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「あの子を探して
一个都不能少


1999年・中国
○監督:張芸謀○脚本:施祥生○撮影:侯咏〇美術:曹久平○音楽:三宝〇原作:施祥生〇製作:趙愚〇製作総指揮:張偉平
魏敏之(ウェイ・ミンジ)、張慧科(チャン・ホエクー)、高恩満(カオ先生)、田正達(村長)か




 例によって何年も録画したままほったらかしにしていた映画を今頃見たもの。BSでの放送時、なんとなくチェックしておきたいと思ったから録画したんだろうけど、娯楽映画とは違うからすぐには手を出さないうちにズルズルと放置状態になっていた、というパターンだ。いったん見始め麗奈やっぱり見入って一気に見ちゃうんだけどね。

 「あの子を探して」は、中国を代表する映画監督・張芸謀(チャン・イーモウ)監督の作品。とか書きつつ僕はこの人の作品をそれほど見ていたわけでもなく、その名を高めたコン・リーと組んでの作品はいまだに見ていない。この監督の作品で劇場まで足を運んで見たのは「HERO」「LOVERS」くらい、「王妃の紋章」なんてのもレンタルで見たな。いずれも芸術よりは娯楽、商売に走った武侠アクション映画で、歴史ものの一種という面もあったから僕もチェックしたのだ。それ以外では高倉健が出演した「単騎、千里を走る」のNHKによるメイキングを見てるだけ。

 この「あの子を探して」については事前知識ゼロで…張芸謀監督がよく手がけた中国農村ものの一本、というくらいしか知ってることはなく、いしいひさいちさんが漫画でタイトルだけネタに使った(張監督が芸術監督をつとめた北京五輪開会式に関するもの)ために名前だけは記憶にあった、という程度。録画する時も確か「えーと、チャン・ツィイーのデビュー作じゃなかったっけ」と勘違いしていたくらい。それは同年に公開された「初恋の来た道」ですね(やはり未見)


 さて「あの子を探して」、中国語の原題は「一人も欠かさない」という意味で、英語タイトルもそれを直訳したものになっていた。邦題は分かりやすいといえばそうなんだけど「あの子」って表現でいいのかな、と疑問は浮かんだりもした。
 映画の舞台は中国の片田舎の農村。黄土高原っぽいなと思って見ていたが、鑑賞後に調べて見ると河北省北部の赤城県に実在する村が舞台で、映画の後半の舞台になる都会はどうやら張家口っぽい。もう20年も前の映画だから今もこの村がこんな感じなのかは分からないが、住民も貧しく、村も貧しく、舞台となる小学校も築半世紀くらいのボロ小屋状態。

 その小学校の高(カオ)先生が母親が危篤になったため一か月ほど学校を留守にすることに。代わりの教員として小学校にやって来たのは、なんと13歳の少女・ウェイ=ミンジ(演:魏敏之)。どう見ても教員というより生徒たちとさして変わらぬ子どもでしかない。一応中学生なんだろうけど、教えられることはほとんどなさそう。ただ村長さんから代用教員を一か月つとめれば50元もらえる、というその話に乗ってやってきただけで。仕事を始める前にまずその50元を要求するとか、貧しさゆえだろうがなかなかガメツイ。
 しかも生徒を一人も脱落させなければさらに給料が上乗せされる。だからこそ彼女は必死に脱落を防ごうとするわけで、それが原題の「一人も欠かさない」ということなのだ。

 授業たってほとんど何もできないから、黒板にダーッと文字列を書いて、生徒たちに「写しなさい」と言って、あとは生徒が脱走しないように玄関に座ってるだけ。早い話が自習なわけで、当然生徒たちは勉強なんかせず、ワーワーと大騒ぎし始める。この辺の描写、塾講師をながらくやってる僕にはいちいち覚えがありますね(笑)。

 そうこうしているうちに、女子生徒の一人が足が速いことで町の学校に転校することに。「一人でもかけちゃダメ」と考えるミンジ先生、この子を隠してしまうが大人たちの目はごまかせず発見されてしまう。生徒が来るまで連れていかれるのを執拗に追いかけるミンジ先生、その動機はあくまでカネのためにしか見えないんだけど…。

 続いて起こるのが、クラスの問題児・ヤンチャ坊主のホエクー(演:張慧科)が学校に来なくなる。例によって「一人も欠かせない」と執念に燃えるミンジ先生、ホエクーの家に行ってみると、彼の父親はすでに死んでいて、母親も病気で寝込んでおり、おまけに数千元もの借金を抱えていて、小学生のホエクーが町に出稼ぎに行かなきゃならない、という事情を知ることになる。「おしん」ではないが、日本でも昔は子供が働かされたもんだけど、こちらの状況もかなり深刻だ。

 ミンジ先生、なんとかホエクーを連れ帰らせようと、生徒たちと相談を始める。町へ行くにはバス代が必要、それはいくらで、その金はみんなが出し合っても足りない。成都の一人が以前レンガ運びのアルバイトをやった経験を話したので、ミンジ先生は生徒たちを引き連れレンガ工場に行き、みんなで楽しそうに無断で(爆)レンガ運びをやってしまう。当然工場長から怒られるが、事情を話してお金を要求すると、「人助けだしな」としぶしぶ微妙な代金を払ってくれる工場長。生徒たちと「余ったお金」(これが間違ってることが後で判明するけど)で店でコーラを買い、みんなで一口ずつ味見、というシーンは、日本でも高度成長期前半くらいまでは見られた光景なんじゃないかな、と見ていて思った。

 結局バス代がもっとかかることが判明し、どうすれば町へ行くお金が工面できるかと生徒たちと教室で話し合い、それがそのまんま算数の授業化してしまうところも面白い。ついつい一緒になって計算してみたりして。まぁそれにしてもそこで出て来る金額を眺めていると、都市部と農村の格差が実感できるな。これが20年前の状態で、いまどうなっているのやら。

  ミンジ先生はどうにかこうにか町にたどり着くが、肝心のホエクーは同じ村の出稼ぎグループから逃げ出して行方不明になっていた。ミンジは同年位の出稼ぎ少女を強引に引っ張り出してホエクーをさがしまわるが、なにせ人の多い都会、まさに雲をつかむような話なのだが、ミンジ先生は驚嘆するほどの執念であの手この手でホエクーを探し回る。この頃になって来ると自分のためというより、ホエクーのことを本気で心配してるようではある。
 なにせ田舎者の上に年齢も幼いから、これといった方策も思いつかず、とにかく執念の一点張りで、見てる方もヒヤヒヤさせられる。町で出会う人々も彼女から見れば不親切な人ばかり(といっても当人にすれば無理もないのも分かる)。それだけに、ラストに向けて急転直下で人の善意を受けまくってアッサリ解決にいたるのは甘いんじゃないの、という気もしたけど。

 この映画の、主人公がどうなるんだというヒヤヒヤ感は、演じてる当人の表情や動きのぎこちなさが妙にリアルで芝居臭くないことからも来ている。映画を見始めたあたりからうすうす感じていたのだが、鑑賞後に確認して納得。この映画、主役の子供達含めて出演者の多く(全員?)が子役とかプロ俳優ではなく、まったくの素人だったのだ。
 中国語の発音が分かる人なら気がつくが、登場人物と演者の名前が完全に同一である。主役のウェイ・ミンジは漢字で書けば「魏敏之」、ホエクーも「張慧科」で、本人の名前がそのまま登場人物の名前として使われている。大人の登場人物、カオ先生と村長さんも同様で、他にも映画のあちこちに出て来る人たちもみんな素人さんなんじゃないかという気がしてる。

 上で書いたように「単騎、千里を走る」のメイキングを見たことがあるのだが、そこでも張芸謀監督はまったくの素人に演技をさせていた。素人ではあるのだが劇中の人物に境遇が似てる人を選んで演技させていて、その迫真の演技(なのか素なんか)に主役の高倉健もビックリっしている様子が映されていた。それを見ていたので、この映画の序盤から「これって素人なのでは?」と僕は感じたのだ。
 主役の女の子は熱演…というよりほとんど「素」で演じてるんじゃないかと思えて、それが観客を余計にハラハラさせるというか、どこからかこの映画が「作り話」であることを忘れさせてしまう。アドリブではなく指示されたとおりにやってるのだろうが、映画の中の彼女の言動は実際ほんとに自然で、見ている方は「芝居」ではなく「ドキュメンタリー」を見ているような気分を抱く。作り手もそれを狙っているはずで、教室シーンから都会のさまざまな場面の撮影の仕方は明らかにドキュメント風だ。

 映画は一応めでたし、めでたしで終わるのだけど、字幕で中国国内には貧困のために就学を断念っ猿をえない子供が多くいる、という具体的な数字を挙げた問題提起をしている。原作小説があってその作者が脚本も手掛けているので、もともとそうした社会派的な問題的を意図したお話なのだろう。映画もそれに沿った形ではあるのだが、見終わると全体としては子供ばかりの教師と生徒たちによる「二十四の瞳」みたいな、日本にも昔あったような田舎の小教室ドラマという印象が強く残る。あんまり勉強してる感じではないけど、貧しくもそれなりに楽しくやってるというか。20年も経つと中国でもこの映画は郷愁をもって見られるのではないかなぁ。

 ラストで真新しいカラーのチョークで生徒たちが次々に黒板に字を書いていくところもいい。特に漢字文化圏である日本人が見ると、簡体字ではあるがだいたい分かるので、一字一字書かれた瞬間に分かるから、非漢字文化圏よりはちょっと得した気分に(笑)。「ウェイ先生」は「魏老師」となるのだが、あのホエクーが「魏」なんて難しい字を書くから感動があるわけでね。(2019/12/114)



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