「野火」 2015年・日本 |
○監督・脚本・撮影・編集・製作:塚本晋也〇音楽:石川忠〇原作:大岡昇平 |
塚本晋也(田村)、リリー・フランキー(安田)、森優作(永松)、中村達也(伍長)、山本浩司(分隊長佐)、山内まも留(軍医)、中村優子(田村の妻)ほか |
太平洋戦争終結70周年となった2015年に公開された映画で、塚本晋也監 督が「これはやらねばならない」と、監督・脚本・撮影・編集・製作おまけに主演と、ほとんど自主映画スタイルで製作し話題になったのだが、当時僕は関心を 持ちつつも見損ねてしまっていた。内容と合わせて夏場に公開したから夏期講習で多忙な僕は身動きが…という言い訳もあるんだけど、内容的にキツいだろう なぁ、とやや及び腰だったことも否定はしない。 原作は大岡昇平の代表作の戦争小説。大岡自身も体験したフィリピン戦線での日本兵の悲惨な状況、特に敵の攻撃やら現地人との衝突やらよりも、太平洋戦争 の日本軍が各地で陥った「飢餓」の過酷さがいかに人間を狂わせていくか、がメインテーマとなっている。ネタバレになるが原作もそれで有名なので書いてしま うと、この話は極限の飢餓状態に陥った日本兵たちが「食人」に及ぶ事態を描いて大変なセンセーションを呼んだ。小説自体は大岡の体験を下敷きにしつつも フィクションだが、そうした事態が各地で起きたことは紛れもない事実。個人的な話になるが、僕の祖父(僕が生まれる前に亡くなった)はビルマ戦線に出征していて、周囲にそれが起きたことを僕の父にわずかにではあるが語ったと聞いている。 「野火」は1959年(まだ戦後14年だ)に 一度映画化されている。市川崑監督・和田夏十脚本による白黒映画で、以前NHKのBSで放映された際に鑑賞した。ほぼ原作どおりの映画化で同監督の「ビル マの竪琴」に比べるとずっとリアルで凄惨な「戦場帯剣映画」に仕上がっていたが、ラスト周辺の「食人」部分は映画で描くには生々しすぎると判断されたらし く改変がなされている。 今度の塚本監督版は、さすがにその辺をストレートに描き、よりいっそうホラーな戦場の現実を冷徹に描いている。塚本監督自身、これは市川版のリメイクで はなく、原作小説を高校時代に読んで受けた強い印象をもとに映画にしたと語っている。話によるとかなり以前から映画化を望んでいたが内容が内容だしなかな か実現できなかったという。そのうちに戦争実体験者が生きているギリギリの時期に入って来て、塚本監督は彼らの体験の聞き取りなども行っている内に「今の うちに作らないと」と焦りを覚え、とうとう自主製作の形で実現させた、ということだ。クレジットで沖縄の地名が出てた気がするので、たぶんフィリピンでは なく沖縄でロケせざるをえなかったんだろう。 映画がストレートに、ともすればエグい、ホラータッチな場面も容赦なく出てくるのは、もちろん実際の戦場はそんなものじゃないのかもしれないが、戦争経験からほど遠い若い世代に戦争を「体験」させたい、という思いが強く感じられた。こうした現象は日本だけではなく、「プライベート・ライアン」などここ20年くらいの海外の戦争映画にもみられる傾向で、やはり同じ思いがあるだろう。 物語の舞台となっているのはフィリピンのレイテ島。太平洋戦争日本軍が最後の挽回を期してで陸・海合同の作戦を展開し、結局ボロ負けに終わったのが「レ イテの戦い」で、これは「野火」の作者・大岡昇平自身が「レイテ戦記」というノンフィクションにまとめている。「野火」はその戦役の片隅、陸上の日本軍が 実質崩壊して食う者すらない状況に追い込まれている状況を淡々と語っている。 冒頭、主人公の田村一等兵(演:塚本晋也)は見るからに疲れ果てた、しかも肺病もちの兵隊で、食料も少ない部隊にいても何の役にも立たないので野戦病院 行きを命じられる。ところが病院に行ってみるとこちらもろくに食料がなく、まだ体が動く田村は部隊に戻れと追い返されてしまう。部隊に戻っても当然追い出 されるわけで、田村はやむなく食料を求めてジャングルの中をさまよいだす。 この冒頭から現地の村で略奪、殺人をしてしまうくだりまでの展開は事前に見ていた市川崑版とほとんど同じ。最初のうちはちょっと悲喜劇調なのかな、と 思っていると急に凄惨なシーンとなる。同じ殺人場面でも塚本版の方がより狂気な印象で、これがあとで降参してくる日本兵がフィリピン人に打ち殺されるシー ンとリンクするようになっている。映画から史実の方に話がぶれるが、太平洋戦争というと日本対アメリカと思いがちだが、特にフィリピンでは現地住民が相当 に巻き込まれて多大な被害を出していて、日本兵に対する憎悪はかなりのものがあり、この映画のように行き倒れた日本兵を殺すこともあったし、戦後の戦犯裁 判でもフィリピンの法廷が一番厳しかったという(この辺は「大日本帝国」でも描いてたけどね)。こういう、日本人がえてして忘れてる「アジア人にも多大な迷惑をかけた」という事実を描いておくのも大事。 映画の中盤、部隊が空爆を受けるシーンは、予算の中で頑張って撮ったものなんだろうなぁ。ここでのエグいまでのスプラッタな殺戮描写は市川版にはなかっ た直接的な「痛い(遺体)」描写。技術的にできるから、ということもあるだろうが、今の時代になるとここまで見せないと実感できないということだろう。破 壊された人体の描写そのものは抑え気味だが、人間も「肉」になってしまうことを示すために切断面などははっきりと見せる。そしてその「肉」の絵が野に咲く 花とオーバーラップして「食べていいわよ…」と女性の声で聞こえるシーンの怖いこと。 これらの場面以外でも熱帯のうだるような酷暑の中での生死の瀬戸際感、傷や飢えで生きながらジリジリと死んでいく不条理さ、故国を遠く離れたこの場所でなんでこんな死に方をしなければならないのかというやりきれなさ(これについては戦争の原因やら指導者の問題も描かなければならなくなるけど)、が迫力で伝わってくる。まぁこの映画に限らないが、この手の戦争映画を見て実態を知ると、少なくとも戦争なんてしたくはなくなりますな。 映画の後半は敵の攻撃や飢餓よりも怖い、追いつめられた時の味方の人間たちの恐ろしさが描かれてゆく。行き倒れていた田村に「サルの肉」を食わせて助けたのは安田(演:リリー・フランキー)と永松(演:森優作)の二人で、安田はタバコを売りつけて食い物を手に入れたり(余談だがユダヤ人の強制収容所でもタバコが通貨と化す現象はあったそうな)、永松を心理的に支配して「サルの肉」をとって来させるなど、したたかで油断がならない男。若い永松の方もそんな安田を警戒しており、最後には田村も巻き込んでまさに「食うか食われるか」の闘争になる。 どうしても市川版との比較をしてしまうのだが、この「食うか食われるか」のクライマックスから映画の結末までは市川版とかなり異なる。あちらは」直接的 描写を避け、最終的に主人公はこの狂気の世界から人間の世界へ戻ろうと、死も覚悟して「野火」へと足を向けるところで終わるが、こちらは(原作および作者のその後のどおりでもあるけど)主人公が捕虜となり、戦後に小説家となり精神的な後遺症に苦しんでいる様子見せて、重苦しい音楽と共に強烈な「後味の悪さ」を残して終わる。 監督も言うように、戦場の実体験者がどんどん少なくなる中で、映画という形で過酷な戦場を疑似体験させる作品として、いまこれが作られた意味は大きい。残念なのはそこにカネを出せるところがあまりなかったという事実だが。 あと、最後にもひとつ残念なことを言えば、録音状況のためなのか、衰弱した兵士のリアリティを求めた演出・演技のためなのか、セリフが何を言ってるのか よく分からない箇所が多い。登場人物もみんな薄汚れてヨレヨレなので誰が誰だかよくわからないところもあって話が追えなくなる人もいたんじゃないかと。他 の映画・ドラマで俳優としても活躍している塚本監督自身の焦燥感あふれる名演は見事だったのは間違いない。 (2019/1/23) |