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通俗三國志 卷之壹


(『通俗三國志』 15冊 信濃出版會社 1884.11.日付ナシ)
※ 原文の仮名遣いは正格ではないが、なるべく原文に従い、無い箇所は補った。
画像は有朋堂文庫のものを用いた。
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祭(まつ)リテ二天地(てんち)ヲ一、桃園(たうゑん)ニ結(むす)ブレ義(ぎ)ヲ

熟(つら/\)邦家(はうか)の興廢(かうはい)を視(み)るに、古(いにしへ)より今(いま)に至(いた)るまで治(ち)極(きは)マルトキハ則(すなはち)入(い)ルレ乱(らん)ニ、乱(らん)極(きは)マルトキハ則(すなはち)入(い)ルレ治(ち)ニ。その理(り)、陰陽(いんよう)の消長(せうちやう)・寒暑(かんしよ)の往來(わうらい)せるが如(ごと)し。此(こ)ノ故(ゆゑ)に、人君(じんくん)小(せ)ムルレ心ヲこと兢々業々(けう/\げう/\)として須臾(しばらく)も敢(あへ)て不(ず)レ忘(わす)レレ焉(これ)ヲ、堯舜(げうしゆん)モ猶(なを)病(や)メリ矣とす。况(いわん)や傭人(ようじん)をや。
漢(かん)の高祖(かうそ)三尺(さんじやく)の劍(けん)ヲ提(ひっさげ)て秦(しん)の乱(らん)を平(たひら)げ玉(たま)ひしより哀帝(あいてい)の御時(おんとき)まで二百余年(にひやくよねん)、天下(てんか)よく治(をさま)りしに、王莽(わうもう)漫(みだり)に位(くらゐ)を簒(うばふ)て海宇(かいう)大(おほい)に乱(みだ)る。
然(しか)るを光武(くわうぶ)これを平(たひら)げて後漢(ごかん)の世(よ)を興(をこ)し玉(たま)ひ、質帝(しつてい)・桓帝(くわんてい)の御時(おんとき)まで已(すで)に二百年(にひやくねん)に及(およ)べり。
光武帝(くわうぶてい)より十二代(じふにだい)の天子(てんし)を靈帝(れいてい)と申(まうし)奉(たてまつ)る。桓帝(かんてい)の讓(ゆづり)を受(うけ)て、御年(おんとし)十二歳(じふにさい)にて帝位(ていゐ)に即(つき)玉(たま)ふ。此時(このとき)大將軍(たいしやうぐん)竇武(とうぶ)・太傅(たいふ)陳蕃(ちんばん)・司徒(しと)胡廣(こくわう)三人(さんにん)相共(あひとも)に天下(てんか)の政務(せいむ)を攝(つかさどり)て君(きみ)を輔佐(ほさ)し奉(たてまつ)る。其(その)のち内官(ないくわん)に曹節(さうせつ)・王甫(わうほ)と云(い)ふものあり。諂佞(てんねい)にして君(きみ)を欺(あざむ)き、漫(みだり)に權柄(けんぺい)を專(もつぱら)にせしかば、竇武(とうぶ)・陳蕃(ちんばん)これを誅(ちう)せんとして計(はかりごと)洩(もれ)聞(きこ)へ、反(かへり)て其身(そのみ)を害(がい)せらる。此(これ)より内官(ないくわん)いよ/\志(こゝろざし)を得(え)て放(ほしひまゝ)に朝綱(ちやうこう)を手(て)に握(にぎ)れり。
建寧(けんねい)二年(にねん)(*169年)四月十五日、帝(みかど)温�コ殿(うんとくでん)に出御(しゆつぎよ)なりて已(すで)に御座(ぎよざ)に着(つか)んとし玉(たま)ふ時(とき)、俄(にわか)に殿角(でんかく)より狂風(けうふう)をこりて、其(その)長(たけ)二十余丈(よぢやう)の��蛇(せいじや)梁(うつばり)の上(うへ)より飛下(とびくだ)りて椅子(いす)の上に蟠(わだかま)りければ、帝大(おほい)に驚(をどろか)せ玉(たま)ひ、地(ち)の上(うへ)に昏倒(こんとう)し玉(たま)ふ。殿中(でんちう)の騷動(そうどう)斜(なゝめ)ならず、百官(ひやつくわん)みな上(うへ)を下(した)へ反(かゑ)して武士(ぶし)を召(め)してこれを拽(ひき)出(いだ)さんとするに、大蛇(だいじや)は消(けす)が如(ごと)くに失(うせ)て、雷(いかづち)の鳴(なる)こと天地(てんち)を碎(くだく)が如(ごと)く、雹(あられ)まじりの大雨(たいう)夜半(やはん)に至(いたり)て靜(しづ)まり、洛陽(らくよう)城中(じやうちう)の民家(みんか)數千間(すうせんげん)崩(くづ)れ破(やぶ)れて死(し)する者も多(おほ)かりけり。これをこそ希代(きだい)の珍事(ちんじ)かなと怪(あやし)む所(ところ)に、同(おなじ)き四年の二月に洛陽(らくよう)夥(をびたゞ)しく地震(ぢしん)して、禁門(きんもん)省垣(せいゑん)こと/〃\く倒(たほ)れ、海水(かいすい)溢(あふ)れ湧(わい)て、登(とう)・萊(らい)・沂(き)・密(みつ)の海ちかき國(くに)は人家(じんか)みな大波(おほなみ)に捲(まか)れて百姓(ひやくせい)死(し)する者(もの)數(かず)を知(し)らず。
是(これ)直事(たゞごと)にあらずとて改元(かいげん)ありて熹平(きへい)と号(がう)す。此(これ)より邊境(へんけう)より/\(*しばしば)謀反(むほん)する者あり。熹平(きへい)五年又(また)改(あらた)めて光和(くわうわ)と号(がう)す。�ゥ處(しよしよ)に怪異(けい)の事(こと)ありて、雌雞(しけい)化(け)して雄(ゆう)となる。
六月朔日(ついたち)、十余丈(じふよぢやう)の�K氣(こくき)地(ち)より起(おこり)て温�コ殿(うんとくでん)に入(い)る。秋七月、玉堂(ぎよくだう)の内(うち)に虹(にじ)あらわれて五原山(ごげんざん)の岸(きし)こと/〃\く崩(くづ)る。其外(そのほか)種々(しゆじゆ)の怪(あやしき)ことども數(かず)を知(し)らず起(おこ)りければ、是(これ)まことに一人(いちじん)の愼(つゝしみ)・天下(てんか)の大事(だいじ)ならんとて、勅(ちよく)して群臣(ぐんしん)を金商門(きんしやうもん)に集(あつ)め、災(わざわい)を除(のぞく)の術(じゆつ)を問(とひ)玉(たま)ふ時(とき)に、光祿(くわうろく)太夫(たいふ)楊賜(ようし)・議�カ(ぎらう)蔡邕(さいゆう)二人(ふたり)表(へう)を上(たてまつり)て申(まうし)けるは、近年(きんねん)打(うち)つゞき怪異(けい)の事共(ことども)起(をこ)り候(さうらふ)は皆(みな)是(これ)亡國(ぼうこく)の兆(きざし)なり。天(てん)なほ漢朝(かんてう)を捨(すて)ず、變(へん)を示(しめ)して君臣(くんしん)を戒(いましめ)玉(たま)ふ。古(いにしへ)より天子(てんし)見(み)ルトキハレ怪(くわい)ヲ則(すなは)チ修(をさ)ムレ�コ(とく)ヲと云(いへ)り。今(いま)内官(ないくわん)漫(みだり)に權(けん)を執(とり)て天下(てんか)の禍(わざわい)を成(な)す。早(はや)く之(これ)を除(のぞき)玉(たま)はゞ、天災(てんさい)自(おのづか)ら消(せう)すべしと密(ひそか)に奏聞(そうもん)しければ、其(そ)の事(こと)忽(たちまち)に洩(もれ)て楊賜(ようし)・蔡邕(さいゆう)等(ら)内官(ないくわん)の爲(ため)に殺(ころ)されんとせしを、呂強(りよけう)と云(い)ふもの蔡邕(さいゆう)が才(さい)を惜(をし)み、命(いのち)を乞(こひ)て助(たすけ)てけり。
其後(そのゝち)内官(ないくわん)に張讓(ちやうぜう)・趙忠(ちようちう)・封諝(ほうしよ)・段珪(だんけい)・曹節(さうせつ)・候覽(こうらん)・蹇碩(けんせき)・程曠(ていくわう)・夏輝(かき)・郭勝(くわくしやう)と云(いふ)もの十人(じふにん)、みな君(きみ)に諂(へつら)ひ事(つかへ)て專(もつぱら)天下(てんか)の政(まつりごと)を掌(つかさど)る。此(この)ゆへに之(これ)を十常侍(じふぜうじ)と号(がう)して、朝廷(てうてい)敬(うやま)ひ重(おも)んずること師父(しふ)の如(ごと)く、�ゥ(もろ/\)の官人(くわんじん)その門下(もんか)に伺候(しこう)して阿(をもね)り服(ふく)せんことを欲(ほつ)す。
爰(こゝ)に中平(ちうへい)元年(ぐわんねん)(*184年)甲子(きのえね)の歳(とし)鉅鹿郡(きよろくぐん)に張角(ちやうかく)と云(いふ)ものあり。二人(ふたり)の弟(おとうと)を張梁(ちやうれう)・張寳(ちやうほう)と云(いへ)り。元來(ぐわんらい)不第(ふだい)の秀才(しうさい)たりけるが、或日(あるひ)山中(さんちう)に入(いり)て藥(くすり)を採(とり)、一人(ひとり)の翁(おきな)に逢(あふ)。この翁(おきな)眼(まなこ)の内(うち)碧(みどり)にして顔(かほ)は童子(どうじ)の如(ごと)く、手に藜(あかざ)の杖(つゑ)を携(たづさ)へ、張角(ちやうかく)を呼(よん)で怪(あやし)き洞(ほら)の中(うち)に到(いた)り、三卷(さんくわん)の書(しよ)を授(さづ)けて申(まうし)けるは、これを太平(たいへい)要術(ようじゆつ)と名(な)づく。汝(なんぢ)よく此(こ)ノ書(しよ)を讀(よみ)て、唯(たゞ)つねに道(みち)を行(おこな)ひて善(ぜん)を施(ほどこ)し、天(てん)に代(かは)りて普(あまね)く世(よ)の人(ひと)を救(すく)はんことを思(おも)へ。若(もし)惡心(あくしん)を起(おこ)しなば、必(かなら)ず身(み)を亡(ほろぼす)べきぞと云(い)ひければ、張角(ちやうかく)再拜(さいはい)して其名(そのな)を問(とふ)に、我(われ)は南華(なんくわ)老仙(らうせん)なりと答(こたへ)て、一陣(いちぢん)の風(かぜ)吹起(ふきおこ)り行方(ゆきがた)しらず飛去(とびさ)りにけり。張角(ちやうかく)この書(しよ)を讀(よみ)て晝夜(ちうや)怠(おこたら)ず學(まな)び、遂(つひ)に雨(あめ)を呼(よび)風(かぜ)を呼(よぶ)の術(じゆつ)を得(え)て、自(みづか)ら太平(たいへい)道人(だうじん)と号(がう)す。張角と南華老仙
其(その)ころ天下大(おほい)に疫癘(ゑきれい)行(おこな)はれて死する人多かりければ、張角あまねく符水(ふすい)を施(ほどこ)すに、驗(しるし)を得ずと云(いふ)ものなく盡(こと/〃\)く張角が座前(ざぜん)に來(き)て、自(みづか)ら其(その)過(とが)を讖悔(ざんげ)し、皆(みな)立(たち)どころに平伏(へいふく)(*平復)す。張角これより大賢良師(たいけんりやうし)と号(がう)し、五百余人(よにん)の弟子(ていし)を四方(しはう)に分(わかち)て病(やまひ)を救(すくは)しめ、三十六の方(はう)を立(たて)て大小(だいせう)を分(わか)ち、皆將軍(しやうぐん)の名を以(もつ)て方(はう)に名づく。此(この)ゆへに大方(たいはう)を行(をこなふ)もの一万余人(よにん)・小方(せうはう)を行(をこなふ)もの六七千人、みな一部(ほう)の長(ちやう)を立て、蒼天(さうてん)已(すで)ニ死ス、黄天(くわうてん)當(まさ)ニシ レ立ツ。歳(とし)在(あり)テ二甲子(かふし)ニ一、天下大吉(だいきち)と云(いひ)はやらせ、甲子(きのえね)の二字(じ)を書(かき)て遍(あまね)く施(ほどこし)與(あた)へ、郡縣(ぐんけん)・市鎭(しちん)・宮觀(きうくわん)・寺院(じゐん)こと/〃\く之(これ)を推(おさ)ずと云(い)フこと無(な)く、その後(のち)��州(せいしう)・幽(いう)州・徐(ぢよ)州・冀(き)州・荊(けい)州・楊(やう)州・兗(こん)州・豫(よ)州の間(かん)には、家々(いへ/\)に大賢良師(たいけんりやうし)張角と書(かき)て敬(うやま)ひ貴(たつとぶ)こと鬼�~(きしん)を禮(れい)するが如(ごとく)なりければ、張角心(こゝろ)の内(うち)に非分(ひぶん)の望(のぞみ)を發(をこ)し、先(まづ)大方(たいはう)の馬元義(ばげんぎ)と云(いふ)ものに金銀(きんぎん)を持(もた)せ、禁裏(きんり)に入(いり)て密(ひそか)に十常侍(じふじやうじ)が心を結(むすば)しめ、封諝(ほうしよ)・徐奉(じよほう)等(ら)に内通(ないつう)のことを�ョ(たの)み、二人の弟張梁(りやう)・張寳(はう)を呼(よび)て申(まうし)けるは、至(いたつ)て得(え)がたきは民(たみ)の心なり。今民の心われに皈(き)す。若(もし)この時に乘(のつ)て天下を取(とら)ずんば、万人(ばんにん)の望(のぞみ)を失(うしな)はん。ねがはくは二人の本意(ほんい)を聞(きか)ん。張梁・張寳これ元(もと)より望(のぞむ)ところ也(なり)と云(いひ)ければ、張角大(おほひ)に喜(よろこ)び、一樣(いちやう)に黄(き)なる旗(はた)を造(つく)り、三月五日(いつか)に一同(いちどう)に事(こと)を起(をこさ)んとて、唐州(たうしう)と云(いふ)弟子(ていし)に書簡(しよかん)を持(もた)せ、禁裏(きんり)に入(いり)て内々(ない/\)たのみ置(おき)たる封諝(ほうしよ)・徐奉(じよほう)等(ら)に告知(つげしら)さしむるに、唐州(たうしう)にはかに心を變(へん)じ、直(たゞ)ちに奉行所(ぶぎやうしよ)に行(ゆき)て事の子細(しさい)を訴(うつた)へければ、帝大に驚き玉ひ、大將軍(たいしやうぐん)何進(かしん)に命(めい)じてまづ馬元義(ばげんぎ)を生取(いけどつ)て首(くび)を刎(はね)させ、内應(ないおう)せんとしたる者共(ものども)千余人(よにん)を獄(ごく)に下(くだ)し玉(たま)ふ。
張角事(こと)の現(あらは)れたるを見(み)て速(すみやか)に兵(へい)を興(おこ)し、自(みづか)ら天公(てんこう)將軍(しやうぐん)と号(がう)し、張梁(りやう)を地公(ちこう)將軍と号し、張寳(はう)を人公(じんこう)將軍と号し、百姓(ひやくせい)を集(あつ)めて申(まうし)けるは、今漢(かん)の運氣(うんき)すでに盡(つき)て大聖人(たいせいじん)世に出(いで)たり。汝等(なんぢら)宜(よろし)く天に順(したがう)て太平(たいへい)を樂(たのし)めと云(いひ)ければ、四方(しはう)の愚民(ぐみん)われも/\と來(きた)り集(あつま)り、皆(みな)黄(き)なる絹(きぬ)を以(もつ)て其(その)頭(かしら)を包(つゝみ)ければ、世(よ)の人(ひと)これを黄巾(くわうきん)の賊(ぞく)と号(がう)す。張角已(すで)に四五十萬(しごじふまん)の勢(せい)を得(え)て、在々所々(ざい/\しよ/\)に火(ひ)を放(はな)ち、人の財寳(ざいはう)を掠(かす)め取(とる)。これに依(より)て地頭(ぢとう)・官吏(くわんり)も防(ふせぐ)べき樣(やう)なく、盡(こと/〃\)く逃(にげ)かくれて其(その)騷動(さうどう)斜(なゝめ)ならず。
大將軍(たいしやうぐん)何進(かしん)これを誅(ちう)せんとて帝に奏(そう)し�ゥ所(しよしよ)の守護職(しゆごしよく)に命(めい)じて軍勢(ぐんぜい)を催促(さいそく)せしめ、廬植(ろしよく)・皇甫嵩(くわうほすう)・朱雋(しゆしゆん)三人を大將とし、三手(さんて)に分(わかち)て追討(つゐたう)せしむ。此時(このとき)張角が一軍(いちぐん)幽州(いうしう)・燕(えん)州の界(さかひ)を手痛(ていた)く犯(おか)しければ、大守(たいしゆ)劉焉(りうえん)これを防(ふせが)ん爲(ため)に校尉(かうゐ)鄒��(すうせい)と云(いふ)ものに命(めい)じ、�ゥ處(しよしよ)に高榜(たかふだ)を立(たて)て忠義(ちうぎ)の兵(つはもの)を集めしむ。
其(その)ころ涿縣(たくけん)の樓桑村(ろうそうそん)と云(いふ)ところに一人の英雄(えいゆう)あり。此人(このひと)つねに言少(ことすくなう)して禮(れい)を以(もつ)て人に下(くだ)り喜怒(きど)色(いろ)に形(あらは)さず、天下の名(な)ある人を友(とも)として其(その)志(こゝろざし)きはめて大(おほ)ひなり。身(み)の長(たけ)七尺(しちしやく)五寸(ごすん)、兩(ふたつ)の耳肩(かた)に垂(たれ)、左右(さいう)の手膝(ひざ)を過(す)ぐ。能(よ)く目を以(もつ)て其(その)耳を顧(かへりみ)る。
漢(かん)の中山(ちうざん)��王(せいわう)劉勝(りうせう)の後胤(こういん)にして景帝(けいてい)の玄孫(げんそん)なり。劉備(りうび)字(あざな)は玄�コ(げんとく)、父(ちゝ)を劉弘(りうこう)と云(いひ)しが幼(いとけなふ)して喪(うしない)しかば、母(はゝ)に事(つかへ)て孝(かう)を盡(つく)し、自(みづか)ら履(くつ)を售(うり)莚(むしろ)を織(おり)て家業(かげふ)とす。舍(いへ)の東南(たつみ)の方(かた)に大(おほい)なる桑(くは)の木(き)あり。高(たか)さ五丈(ごぢやう)あまりにして、遙(はるか)に望(のぞ)めば重々(てう/\)として車蓋(しやがい)の如(ごと)し。往來(わうらい)の人(ひと)この木を見(み)ては尋常(よのつね)にあらずと云(いふ)。李定(りてい)と云(い)フ人(ひと)これを見て、この舍(いへ)より必(かなら)ず貴人(きにん)を出(いだ)さんと云(い)へり。
時(とき)に年(とし)二十八歳(さい)なりけるが、天下に黄巾(くわうきん)の賊(ぞく)蜂起(はうき)して國々(くに/〃\)より忠義(ちうぎ)の士(し)を招(まね)くと聞(きゝ)て、自(みづか)ら出(いで)て州郡(しうぐん)に立(たて)たる高榜(たかふだ)を讀(よみ)長嘆(ちやうたん)して歸(かへら)んとするに、後(うしろ)より大(おほい)なる聲(こゑ)を揚(あげ)て大丈夫(だいぢやうふ)の士(し)國(くに)の爲(ため)に力(ちから)を出(いだ)さずして何(なに)ごとをか長嘆(ちやうたん)するぞと詞(ことば)を掛(かく)る者(もの)あり。
玄�コ(げんとく)後(うしろ)を屹(きつ)と見(み)れば、その人身(み)の長(たけ)八尺(はつしやく)、豹頭(へうとう)・環眼(くわんがん)・燕頷(ゑんがん)・虎鬚(こしゆ)、聲(こゑ)雷(いかづち)の如(ごと)く勢(いきほ)ひ奔馬(ほんば)に似(に)たり。乃(すなは)ち立回(たちかへり)てその名(な)を問(とへ)ば、答(こたへ)て曰(いはく)、某(それがし)は張飛(てうひ)字(あざな)は翼�コ(よくとく)と云(いふ)もの也(なり)。世々(よゝ)涿郡(たくぐん)に住居(ぢうきよ)して少(すこし)の田地(でんち)を持(もち)、酒(さけ)を賣(うり)猪(いのこ)を屠(ほふり)て家業(かげふ)とし、專(もつぱ)ら名(な)ある人と相交(あひまじは)る。今(いま)この處(ところ)を過(すぐ)るに、足下(そくか)の高榜(たかふだ)の下(もと)にて長嘆(ちやうたん)し玉(たま)ふを見る。是(これ)いかなる故(ゆゑ)ぞ。
玄�コ(げんとく)の曰(いはく)、われ今(いま)は流落(をちぶれ)たれども本(もと)は漢室(かんしつ)の宗族(そうぞく)にて劉備(りうび)字(あざな)は玄�コと云(いふ)もの也(なり)。近(ちか)ごろ黄巾(くわうきん)の賊(ぞく)しきりに州郡(しうぐん)を掠(かすめ)刧(をびやか)す。我(われ)これを平(たひら)げて社稷(しやしよく)を扶(たすけ)んと思(おも)へども、力(ちから)の足(たら)ざるを恨(うらむ)る也(なり)。張飛(てうひ)が曰(いはく)、よくも我心(わがこゝろ)に合(かな)へり。其義(そのぎ)ならば我(われ)に相從(あひしたが)ふ者(もの)四五人(しごにん)あり。共(とも)に志(こゝろざし)を合(あは)せて大義(たいぎ)の計略(けいりやく)を成(なさ)んとて、伴(ともなふ)て玄�コ(げんとく)の家(いへ)に來(きた)り酒(さけ)を飮(のん)で相議(あひぎ)する所(ところ)に又(また)一人(ひとり)の男(をとこ)きたり。一輛(いちれう)の車(くるま)を酒店(しゆてん)の門外(もんぐわい)に留(とゞ)め置(おき)、内(うち)に入(いり)て桑(くは)の木(き)の下(もと)に座(ざ)し家主(あるじ)を呼(よび)て酒(さけ)を買(かふ)。玄�コその体(てい)を見れば、身の長(たけ)九尺(きうしやく)五寸(ごすん)、髯(ひげ)の長(なが)さ一尺(いつしやく)八寸(はつすん)、面(おもて)は重棗(てうそう)の如(ごと)く唇(くちびる)は抹硃(まつしゆ)の如(ごと)し。丹鳳(たんぽう)の眼(まなこ)・臥蠶(ぐわさん)の眉(まゆ)、相貌(さうばう)堂々(だう/\)威風(いふう)凛々(りん/\)たりしかば、迎(むか)へ入(いれ)て名(な)を問(とふ)に、答(こたへ)て曰(いはく)、われは河東(かとう)解良(かいれう)の人(ひと)にて關��(くわんう)字(あざな)は雲長(うんちやう)、始(はじ)め壽長(じゆちやう)と云(いへ)り。先年(せんねん)�ク(さと)の豪雄(がうゆう)勢(いきほ)ひに依(より)て我(われ)を侮(あなどり)しゆへ、我(われ)之(これ)を殺(ころ)して江湖(かうこ)の間(かん)に遁(のが)れ流浪(るらう)すること五六年(ごろくねん)なり。今(いま)黄巾(くわうきん)の賊(ぞく)蜂起(ほうき)して國々(くに/〃\)の守護(しゆご)英雄(えいゆう)の士(し)を招(まね)く。我(われ)この故(ゆゑ)に來(きた)りたり。
玄�コ大(おほい)に喜(よろこ)び、我(わが)志(こゝろざし)の程(ほど)を詳(つまびらか)に語(かた)りければ、關��(くわんう)天(てん)の助(たすけ)なりと喜(よろこ)び、共(とも)に張飛(てうひ)が家(いへ)に行(ゆき)て義兵(ぎへい)を起(おこ)さんことを議(ぎ)し、三人の内(うち)に玄�コ(げんとく)年(とし)長(ちやう)じたればとて二人再拜(さいはい)して兄(あに)とす。張飛(てうひ)が曰(いはく)、わが宅(いへ)の後(うしろ)なる桃(もゝ)の園(その)幸(さいはひ)に花(はな)の盛(さかり)なり。明日(あす)白馬(はくば)を宰(きつ)て天(てん)を祭(まつ)り烏牛(うぎう)を殺(ころ)して地(ち)を祭(まつ)り、三人生死(せいし)の交(まじはり)を結(むす)ばんは如何(いか)に。玄�コ(げんとく)・關��(くわんう)しかるべしと。
同(おな)じ次(つぎ)の日(ひ)、桃(もゝ)の園(その)に出(いで)て金紙(きんし)銀箋(ぎんせん)を列(つら)ね、牛馬(ぎうば)を殺(ころ)して天地(てんち)を祭(まつ)り、共(とも)に再拜(さいはい)して誓(ちかつ)て曰(いはく)、いま此(この)三人姓氏(せいし)異(こと)なりと云(いへ)ども結(むす)んで兄弟(けいてい)となり、心を合(あは)せ力を恊(あは)せて漢室(かんしつ)を扶(たす)け、上(かみ)は國家(こくか)に報(はう)じ下(しも)は萬民(ばんみん)を救(すくふ)べし。同年(どうねん)同月(どうげつ)同日(どうじつ)に生(うまる)ることを望(のぞ)まず。願(ねがは)くは同年同月同日に死(しな)ん。皇天(くわうてん)后土(こうど)この心を照鑒(せうかん)し、若(もし)義(ぎ)に背(そむ)き恩(おん)を忘(わすれ)ば天人(てんじん)共(とも)に誅戮(ちうりく)すべしとて、祭(まつ)り了(をはり)て玄�コ(げんとく)を兄(あに)とし關��(くわんう)を次(つぎ)とし張飛(てうひ)を其次(そのつぎ)とし、共(とも)に玄�コの母を拜(はい)して、其後(そのゝち)�ク(さと)の内(うち)にて腕立(うでだて)する若者(わかもの)共(ども)を集(あつめ)、桃(もゝ)の園(その)にて酒宴(しゆえん)し、三百(さんびやく)余人(よにん)に及(およ)びければ、明日(あす)より旗(はた)を擧(あげ)んと議(ぎ)するに、馬(うま)一匹(いつぴき)も無(なけ)れば如何(いかゞ)せんと案(あん)ずる所(ところ)に、誰(たれ)とは知(しら)ず數十人(すじふにん)打(うち)つれて多(おほ)く馬(うま)を引(ひか)せたる人々(ひと/〃\)この處(ところ)へ向(むか)ひ來(く)ると申(まう)す。桃園の契
玄�コ(げんとく)の曰(いはく)、此(これ)天(てん)われを助(たすく)る也(なり)とて、共(とも)に出(いで)て之(これ)を見れば、中山(ちうざん)の大商人(おほあきびと)に張世平(ちやうせいへい)・蘇雙(そさう)と云(いふ)ものゝ二人(ににん)也(なり)。毎年(まいねん)北國(ほつこく)に行(ゆき)て馬(うま)を商(あきな)ひけるが、賊徒(ぞくと)路(みち)を塞(ふさい)で往來(わうらい)を惱(なやま)しけるゆへ空(むなし)く故郷(こきやう)に回(かへ)るなり。玄�コ迎(むか)へ入(いれ)て酒宴(しゆえん)をなし、逆賊(ぎやくぞく)を退治(たいぢ)して漢室(かんしつ)を助(たすく)るの由(よし)を語(かた)りければ、張世平(ちやうせいへい)・蘇雙(そさう)その志(こゝろざし)を感(かん)じ、駿馬(しゆんめ)五十匹(ごじつぴき)・金銀(きんぎん)五百兩(りやう)・鉄(てつ)一千斤(いつせんきん)を贈(おく)る。玄�コ(げんとく)これを受(うけ)て、良功(りやうこう)(*良巧)に二振(ふたふり)の劔(けん)を打(うた)せ、關��(くわんう)は重(おも)さ八十二斤(はちじふにきん)に��龍(せいりやう)の偃月刀(えんげつたう)を作(つく)り、冷艶鋸(れいえんきよ)と名(な)づく。張飛(てうひ)は一丈(いちぢやう)八尺(はつしやく)の蛇矛(じやぼう)を造(つく)りて、甲兜(よろいかぶと)までも一齊(いつせい)に備(そなは)りければ、さらば時(とき)を廻(めぐら)さず打立(うちたゝん)とて其勢(そのせい)五百餘騎(よき)にて幽州(いうしう)に到(いた)る。
大守(たいしゆ)劉焉(りうえん)大(おほい)に喜(よろこ)び、其(その)姓名(せいめい)を問(とふ)に漢室(かんしつ)の宗親(そうしん)なりとて家(いへ)の系��(けいしよ)を語(かた)られければ、劉焉(りうえん)甚(はなは)だ敬(うやま)ひ相親(あひしたし)むこと叔姪(しゆくてつ)の如(ごと)し。時(とき)に黄巾(くわうきん)の賊徒(ぞくと)大方(たいはう)程遠志(ていえんし)と云(いふ)もの五萬(ごまん)余騎(よき)にて涿郡(たくぐん)を犯(おか)しければ、太守(たいしゆ)劉焉(りうえん)乃(すなは)ち校尉(かうゐ)鄒��(すうせい)を太將(たいしやう)(*ママ)とし玄�コを先陣(せんぢん)として打向(うちむかつ)て戰(たたか)はしむ。
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劉玄�コ(りうげんとく)破(やぶ)ル二黄巾(くわうきん)ノ賊(ぞく)ヲ一

玄�コ五百余騎(よき)にて直(たゞ)ちに大興山(たいこうざん)の麓(ふもと)に推寄(をしよせ)ければ、賊軍(ぞくぐん)五萬(ごまん)余騎(よき)にて陣勢(ぢんせい)を張(はる)。玄�コは關��(くわんう)・張飛(てうひ)を左右(さいう)に備(そな)へ、反國(はんごく)の逆徒(ぎやくと)なんぞ早(はや)く降(くだ)らざると呼(よば)はりければ、賊(ぞく)の陣(ぢん)より副將(ふくせう)�ケ茂(とうも)と云(いふ)もの馬(うま)を飛(とば)して打(うつ)て蒐(かゝ)る。張飛眼(まなこ)を怒(いから)して虎髯(とらひげ)倒(さかさま)に竪(たて)、丈八(ぢやうはち)の矛(ほこ)を舞(まは)して出迎(いでむか)へ、只(たゞ)一合(いちがふ)にして�ケ茂(とうも)を馬より突落(つきおと)し首(くび)を取(とり)て徐々(しづ/\)と回(かへ)りければ、賊(ぞく)の大將(たいしやう)程遠志(ていえんし)大(おほい)に怒(いかり)て斬(きつ)て蒐(かゝ)る。關�窒アれを見(み)て八十二斤(はちじふにきん)の��龍刀(せいりようたう)を提(ひつさ)げ、馬を躍(をど)らせて出(いで)ければ、程遠志(ていえんし)その勢(いきほ)ひに畏(おそ)れ退(しりぞか)んとする所(ところ)を關��一刀(いつたう)に斬(きつ)て落(おと)す。賊軍(ぞくぐん)大將を討(うた)れて皆降人(かうにん)に出(いで)ければ、玄�コ打取(うちとり)たる首(くび)を路(みち)の岐(ちまた)に梟(かけ)させ、功(こう)を収(をさめ)て幽州(いうしう)に回(かへ)る。
大守(たいしゆ)劉焉(りうえん)喜(よろこん)で出(いで)むかへ、�ゥ軍(しよぐん)を厚(あつ)く賞(しやう)する所(ところ)に��州(せいしう)より早馬(はやうま)きたり、太守(たいしゆ)龔景(けうけい)急(きう)を告(つぐ)ると報(はう)じければ、大(おほい)に驚(おどろ)き牒文(てふぶん)を披(ひら)き見(み)るに、黄巾(くわうきん)の賊徒(ぞくと)城(しろ)を圍(かこん)で事(こと)すでに急(きう)なり。兵(へい)を興(おこ)して後攻(ごづめ)をせよと也(なり)。劉焉(りうえん)乃(すなは)ち玄�コを呼(よん)でいかゞせんと議(ぎ)するに、玄�コの曰(いはく)、某(それがし)ねがはくは行(ゆき)て救(すく)はん。劉焉(りうえん)大に喜び、鄒��(すうせい)に五千余騎(よき)を授(さづ)け、玄�コを先手(さきて)として��州(せいしう)を救(すくは)しむ。
玄�コの一軍(いちぐん)すでに賊(ぞく)の陣(ぢん)ちかく推(おし)よせ、其体(そのてい)を窺(うかゞひ)見(み)れば、盡(こと/〃\)く髪(かみ)を乱(みだ)して黄(き)なる絹(きぬ)にて額(ひたひ)をつゝみ、八卦(はつけ)の文(ぶん)を書(かき)て證(しるし)とし、救(すくひ)の來(く)るを見て引分(ひきわか)れて之(これ)を拒(ふせ)ぐ。玄�コ五百余騎(よき)にて入乱(いりみだ)れて戰(たゝか)へども、賊(ぞく)は目(め)に餘(あま)る大勢(たいぜい)にて新手(あらて)を入(いれ)かへ/\防(ふせ)ぎしかば、玄�コ戰(たゝか)ひ屈(くつ)して三十里(り)引退(ひきしりぞ)き、關�秩E張飛と相議(あひぎ)し、味方(みかた)寡(すくなふ)して勝(かつ)こと能(あた)はず、明日(あす)奇兵(きへい)を出(いだ)して賊(ぞく)を破(やぶ)らんとて、關�窒ノ千余騎(せんよき)を付(つけ)て山(やま)の左(ひだり)に伏(ふせ)をき、張飛に千余騎を付(つけ)て右(みぎ)に伏(ふせ)をき、皆(みな)金(かね)を鳴(なら)すを相圖(あひづ)と約(やく)し、次(つぎ)の日鄒��(すうせい)・玄�コ一手(ひとて)に成(なり)て推(おし)よせければ、賊(ぞく)の大勢(たいせい)潮(うしほ)の湧(わく)が如(ごと)クに競(きそ)ひ蒐(かゝ)り、喊(とき)の聲(こゑ)大(おほひ)に震(ふる)ふ。玄�コしばらく戰(たゝか)ふ体(てい)にて、詐(いつはり)て退(しりぞ)きければ、賊軍(ぞくぐん)急(きう)に追(おひ)きたる。既(すで)に山(やま)の邊(ほとり)に近(ちか)づき、玄�コの勢(せい)一度(いちど)に金(かね)を鳴(なら)しければ、左(ひだり)に關�秩A右(みぎ)に張飛、二手(ふたて)に分(わか)れて討(うつ)て出(いで)、三方(さんぱう)より取卷(とりまき)たり。賊軍(ぞくぐん)大に破(やぶ)れて四角(しかく)八方(はつぱう)に逃(にげ)ちりければ、玄�コ勢(いきほ)ひに乘(のり)て��州(せいしう)の城下(じやうか)に殺到(さつたう)す。城中(じやうちう)より之(これ)を見(み)て大守(たいしゆ)龔景(けうけい)門(もん)を開(ひらい)て打出(うちいで)ければ、賊軍前後(ぜんご)に度(ど)を失(うしな)ひ、右往左往(うわうさわう)に落失(おちうせ)て��州(せいしう)の圍(かこみ)忽(たちま)ちに解(とけ)にけり。
大守(たいしゆ)大(おほひ)に喜(よろこ)び、重(おも)く�ゥ軍(しよぐん)を賞(しやう)しければ、鄒��(すうせい)軍(ぐん)を収(をさ)めて幽州(いうしう)に回(かへ)らんとす。時(とき)に玄�コ申(まう)されけるは、近(ちか)ごろ中�カ將(ちうらうしやう)盧植(ろしよく)勅命(ちよくめい)を受(うけ)て賊(ぞく)の首將(しゆしやう)張角(ちやうかく)と廣宗(くわうそう)にて戰(たゝか)ふと聞(きけ)り。我(われ)昔(むか)し公孫瓚(こうそんさん)と共(とも)に盧植(ろしよく)を師(し)とせり。今(いま)ゆいて力(ちから)を合(あは)せ、共(とも)に賊を平(たひら)ぐべし。鄒��(すうせい)が曰(いはく)、某(それがし)いまだ主(しう)の命(めい)を受(うけ)ざれば輕々(かろ/〃\)しく行(ゆく)ことは叶(かなふ)まじ。足下(そくか)もし行(ゆき)玉(たま)はゞ、兵粮(ひやうらう)は心の儘(まゝ)にし玉(たま)へ。幽州(いうしう)の勢(せい)は某(それがし)こと/〃\く収(をさ)め回(かへ)らん。
玄�コこれに依(より)て手勢(てぜい)五百餘騎(よき)を引(ひき)て廣宗(くわうそう)に到(いた)り、盧植(ろしよく)に見(まみ)へて右(みぎ)の趣(おもむき)を語(かた)りければ、盧植大に喜び重(おも)く賞(しやう)して手下(てした)に留(とゞ)む。此時(このとき)賊の首將(しゆしやう)十五萬(まん)の勢(せい)にて廣宗(くわうそう)に屯(たむろ)し、官軍(くわんぐん)五萬(まん)の兵(へい)と日久(ひひさ)しく攻戰(せめたゝか)ひ、いまだ墓々(はか/〃\)しき勝負(せうぶ)も無(なか)りければ、盧植乃(すなは)ち玄�コに向(むかつ)て曰(いはく)、此所(こゝ)は賊軍みな要害(えうがい)に引(ひき)こもりたれば、急(きう)に勝負(しやうぶ)はあるべからず。今賊(ぞく)の弟(おとうと)張梁(りやう)・張寳(はう)二人穎川(えいせん)に在(あり)て官軍(くわんぐん)皇甫嵩(くわうほすう)・朱雋(しゆしゆん)と相戰(あひたゝか)ふ。今御邊(ごへん)に千餘騎(よき)の官軍(くわんぐん)を借(かす)べし。急(いそ)ぎ是(これ)より穎川(えいせん)に行(ゆき)て戰(たゝかひ)を扶(たすけ)玉(たま)へ。玄�コ乃(すなは)ち牒状(てふじやう)を請取(うけとり)、千五百餘騎(よき)にて穎川(えいせん)に向(むか)はる。
この時(とき)皇甫嵩(くわうほすう)・朱雋(しゆしゆん)は賊將(ぞくしやう)張梁(りやう)・張寳(はう)と挑(いど)み戰(たゝか)ふこと數度(すうど)に及(およ)び、賊の勢打負(うちまけ)て長社(ちやうしや)と云(いふ)ところに引退(ひきしりぞ)き、草木(さうもく)の深(ふか)き所(ところ)に陣(ぢん)を取(とり)ければ、皇甫嵩(くわうほすう)一手(いつて)の勢(せい)を忍(しのん)で敵(てき)の後(うしろ)に廻(まは)し、�ゥ軍(しよぐん)に投火把(なげたいまつ)を持(もた)せ、夜(よ)の二更(にかう)の頃(ころ)四方(しはう)より推(おし)よせて一度(いちど)に火(ひ)を掛(かけ)、喊(とき)を造(つくり)て攻(せめ)ければ、折(をり)ふし風(かぜ)急(きう)にして火焰天を焦(こが)し、賊の勢共(せいども)上(うへ)を下(した)へと騷(さわ)ぎ立(た)て、馬に鞍(くら)置(お)く隙(ひま)もなく、人は甲(よろひ)を被(き)るにも及(およ)ばず、十方(じつぱう)に散乱(さんらん)せり。
張梁・張寳這々のがれて走りければ、向ふより一彪の軍馬みな紅の旗を指て打出、眞先に進むは又これ一人の英雄、身の長七尺、細眼・長髯、膽量人に過、謀衆に超、つねに齊桓・晋文匡扶の才なきを笑ひ、趙高・王莽縱横の策少きを嘲り、兵法は呉子・孫子に劣ず。沛國譙郡の人に曹操字は孟�コ、小字を阿瞞と稱し、又吉利とも云り。乃ち漢の相國曹參より二十四代の後胤にして、大鴻臚曹嵩が嫡男也。官騎�キ尉に報ぜらる。今黄巾の賊を破んとて官軍五千餘騎にて馳きたり、路を塞ひて攻戰ひ、首を取こと一萬餘級、馬物の具を奪取、皇甫嵩・朱雋に見へ一手に成て逃る敵を追蒐る。
玄�コは此の時穎川に來り、賊の破たるを見て、入て皇甫嵩に見へ盧植が牒状を出しければ、皇甫嵩が曰、いま賊軍大に破れて走たれば、必ず廣宗に行て張角と一手に成べし。御邊早く馳皈り盧植に力を合せて怠ること勿れ。玄�コこれに因て又廣宗を指て引回す所に、向より二三百の兵共罪人を車に載て出きたる。玄�コたれやらんと怪み、近くなりて之を見れば乘たる罪人は中�カ將盧植なり。大に驚き馬より下て其ゆへを問ば、盧植涙を流して曰、われ久しく廣宗に在て張角を取圍み度々戰ひ勝けるが、張角あやしき術を成けるゆへいまだ盡く破り得ず。近ごろ黄門左豐と云もの勅使として來り、我に賂を與よと云しゆへ、我軍中には金銀乏して勅使に献るべき物候はずと答ふ。此に依て左豐深く我を恨み、帝に讒して枉て我を罪に落し、此の如く召捕て、董卓を大將として廣宗の賊を退治せしむ。張飛きゝもあへず大に怒り、守護の武士を殺して盧植を救んとひしめきければ、玄�コ急に止めて曰、これ天子の勅命なり。汝なんぞ躁しき。關�窒ェ曰、いま盧植官を罷らる。我等不(じ)レ如(し)カ涿郡に回るべし。玄�コこれに從ひ兵を引て進む所に、忽ち山の後に喊の聲きこへて、馬烟夥しく起りしかば、岡の上に登て之を望に、廣宗にて官軍戰ひ負ぬと覺へて、黄巾の軍勢天公將軍と書たる旗を先に進め、官軍を追蒐るなりければ、玄�コの曰、これは張角が勢なり、官軍を救ずんば叶まじとて、關�秩E張飛と馬の鼻を双べて討て出れば、張角が勢大に驚き、すはや敵の伏勢の蒐るは、後を塞れなとて我先にと引回しければ、玄�コいよ/\進んで賊の勢を四角八方へ打ちらし、五十里あまりぞ追蒐たる。
董卓は廣宗の戰に負て賊軍に追れけるが、誰とも知ず一手の勢打て出賊軍を蒐ちらしぬと報じければ、立回りて玄�コに對面し、禮了て今いかなる官職ぞと問。玄�コ官位なき由を荅られければ、董卓甚だ輕んじて了に恩賞をも與ず。張飛大に怒り、我等血を流して大敵を破り彼が辛き命を救たるに、假令恩賞こそ無とも、何とて芥の如に輕んずるぞ。我この賊を殺んとて矛を舞して入んとするを、關�昼}に引留め、玄�コ諫て申されけるは、彼は官高き朝廷の臣、殊に許多の軍馬を領す。我等もし之を殺さば、必ず謀反人と呼るべし。不(じ)レ如(し)カこの處に留るべからずとて、其夜兵を引具して朱雋が陣へ趣ける。
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安喜縣ニ張飛鞭ツ二督郵ヲ一


        
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