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「2010年」
2010: The Year We Make Contact

1984年・アメリカ
○製作・監督・脚本・撮影:ピター=ハイアムズ〇美術:アルバート=ブレナー○特撮アドバイザー:リチャード=エドランド○原作:アーサー=C=クラーク
ロイ=シャイダー(フロイド)、ジョン=リスゴー(カーナウ)、ヘレン=ミレン(カーバック)、ボブ=バラバン(チャンドラー)、ダグラス=レイン(HAL9000)、キア=デュリア(ボーマン)ほか




 言うまでもなく名作「2001年宇宙の旅」の続編。ただその製作経緯は少々込み入っている。そもそも「2001年」は映画監督のスタンリー=キューブリックとSF作家のアーサー=C=クラークとの「共作」でシナリオが作られていて、それを元にキューブリックは映像マジックを駆使した難解神秘SF映画に、クラークの方はもう少し地に足の着いた合理性のあるSF小説に仕立て上げて、それぞれ微妙な違いがある。どちらにとっても代表作となったのだが、年が経つにつれ「2001年」といえば映画の方が名作として評価が高まる結果となる。それを意識してかどうかは知らないが、クラークは自ら続編小説「2010年」を執筆するのだが、その内容は小説版「20001年」ではなく映画版「2001年」の続編になってしまっていた。小説「2010年」の発表は1982年のことで、映画公開が1984年だから、小説執筆時点で映画化を視野にしていたんだろうな。

 小説刊行後早速映画化となったが、「2001年」を監督したキューブリックはオファを受けながらも興味を示さなかったとされる。キューブリックという監督はあるジャンルで最高レベルのものを作ってしまってはまったく違うジャンルに挑戦するということを繰り返した人で、今さら「2001」の続編なんて撮る気はなかったのだろう。そもそも「2001」製作終了後、続編や流用を阻止するために撮影に使用したセットやミニチュアなどを全て廃棄させてもいる。それでも続編は作られてしまい、本作で使用されているディスカバリー号のミニチュアは「2001」の映像をもとに新たに製作されたものだそうだ。

 さて僕はこの映画を最初に見たのは、「2001」と同じでTV放映時である。公開時に宣伝されてるのは覚えているがまだ映画館に一人で行くころではなかったしなぁ。TV放映も確か深夜帯で、「2001」放映から大してたたないうちに放送されたものを録画して鑑賞したのだ。
 「2001年宇宙の旅」の方に書いたが、僕はあの映画を見終えて、その内容の解釈などで夜も寝られないほどあれこれ考え込んでしまった。それだけ難解だし、またテツガク的にいろいろ考えさせられてしまう映画だったわけだが、その後この「2010年」を見て、疑問点が一気に払拭…とまではいかなかったが、かなり分かりやすいところに着地してくれた、という感想を持った。その代わり「2001」の持つ神秘性が一気に失われて2作そろって俗っぽい話になったような、という気分も抱いてしまったが。
 実際に2010年になったのを機にクラークの原作小説を初めて読んだが、映画「2010」は原作小説にかなり忠実に作っていることが分かった。後述するが映画中のいくつかの場面については「それは映画オリジナルじゃない?」と思っていたのだが、そのほとんどが原作にそのままあるシーンで、ちょっと驚いたところもある。クラーク自身がリアルで合理的、かつどちらかといえば分かりやすい小説を書く作家なので(全部読んではいないが読んだ限りではそう思った)映画にもそれが表れたということらしい。

 映画はフロイド博士が前作の事件、ディスカバリー号にょる木星探査の事故のてんまつの報告書を打っているところから始まり、前作のシーンが静止画で映される。そして宇宙からの電波をキャッチする大アンテナ群の映像をバックに、前作で使われてすっかり「宇宙」のイメージがついちゃった「ツァラトゥストラはかく語り」の冒頭音楽が流される。これで明白に続編と分かるのだが、そこに登場するフロイド博士が、この時期やたらに出てた印象のあるロイ=シャイダーなので、すごく違和感が。思えば「2001」の方は出演者がみんな見たことない人ばっかりだったんだよな。
 このフロイド博士が本作の主人公で、「2001」での木星有人探査の失敗の原因をさぐり、なおかつモノリスの謎もにも挑むべく、自ら木星へと旅立つことになる。ただし乗り込む宇宙船はソ連の「アレクセイ・レオーノフ号」で(この名は人類初の宇宙遊泳をしたソ連の宇宙飛行士から採っている)、調査団も米ソ合同という形に。ソ連側の団長を演じてるのが若き日のヘレン=ミレンなのが今となっては懐かし映像で、確か彼女は父親が亡命ロシア人で、ロシア語ができたからのキャスティングだったように思う。

 しかしフロイドたちアメリカ人が冷凍冬眠で木星まで眠りについている間に中米方面で紛争が勃発、米ソ全面衝突の、核戦争の危機が迫る、という事態になってしまう。
 前作ではチラリと見せた程度だった「冷戦構造」が、この映画では濃厚に話に絡んでくる。クラークが原作を執筆したのは1980年初頭で、一時緊張緩和に向かうかと思われた米ソの対立がまた激しくなってきたころで、それが物語にも大きく影を落としてるようにみえる。中米で具体的にどういう事態になってるのか映画では詳しく説明しないが、アメリカ側の海上封鎖をソ連側が破ったりしているので、「キューバ危機」をモデルにしてるのは明らか。ただ1980年代の冷戦状態の再燃が世界的に不安を呼び、このころ核戦争もの、核戦争後の地球が舞台の創作作品がやたらに多く、この映画もその系譜に属するものだと思う。
 なお楽屋ネタとして、病院のシーンで「戦争勃発か」と見出しのある「タイム」誌の表紙にクラークとキューブリックが米ソ首脳として顔が使われていたりする。この二人が決して仲が良かったわけではない(キューブリックはいろんな映画で原作者とよくモメている)ことをネタにしてるような…(笑)。

 木星に接近したレオーノフ号は、木星の衛星イオに「葉緑素」を発見、イオの氷の海の下で生命が存在する可能性をつかんで無人機による接近調査を試みるが、突然、まるで警告のように光の矢が飛んできて無人機は破壊される。前作でも登場した木星付近に浮かぶ1km以上の巨大な「モノリス」への有人探査も試みるが、これも同じような「警告」攻撃を受けて失敗する。この辺、原作もだいたい同じなのだが、イオでの調査では中国の探査機が登場していて少し話が複雑になっていた。宇宙開発といえば米ソだが、クラークが第三勢力として中国が出てくることを予想していたんだな、と感心したところである。
 クラークらしさということでは、エウロパからイオへ向かうレオーノフ号が燃料を節約してスピードを落とすために木星の大気圏をかすめて大気との摩擦を利用する、というリアリティある航行法が描写される。実際あんなふうになるのかどうかは分からず、登場人物たちもえらく恐ろしい思いをするんだけど、SF映画でこういうの見ることは珍しいような。

 前作の舞台となったディスカバリー号も再登場。前作のセットやミニチュアは一切残ってなかったそうだが、さすが美術スタッフ、前作のディスカバリー号の外部も内部もほとんどそのまま再現している。そのディスカバリー号の内部で、前作のボーマン船長がボーレイのように登場、当然おなじキア=デュリアが演じていてそれほど容姿の変化もない(まぁメイクで老けたり赤ちゃんになったりするけど)ので「2001」とのつながりが実感できる。フロイド博士の方が別人なので浮いちゃってるけど。
 で、このボーレイ船長のボーマン、あ、逆だ、ボー案船長の亡霊は地球にも出現する。元妻の家のテレビ画面に電波ジャックで登場したり、危篤の母親に透明人間状態でブラッシングしたり…とやってることがえらく古典的怪談なんだよな。「2001」の難解なラストで、ボーマンが普通の人類を超越した「スターチャイルド」になってしまったことはわかるんだが(それも「個人」ですらないっぽい)、ここでやってることがえらく個人的で世俗的なんでガックリきた覚えがある。「これは映画オリジナルなんじゃないか?」と長年思っていたのだが、原作小説を読んだら少なう友「テレビジャック」のシーンはそのまんまあって、改めてガックリきたものだ。

 そして「HAL9000」もそのまんま復活。声もおんなじ俳優さんで、あの独特の無感情な発声がまた聴ける。前作ではあれがかなり怖かったのだが、本作では前作でのHALの暴走の原因が明確にされ、悪いのは「お役所仕事」、官僚体質ということにおさまる。この辺はアシモフのボット三原則にも通じる話で、コンピュータ側は決して「悪く」はない。使う人間の方に問題があった、という話になるわけだ。


 以下、ネタバレ部分に触れるので、未見の方はお避け下さい。




 クライマックス、ディスカバリー号とHALに「自滅」を命じなければ主人公たちが助からない、という状況が生まれ、HAL設計者のチャンドラー博士がHALの説得にあたる。この映画でいちばん盛り上がるのがここのサスペンスで、木星の異変を調査するために発射のカウントダウンを止めようとするHALと、なんとかHALをごまかして「自己犠牲」を強いようとするチャンドラーのやりとりが面白い。結局チャンドラーが自分たちが危ない状況であることをはっきり打ち明けたことでHALは納得、自らの犠牲を受け入れる。この辺もアシモフのロボット三原則っぽいんだよな。コンピュータであるHAL自身に自己犠牲への覚悟とか陶酔感のようなものはなく、機械的計算と論理性で自身の行動を判断してるのだけど、人間としてはチャンドラー博士でなくても泣けてしまう。「一緒にいるよ」とまで言ってしまうチャンドラーに素早い退去を指示するやりとりも泣ける。前作の印象から一気に「いいやつだなぁ」へと大転換してしまうのだ。

 ラストでそのHALのもとにボーマンが現れ、最後の指示として、地球人類へのメッセージを発信させる。そして不安がるHALを優しく自分のもとへと導く。ま、、いわば「成仏」したようなものだが、ボーマンは知的生命の集合体みたいなものに合流しているらしく、コンピュータであるHALもまた「知的生命」の一つとしてそこへ合流していった…ということになるみたい。人間を含めた生命体だって煎じ詰めればかなりデジタルなつくりであることが分かってきている今日では、素材がなんであろうと「知的生命」として区別はない、という話にますますなってきてるような。

 と、そこは感動ポイントではあるんだけど、このHALが発信するメッセージがねぇ。エウロパで生命を進化させてるから近寄るんじゃない、というのはいいんだが、米ソによる核戦争を避けさせるべく「平和の呼びかけ」をするのが、妙に親切あるいはオセッカイというか(宇宙のオセッカイ!)、いや戦争回避はいいことだと思うんだけど、宇宙規模のスケールのことをやってる連中がえらくスケールの小さい呼びかけをしてるなあと…前作で猿人に進化をうながす時に「武器」の使い方を教えてたじゃん(猿人が勝手に応用したかもしれんけど)、とツッコミたくもなる。
 映画では出てこない話だが、「2001年」でも当初はスターチャイルドになったボーマンが核弾頭搭載の軍事衛星を破壊するといったシーンが予定されていたが結局カットされたという。「2001」を作ったころはそれこそ冷戦真っ盛りのころだし、原作者クラークも核戦争勃発を深刻に心配していて作品にも反映した、それが「2010」ではもっと直接的に出ちゃった、ということだろうか。実際の2010年どころか2001年を前にソ連は消滅しちゃったけどね。

 映画のクライマックスで、木星が大量のモノリスに飲み込まれ、新たな「太陽」となって、エウロパの声明をはぐくむことになる。木星は「太陽になりそこねた星」と言われるくらいで、逆にそれを「太陽」にしてしまおうというアイデアは恐らく多くのSF作家が思いついたのだろう。奇しくも同じ1984年に公開された日本のSF映画「さよならジュピター」も木星太陽化計画が話の軸になっている(結果的に太陽化じゃなくてただの獏はになるけど)。アイデアの一致は偶然だろうが、「さよなら」が異星人との間接接触ネタを無理矢理入れたのは「2001」を意識したんじゃないかなぁ。

 原作者クラークは晩年までこの「宇宙の旅」シリーズを書いていて、「2061年」「3001年」と続いていくのだが、今のところ映画化は実現していない(「3001年」はリドリー=スコットらでテレビシリーズ化が発表されたけど流れたのかな?)。もしかして実際に2061年になるまでお預けかな…?(2019/4/20)





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