AD物語III 第10話 「竹丸、散る」



 「こないね。」
 「こないですね。」

 あれはそう、大学を卒業して、「フリーディレクター宣言」をした年だから、  多分、1993年のことだった・・・。  新人AD・ディレクターのお仕事と言えば、  入中(いりちゅう)という、中継のお仕事がメインなのだが、  このボクも、入り中のお仕事をたくさんいただいていた。  そんな入中のお仕事の1つに、  「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」という番組の中継コーナーがあった。  ボクが担当していたのは、毎週水曜日のコーナー。  担当していたレポーターは、落語家の桂竹丸さん。  有名タレントさんに中継地に来てもらって、イスを2つ並べてトーク。  中継地は、タレントさんが新人時代にバイトしていた店だったり、想い出の公園だったり。  出演タレントの方も、小林幸子さん、松原のぶえさん、角川博さん、等々・・・、  ホントに大物の方々ばかりであった。  あまりにも大物ばかりなので、新人のボクは毎回毎回ドキドキ。  中継地の許可は取れているのか・・・、  ファンが集まってパニックになったりしないだろうか・・・、  中継中にお巡りさんが来ちゃったらどうしよう・・・、  電波はちゃんと飛ぶのだろうか・・・、  心配のタネは尽きない。  中でも、一番の心配のタネは、  レポーターの竹丸さんの遅刻。
 竹丸師匠(当時はまだ『二ツ目』。のちに『真打ち』に昇進。ここでは『師匠』と呼ばせていただく)は、  ものすごく気をつかう方なのです。  中継コーナーでも、ゲストの方に、  「お茶、いかがですか?」  「寒くないですか?」  「座布団お使いになりますか?」  ・・・と、気をつかい続ける。  根本的にぼんやりしているボクでは、とうてい太刀打ちできない気のつかいようである。  そんな竹丸師匠の気づかいは、夜の席でも炸裂する。  スタッフみんなでお酒を飲みに行くと、誰よりもこまめに動くのが竹丸師匠。  あの人のお酒は足りているか、おつまみが少なくなってないか、気を配る。  そして、番組の偉い人なんかが、  「2軒目行くゾ!」  ・・・なんてなると、  「はいはい、行きましょう。」  ・・・と率先して付いていくのが竹丸師匠。もちろん、  「3軒目行くゾ!」  ・・・となれば、  「もちろんでございます。はいはい、行きましょう。」  ・・・となるのが竹丸師匠。  偉い人も帰ったあと、今度は、若い者にも気をつかう。  「もう1軒、行こうか。飲ませてやるよ。」  ・・・的に。  これすなわち、気をつかうあまり、朝まで飲んでいることになり。  深酒にもなるわけで。  火曜日の夜に飲みに行っちゃったりすると、  水曜日の中継コーナーは、お昼12時から。  待てど暮らせど、竹丸師匠が来ない・・・という事態になる。  中継地に来たのはいいものの、  前日のあまりの深酒で、酒が抜けておらず、  中継時間までの間、電信柱にしがみついたまま、吐き続けるなんてコトも何度かあった。  ま、それでも、中継時間には間に合っていたので、  そのへんはプロと言えば、プロなのだが・・・。
 「こないね。」  「こないですね。」  ここは上野の鰻(うなぎ)屋さん。  今日のゲストは、「森田公一とトップギャラン」でおなじみの、  もしくは、最近だと、「青雲」のCMソングでおなじみの、  森田公一さん。  中継時間は、刻々と迫っているのだが、竹丸師匠は登場せず。  『夕べ飲んだな・・・。』  そんなことを思いながら、目の前の森田公一氏と会話をつなぐ。  つなごう・・・とはするのだが、  話が続かない。  会話のきっかけが全然つかめない。  これが公園とかからの中継なら、ラジオカーのドライバーさんも現場にいて、  何とか、2人がかりで話をつなぐこともできようが、  あいにく今日はお店の中から。ドライバーさんはラジオカーの中。  しかもご丁寧に、個室。  さらに、森田公一氏のマネージャーさんもいらしていないため、  部屋の中は、ボクと森田氏の2人きり。  さっきから重い沈黙が流れている。  何故、ここが思い出の場所なのかも聞いちゃったし、  鰻に関するうんちく話も聞いちゃった。  お茶のおかわりは、なんて話もしちゃったし、  高田文夫先生とのつながりは、なんてのももちろん聞いた。  どの話も、ボクの土俵ではないため、すぐに終わってしまう。  どうしよう。  竹丸師匠、早く来ないかなー。  ・・・。  待てよ?  高田文夫先生とのつながり?  さっきは仕事上の話しかしなかったけど、  確か・・・。  いや、間違いない。  ボクの記憶が確かなら・・・。  「あの〜、森田公一さんて、たしか、日芸では・・?」  「あー、そうだよ。高田文夫さんも日芸だよね。」  「そうです、そうです。ボクも、日芸なんですよ。」  日芸とは、もちろん、日本大学芸術学部のことである。  日本大学芸術学部と中央大学法学部の出身者は、  大学名を聞かれると、必ず、学部名まで答えるという。  聞いちゃいないのに。  「そ〜か〜、キミも江古田かぁ。」  「そうなんですよ。ボクらの代から、1・2年生は、所沢校舎になっちゃいましたけど。」  「え? そうなの?」  「もう、通うの大変ですよ。ははは。」  「そうかぁ。江古田の方の校舎も変わっちゃったんだろうねぇ。」  「そうですねぇ。森田さんが通ってらした頃とは違うかもしれませんねぇ。」  「昔は、中庭にプールがあってねぇ・・・。」  「え? そうなんですか? 今の学食あたり・・かな?」  話は、あとからあとから湧いて出る。  良かった・・・。  なんとか、中継時間まで、話をつなげそうだ。  このときほど、日芸出身であったことを感謝したことはなかった。  中継時間になり、  スタジオの高田先生と、鰻屋の森田氏が、  レポーター無しで直接話すという変則型ではあったが、  やはり、日芸出身という会話が盛り上がっていた。
 中継時間が終わり、  森田公一氏と、ラジオカーのドライバーさんと、ボク、  3人で、楽しく鰻を食べながら、会話。  すると、そこへ・・・。  「遅れまして、申し訳ございません。」と、竹丸師匠、土下座で登場。  あ、忘れてた。
 続く  2001/02/27

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