えた。

 そし返ってきた返事は無情であった。
「いや〜、これ、Aさんのときと同じなんだね〜。サインはできないんだよ」

 ここで、このAさんのことを述べておかなくてはならない。このAさんというのは、約半年前に、M室長からやはり、
「S新聞社で現地雇用社員として雇い、就労ビザを出してあげる」
と言われた日本人女性である。彼女はアメリカの大学を卒業し、アメリカでの就労を望んでいた。彼女から話を聞いてみると、彼女もやはり弁護士にお金を払い、すべての申請書類を手にして持っていき、あとはM室長のサインをもらうだけとなった際に(私より賢い彼女はS新聞社アメリカ本局に電話をしてTAXナンバーを聞き出していた)、他のスタッフのいる前でサインを拒否された。可哀相なAさんは、すぐにトイレに駆け込んで泣いたそうだ。

 就労ビザを出すからと言われて無料で働き始め、弁護士を通じて作成した申請書類にサインをする段になると、いきなり手のひらを返して拒否するというこのパターンは、実は私が最初ではなかったのだ。私もただ働きをしたわけだが、Aさんの場合はもっと悲惨であった。

 S新聞のワシントン・スタッフ全員は日本から派遣された駐在員であり、アメリカで発行されたクレジットカードを持っているのはアメリカでの生活が長いAさんだけであった。そのため、支局で使う携帯電話3つ分の契約と月々の支払いは、このAさんのクレジットカードを使って支払われていた。そして、この使用料はS新聞社からAさんに数ヶ月もの間支払われていなかった(この分は後になってようやく支払ってもらったそうです)。

 結局Aさんは車を売り、当面の生活費を確保した後、独自の方法で米国永住権申請の道を開き、日本に永久帰国するといった最悪のケースは免れることができた。しかし、私もAさんも弁護士に支払った大金は戻ってはこなかったし、事件から1年半が経過した今でも払い損したままである。

 S新聞社での私の仕事は、新事業に必要なパソコン機材のセットアップや、ネットワークの設定などであった(M室長のアパートにある個人使用パソコンのセットアップまでした)。しかし、私が無料で働いていた期間に、目的の機材やソフトを含むすべての構築は終了し、新事業に支障が無い状態に仕上がっていた。

 M室長にとって、すでに私は不要の人材となっていたのに気づかされたのはこのときであった。

その6に続く。


12/14/98

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第6話」

 M室長の言い分はこうであった。
「S新聞社のアメリカでの本局はニューヨークにある。つまりここがすべての決定権を持っている。ここが就労ビザのスポンサーとなって現地で社員を雇用することは認めておらず、すでに就労ビザを持っている人以外は雇うことは出来ない」
というのである。

 ここで再び横道に逸れるが、この、
「就労ビザをすでに持っている人以外は雇えない」
というのは、これ自体に大きな間違いがある。この間違った認識は、アメリカにある多くの日本企業が持っている事なのでここに記しておきたい。

 「就労ビザ」とは、スポンサーとなった会社、つまり、雇った会社がアメリカの移民局に申請して発行してもらうビザである。よって、この会社が雇った人間を解雇した場合、もしくはその人が退社した場合、同時に就労ビザは失効してしまうのである。就労ビザでアメリカに滞在して働くときには、就労ビザのスポンサーとなった会社以外での就労は出来ないのである。つまり事実上、
「すでに就労ビザを所持していて職のない人」
などというのは存在せず、仮に就労ビザで滞在し、他の企業で働いている人を引き抜いて雇う場合には、新たに雇う会社が就労ビザの申請をしなければならないことになっている。であるから、
「就労ビザをすでに持っている人以外は雇えない」
などということが、いかにトンチンカンな認識であるかがわかる。

 話を本題に戻す。
 私は例外を認めるように、ニューヨークの本局に掛け合ってもらうようにM室長に執拗にお願いした。しかし、
「聞いてみるよ〜」
などと言っておきながら本当にニューヨークに問い合わせたのかどうかも怪しいものであったが、答えは、
「やっぱり駄目だって」
であった。

 アメリカで長く暮らし、これから先、アメリカに永住したいと考えている人にとって、ビザが切れて日本に帰国せざるをえない状況に陥るということがどういうことなのか、お分かりいただけるであろうか。そこには、その立場に立たされた人間にしか分からない、辛い痛みが存在する。

 それは、日本でずっと育ち、日本でずっと暮していくつもりである人が、ある日、日本政府から、
「あなたはもうこの国には住めません。どこか外国に出ていって下さい」
と言われるようなものなのだ。誰だって途方に暮れるだろうと思う。
故に、アメリカに残ることを切望している弱い立場の人間を、騙して利用するなどといった今回のこの行為は、とても許すことが出来なかった。

 しかし、なおも私の弱い立場は変わらなかった。
 これまで働いた分のお金だけでも取り返さなければならないし、DCにおける狭い日本人社会で、コンサルタントとしての私の評判を落すわけにもいかなかった。そういった事情やしがらみ等を考えると、M室長との決定的な喧嘩をすることも出来なかったし、ニューヨークのS新聞社本局や、日本の本社に訴え出ることもできなかった。私が怒りに我を忘れるような行為に出れば、それは向こうの思う壷になってしまう。巨大な組織に対して、個人は絶対に勝てないようになっている。己に何も失う物がなければ私はそうしただろう。しかし、6年もの間にアメリカで築いた様々な物は、私にとって失うには大きすぎた。

 外は8月になっており、DCの暑い夏が盛りをむかえていた。
私のアメリカに滞在出来る期間はどんどん少なくなっていった。
プラクティカル・トレーニング・ビザが切れたのが3月末日。
すると、私は9月末までに出国しないと半年間以上の不法滞在をしたことになってしまう。
(申請中はビザが無くても合法的に滞在が許されていたけれど、ビザ取得に失敗した場合は即不法滞在扱いになってしまうため。この時点では、まだ再申請の結果は来ていなかった)

 共和党が過半数を超え、アメリカ議会が保守的になったと同時に、アメリカに滞在している外国人に対する移民法も厳しくなっていた。丁度この年の4月に更に厳しい条文が追加され、
「半年以上の不法滞在はむこう3年間の入国禁止、1年以上の不法滞在は10年間の入国禁止」
となっていた。私の場合、9月末までに出国しないと、以後3年間はアメリカに入れなくなってしまう。私に残された時間はあと一ヶ月半しかなかった。

 食欲もなく、極度の不眠症になっていた。こんなときにはやはり明るい方向に気持ちが向くわけはない。部屋にこもっているだけで滞在できる日数は減っていき、その分ストレスだけが増大していった。少しでも気が晴れるように、私は一日に二度三度と風呂に入った。風呂と言ってもシャワーがメインのバスタブだから、出来るだけお湯を溜めてそこに寝ても、胸がお湯の下に浸かることはない。
「アメリカ式のバスタブにも馴染めない君が、この国を追い出されるのは運命みたいなものだよ」
と、バスタブにまで愛想をつかされたように思われた。

 私は人生をおくる場だけでなく、人生そのものに対する意欲をも失いつつあった。

その7に続く。


12/17/98

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第7話」

 「万策尽きた」とはこのことだった。
 もう私には、「アメリカに合法的に残って就労することの出来る手段」は何一つ残ってはいなかった。アメリカでの人生を諦め、日本に帰ることしか道は残されていなかった。そして、日本で私を待ち受けているものは、きっと明るく楽しいものでないことは明らかだった。

 自分の意志や意向とは関係なく、住み慣れた国を追い出されることになる。私の心の中は、敗北感や惨めさでいっぱいだった。

 8月も終わりに近づいていたが、DCはまだ暑かった。
 その日も眠れない長い夜を過ごしていた。
私は机に向かって一晩中ぼんやりと愛用のマッキントッシュで、インターネットのWEBページをあてどもなくブラウズしていた。

 夜中の1時半だった。いきなりモデムが電話回線を切った。次の瞬間、机の上の電話が鳴った。

 通常、こんな時間に電話がかかってくることはない。あるとすれば、それはいつだって悪い知らせだ。嫌な予感がどうしてもよぎる。

 受話器を取って、
「ハロー?」
と怪訝そうな声で聞く。
「あ、お兄ちゃん?」
と、日本の実家に住んでいる弟の声がした。弟はシカゴの大学を卒業後、日本の国立大学の大学院に進学していた。
「どうしたの?こんな時間に」
と聞くと、弟は、
「あのさ、移民局から何かメールがきているよ」。

 私はその言葉をぼんやりと聞いた。そして次の瞬間、頭の中で何かが弾けた。
この数ヶ月間のどんよりとした嫌な精神状態からいきなり覚醒した。
「なにっ!!何て書いてある!!開けろっ!!」
私は叫んでいた。そして、弟の次の言葉が、私のこれからの人生を180度変えることになった。

 私の興奮をよそに、弟はゆっくりと言った。
「あのね、『コングラッチュレーションズ』って書いてあるよ。」

 私は座っていた椅子から飛び上がるようにして立ち上がり、
「当たった!!」
と叫んでいた。

 誰も予想もしていなかった一発大逆転の瞬間だった。
私はグリーンカード、つまり、アメリカ永住権の抽選に当選していたのだ。
喉の奥の方と、受話器を持つ左手が震えていた。

 アメリカ政府は、毎年5万5千人(変化する)を対象に、抽選で通称「グリーンカード」と呼ばれる米国永住権を与える制度を持っている。
「今年でこの抽選制度は最後となる」
などと毎年のように言われていたが、私が留学してから8年間、止むことなく行われていた。当然、すでにアメリカに住んでいる外国人を含む世界中から応募が殺到し、その数は毎年数百万人にも及ぶ。「アジア地区」には中東までが含まれているので範囲は広く、人口も多い。割り当てられた人数を考えると、アジア地区は激戦区で、倍率は150倍から200倍にもなる。

 応募してきた書類は移民局のコンピュータにデータとして打ち込まれ、抽選はそのコンピュータがランダムに選び出して決められる。応募は一人一通に限定され、複数の応募は許されない(以前は一人につきどれだけ出しても良い時や、早い者勝ちの時代もあった)。

 私は毎年、自分と友人達の分の応募書類を自分で作成して応募していた。応募を代行する業者も増えていたが、名前と住所など、たった数行を書いて普通郵便で郵送するだけの作業に、高いお金を取る業者に頼る気になれなかった。

 私のこれまでの人生は、懸賞などの「抽選」と名のつくことに対しては、まるで運のない人生であった。私の人生はそういうものだと思っていた。だから、永住権の抽選にしても、「出さなければ当たることはないのだから」と言ったところで、本当に当たるなどとは思わないで出し続けていた。

 この年は、私がいつまでこのアパートに住んでいられるかどうか分からない状況だったので、日本の実家の住所で抽選に応募していた。そして、当選の通知がその日本の実家に郵送されていたのだ。

 郵送途中の紛失事故に備えてその書類のコピーをすべて取ってから、すぐに私のアパートに保険つきの速達で送ってくれるように頼んで電話を切った。

 これまで眠れない日々が続いていたが、この日は別の意味で眠れない夜となった。

その8に続く。


12/23/98

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第8話」

 無事に到着するかどうか気をもんでいた書類が日本から届いた。
確かに「Congratulations」と書かれている書類を手に、だらしなく顔が緩む。

 注意しなくてはならないのは、当選を知らせる「Congratulations」と書かれたその下に、
「この通知は、永住権を取得できることを保障するものではありません」
と書かれていることだった。つまり、抽選に当選はしたけれど、これからその申請手続きが必要で、その間に書類の不備や不適切な人物であることが発覚した場合は、永住権を発行されないのであった。この時点では、私は永住権申請の「権利」を当てただけなのである。

 お世話になっているニューヨークの弁護士事務所に電話をして、永住権当選の報告をした。担当の日本人女性は何度も「よかったですねえ」と喜んでくれた。同時に、ここでしくじっては何にもならないので、移民法専門のプロであるこの弁護士事務所に永住権申請手続のお願いすることにした。

 ここで例によって脱線するが、
「アメリカの永住権を抽選で当てませんか?」
などといううたい文句で多くの業者が抽選の応募書類作成代行を行っているが、当たったところでアメリカできちんと職を得られることが証明できない人は、せっかく当選しても永住権は発行されない。アメリカにしてみれば、
「ちゃんと就職をして、アメリカに税金を納めない人はいらないよ」
ということである。また、遊び半分に業者任せで抽選に応募して当選してしまい、その後アメリカで働く気もないのでそれを放棄した日本人もいる。こんなのは論外で、本当に永住権を必要としている人にしてみればとんでもない話である。ぜひ止めてもらいたい。

 話をもとに戻す。
当選番号を見ると、私のナンバーは「9千番台後半」であった。もうあと数十人で「1万」になる。この数字を弁護士事務所に伝えると、
「ちょっと心配だけれど、何とかいけそうな数字です」
という返事が返ってきて驚いた。

 弁護士の話によると、5万5千人に当たると言っても、当選した人に家族がいた場合は、その家族の人数分も同時に申請することが出来るため(またそうする人が殆ど)、1人に当選通知が行っても、実際に永住権を取得するのは家族分の4人であったりする。これからいくと、ひとつの当選番号ですでに4人分の永住権が発行されてしまうことになる。であるから、たとえ当選しても、申請手続が遅れた場合、定員の最後の数千人の席を争っている状態などでは、数字の若い人が優先され、数字の大きな人は永住権が取得できないケースもあるのだという。つまり、この当選番号が大きくなればなるほど、申請しても取得できない可能性が高くなるのだ。

 私の当選番号は、この「危ない境界線」からやや安全圏に入ったあたりの数字らしかった。弁護士は、
「抽選に当選した人の受付けが開始される10月1日に、すぐに移民局に申請が出来るように書類作成を急いだほうがいい」
と言ってくれた。

 私の永住権取得までには、まだ多くの時間と労力が必要だった。
そして、あまり笑えないエピソードも・・・。
(これには、あのM室長の悲しい末路が含まれている)

その9に続く。


12/28/98

■ビザ取得までの長くて辛いお話:「第9話」

 書類での申請手続きが終わり、あとは日本にあるアメリカ大使館での面接を待つだけである。この面接に問題がなければ、永住権が即日発行となる。本物のカードそのものが郵送されてくるのはこれからさらに2〜3ヶ月先のことになるが、パスポートに永住権保持者であることのスタンプが押される。

「この面接までこぎつければ、ほぼグリーンカード取得は大丈夫」
と言われている。
私は面接の日程の知らせを心待ちにしていた。

 ここまで多くの困難があった。実物のグリーンカードを手にするまで、何も信じられはしなかったし、安心など出来なかった。
「また何かに騙されているんじゃないだろか・・・」
という不安はいつまでたってもぬけなかった。

 年が明けて、2月に入ったある日、弁護士から4月10日に面接が決定されたことを聞かされた。

 面接の日付は選ぶことができない。
「この日に来なさい」
と言われたら、たとえどんな事があってもその日に行かねばならない。私は面接の3週間前に日本に帰り、過去の犯罪歴の無いことを証明する手続き(いわゆる「犯罪証明」)や、身体検査などをしなければならなかった。

 日本で最初にすることは、警察署に行って指紋をとって、過去に犯罪歴がないことを証明する書類を作成してもらうことだった。

 私は横浜の関内にある神奈川県警本部に行った。さすがに本部だけあって、警備も厳重で雰囲気は重くて硬い。テロ対策のためなのか、門の守衛さんに訪問目的を聞かれ、更に一階の受付けで目的内容を書かされた。

 無機質で冷たい感じのする、暗い金属壁のエレベーターに乗り、指示されたその部屋に行ってみると、およそ警察署とは不釣り合いな、可愛らしい女性が受付けに座っていて気が楽になった。先程までの重々しい雰囲気とは打って変わって、
「本当にこんなに可愛い女性が警察署にいていいのか」
などと、警察署に対するかなり偏見に満ちた感想を持った程だった。

 私が目的を告げると、その女性はとても可愛らしい声と笑顔で、親切に書類作成の手順や用紙の書き方を教えてくれた。
「(証明書発行の)目的は何ですか?」
と聞かれ、
「アメリカ永住のためです」
と、誇らし気に答えたときには、なんだかちょっと自分が格好良く、別に偉いわけでも何でもないのだが、エリート意識のようなものが芽生えているのが分かった。

 次に、いよいよ指紋の押捺である。どうやって指紋をとるのかと思っていると、部屋の奥から、絶対に柔道3段以上は保持していると思われる、大柄で強面のおじさんが出てきた。そのおじさんを見上げながら、私は「美女と野獣」を想像していた。そして、私の指紋をとるのは、この「野獣」の方だったのだ。

 そのおじさんが、黒インクを染み込ませた手の平程はあろうかという巨大なスタンプ台(朱肉のような円形の)を持ってきた。よく、お相撲さんが手形を色紙に押していく作業に使うような感じの物で、インクが赤ではなく黒だという違いだ。専用の用紙を目の前に置き、私は恐る恐るそのスタンプ台に指を乗せようとした。すると、おじさんの巨大な手が私の手首を「ガシッ」と鷲掴みにした。規則上、この作業は当人にはやらせてもらえないらしく、このおじさんが私の10本の指をいちいち掴んで、一本一本すべてをグリグリと転がすようにしながら、シッカリと指全体の指紋を採っていくのであった。

「ちょっと下がって腕を伸ばして、手の力を抜いて」
と、何だか怒ったような声で命令する。そうなると私の身体はそれとは逆の方向に向かう。身体は自然と強張り、指が硬直している。私が力を抜いて、なすがままになっていないと、おじさんはとても指紋がとりにくい。それは分かる。しかし、この状況で私はどうしても手の力が脱けなかったのだ。他人の「なすがままになる」ということが、こんなに苦痛で難しいものだとは思わなかった。おじさんは二度にわたって、
「おら、手の力を抜いて!」
と、必要以上に低く大きな声で叱った。こうなると、気の弱いコソ泥が取り調べ室で刑事の拷問に遭っているように見える。横に座っている受付けの女の子が、この泣きそうな顔をした情けない私を笑った気がした。

 何も悪いことなどしていないのに(原付きの免停以外)、こんなおじさんに手と指を痛い程つかまれて10本全部の指紋を採取されるなど、これは自分でも意外なほど屈辱感を味わった出来事だった。精神的に強姦されたような気分になる。日本における外国人登録のための指紋押捺制度を廃止しようという運動が理解できた気がした。これは、人間の「尊厳」に関る問題であるのだ。私は規則上、制度上、致し方なかったのだと自分を納得させようとしたのだが、心の中にわだかまる、モヤモヤとした気持ちの悪さと屈辱感によって、とても不機嫌になって警察署を後にした。

 そして次に待っていたのは病院での身体検査であった。
 もちろん、ここでも気の滅入る出来事がきちんと用意されていた。

その10に続く



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