「墓石と決闘」 Hour of the gun 1967年・アメリカ |
〇製作・監督:ジョン=スタージェス〇脚本:エドワード=アンハルト〇撮影:ルシアン=バラード〇音楽:ジェリー=ゴールドスミス |
ジェームズ=ガーナー(ワイアット・アープ)、ジェイソン=ロバーズ(ドク・ホリデイ)、ロバート=ライアン(アイク・クラントン)、フランク=コンヴァース(バージル)、サム=メルヴィル(モーガン)、ジョン=ボイト(カーリー=ビル)ほか |
先日に「OK牧場の決斗」を放送した流れからなのか、同じジョン=スタージェス監督による続編的存在「墓石と決闘」もNHKのBSシネマで放送してくれたので、久々に見た。こちらも「OK牧場」同様二度目の鑑賞だが、やっぱり内容をかなり忘れていた。 続編的存在、と書いたけど、厳密にいえばリメイク作品に近い。監督も主人公二人も敵役も同じ(さすがに俳優は全員違う)ながら、いわゆる「OKコラルの決闘」がこの映画では冒頭に持って来られていて、その後の事件の流れを描く内容なので「OK牧場の決斗」の後日談のようになってるから続編のように扱われるが、「OK」の決闘シーン自体がかなり異なり、単純な続編にはなっていない。そもそもスタージェス監督は「OK牧場」においてより史実に近い映画化を意図したが、娯楽映画であるためにそうはいかず、大いに不満を抱いていて、十年後に自らプロデュースしてより史実に近い形で事件を描く本作を製作したのだ。そこまでの執念の原因が何だかは分からないが、スタージェス監督なりの事件への思いレがあったのだろう。映画のオープニングで、わざわざ「この映画は事実に基づく」と掲示し、「これが本当の『OK決闘』なんだぞ」とアピールする監督の姿勢の表れだ。 ところでこの映画、邦題が「墓石と決闘」になってるが、原題は「Hour of thegun」で直訳すると「銃の時間」。英語のニュアンスを正確につかめる自信はないが、「狙撃の瞬間」とか「撃つべき時」とか「引き金を引く時」とか、そういった意味になるのではなかろうか。 邦題に「決闘」をつけるのは西部劇映画のパターンだが、「墓石」の方は何なのか。これは明らかに「OK決闘」の行われた町、「トゥームストン」を直訳したものだ。原題にはないけど一応内容的につながりはあり、またこの映画の醸し出す殺伐とした、虚無感のようなものをうまく醸し出す邦題である。 さてすでに書いたように、この映画の冒頭はいきなり「OKコラルの決闘」から始まる。俳優は異なるがワイアット=アープ(演:ジェームズ=ガーナー)とドク・ホリデイ(演:ジェイソン=ロバーズ)とその他二人のアープ兄弟が四人並んで戦いの場に向かってゆく。その構図は「OK牧場の決斗」にソックリなのだが、そのあとに起こる銃撃戦は実にアッサリ。いきなり始まって終わる。 史実でもアープ側が武装解除をしようとして偶発的に始まり、ものの30秒ほどで終わった「決闘」であったといい、この映画ではその実像をかなり正確に映像化していると思われる。後年、ケビン=コスナー主演の「ワイアット・アープ」でもほとんど同様の「OK決闘」が見られるから、だいたいこれで正しいということだろう。 アッサリであろうとなんだろうと決闘の結果は同じ。クラントン側は全員死亡、アープ側はワイアットの兄弟、モーガンとバージルが負傷しただけで済んだ。しかしこっからが史実で、この決闘にクラントン側のボスであるアイク・クラントン(演:ロバート=ライアン)はそもそも参加しておらず、銃撃戦が終わってから現場に現れアープたちの行為を非難、使者たちのかついで棺を街中を練り歩くパオ―マンスまでした上に、郡保安官と組んでワイアットたちを殺人罪で告訴、裁判に持ち込んでしまう(アープ兄弟は町の保安官とその助手)。 この展開もやはりだいたい史実で、「荒野の決闘」「OK牧場の決斗」で描かれたように事件は善玉悪玉が単純に分けられるものではなく、ワイアットが保安官であっても「私闘」ではないかとの批判は実際当時もあったそうだ。この裁判、結局はアープ側が全員無罪を勝ち取るのだが、これがかえってクラントン側の遺恨を増幅させることになり、彼らはアープ兄弟を次々と闇討ち、弟のバージルは体が不自由に、兄のモーガンは殺害されてしまう。「OK決闘」は実はその後が大変だったのだ。 ワイアットも黙ってるわけにはいかず、こちらも相手を刑事告発するが証拠不十分で無罪に。そしてクラントン一家はワイアット当人の命を狙って追って歯を放ち、ワイアットは連邦政府から「連邦保安官」に任命されてクラントン一家のうち4名の逮捕状を得て、ドクと共に仲間を集めて彼らを追跡することになる。 とまぁ、こう書いていてもなかなか複雑な展開で、お互いに法を根拠に相手の抹殺を図り合うという、まさにドロドロの状態。この辺、感嘆に調べただけでは詳細は分からなかったが、大筋でそういうことになったものらしい。 ネタバレというほどでもないから書いてしまうが、本作でのワイアットは保安官として悪漢どもを追跡してるわけではなく、個人的な復讐心に燃えて次々殺人を繰り返してるだけである。スタージェス監督は「OK牧場」の方でもそういう面を描こうとしていたフシがあるが、本作ではそれが全開になっていて、一応クラントン一家は悪党ではあるとはいえ、ワイアットの行為は明らかに「やりすぎ」の感が否めない。 前作同様、あれこれ口は悪いがワイアットに仲良くつきあってくれるドク・ホリデイだが、いやがる相手(それも実はたいした悪事はしてない)を無理矢理「決闘」に持ち込んで射殺するワイアットには、「お前初めから復讐しか考えてないだろ」と言い放ってしまう。ここで二人は珍しくケンカにもなる。 ドク・ホリデイといえば結核を患っているが、「荒野の決闘」のように決闘の場で死んだ史実はなく、少なくとも何年かは生存していて、本作では彼がコロラドの病院で保養している描写がある。そこでも相変わらず酒を飲んでて全然まじめに治療する気ないし、ワイアットがクラントンを追ってメキシコに行くと察知すると病院を抜け出して勝手についてくる始末(笑)。ま、さすがにこの辺は史実ではないと思うのだが、本作のドクには、作り手の愛情が明らかに感じられ、ホントいいキャラになっている。ワイアットは終始陰気なだけだしなぁ。 ラスト、ワイアットとドクの別れはコロラドの例の病院だ。これが今生の別れとお互いに分かっているが、この別れがいたくあっさりなのがまたカッコイイ。ドクの別れのセリフ「一つ頼みがある。さっさと失せろ」は泣ける。 結局ワイアットは「もう法はたくさん」と言い捨て、州保安部長職の誘いも蹴っていずこかへ去っていく。史実では彼はこのあと金鉱目当てにアラスカに行くなど流浪を続け、晩年はハリウッドで西部劇映画のアドバイザーをつとめていた。本作でワイアットを演じたガーナ―は、その時期のワイアットを映画で演じているそうで、ちょっと面白いつながりだ。 まぁとにかく殺伐とした話で…感動とか、すっきりするとかいったこととは無縁な、よく言えばハードボイルドな西部劇映画で、スタージェス監督としては、これこそが本当の「西部」だと主張したかったのかもしれない。出て来る人出てくる人、油断のならない人ばかりのなか、ドクの友情がいっそうしみわたる作品でもある。 そういえばとにかく男くさいこの映画、女優がほとんど登場しない。通行人などを別にすると、モーガンの妻とかドクの面倒をみる看護婦、そして銃撃現場目撃者の妻しかいない。セリフがまともにあるのは最後の一人だけで、「隣に誰か入った物音がするから見てきて」と旦那をベッドから追い出す、というかえって印象に残るセリフだったりする。セリフといえば、モーガンのいまわの際の言葉は「死ぬ直前には人生が走馬灯のように映るって話があるが、それはない」だったのも妙に記憶に残る。(2019/12/12) |