「マトリックス リローデッド」 The Matrix Reloaded 2003年・アメリカ |
○監督・脚本:ウォシャオスキー兄弟(アンディ/ラリー)○撮影:ビル=ポープ〇美術:オーウェン=ペーターソン○音楽:ドン=デイヴィス〇アクション監督:ユエン=ウーピン○製作:ジョエル=シルバー〇製作総指揮:ブルース=バーマン/グラント=ヒル/ウォシャオスキー兄弟 |
キアヌ=リーブス(トーマス・アンダーソン/ネオ)、ローレンス=フィッシュバーン(モーフィアス)、キャリー=アン・モス(トリニティ)、ヒューゴ=ヴィーヴィング(エージェント・スミス)、ハロルド=ペリノー・シニア(リンク)、モニカ=ベルッチ(パーセフォニー)、ランバート=ウィルソン(メロヴィンジアン)、ジェイダ=ピケット=スミス(ナイオビ)、コリン=チョウ(セラフ)、ヘルムート=パカイティス(アーキテクト)、グロリア=フォスター(オラクル)ほか |
映像革命とまで言われた大ヒット作「マトリックス」の続編。4年近く間を置いているんだけど、この第2作「リローデッド」と第3作「レボリューションズ」を同時並行で製作、同年内に次々公開して三部作で完結、ということになった。シリーズ数本分を同時並行で製作するという方式は古くは「三銃士」と「四銃士」、「スーパーマン」と「スーパーマンII」、「マトリックス」シリーズと並行していた「ロード・オブ・ザ・リング」三部作などがあり、まとめて作ることで製作費を節約できるメリットがある。もちろんシリーズで当たるという見込みがなきゃできないけど。「マトリックス」だってあんな大ヒットにならなけりゃあの一作目でキッチリ終わってたわけだし、そうなってもいいように作ってはあった。大当たりしたので三部作構想実行ということになったわけだけど、結果からいうとそれは幸運だったといえるのかなぁ…というのが僕の本音。まぁ作り手のウォシャオスキー兄弟にとっては当初の構想を全部生かせるから嬉しかったろうけど。 シリーズ2作目「リローデッド」では、前作で存在だけは口にされながら描かれることのなかった人類最後の砦、地下都市の「ザイオン」が詳しく描かれ、仮想空間ではない「現実」の世界に生きて「マトリックス」を支配する機械たちと対決する人間たちが大勢登場する。予算もあるせいか(笑)前作でイメージされたよりもずっと巨大な地下都市として「ザイオン」は描かれ、全体的に油臭く泥臭く、ともすれば原始的にも見えるが、やはりそれなりに大掛かりな機械文明を抱えていて、しっかりした政治組織や軍事体制、いくらかのグループ対立なんかもあることが分かってくる。主人公チームのモニター役も前作のタンクは死んだことになり(ギャラで揉めたため)リンク(演:ハロルド=ペリノー・シニア)というだいぶ雰囲気の違う真面目キャラに交代となった。 機械軍団と戦うからなのか、「リローデッド」のザイオンでは土俗的とも思える人間たちの生きざま、、直接的に言っちゃうと情熱的なセックスが描かれる。前作でどうやら恋人同士になったらしかったトーマス=アンダーソン君ことネオ(演:キアヌ=リーブス)とトリニティ(演:キャリー=アン・モス)も、いきなりなんで見てるこっちも恥ずかしくなっちゃうほどの情熱シーンを展開しちゃう。これも伏線のうちではあるんだけど。 そんなザイオンに危機が迫っていることが明らかになる。「マトリックス」を支配する機械軍団側がザイオンへの本格的な大攻勢をかけてくるというのだ。タイムリミットはなんと72時間。この切迫した状況のなか、前作でも出てきた人類の見方である「マトリックス」内の予言者「オラクル」(演:グロリア=フォスター)に会うべく、ネオ・トリニティ・モーフィアス(演:ローレンス=フィッシュバーン)の三人は「ネブカドネザル」に乗り込み、仮想世界「マトリックス」に乗り込んでゆく。 「マトリックス」の方でも新キャラ続々で、オラクルの忠実な従者セラフ(演:コリン=チョウ)はネオの腕を試すと言って、中国風食堂でカンフー対決を見せてくれ、続編まで結構カッコイイ存在感がある。「マトリックス」の中核ソースまでの道しるべをもつ「キー・メーカー」(演:ランドール=ダク=キム)というオジサンもまた、その東アジア人の容貌に僕などは親近感を覚えてしまうな。東アジア人といえば「ミフネ隊長」なんてのが登場して日本の映画ファンを驚かせたが、彼の活躍は次作なのでそっちのほうで。 「キーメーカー」の争奪戦がこの作品の中盤を盛り上げるが、その「キーメーカー」を収監してるのがメロヴィンジアン(演:ランバート=ウィルソン)という何だか正体不明の組織の親分で、フランス語がお好きなキャラ。その妻パーセフォニーを演じるのはイタリアの至宝とまで言われた美女・モニカ=ベルッチ。彼女の「マトリックス」シリーズへの登場は、このシリーズもまた「大物」になった感じがしたもんだ。こちらのサイドはその子分たちも含めてヨーロッパ系で固められてる印象で、主役のキアヌ=リーブスはちょうど西洋東洋ミックス顔、という構図になってもいるわけだ。 これらの新キャラたちはみんな実在の「人間」ではなく、設定的には「エグザイル」と呼ばれる、仮想空間内を独自に「生きる」プログラムということになってるからややこしい。この設定は映画を最初に一度見ただけではほとんど分からないと思う。この辺も作り手たちは当初から構想してたことなんだろうけど、この二作目から難解度がグッと増しているのは確か。ま、なにげなくアクションシーン眺めてても楽しめるようにはなってるけどね。 前作に続けての登場となる宿敵エージェント・スミス(演:ヒューゴ=ヴィーヴィング)。前作で「ここは臭いが好かん」とか言って、単なる監視プログラムにとどまっていなそうな感じを見せていたが、ネオに倒されたたえにかえって「タガ」が外れてしまい、もともと持っていた他人を乗っ取る能力がパワーアップ、無数のコピーを作ってネオに襲いかかって来る。この大量コピーのエージェント・スミスとの大乱闘シーンは、ほとんどギャグに見えてしまって、最初に劇場で見た時は笑いを噛み殺したものだ(笑)。 そのエージェント・スミス、本作では「マトリックス」内に入り込んでいた「ザイオン」側の人間であるベイン(演:イアン=ブリス)を乗っ取ってしまう。つまり現実に存在する人間が仮想空間内に入っている時に、その精神を自分のプログラムのコピーで上書きしてしまうんである。「マトリックス」内では生きてる人間の精神だろうが純粋なプログラムだろうが基本的に区別はなく、生きてる人間の精神活動だって煎じ詰めれば電気信号の集まりでデジタル的なものなんだから「上書き」は可能、ということなんだろう。いきなりこういう場面が出てきたので当時いささか理解しにくかった覚えがある。それは本作のラストから次作に続く仮想世界と現実世界の境界を越えた戦いを理解できるかどうかにも関わってくる。 難しい話はおいといて、とばかりに本作で最も派手に展開されるのが、モーフィアス・トリニティと、メロヴィンジアンの部下の双子との間で繰り広げられる「キーメーカー」争奪の大カーチェイス。このチェイスシーンの舞台となる高速道路、既存のものではなく映画撮影のために2kmばかり建設しちゃったもの、と知って当時は「ハリウッドの大作となるとやることのスケールが違う」とたまげたものだ。あとで聞いた話では当初は実在する高速道路でロケする予定だったが、そっちのほうが高くつくと分かって「建設」という選択をとったんだそうだが。 まぁとにかくこのチェイスシーンは、映画史上でも指折りのチェイスシーンではないかと。普通のアクション映画と違って、こっちは「仮想世界」なものだから、もうやりたい放題(笑)。双子キャラはどんどん他人に転移・変身して前から後ろから自由自在に攻めてくるし、状況も二転三転を繰り返し、それもずっと高速で走りながらなので、これで盛り上がらんでどうする、という感じ。しまいにはモーフィアスが日本刀で車をぶった斬ってしまう始末。この日本刀で思ったけど、「エージェント」たちの黒スーツとかも含めてタランティーノ映画と通じるところがあるな。もちろんその両者の源流に日本映画や香港映画のヤクザもの、アクションもの映画の存在があるわけで。 すったもんだの末に、ネオは「マトリックス」の中心ソースに入り込み、そこで「マトリックス」を生み出した本人(「人」ではないみたいだけど)である「アーキテクト」と対面する。ヘルムート=バカイテスという全然知らない俳優さんが演じてるのだが、一時期のドナルド=サザーラントに似た風貌で貫録は確かにある。 で、「マトリックス」の生みの親、つまりは主人公にとってラスボスに当たるはずの「アーキテクト」なんだが、彼はネオに思いがけない事実を告げる。以前に「マトリックス」のシステムは崩壊の危機にさらされたことがあり、それを回避するために「アーキテクト」はあえて「マトリックス」と敵対する人間集団が生まれるように仕向けて、彼らの「救世主」となる人間も仕立てていた。その歴史は繰り返されていて、ネオは実に6番目の「救世主:なのだと。つまり、ネオたちがやってた必死の戦いも、実は彼の計画の一部であり、その手のひらで踊っていただけだったというわけだ。これ、確かに衝撃的な真相なんだけど、なんか僕はデジャブがあったんだよな。他のSFで似た設定があったのかもしれないが、どうしても頭に浮かんでこない。何かでそういう設定を聞かされたことでもあったかな。 ネオも「救世主」としてアーキテクトに最初から仕込まれていた、ということになると、彼らは実体をもつ人間の精神もプログラムとして組むことができる、ということなのかな。上でも書いたスミスが人間の精神を上書きして乗っ取ってしまう話とも通じてくる問題で、プログラムたちにも人格があるようだし、彼らと現実の身体をもつ人間との違いは何か?ということにもなってくる。実際、アーキテクトは「マトリックス」システムを、電気供給のための「電池」とされている人間たちの安寧も願っている様子で、仮想世界を現実と思いこんで眠っていようと、それはそれで彼らを生かして幸せに存続させてるじゃないか、という考えのようだ。 そしてアーキテクトは、ネオには「愛」という不確定要素を与えていることを明かす。まぁなんでも計算通りにいくようにすると誤算も出るので不確定要素を入れておく、ということなんだろう。その「愛」によってネオとトリニティは恋人関係になったわけだけど、そのためにネオはトリニティが死ぬという予知夢を見え悩まされている(このあたりは同時期の「スターウォーズEP3」と似てる)。個人に過ぎないトリニティや下手すると人類を滅ぼしかねないザイオンを選ぶのか、それとも人類存続のため「マトリックス」を選ぶのか――という、一作目の目覚めの時よりやっかいな選択をネオは迫られる。ストーリー的には当然トリニティの方を選んでしまうのは分かり切ってるんだが…。映画としては「最後に愛はかつ!愛は最強!」ってところに持ってくのがセオリーというやつなのかなぁ、とこの終盤の展開を見ていて思ったものだ。これも次作になると…という話はそっちに回して。 ラスト、仮想空間ではなく現実世界で襲ってくる攻撃機械「センチネル」が、ネオの手かざし一発で倒され、観客が「あれぇ?」と思っているうちにネオは気絶、エージェント・スミスに心を乗っ取られたベインと隣り合わせに寝かされているシーンで映画はいきなり終わり「以下次回」となる。いよいよ仮想世界と現実世界の垣根が怪しくなってきて、当時僕もよくわからんまま次回「レボリューションズ」を待つこととなった。(2019/3/11) |