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「それでも夜は明ける」
12 Years A Slave


2013年・アメリカ
○監督:スティーブ=マックイーン○脚本:ジョン=リドリー○撮影:ショーン=ポビット○音楽:ハンス=ジマー○製作:ブラッド=ピット/デデ=ガードナー/ジェレミー=クレイナー/ビル=ポーラッド/アーノン=ミルチャン/アンソニー=カタガス/スティーブ=マックイーン〇製作総指揮:ジョン=リドリー/テッサ=ロス
キウェテル=イジョフォー(ソロモン・ノーザップ)、ベネディクト=カンバーバッチ(フォード)、マイケル=ファスベンダー(エップス)、ルピタ=ニョンゴ(パッツィー)、ポール=アノ(ティビッツ)、サラ=ポールソン(メアリー・エップス)、ギャレット=ディラハント(アームスバイ)、ブラッド=ピット(バス)ほか




 この映画、公開時に気にはなっていたのだが、ついつい見逃したままだった。その年度のアカデミー作品賞もとってしまったこの映画、ようやく2019年になってNHKのBSシネマで放送したのを機に初めて見ることになった。こういうパターン、多いんだよなぁ。
 この映画、原題は「奴隷として12年」といったもので、同タイトルの原作となった書籍が存在する。出版されたのは1853年、実に160年以上前、日本にペリーの黒船が来航した年であり、アメリカは南北戦争以前の段階だ。この本はソロモン=ノーザップという北部に住んでいた自由黒人が誘拐されて南部に奴隷として売り飛ばされ、12年に及ぶ苦難の奴隷生活を送った末に無事に自由の身を取り戻したてんまつを記した回想録なのだ。この映画はその回想録を脚色したもので、「事実に基づく」という最近よくみる文句が冒頭に掲げられている。

 原題のまま直訳しろとは言わないが、この邦題も例によって意味不明というか、雰囲気優先というか。最終的に解放されるので「それでも」というタイトルにしたんだろうが、恐らくこの邦題をつけた人の頭には南アフリカのアパルトヘイト問題をテーマにした映画「遠い夜明け」があったんじゃないかと思う。あっちの原題は「CryFreedom(自由を叫ぶ)」で、邦題では勝手に「遠い」と絶望的なものにされちゃったが、映画公開から間もなくアパルトヘイトは廃止されている。ともあれ、黒人が差別に苦しむ状態を「夜」とたとえたのはこの前例があるからだろう。
 監督はスティーブ=マックイーン。聞いた途端に多くの映画ファンは「えっ?」と言ってしまうお名前であるが、スティーブもマックイーンもよくある名前なので同姓同名は結構いるのだろう。でも映画業界を生きていく上でこの名前は結構便利だったんじゃないかな。

 この映画の冒頭は、いきなり主人公がサトウキビ畑で奴隷労働を課せられている光景から始まる。そして夜にはひそかにペンをとって家族への手紙を書く様子が映る。あとで分かることだが、これらは映画の後半に出てくるシーンで、それを映した上でこの奴隷の主人公がいかにしてこのような状況に陥ったのか…と時間をさかのぼって語るという構成である。
 時は1841年。自由黒人のソロモン=ノーザップ(演:キウェテル=イジョフォー)は愛する妻子とともにごく平凡だが幸せな生活を送っていた。住まいはアメリカ北部ニューヨーク州で、ここはアメリカ南部と違って奴隷制はなく(まったく白人と同等というわけでもなかったみたいだが)、黒人も一般市民としてそこそこのきぃういく設け、普通に生活を送っていた。当時のアメリカでも北部ならこういう黒人もいたのだな、とちょっと新鮮な感じも覚えたが、そのファッションになぜかデジャブが。あとで気づいたが、昨年見た「マルクス・エンゲルス」のファッションに通じるものがあったのだ。ところは違うがほぼ同じ時代なんだよね。

 ノーザップはヴァイオリンの名手で、それを収入の足しにもしていた。そんな彼に白人の興行師二人が一緒に公演をして一稼ぎしようと誘われ、ノーザップはその話に乗って彼らと共にワシントンへ向かう。そこで酒をしこたま飲まされて意識を失い、気が付いたら手枷足枷をつけられ鎖につながれて密室に閉じ込められていた。興行師二人は最初からそのつもりで、彼を奴隷商人に売り飛ばしてしまったのである。ひどい話というほかないが、南部の黒人奴隷たちの多くがアフリカから連行されてきたのと同様、北部にいる自由黒人を誘拐する「奴隷狩り」も実際かなりの数行われていたのだそうだ。アメリカの首都ワシントンでは当時奴隷制は存在していて、不運にもノーザップは「奴隷狩り」にひっかかり、奴隷商人によって他の黒人たちと共に船で運ばれ、名前も「プラット」と適当につけられて、ルイジアナ州の奴隷市場で売りに出されることとなってしまう。

 プラットことノーザップを奴隷として買ったのは、木材を扱う商売をしていたフォードいう男。顔を見れば「あっ!シャーロックだ!」とつい口走ってしまうほど特徴的なそのお顔の主はもちろんベネディクト=カンバーバッチ。この人は敬虔なクリスチャンということもあってこの時代にあっては結構人道的な人物なのだが、奴隷制を批判してるというわけでは決してない。奴隷市場でノーザップと一緒に黒人女性の奴隷も買うが、その娘(白人とのハーフ)も一緒に買ってくれと懇願され、一応情にほだされそうにはなるのだが、資金的な理由で断念、母娘を生き別れにさせてしまう。この黒人女性のように、白人の主人と相思相愛の事実上の夫婦になって子供をもうけるというケースは時々あったようで、この映画中の後半でも白人の主人の「妻」におさまった黒人女性が出てくる。もちろん、これまた映画中に出てくるように女性の側が望まぬまま主人の白人男性に関係を強制されて子供を産むというケースも少なくなかったわけだが。

 カンバーバッチ演じるフォードという奴隷主は、ノーザップ自身も後に書いた回想録で「いい主人だった」と言ってるように、奴隷制に疑問は持ってない様子だが奴隷たち相手に聖書の講義をするなど、そこそこ人道的な扱いをする人ではある。ノーザップが木材を川を使って運べばいいと技術的な提案をして実現、コストを大きく下げたことに喜んだフォードがノーザップにヴァイオリンをプレゼントする逸話が出てくるが、調べたところでは大筋でそういう事実があったようだ。
 ノーザップたち黒人奴隷が森の中を歩いていたら、インディアンたちと遭遇、音楽を通したささやかな交流をする場面があったが、あれは史実なのかどうか。お互い白人に迫害されてる立場どうしで共闘というほどではないが交流があったとすると面白い。

 しかし奴隷たちを直接指導する監督役のティビッツ(演:ポール=ダノ)という白人は絵にかいたような「黒人を見下す白人」で、ノーザップが知恵のあるところを主人に認めさせると激しく怒って何かとノーザップに「いじめ」をしかけるようになる。とうとうノーザップが怒ってティビッツを返り討ちにいてやると、仕返しに仲間を引き連れてノーザップをリンチにかけ、縛り首にして殺してしまおうとする。さすがに別の監督役白人が「奴隷は所有者のものだ、勝手に殺すな」と銃で脅して中止させるのだが、この人も助けてくれるわけではなく、半分首つり状態でつま先立ちで必死に支える状態で数時間も放置。駆けつけてきた主人に救い出されるのだが、「このままここにいたら殺される」ということで主人のフォードはノーザップを別の白人エップス(演;マイケル=ファスベンダー)に売ってしまう。経済的事情もあったようで解放はしてくれないんだよね。
 もっともこのくだり、実話からかなり脚色している。史実ではティベッツはフォードの農場に出入りしていた大工で、フォードは経済的事情から彼にノーザップを売り、そこからサトウキビ畑の農園主に貸し出され(ここが映画のファーストシーンに使われてる)、そのあとでエップスに転売される、という流れだったそうで。

 映画の後半はこのエップスのもとでの過酷な奴隷生活が描かれる。こっちは絵に描いたようにひどい主人で、綿花の摘み取りで奴隷たちにノルマを課し、達成できないと鞭打ち。摘み取り成績のよい若い女奴隷のパッツィー(演:ルピタ=ニョンゴ)を性のはけ口として夜な夜な犯している。エップスの妻も夫とパッツィーの関係に気づいていて、なおさら彼女にきつく当たり、この夫婦の命令でノーザップがパッツィーを鞭打たねばならなく場面は、見ていられないほどひどい。このあたりはノーザップの回想録でもきっちり書かれていることらしく、こんなところで彼は10年も過酷な奴隷生活を送ることになる。

 文字の読み書きができるなど教養のあることを隠し続けたノーザップは、やがて町まで買い物を命じられるようになり、ここで買ってきた紙をこっそりくすねて、家族への手紙を書く。問題はどうやってポストに投函するかだが、エップスの農場で奴隷として働かされていた白人アームズバイ(演:ギャレット=ディラハント)に目をつける。彼はもともと奴隷監督役だったが奴隷に身を落としていて、「黒人奴隷を殴りつける方だって心が痛んでいる」という内心をポロっとノーザップに話したりするのだ。この白人なら信用できる、とカネを渡して手紙を託そうとするのだが…ああ、まだ救出されるには映画の残り時間があるな、と気づいてしまったが、結局この期待は裏切られる。

 そんなエップスの農場に大工仕事のアルバイトでカナダ人のバスという男がやってくる。あれ、ブラッド=ピットによく似てるけど老けてるかな、と思ったら、やっぱりブラピでした(笑)。映画を見終えてから知ったけど、そもそもこの映画の製作にブラッド=ピットが立ち上げた映画製作会社が加わっていて、彼もプロデューサーの立場なのだった。ブラピにしては出番の少ない役なんだけど(イタリアでは客を呼ぼうとブラピを中心に据えたポスター作って問題になったそうで)、奴隷制に反対する「いい白人」の役であり、実話でもこの人との出会いがノーザップの救出につながった。この人なら信用できると思ったノーザップはバスにこれまでの事情を打ち明け、北部にいる自分の友人に連絡をとって自分が自由黒人であることを証明してほしいと頼み、バスはちゃんとそれを実行してくれたのである。

 数か月後、唐突に救出の日は来た。ノーザップが農場で働いていると、保安官がやってくる。その馬車には映画の最初の方で出てきたノーザップの友人の白人が同乗していて、保安官と一緒に本人確認をしてくれる。エップスは猛然と抗議するが、この州の法律でも奴隷ではない自由黒人の身分であることが証明されれば解放しなければならなかったのだ。
 「奴隷のプラット」から「ノーザップさん」となって、彼は馬車に乗り込み農場を去る。そんな彼を複雑な思いで見送るパッツィー。ノーザップ個人は解放されても、パッツィーや多くの黒人奴隷たちはそのままなのだ。ノーザップのように本来は自由黒人で奴隷に身を落とされてしまった人で、生還できた例だって数少ない。問題の解決にはまったくなっていないのだ。彼が解放された時点で1853年だから、南北戦争と奴隷解放宣言までは10年は待たなくてはならない。

 生還したノーザップは家族と再会、知らぬ間に孫もできていた。あとは字幕ナレで済まされるが、彼は回想録出版のほか講演もしてまわり、南部からの黒人奴隷の脱走を支援する活動も行った。だがその晩年の消息は全く不明、と映画は語って終わりになる。実際彼は消息不明になっていて死亡時期も分からず、一部では「また誘拐されて奴隷になったのでは」との説まであるそうで。いずれにしても奴隷解放宣言を見ることなく世を去ったと考えられている。

 邦題でも分かるように最終的に救われる話なのだが、やはり重い気分で見終わる。奴隷制度、人種差別のひどさをさんざん目の当たりにさせられる映画だが、そういうことが「当然」と思われていた例は歴史上たっぷりある。人権だの人道だのといったことが尊重されるようになったとされる現代だって、ともすればこうした現象は起こってしまう。人間というのは…とあれこれ考えさせられた。
 見ていてやはり往年の大ヒットテレビドラマシリーズ「ルーツ」を思い出していた。原作者アレックス=ヘイリーの先祖代々の物語をドラマ化したもので、それこそひどい奴隷制度の実態がこれでもかとばかり描かれていた。特にこの映画のパッツィーのくだりなどは「ルーツ」の二代目主人公の話とかぶるところが多かったな。(2019/3/6)




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