「マトリックス」 The Matrix 1999年・アメリカ |
○監督・脚本:ウォシャオスキー兄弟(アンディ/ラリー)○撮影:ビル=ポープ〇美術:オーウェン=ペーターソン○音楽:ドン=デイヴィス〇アクション監督:ユエン=ウーピン○製作:ジョエル=シルバー |
キアヌ=リーブス(トーマス・アンダーソン/ネオ)、ローレンス=フィッシュバーン(モーフィアス)、キャリー=アン・モス(トリニティ)、ヒューゴ=ヴィーヴィング(エージェント・スミス)、マーカス=チョン(タンク)、ジョー=パントリアーノ (サイファー)、グロリア=フォスター(オラクル)ほか |
二年近く前にNHKのBSで放送していた「マトリックス・リローデッド」「マトリックス・レボリューションズ」の2作の録画をようやく見たので、その流れで第一作目のDVDを引っ張り出して鑑賞してみた。たぶんDVD購入直後以来の鑑賞だと思う。確認してみてちょっと驚いてしまったのだが、「マトリックス」第一作目の公開は1999年。実に20年も昔のことになってしまったのだ。DVDの発売はそれからしばらく経ってからだろうが20世紀中のことには違いなく、僕も発売当日くらいに購入したはずで、このDVDももう20年くらい前のもの、と気づいてちょっと愕然とした。当時はDVD普及率はまだまだで、僕は珍しくこれに関しては早物買いの部類だったのだが、この「マトリックス」がDVD普及を急激に広げた(PS2が多かったみたいだが)原動力となったのも確かなようだ。 さて、今となってはそんな古い作品となってしまった「マトリックス」だが、今見てもその斬新さ、面白さは失せてないと思うし、SF映画史上の画期的一本には違いないと思う。もはや「古典」といっていい存在で、今後もその存在感は揺るぎないと思う。まぁ正直なところこの一作目だけの話だが。 「今自分が見ているこの世界は、もしかして全て幻影、幻想なのではあるまいか?」というテーマ自体は目新しいものではない。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」が有名だが、同様の発想自体はそれこそ有史以来あるのだと思う。「マトリックス」序盤でも主人公が「現実としか思えないような夢」について語る部分があるが、これも中国古典で「胡蝶の夢」と呼ばれる話と通じるもの。こうした「古典的」な発想をベースにしつつ、それを「仮想空間」という、ゲームなどで現代人にはおなじみのギミックでイマ風に仕立て上げ、さらにその仮想空間の中でそれこそゲームかアニメみたいな戦闘映像による味付けをしたのが「マトリックス」ということになるだろう。 公開当時も「攻殻機動隊」(のアニメ映画のほう)など日本アニメの影響が日本では大きく取り上げられたが、他にも「元ネタ」はたくさんある。ブルース=リーを思わせるカンフーアクション(だいたい「考えるな、感じるんだ」ってセリフがそのままある)やジョン=ウーの黒服に二丁拳銃の「弾丸バレエ」なスローモーション銃撃戦など、香港映画からの引用も目につく。アクションシーンでは香港カンフー映画にあるワイヤーアクションが採用され、その道の巨匠であるユエン=ウーピン(袁和平)を招くということまでしている。またSF設定では明らかにギブスンの古典サイバーパンク小説「ニューロマンサー」の影響があり(これも日本が重要要素)、聞くところでは映画の生みのウォシャオスキー兄弟は初めは「ニューロマンサー」そのものの映画化を目指していたというから当然ちゃあ当然なのだ。 こうしたマニアというかオタク的といいたくなる要素がゴッタ煮状態になりつつ。高尚な哲学的要素も味付けに加わり、それらをスタイリッシュにカッコよく映像化した。特にこの映像のクールさは特にこの一作目でほれぼれするほど出ていて、今も新鮮さが色あせない。なまじヒットした二作目以降はちとそのカッコよさに陰りが出ちゃったような気もしてるけど。 主演はキアヌ=リーブス。いろんな血が混じって東アジア的な顔立ちでもあるところが、この何となくアジアチックな要素の多いこの作品にぴったりだった。「スピード」の主役でスターになるも、その続編では姿を消していて「一発屋」みたいに言われていたものだが、この「マトリックス」のヒットで返り咲いた、というのが当時の印象だった。 このキアヌが演じるのが「トーマス=アンダーソン君」。今風のIT企業に勤めつつ、陰で「ネオ」と名乗る天才的ハッカーとして小遣い稼ぎをやってたりするのだが、自分の日常になんとなく「違和感」を感じている。そんな彼にトリニティ(演:キャリー=アン・モス)という美女と、モーフィアス(演:ローレンス=フィッシュバーン)という男が接触してきて、彼に何か重大な事実を告げようとしてくる。一方でハッカー行為の捜査のためにエージェント・スミス(ヒューゴ=ヴィーヴィング)がトーマスの勤務先にやって来て彼を逮捕、取り調べの中でトーマスの口が文字通り「閉じ」られてしまったり、体内に発信機のようなものを埋め込まれたりといった不思議な現象が起こる。そこで目が覚めたので夢だったかと思うトーマスだったが、トリニティらに体内の発信機を摘出され、それが夢ではなかったことを悟る。 ところがところが、トーマスの前に現れたモーフィアスは、トーマスが現実と思っているものこそ夢、というか機械によって見せられている仮想現実であって、人間はそのほとんどが機械たちに電気を供給する「電池」とされ、仮想現実の夢を見させられているのだと教えられる。モーフィアスは赤と青のドロップを取り出し、トーマスにこのまま夢を見続けて仮想現実世界に残るか、目を覚まして現実の世界に入るか二者択一を迫る。トーマスは当然「目を覚ます」方を選ぶことになるのだが、モーフィアスは彼こそが人類を救う「救世主」であると信じていたのだった。 …とまぁ、快調に進む前半。「目覚め」たトーマスは下水道のようなところへ落ちてゆき、モーフィアスたちの乗る船「ネブカドネザル」に拾われる。ところで「ネブカドネザル」といえば歴史上実在した王の名前だが、特に「バビロン捕囚」を行った「ネブカドネザル2世」が聖書を通じて欧米ではよく知られている。そう言えば「トリニティー」もキリスト教の「神と子と聖霊の三位一体」を意味する言葉だし、「救世主」の出現を預言(オラクル)される状況がそもそもキリスト教チック。「モーフィアス」はギリシャ神話の夢の神なので全部が全部聖書ネタというわけでもないふが、この話自体が黙示録的というか宗教的な味付けが目につくんだよな。もちろん意図してやってることで、それはシリーズを追うにつれ明白になっていく。 現実世界に「救出」されたトーマスこと「ネオ」は、モーフィアスの指導のもと、仮想空間「マトリックス」内で戦えるように特訓を受ける。仮想現実の中のことなので、当人が「その気」になれば人間ばなれしたジャンプ力や戦闘力も持つことが可能で、劇中でも柔道やカンフーの技やヘリの操縦法までプログラムのコピー一発で習得してしまうという描写がある。この設定のおかげでアニメやカンフー映画みたいな。かなり現実離れしたアクションシーンに説得力が持たせられるようになり、この映画のウリとして予告編でさんざ流された「バレット・タイム」(多数のカメラで被写体をぐるりと囲んで撮影し、静止あるいはスローの被写体をカメラが高速で回転してる感じの映像にする)もこの設定があればこそ生きてくる。余談ながら2003年のNHK大河dラマ「武蔵」でも巌流島の決闘でこれをそのまんまやってしまい、かえって失笑を買っていたような。これ、結構手間がかかるのも事実のようで、「マトリックス」でも2、3か所くらいしか使っていないような。続編以降はCG処理で済ましていたようだ。 「マトリックス」で電池にされていた人間たちは首の後ろに接続プラグのような穴が開いていて、ここにコードを接続することで脳が仮想空間と直結され。そちらの世界に「入る」ことができるようになっている。仮想空間に入った者たちに現実世界から指示を送るオペレーター役もいて、その通信手段が電話であるところも面白い。1999年の映画なのでスマホは出てこず、今や懐かしくなった折り畳み携帯電話が登場するが、これも「マトリックス」が20世紀末の世界を「仮想現実」にしてるという設定のおかげで特に古びることもない。というか、この「マトリックス」世界は予言者オラクルの家などに顕著だが、むしろ20世紀末にしては古風と思える建物デザインも良く出て来て、かなり旧式の黒電話も登場している。 オペレーターが眺めているモニター画面は、仮想現実の世界を覗いてる割には、パソコン初期を思わせる真っ暗の画面に文字列だらけであるのも面白い。仮想現実世界の映像は映画の中でやってるので、モニター上に同じものが映っても興ざめするからだろう。このモニター、ときどき半角カナが縦に流れていたりするが、これは「日本のパソコンはそうなってる」と嘘を吹き込んだやつがいたらしいんだな。 このモニターを眺めて、「マトリックス」に入った仲間に的確な指示を出すのが、タンク(演:マーカス=チョン)。黒人なんだろうけど色々混血してるのか、一種独特の顔立ちをしていて、一度見るとなかなか忘れられない顔をしている。オペレーターというう脇役ながら「マトリックス」という映画のイメージを強く象徴するやらだったように思うのだが、続編への登場はなく、「リローデッド」の前に戦死したことにされてしまった。実は当初は再登場予定だったのだが演じたマーカス=チョン側が出演料の大幅アップを要求してトラブったために降ろされたのだという(増額要求したところを見ると彼の側でもこの役の重要性をそう理解していたのだろう)。僕はこの降板をかなり惜しんでいて、このタンクが2作目、3作目に登場していたらずいぶん印象が違っていたのではないかと思っている(代わりのキャラが出てくるけど雰囲気はぶいずん違うよね)。 緑色の文字でが出るモニターの話で思い出したが、「マトリックス」の仮想現実世界、よく見ると全体に緑色っぽいフィルターがかかってるような色合いにしてあって、どことなく現実じゃないんだよ、と観客に分からせる工夫もしている。一方の現実世界の方は、この一作目では船内しか描かれないけど続編に出てくる「ザイオン」も含めて、全体に機械油臭いというか、悪い意味での「人工的」な感じを強く出している。見るからに不衛生そうだし、メシも明らかにマズそう。 そんな「現実」に幻滅し仮想の方に逃避したくなる者が出てくるのも当然…とやっぱり思えちゃうんだよな。。ややネタバレになっちゃうけど「ネブカドネザル」乗組員の中から裏切り者が出てしまう。仮想だろうが電池にされてようが、それを脳が現実と受け止めて「いい暮らし」が感じられていればそれはそれで幸福じゃないの、という話ではある。怖い話だが裏切る心理も結構納得なのだ。裏切り者が出るのはこの一作目だけなのだが、この「仮想で生きるのもアリなのでは」という問いは続編でより深められていくことになる。 この裏切り者のせいで「ネブカドネザル」の乗組員たちの多くが命を落とし、リーダーのモーフィアスは「マトリックス」内で敵の捕虜となる。トーマスこと「ネオ」とトリニティはモーフィアスを救出すべく「マトリックス」仮想世界に飛び込み、以下これでもかこれでもかの現実離れした大暴れを展開する。仮想現実だから、精神力で可能ならばもうなんでもアリってわけで、ここからラストまではこの映画ならではの見せ場の連続だ。 かなりアニメチックかつ絶対ジョン=ウー映画の影響受けてる二丁マシンガンでのハデハデな撃ち合い、ビルの屋上での銃弾スローモーションに例の「バレット・タイム」演出。敵となる「エージェント」たちはそこらにいる警備員でも市民でも誰にでも乗り移れる(仮想世界内のプログラムですからね)ので、ネオたちは誰でも構わず襲ってくる連中を皆殺しにしちゃう。ここでエージェントに乗っ取られたり警備員の仕事として抵抗してる人たちもそれぞれ眠りについてる「本体」があるはずで、ネオたちがやってることって大量虐殺なんじゃ…と当時から気になってるんだけどね。 クライマックスでは、仮想空間だけでなくリアル世界でも機械軍団たちが「ネブカドネザル」を襲ってくる。リアル世界での人類の根拠地、地下にあるという「ザイオン」は結局本作では描かれずじまい。尺の長さと予算の都合でカットになったのだろうが、幸いこの一作目のヒットにより続編が製作されて「ザイオン」の実態が日の目を見ることになる。もしこの一作目だけで終わっていたら、そうした構想も幻のままに終わったはず。 本作のラストは、まさしく「俺たちの戦いはこれからだ!」という終わり方で、まぁここで終わってもそれはそれで…という形にはなっている。続編が製作されたことでテーマ的には深くなっていくことにもなるんだけど、いまこうして一作目を見ると続編制作は結局幸福だったのかどうか、という気もしてきちゃうんだよな。(2019/2/15) |