「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」 STAR WARS:Episode 4 A NEW HOPE 1977年・アメリカ |
○監督・脚本・製作総指揮:ジョージ=ルーカス○撮影:ギルバート=テイラー〇美術:ジョン=バリー○音楽:ジョン=ウィリアムズ〇SFX:ジョン=ダイクストラ〇製作:ゲイリー=カーツ |
マーク=ハミル(ルーク・スカイウォーカー)、キャリー=フィッシャー(レイア・オーガナ)、ハリソン=フォード(ハン・ソロ)、アンソニー=ダニエルズ(C-3PO)、ケニー=ベイカー(R2-D2)、ピーター=メイヒュー(チューバッカ)、ピーター=カッシング(ターキン総督)、デビッド=プラウズ(ダース・ベイダー)、ジェームズ=R=ジョーンズ(ダース・ベイダーの声)、アレック=ギネス(オビ。ワン・ケノービ)ほか |
2019年年末、「スター・ウォーズ EP9 スカイウォーカーの夜明け」が公開され、「スター・ウォーズ」シリーズの「全9部作構想」は一応完結した。今後も同シリーズは続けられるが、一時はジョージ=ルーカス自身も構想していた全9作の「スカイウォーカー・サーガ」は終わることになった(たぶん)。これを機会にDVDで持ってる過去8作を順番に見て「徒然草」に追加してみることにした。 このシリーズ、「見る順番」がよく議論になるが、僕自身はやはり「公開順」に見るのが正解だと思っている(似た議論はアシモフの「ファウンデーション」シリーズでもあるんだよな)。そんなわけで今回の「スター・ウォーズ再観賞大会」(仮)はこの公開第一作、当時はただの「スター・ウォーう」と題されていた「エピソード4/新たなる希望」から始めることにする。 この最初の「スター・ウォーズ」の公開は1977年。僕はこの「旧三部作」世代に入ると言えば入るんだろうが、年齢が幼かったためか、この映画の公開をまるで覚えていない。当時映画館まで行って見るものといえばアニメ映画ばっかりで、「スター・ウォーズ」」については親も僕も関心がなかった、とうことなんだろう。その後「ドラえもん」でパロディやってたりしていたから「スター・ウォーズ」」」の存在自体は知るようになったけど、最初の三部作はどれも映画館では見ていない。見る機会を得たのは我が家にビデオデッキがようやく導入された、僕が大学生になってからのことなのだ。 確かこの「新たなる希望」を最初に見たのは、TBS系の「水曜ロードショー」で一部カット版が放映された時だったと思う。公開からずいぶんたっていたけど僕には大変新鮮な初鑑賞体験だった。 「昔々、はるかかなたの銀河系で…」の文字列のあとにジョン=ウィリアムズの壮大なテーマ曲と共に「STARWARS」のロゴと共に、宇宙空間をバックに石板にでも書かれたような「それまでのあらすじ」みたいな説明文が続く。最初に見た時、やはりこれは強いインパクトがあった。SFなんだけど「昔ばなし」という設定、説明される銀河帝国とそれに抵抗する反乱軍の戦い、超兵器デス・スター、そのリーダーのレイア姫…と、昔々の英雄伝説的な状況説明にまずワクワクしてしまう。 そして画面下にデーンと惑星が映り、その上を宇宙船が画面奥へと飛んで行く。その宇宙船に攻撃をかけながら追って来る巨大戦艦「スターデストロイヤー」が画面上半分を占領して画面にズズンと入って来て、その船体が延々と移り続け、「えー?まだ続くの?」とそのサイズに驚かされてしまう。この場面、何度も見てるとさすがに「まだまだ続く」感はかなり減るのだけど、最初に見た時のインパクトは我が家のさしてデカくもないテレビ画面でも相当なものだった。公開当時に劇場であれを見た人はそれこそビックリしただろう。まさしく映画史上に残る、映画そのものを変えてしまったかもしれない名カットだ。 そのあとダース・ベイダー(演:デビッド=プラウズ/声はジェームズ=R=ジョーンズ)の登場、レイア姫(演:キャリー=フィッシャー)の捕縛、R2−D2(演:ケニー=ベイカー)とC-3PO(演:アンソニー=ダニエルズ)のロボットコンビが宇宙船を脱出、砂漠の惑星タトゥーインに降り立って別々に行動、結局スクラップ屋ジャワ族に改宗されて再会することになる。有名な話だが、特にこの部分が黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」の冒頭、千秋実と藤原釜足の演じる百姓二人がケンカ別れして合流するまでの描写をヒントにしている。ルーカスは「隠し砦」の「一番身分の低い者の視点から物語る」ことに刺激され、「スター・ウォーズ」で脇役ながら全体の見届け役にもなるロボット二人を設定したと明かしている。紙芝居風の画面転換も含めて確かによく似ているのだが、二人と二体のキャラはだいぶ異なる。C-3POはイギリス執事風にバカ丁寧だが役にも立たずひたすらしゃべりまくり、R2-D2の方は言葉は全部電子音だがちゃんと感情は表現でき、コンパクトでかなり非人間的体型ながらかなり役に立つ、という、なかなか考えられたコンビだ。最初に見た時、特にR2の可愛さに参ったものだ。 このロボットコンビが農場主に買い取られ、そこにいる柔道着(?)姿の少年がルーク=スカイウォーカー(演:マーク=ハミル)。本作の主人公登場である。主人公にしては映画全体の中では登場が遅いが、まぁこれはほぼ群像劇だから。少年ルークは叔父夫婦に育てられ、農場で働いているために友人たちのように星を出て大学に進学したりといったことができず鬱屈している。この部分、僕が最初に見たTV放映版ではごっそりカットされていたのだが、それでも状況はだいたい察せられる。こんな少年が、お姫様の助けを求めるメッセージを見て、隠者の老人オビ=ワン=ケノービ(演:アレック=ギネス)から父親が「ジェダイの騎士」で、ダースベイダーなる者に殺されたと聞かされ、叔父たちが殺されてしまったために生まれた星を旅立つこととなる…という序盤の展開は、ルーカスが世界の英雄物語を研究してシナリオを描いたというだけに王道といえば王道。 星から旅立つために宇宙空港へ行ってアブなそうな人たち満載の酒場で、密輸商人のハン・ソロ(演:ハリソン=フォード)とチューバッカ(演:ピーター=メイヒュー)の二人と出会う。このあたりは明らかに西部劇風味。もっともその酒場でオビ・ワンがならず者の腕を斬り落とすシーンは「用心棒」からの引用だけど(「用心棒」はそもそも西部劇なんだよな)。ここで初登場するハン・ソロは外見は二枚目だけど不良性をぷんぷんさせ、借金のために命まで狙われてることもあってカネにも結構汚い。一見ポンコツの「ミレニアム・ファルコン」を操って帝国軍相手にスピードと戦闘で勝負する度胸もある。ルークにとっては兄貴分的存在になってくわけだけど、このキャラの存在が「スター・ウォーズ」」にとって非常に大きかったんじゃないか…ということを「エピソード1」からの三部作の不評、「エピソード7」の思いのほかの好評のときに感じたものだ。 ソロが賞金稼ぎに狙われるシーンで「ジャバ・ザ・ハット」の名が出る。1990年代になって「4」「5」「6」の旧三部作をCG加工などでデコレーションした「特別編」でこのジャバ・ザ・ハットとソロが直接会話するシーンが追加されて話題になったが、当初は出す予定で撮影だけはしてあったんだよね。太目の俳優に演じさせてあとで着ぐるみかパペットに差し替える予定がうまくいかなかったのでボツになったものだが、CG使って見事に復活。ソロがジャバの後ろを回っていたのを「尻尾を踏んづける」演出でごまかしたのも見ものだが、特別編でもこのシーンって特に必要を感じないんだよな。ルーカスの言葉によると、ジャバは本来の構想ではもっと重要な役どころで出番も多かったようなのだ。 映画中盤は帝国の巨大要塞「デス・スター」内での冒険。惑星一つを一撃で破壊してしまうというとんでもないパワーの要塞の中で、ルークたちは当初は自分たちの脱出のためだったが、レイア姫の救出という目的が加わる。その途中でゴミ捨て場に落ち、そこで変なモンスターに襲われ、さらに帝国軍に追われてターザンみたいな大ジャンプ、そしでダース・ベイダーとオビ・ワンの再会と決闘…と、次から次へと盛りだくさん。このあたりはルーカスが本来目指した、往年の連続活劇映画の再現なのだろうが、えらくとりとめがないというか、ゴチャゴチャした印象もある。あと、銀河スケールの話のはずが、舞台はえらく小さく、続編で分かることだが人間関係もえらく狭い。特にこの一作目は予算の都合もあったんだろうな。 です・スターから脱出すると追っ手のファイターとの戦闘。ついさっきまで涙に暮れていたのが、いきなり戦闘になって興奮、勝利の喜びに切り替わってしまうところは、「七人の侍」っぽいな、と今回見ていて気がついた。この宇宙戦闘シーンでようやくスペースオペラチックに観客を盛り上げ、終盤のクライマックス、です・スター攻略戦へと突入してゆく。考えて見るとルークって、ここまで特にパイロットの能力を披露していないのだが、いきなり攻撃部隊に加わっているんだよな。まぁ主人公だから、ということで。 このデス・スター攻略戦も「特別編」ではところどころいじられているけど大半は最初の状態のまま。1977年当時、まだコンピュータゲームの宇宙戦争ものも平面的な処理しかなかった時代に、この没入感バリバリの突入シーンは、今見てもかなり凄い。ヒントにした映像表現がこれ以前にあったのか分からないのだが(ミレニアム・ファルコンの戦闘シーンは第二次大戦の空戦映画がモデルだという)、ここの一連のシーンの作り手のイマジネーションはやっぱり驚き。突入カットをきっちり二度見せるのも新設設計。「二度」といえば、デス・スターが惑星アルデラーンを破壊する手順を一回見せておいて、クライマックスでそれをもう一回見せつつ(妙にゆっくりだけど)ルークたちの攻撃とカットバックするところなんか、映画のお手本のような見事な展開だ。 ルークがミサイルを発射する際、オビ・ワンの声がしてコンピュータを切り、「フォース」の力によって狙いを定める。まさに「考えるな、感じるんだ」的な、東洋的というか中国の仙人修行的な発想で、これはその後ますます明確になっていく。この「フォース」というのが公開当初やVHSソフトの日本語字幕では「理力」と訳されていた、というのは知る人ぞ知るだが、この訳語をつけた人は朱子学の「全てのものに理がある」という思想を参考にしたのだと思う。ルーカスもいろいろリサーチして世界観構築してるから「フォース」の発想を朱子学から得た可能性は高いんじゃないかと思う。ちなみに今調べたら、中国語では「原力」と訳してるようだ。 そんなこんなで勝利し、主人公側キャラ総登場での表彰式が行われ、チューバッカの雄たけび(メダルをもらえなかったからか?)と共にスパッと映画は終わる。ここでめでたしめでたし、オシマイということにもできる話にはなっている。もちろんルーカス自身は当初から少なくとも三作以上はかかる長大な構想を抱いていて、そのうち映画一本にまとめられる部分のみを製作したのであって、できればこのあとも作る気だったろう(ダース・ベイダーもしっかり逃げてるし)。だが興行的に失敗したらこれ一作でオシマイになるのも間違いなく、どっちに転んでもいいようには作ったわけだ。 「スター・ウォーズ」の一作目(EI4)の製作裏事情はいろんなところで紹介されてるから、ここでいちいち説明するのはやめとくが、それらの話を読んだり見聞きするほどに、「よくこの映画、完成にこぎつけたなぁ」と思うばかりだ。あちこちの映画会社に企画を持ち込むも断られ、唯一20世紀フォックスが興味を持って出資してくれたものの、理解者は社長のアラン=ラッドjr(「シェーン」のアラン=ラッドの息子さん)だけで、他の重役たちは重役会議のたびに製作中止を訴えるほどだった。 撮影現場でもスタッフ・キャストともにどういう映画なのか理解できない人が多く、それでなくても人間相手が苦手なルーカスは監督の仕事に大変な重圧があった。映画のキモである特撮の現場「ILM」も、試行錯誤もあったんだろうが趣味人の集まりすぎて全然作業が進まず、ルーカスが怒鳴りつけてハッパかけなきゃいけなかった。そんなこんなの苦労でルーカス、過労で一時ホントに倒れたりもしている。 デス・スター攻略がまだできてない段階のアラ編集フィルムを映画仲間たちに見せてたところ、ブライアン=デ・パルマはかなりの酷評、スピルバーグは「これは当たる」と太鼓判だったという。20世紀フォックスの重役たちにも同じものを見せたところ、意外にもそれまで全く理解せず中止を訴えていた重役たちが歓喜、中には涙ぐんだり、帰宅後家族に「今日は奇跡を見た」と感動を語る者さえいたとか。まだクライマックスを撮り終えてない段階だったけど、これで製作・公開までこぎつけられることになった。「七人の侍」でも似た逸話がありますね。 完成 公開の運びとなってもルーカスは失敗するんじゃないかと恐れ、情報の入らないハワイへと逃げ出した(オーストラリアという説もある)。その後空前の大ヒット(最初は上映館数も少なかったが)との情報が入り、偶然同じところに遊びに来ていたスピルバーグと「レイダース」の原型となるアイデアを話し合った、 というのも有名な逸話。 「スター・ウォーズ」は映画史上に残る空前の大ヒットを世界中で記録し、多くのファン、いわゆる「オタク層」をひきつけた。この大ヒットの要因はいろいろ言われてるけど、60年代のベトナム戦争、それに対する若者の反乱とヒッピー文化、映画では破滅的なラストになりがちな「アメリカン・ニューシネマ」の流行があって、それらが一段落もしくは飽きられたところへ、剣と魔法、姫やモンスターが入り乱れるかなり古風な冒険活劇なんだけどデザイン面では実に未来的なメカがぎっしりのスペースオペラになっているという不思議な組み合わせの映画が登場して、人々が忘れかけていた「映画の夢」にいざなったから、というのが一般的説明だろうか。僕もかなりカットされたTV版とはいえ、初見時に「なんて面白い映画だろう」とのめりこんでビデオで繰り返し見てしまったものだ。 この大成功のおかげで、ルーカスは「スター・ウォーズ」の続編製作が可能になった。そして、これまたよく知られる話だが、ルーカスは監督料を安く抑える代わりに関連商品の権利(マーチャ・ダイジング)を一括して自分に握らせることを20世紀フォックスに約束させ、結果的に2ルーカスは大もうけ、それを続編制作にまわすことができた。それによって映画会社にカネも口も出させずに自分の作りたいように映画を作る、「壮大な自主製作映画」としてシリーズを作ってゆくことになる。 今回改めて、何度目かの鑑賞をしたが、やはりこの最初の一作目「新たなる希望」は粗削りではあるけど、ゼロからいきなりこれを作ってしまった、というのはやっぱり凄いなと思った。もちろんまるっきりゼロからというわけでもなく、もともとは「フラッシュ・ゴードン」のリメイク企画から派生したものだし、古典的なスペースオペラ小説や連続冒険活劇映画、さらには「指輪物語」などのファンタジー、黒澤映画などなど、様々な先例要素を組み合わせて「新しい映画」に仕立てあげられているわけで、そうやって世界観をまとめあげたところにルーカスの手柄がある。映画は集団創作だから全部が全部ルーカスの手柄とは言えないだろうが、「スター・ウォーズ」について言えばかなりルーカス個人の意図が全体にめぐらさえた個人的作品の性格が強い。だからルーカスがタッチしなかった「7」〜「9」についてはやっぱり違和感をぬぐえないんだよなぁ、と「9」を見た直後にこの最初の一作目を見返して改めて思ったものだ。(2020/1/15) |