「コクリコ坂から」 2011年・日本 |
○監督:宮崎吾朗○脚本:宮崎駿/丹羽圭子○作画監督:山形厚史/廣田俊輔/高坂希太郎/稲村武志/山下明彦○キャラクターデザイン:近藤勝也○撮影:奥井敦○音楽:武部聡志〇原作:高橋千鶴/佐山哲郎○製作:宮崎駿/鈴木敏夫 |
長澤まさみ(松崎海)、岡田准一(風間俊)、白石晴香(松崎空)、風間俊介(水沼史郎)、竹下景子(松崎花)、香川照之(徳丸理事長)、内藤剛志(小野寺善雄)ほか |
もともともアニメ映画はそう見る方ではない。スタジオジブリのアニメ映画でも見てないのは結構ある。結局宮崎駿監督作以外のは手を出してないことが多いんだよな。この「コクリコ坂から」も劇場公開時に結局見逃し、テレビ放送時に録画はしたものの例によって数年放置した末にようやく鑑賞したものだ。録画日をみたら2013年1月。実に6年以上塩漬けされていたわけである。 監督は宮崎吾朗。言うまでもなく宮崎駿監督の息子さんであり、ジブリではすでに「ゲド戦記」で監督を手がけている。「ゲド戦記」は公開時に劇場で見たんだけど、正直ビミョーな感想だった。それから監督第二作を、父・駿監督の企画・製作・脚本で作ることになるとはなぁ…と本作の公開時には思ったという程度で、わざわ劇場まで足を運んで見てみようとはしなかった。まぁもともとラブストーリーものは苦手なので、食わず嫌いで敬遠したところもある。 原作は1980年代に描かれた少女漫画とのことだが、現時点で原作をまったく読んでない。映画を見た後で原作との相違点はサクッと調べてみたけど…恋愛話の基本線は原作に従いつつ、映画の中心軸になっているサークル棟「カルチェ・ラタン」保存をめぐる攻防は完全に映画オリジナルということなのだな。時代設定もオリジナルなのかな、と思ったら、いくらか違いはあるものの昭和30年代、1960年代ということは共通するようで。「となりのトトロ」同様、「少し前の日本」である。特に映画の方では東京オリンピックを控えた時期ということが強調されていて、高度成長の坂ををのぼりつつある日本の情景(舞台のモデルは横浜)がジブリらしく緻密に描かれている。 主人公は女子高校生の松崎海(声:長澤まさみ)。あだ名が「メル」なのは、フランス語の「海(メール)」から。妹に空、弟に陸がいて「陸海空」がそろうという命名。船乗りだった父親は朝鮮戦争の際の機雷除去時の事故で亡くなっていて、母親はアメリカへ出かけて留守。海は「コクリコ荘」という海の見えるアパートで女性比率の高い共同生活していて、海の見える庭にあるポールに毎朝旗を掲揚するのを日課にしている。それは亡くなった父親が帰ってくるようにと祈って幼い時から始めた習慣だった。 その旗を揚げる様子をうたった詩が新聞に掲載され、それが同じ学校で新聞部にいる風間俊(声:岡田准一)によるものであること、妹の空も憧れるなどちょっとしたアイドル的存在であることを知る。古びた洋風のサークル棟カルチェ・ラタンの最上階に俊を訪ねた海は、その新聞記事の「ガリ版清書」を手伝うことになり、それから次第に淡い恋人関係へと進展してゆく。それと並行して学校側がカルチェ・ラタンの取り壊しを計画、俊やその親友で生徒会長の水沼(声::風間俊介。友人の役名とかぶるのでややこしい)は保存すべきとの論陣を張って、このカルチェ・ラタンを存続できるかどうかが恋の行方と共に物語をひっぱる軸になっている。 映画を見た後で調べて、このカルチェ・ラタンの話は完全に映画オリジナルだと知って驚いたのだが、結果的に映画としてはこれを加えたおかげで太い軸ができたというか、恐らくは脚本の宮崎駿が狙った、1960年代の若者たちの活気ぶん自身も体験した、若者たちが政治的に熱い時代である)を描写することに成功している。原作ファンには余計な要素を追加したと言われそうだけど。 生徒集会のシーンの大激論なんか、当時の高校生でここまで熱かったかなぁ、と思わなくもなかったが(僕の母なんかはそういう印象を盛ったみたい)、むしろ当時の大学生の雰囲気に近いんじゃないかと。カルチェ・ラタンに巣くう文科系サークルの男子たちの雰囲気にも強くそれを感じた(特に哲学サークル)。おれはそれとして、カルチェ・ラタンの建物のデザインは面白く、女子たちが乱入する大掃除シーンなど、映像的に見どころが多い建物だ。これ、モデルでもあるのかな? 細かい話だが、僕には海が手掛ける「ガリ版」が懐かしかった。恐らく僕の世代がギリギリで覚えているのではなかろうか。僕の小学生時代だと先生が作るプリント類はまだまだガリ版で、僕もその清書手伝いをしたり印刷したりした体験がある。使い古しのガリ版印刷機を我が家に引き取った時期があり、自作漫画なんかガリ版で印刷して遊んだりもしたんだよな。 さて映画のもう一つの軸、原作における重要なポイントである海と俊の恋愛ばなしの方は、順調に進むかに見えて、ふとしたことから二人が父親が同じ「腹違いの兄妹」ではないかとの疑惑が持ち上がってしまう。それでは恋愛関係というわけにはいかないので「友達」として…ってな話になるんだけど「やっぱり好き」ということにもなり、最終的には、まぁ予想通りなんだけど無事な着地をする。ちょこっと調べただけだが原作ももう少しドロドロした展開になるラいいのだが、映画の方は全て「爽やか」に流している。薄味だなとも思ったけど、これはこれで鑑賞後の後味は確かに悪くはない、青春映画としては上出来の方だろう。深く残るものがあったかと言われるとちょっと…なんだけど。 映画オリジナル要素として、海や俊の父親が「朝鮮戦争のLST(上陸用艦艇)に動員されて事故死している」という設定がある。原作では単に船の事故になってるが、映画では「LST」というセリフが何の説明もなく出て来て、学園の理事長も意味深げにそれを口にし、そこに朝鮮戦争の戦場で船が機雷に触れて爆沈する様子までばっちりと描かれる。朝鮮戦争は1950年に勃発し、日本ではこれをきっかけにのちの自衛隊になる「警察予備隊」が発足したり、戦争による特需景気が起きたりと影響があったのだが、実は戦場の現場に動員された日本人が結構いて、犠牲者も出ていた、というのはあまり知られていない史実だ。この映画、深くは説明してないが、わざわざ主人公の父親たちを「戦後の戦死者」と設定しているのは、作り手のこめた意図を感じざるをえない。 2003年からのイラク戦争で日本は「復興支援」として自衛隊を派遣し、この映画製作後に実際に法制化された「集団的自衛権」への流れもあって、その中でわざわざこの話を持ち込んだのは、戦後の日本にも「戦死者」がいたこと、そしてそれがまた繰り返される、あるいは「戦後」ではなくなる可能性への警鐘、という意図はやはりあったと思う。それでもあくまで時代背景の一要素にとどめて本筋にのしかかるようにしなかったのは正解だろう。 全体としてまとまりはいいし、多めに挿入される歌もいい感じだし、絵作りの緻密さはいつものジブリ印、爽やかな青春映画とは思うんだけど、作中の年代、原作の発表時期と合わせて、なんでこれを今映画で作ったかなぁ、という思いも残った。なんでも原作発表時に宮崎駿監督が偶然読んで気に入り、映画化企画を温めていたそうで、それがこの時期になって、ジブリの次世代育成企画の一つとして映画化実現となった、という経緯だそうなんだが、「次世代」に作らせるには新鮮味に欠けてはいたかも。この映画公開から8年も過ぎた現在ではジブリの次世代移行はやっぱりうまくいかなかったと分かっちゃってるしねぇ。(19/10/4) |