山口左馬助教継。 戸部新左衛門。 右衛門教房の子。 子は九郎次郎教吉。
山口氏は鳴海・笠寺一帯(現名古屋市南東部)を本拠とする土豪である。
系図によれば周防大内氏の一族孫太郎任世が尾張の地に住み着き、故郷の周防山口の地名をとり山口氏を
称したとある。 また一説には山口忌寸の裔ともいう。
孫太郎任世の嫡男修理進盛幸の家系は笠寺の城主を代々務めた。
左馬助教継は修理進盛幸の弟孫次郎教仲の孫にあたる。
左馬助教継は子の九郎次郎教吉とともに織田信秀のおぼえも良く、目を掛けられていた。
それが信秀の死後、信長に対して反旗を翻したのである。
当時の尾張の地は他国に侵略されたり奪回したりを繰り返してきた地である。
実際、信秀の在世には三河の松平氏が守山(現名古屋市北部)や蟹江(愛知県西部)にまで攻め込んで
きたりしているし、信長の育った那古屋城に至っては元々、駿河の今川氏の城であったのを信秀が策略にて奪い取ったものである。
鳴海・笠寺と言えば尾張の南東に位置し三河との国境に近い。
つまり、そういった他国からの侵入の際、真先に攻撃を受ける土地である。
ゆえに尾張をする者の技量が家の明暗を分けることにもなる。
大うつけ者と評判高い信長が織田家の惣領となった今、織田家の弱体は目に見えている。
尾張を支配できる者は尾張の地にあらず、三河の併呑に成功し駿遠三の三国を支配する今川氏に他ならない。
うつけの織田への忠誠を守り今川に滅ぼされるくらいなら、今のうちに今川に付こう。
評判通りの信長しか理解されていない当時とあっては当然の選択であろう。
鳴海城には九郎次郎教吉を置き、笠寺には葛山長嘉・岡部元信・三浦左馬助・飯尾連竜・浅井小四郎らの
駿河勢を入れ、自らは桜の中村城に立て籠もった。
天文二十二年(1555)四月、信長19歳の時のことである。
信長はこれを討つため800程の人数を揃え出陣し、教吉は1500の兵を従え赤塚へ迎え出た。
信長は19歳、教吉は20歳といい、ともに血気にはやった若き主将である。
5・6間の間を隔てて(30メートルぐらいか)弓を打ち合い、また槍を合わせた。
信長の将、あら川(荒川?)与十郎は額を射抜かれ落馬。
その首を取らんと山口方の兵が死体を引こうとする。 そうはさせじと織田方の兵が死体を掴む。
首、すねや刀まで互いに引き込みあい、なんとか信長方が引き勝った。
山口勢の将、萩原助十郎・中島又二郎・祖父江久介・横江孫八・水越助十郎など討ち取ったがこれは互いに
首を取ることも引くこともできず、据え置かれたままだったという。
信長方でも30騎、討ち取られている。
もともとは同じく織田信秀のもと戦を重ねてきた同僚である。
互いの手の内も知り尽くしているから、気も許せず、休むこともままならない。
いつしか陽は暮れ休戦となった。
あら川又蔵・赤川平七など互いに捕虜となった将兵を交換し、陣中へ紛れ込んだ敵の馬を戻し引き上げた。
五分と五分ということであろうが、反逆者を成敗しえなかった当主ということで信長の敗退とも言える。
その後、教継の調略によって大高・沓掛の城を奪われた。
この大高・沓掛が後の今川義元の尾張侵攻(桶狭間の戦い)の最前線基地となるのである。
だが、尾張侵攻の足がかりを作った功労者教継・教吉父子には過酷な運命が待っていた。
今川義元によって駿河に召された後、謀殺されてしまう。
信長の策略で、教継・教吉父子が織田方へ返り忠(再寝返り)を画策していると今川義元に匂わせた為と
いう。
また、同じように今川義元の家臣戸部新左衛門が信長の策略により義元に謀殺されたと伝わるが、この戸部
新左衛門は山口教継と同一人物だとも言われている。
尾張戸部城の城主愛智氏とは姻戚関係にあり、戸部氏を称したのだという。
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