細川頼之
細川清氏
慈子
楠木正儀
細川頼有 後村上天皇
足利直冬 山名師氏
斯波高経 桃井直常
新開真行 三島三郎 安宅頼藤
後光厳天皇 細川繁氏
細川頼基(子役) 細川満之(子役)
北畠親房
小笠原頼清
赤松則祐
足利義詮
世阿弥(解説担当)
細川家家臣団のみなさん
京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん
ロケ地提供:河内国金剛寺
室町幕府直轄軍第12師団・第14師団
山名時氏
足利尊氏
里沢尼(利子)
佐々木道誉
◆本編内容◆
文和2年(正平8、1353)7月。足利義詮は一時山名・南朝軍に占領された京を奪い返し、一ヶ月ぶりに都入りした。しかし京はあいつぐ兵乱に荒れ果て「都」の体をなさぬ状態。義詮はただちに京の再建に着手するよう指示を出す。
しばらくして一年半ほど鎌倉にあって関東平定にあたっていた将軍・足利尊氏がようやく上洛の途についた。尊氏は途中、美濃に避難している
後光厳天皇に拝謁し、これに京から義詮も合流。9月に天皇を奉じて尊氏はおよそ2年ぶりに京に帰ってきた。久しぶりの都の光景、しかし戦乱で荒廃したその有様を見て、尊氏は義詮らに都の再建が急務と語る。
一方、京から撤退し伯耆に戻った山名時氏は山陰における勢力を拡大する一方、九州から周防・石見へと流浪していた尊氏の実子・ 足利直冬と接触し、これを旗がしらに担ぎ出す計画を進めていた。直冬は山名氏の後押しを受けて石見・安芸に勢力を拡大していく。また、周防でも 大内弘世が南朝側から守護に任じられて周防を制覇、隣国長門にも勢力を拡大していた。九州の懐良親王の勢いも上り調子で、中国・九州地方はまったく幕府のコントロールの効かない世界となっていた。
こうした周囲の状況をにらみながら、細川頼之は守護をつとめる阿波における支配を強化、国人層の家臣団化を進めていた。阿波国内における反細川勢力の筆頭・
小笠原頼清は頼之の勢いにじりじりと後退を余儀なくされ、美馬群の山間部でその地の国人たちに支えられて細々と抵抗を続けるに過ぎなかった。頼之は阿波経営の一方で父・頼春が守護をつとめていた讃岐にも手を伸ばし、弟の頼有に任せて讃岐の国人たちとの結びつきを強めようとしていた。
そんな日々にも頼之は妻の慈子や母の里沢尼
(利子)そして弟妹たちと団欒の時を過ごすこともあった。父・頼春が戦死した悲しみもようやく癒えてきて、家族とのひとときは政務に忙しい頼之の心をやすらげるものとなっていた。特に歳の離れた弟たち
(のちの頼基、満之)を頼之と慈子は我が子のように可愛がり、よく遊びの相手もしてやっている。ただ、慈子自身はいまだ自分が頼之の子を産めない事に密かに苦悩していた。
翌文和3年(正平9、1354)4月。南朝の柱石であった重臣・北畠親房がこの世を去った。ますます勢いを失う南朝だったが、中国地方に勢力を拡大し始めた足利直冬を事実上の将軍ともいえる「総追捕使」に任じて京奪回の望みを託した。裏返せばもはや南朝単独では京奪回を望めない状況になってきていたのである。5月から直冬軍は本格的に活動を開始、山名氏と呼応して中国地方はおろか忽那水軍を通して四国の伊予方面にまで勢力を伸ばし始めた。
この動きに、足利幕府は中国地方平定の軍事行動を起こすことを決定する。そして8月、阿波の細川兄弟のもとへ義詮名義で書状が届き、義詮を総大将として直冬討伐の大軍を起こすから頼有がこれに参加すること、頼之は伊予へ進出して側面からこれを支援することなどを命じてきた。頼之と頼有は
新開真行や水軍の将・安宅頼藤を呼び出して対応を練る。安宅水軍は瀬戸内の水軍とも関わりが深いので、忽那水軍の動向が探れるからだ。
「まだ確実ではないが、どうやらわしが伊予守護に任じられるらしい」と頼之は頼藤に打ち明ける。
「それは何より…しかし河野の一族が黙ってはおりませんでしょうな」と頼藤。かつて頼之の少年時代、父の頼春は伊予にわたった新田勢を討つために伊予に攻め込み、これがやがて伊予土着の有力武士である河野氏との対立を生んだ。康永元年(1342)には千丈原で細川・河野両軍が衝突し、河野軍が大敗をしたということもある。伊予守護職についても頼春が務めた時期もあれば河野氏が奪い返した時期もある。こうした経緯で河野氏は細川を一族の仇敵とみなしていたのである。ここで伊予守護職をまた細川氏がとるとなると河野氏が不満を抱き、南朝に走る可能性も十分に考えられた。
やがて10月になり、幕府はついに義詮を総大将とする直冬追討の大軍を発した。頼有は讃岐の軍勢を率いて渡海してこれに合流、頼之は正式に伊予守護に任じられ、ただちに伊予に出陣して直冬に呼応する勢力の掃討を命じられた。頼之・頼有はただちにそれぞれの方向へ出陣する。伊予には直冬に呼応する勢力が城塞を築いて立て篭もっており、頼之はこれの攻略に着手する。しかし当然ながら地元の有力豪族・河野氏の支援は受けられなかった。
義詮の中国遠征によって山陽・山陰の各地で幕府方・直冬方のせめぎあいが始まった。しかし幕府方の戦況はかんばしくなく、義詮の本隊も播磨にとどまって様子見を余儀なくされている状況であった。
12月。足利直冬は軍勢を率いて山陰を東上し、伯耆の山名一族の拠点に入った。直冬の入城を時氏がうやうやしく出迎え、城中は大いに気勢を上げる。
「佐殿(直冬)はまごうかたなき故・直義さまのお子にして源氏の棟梁の血を引きしお方。一日も早く都入りなされ、武士の棟梁の位にお就きなされんことを」
と時氏らは直冬の前に平伏する。直冬もこれに応え、「ただちに都へ攻め上ろうぞ!」と並み居る武士たちに手を振り回して叫んだ。時氏はこの戦いに南朝軍だけでなく北陸の旧直義党、斯波高経や桃井直常も呼応する手はずになっていることを直冬に告げ、
「勝利は必定」と直冬を安堵させる。しかし退出しながら時氏は息子の師氏に
「京を取るはたやすい。しかしひと月と保たぬことは前の戦でよく分かっておる」と本音を打ち明ける。
「ではなぜ直冬さまを?またわざわざ京をお攻めになるわけは?」と問う師氏に、時氏は「今はかつげるものはなんでも欲しい。わしらのような成りあがり者が兵をあげたとて誰がついてこよう…京を攻めるは幕府に我らの力を見せつけること、そして幕府の力を弱めておくためじゃ…我ら山名がより力をつけるためにな」
と凄みのある目で息子を見ながら語り、歩み去っていく。その迫力に、息子の師氏は圧倒されながら見送るのだった。
12月末、直冬を総大将とした山名軍主力の山陰軍が一気に京へと迫った。これに呼応して北陸から斯波高経
、桃井直常といった旧直義党の有力武士たちも京へ攻め上る。
この動きに南朝も応じることになる。南朝の後村上天皇はこのころ賀名生を捨てて河内の金剛寺に入りここを行宮(あんぐう)としていた。この行宮に
楠木正儀が呼び出され、河内の軍勢を率いて直冬らと呼応して京へ攻め上るよう命じられる。正儀は一言の文句も言わず命を受けて退出したが、内心この戦いが無駄なものであることも悟っていた。
「帝もわしも直冬も、みな産んだ親の妄念に縛られているような気もするのう…」と正儀は誰に語るともなくつぶやいて戦場に向かう。
各地の直冬方、南朝方の軍の京都襲来に、尊氏は敏速に対応する。尊氏は京を捨てて敵軍を京へ引き入れる策をとり、またも後光厳天皇を奉じて近江へと逃れる。これに
細川清氏も同行し、天皇の輿の周囲の警護にあたった。二度目の都落ちに辟易した顔を見せる後光厳だったが、その輿に向かって
「主上、ご案じなされますな!都はこの相模守がすぐに取り返してご覧にいれますほどに!」と清氏の声が響いてくる。後光厳はその声に思わず顔をほころばせる。
その一方、尊氏は播磨に在陣している義詮に急使を送り、京へ引き返して敵を挟撃するとの意図を伝えさせる。尊氏の書状を受けた義詮は大慌てで京へ引き返す準備を命じ、中国方面で戦っている武将たちにも上京の軍に参加するよう呼びかけを行った。
義詮の呼びかけは頼有を通して、伊予で戦う頼之のもとにも届いた。四国の軍勢を率いて畿内へ入れとの指示で、頼之は伊予の掃討戦を中止して讃岐に向かい、そこから渡海して播磨の義詮軍に合流することとする。
年が明けて文和4年(正平10、1355)1月、まず桃井直常ががら空きとなっていた京に突入。桃井軍から京占領の知らせを受けて直冬の軍勢も京へと入った。これに楠木正儀ら河内勢も合流。直冬にとっては九州下向以来の京入り、正儀にとっては三度目の京入りである。
尊氏軍が近江から、義詮が摂津から京奪回の機会をうかがう。これに対処する軍議が直冬のもとで行われる。この間に河内の後村上帝から送り込まれてきた公家の使者がやって来てあれこれと指図をしようとしたが、時氏が
「我らは佐殿を主と仰いでここに来たのだ。公家ふぜい出る幕ではない」と一喝して引き下がらせてしまう。軍議では直冬が斯波・桃井の軍勢を率いて東寺に入り東の尊氏軍にあたり、山名勢と楠木ら河内勢が西の義詮軍にあたることに決定された。
義詮は播磨で時間をかけて軍勢を集めていた。1月中には頼之および又従兄弟の細川繁氏
が率いる四国軍がこれに加わり、播磨の守護・赤松則祐、京から合流してきた
佐々木道誉といった、長年の争乱を生き抜いてきた百戦錬磨の宿将たちも加わってくる。時機よしとみた義詮は東上を開始、京への入り口にあたる摂津の神内(こうない)の山上に陣を構えて山名軍を迎え撃つことにする。
神内で両軍が激突したのは2月6日のことである。山の上に陣をとった義詮軍に対し、山名勢が怒涛の勢いで攻めかかる。頼之は繁氏とともに必死の防戦につとめるが、山名時氏自身の率いる精鋭の勢いに圧倒され、陣を突破されてしまう。敵のあまりの勢いに恐れをなして物陰に隠れた頼之の視界に、馬上で兵士たちを叱咤しながら突進していく老将の姿が目に入った。
「あれが山名伊豆守か…!」と頼之はつぶやく。
山名勢は次々と陣を突破、いよいよ義詮の本陣へと迫る。落ち着かずウロウロする義詮を、道誉と則祐が「落ち着きなされ」
とたしなめ、二人で「寒いのう」と湯なぞ飲みながら
「山名勢もなかなかやりますのう」などと笑いながら語り合っている。そこへいよいよ山名師氏率いる軍勢の本陣突入の知らせが入り、義詮の周囲にいた兵たちまでがてんてんばらばらに逃げ出してしまう。ますます慌てて
「ひとまず退こう!」と言い出す義詮に、道誉が「今さらいずこへお逃げなさる。大将たる者、我らが討ち死にするのを見届けられてからご自害そうらえ」
とピクリとも動じずに言う。則祐も立ち上がって陣幕を持ち上げ、「天下の勝負はこの一戦にあり!討ち死にして名を残そうという武者はおらぬか!」
と大声で叫ぶ。これに呼応して赤松勢が怒涛の反撃を開始、あっという間に形勢逆転して山名勢を追い散らしてしまう。
合戦が勝利に終わって後、頼之は本陣に出向いて義詮らに合戦での不始末をわびる。「右馬助(頼之)どの、こればかりは運と年の功じゃよ」
と道誉が大笑いしながら頼之をなぐさめた。退出した頼之は頼有や三島三郎らに時氏、道誉、則祐といった老将たちの勇猛さを語り、
自分がまだまだ未熟だと感じるのだった。
一方、翌々日の2月8日。比叡山に入っていた尊氏が義詮軍勝利の知らせを受け、京に向けて出陣した。その先陣を切るのは細川清氏の一隊である。清氏は雄叫びをあげて京の町を駆けてゆく。