第四十六回
「明徳の乱」


◆アヴァン・タイトル◆

 三代将軍・足利義満が次々と仕掛ける策謀と挑発に、山名氏清とその甥・満幸はついに反乱を決意、義満に対し全面戦争を挑むことになった。絶対的な権勢を築きつつある義満にとっても一か八かの賭けというべき戦いが始まろうとしている。


◎出 演◎

足利義満

山名氏清

和子

細川頼元 三島三郎

山名満幸 山名義理

今川仲秋 山名氏家

楠木正勝 楠木正元 細川満春

畠山基国 今川泰範 一色詮範 一色満範

赤松義則 佐々木高詮 山名上総介 小林上野介

山名左馬助 山名七郎 山名小次郎 

足利氏満

大内義弘

長慶上皇

後亀山天皇

世阿弥(解説担当)

京都市民のみなさん 室町幕府職員のみなさん 細川家家臣団のみなさん
室町幕府直轄軍第8師団・15師団・16師団・24師団

慈子

細川頼之


◆本編内容◆

 明徳二年(1391)十一月、将軍・足利義満の山名つぶしの策謀に対し、ついに山名氏清満幸は挙兵の決意を固めた。二人は十二月中に兵を起こして南北から京都へ攻め込むことを約して、それぞれの本拠地の丹後と和泉で戦の準備を始めていた。
 氏清は義満に対抗する旗印として吉野の南朝に接触を図った。もともと山名氏は時氏の代に南朝方について戦ったこともあり、南朝に連絡をつけるのは容易なことであった。氏清から挙兵の打診を受けた南朝であるが、朝廷とは言ってもいまや吉野の山間部に後亀山天皇 など大覚寺統の皇族と公家ばかりが細々と生き残る弱小勢力に過ぎない。伊勢の北畠、河内の楠木や大和・紀伊の山間部の豪族などのわずかな軍事力があるばかりで自ら大きな軍事行動を起こすなどとうてい不可能なことであった。しかも後亀山天皇自身が室町幕府との講和に前向きな姿勢であったため氏清の呼びかけに簡単に乗ろうとはしなかった。
 だが一部に山名氏の挙兵を「京都奪回の千載一遇の機会ぞ」ととらえて声高に叫ぶ者もいた。そうした主戦派の筆頭が長慶上皇である。弟の後亀山に位を譲って以後も彼は幕府との対決、南朝権威の復興を唱えて和平派の後亀山と対立していた。また河内の山間部に勢力を残している楠木一族の正勝正元の兄弟もこれに呼応して挙兵の準備を進めていた。

 十二月十九日、丹後から室町の幕府に急報が届いた。丹後で山名満幸が国内領地の代官を次々と追い出し、丹後や周辺国の兵を募って京へ攻め寄せる気配を見せているとの報である。「満幸め、とうとう謀反の腹を固めたか」と義満はニヤリと笑みを浮かべて言う。間もなく河内の守護代からも急報があり、和泉で氏清がしきりに兵を整えてやはり京へ攻め上ろうとしている情勢が伝えられた。義満はこれにもさして動じる色を見せなかったが、幕府に集まる諸大名の中には「六分一衆の山名が総力を挙げてくるとしたら…」と不安の色を隠さない者もいた。
 そのころ氏清は紀伊に二度赴いて兄の義理を説得し、渋っていた義理もついに氏清と共に挙兵の決意を固めた。「時煕と氏幸は敵に回ろうが、山名の一族郎党の主立った者はこれで同心した。南朝の旗印もあり、鎌倉にもひそかにつなぎをつけてござる。これで将軍と五分以上の勝負が出来ましょうぞ」と氏清は義理に言う。

 この情勢の中、京にいた山名一族やその郎党らが次々と京から姿を消す一方で諸大名の兵が京に集結し、ようやく京の人々も戦乱が迫りつつあることを悟り、家財を運び出したり郊外へ逃げ出したりと騒然とした空気に包まれていった。
 この情報は鎌倉にも届いていた。鎌倉公方の足利氏満「京の情勢穏やかならず。将軍を助けるため兵を京へ差し向けようと思う」と重臣達に表明し、兵を集めさせる一方でその旨を京の義満に書状を送って伝えさせた。
 「氏満め、このどさくさに野心をちらつかせておるな」数日後、鎌倉からの書状を見た義満は側に控える細川頼之に言った。「さきの康暦の変のおりの例もある…用心はせずばなるまい」と言う義満に、頼之が「さればこそ、山名とのいくさは一日でも早く終えねばなりませぬ」と進言する。すると義満は「わかっておるわ…このいくさ、わしは一日で片づけるつもりでおる」とニヤリと笑ってみせ、頼之を驚かせた。「一日、とおおせられますか?」「そうよ、山名の軍勢を都に入れ、これと決戦して一挙に叩きつぶす」「…将軍には初めての戦でござりましょうが…これまでの長い戦のなかで、京を守って勝てたためしは未だかつてござりませぬぞ」と頼之が言うと、「わしがその最初のためしになってみせようぞ」と義満は鋭い目つきで言い放った。

 十二月二十四日、山名満幸は数千の軍を率いて丹後から丹波へと進撃、氏清も妻の和子に見送られながら息子の左馬助七郎の二人、甥で養子にしている十七歳の少年・小次郎らと共に出陣し和泉から京ののどもとである八幡へと軍を進め、これに京から抜け出してきた甥の氏家が加わり、義理も紀伊から天王寺へと軍を進めてその後援にまわった。この事態に一応幕府側から山名一族中の長老格である義理に対して説得の書状が送られたが、義理からは「かくなる上は、もはや誰にも止められませぬ」との返答が来ただけであった。
 十二月二十五日夜、合戦の評定を行うとして義満は在京の諸将を召集した。参じたのは細川頼之、同頼元、同満春畠山基国今川泰範、同仲秋一色詮範大内義弘赤松義則佐々木高詮らである。「京に迫る山名の軍勢は、定かではありませぬが七、八千…天王寺の義理の軍も併せれば万の数に及ぼうかと」との報告に諸将の間にもザワザワと動揺が走る。「ここ数日中にも山名勢は京に押し寄せてこよう。どのように策をとるべきか、皆の忌憚ない意見を聞きたい」と義満が言い、諸将が次々と発言していく。「合戦は地の利をとるが肝要。東山の辺りに陣をとり、京に押し寄せた敵を河原のあたりで迎え撃っては」という意見もある一方で「京を守って勝ったためしはなく、しかも相手はあの勇猛な山名勢じゃ。ここはひとまず彼らの訴えを聞いてなだめ、戦を回避しては」との和平論も遠慮なく発せられていた。義満も頼之もしばらく黙ってそれらの意見が飛び交う様子を眺めていた。
 やがて義満が口を開いた。「おのおの方の意見、しかと聞いた。いずれもそれぞれに理あり。山名と和議を結んで戦を避けよとの議も一理ある。しかし」義満は一息入れ「こたびの山名の企ては単に不満の訴えがあってだけのものではない。彼らはひそかに天下を狙う野心を抱いておるのだ。いまここで彼らをなだめたところで、また種々の要求を起こしてくるは必定。その時になって討つも今討つも同じ事よ」と一気に語る。そして胸を張って諸将を眺め渡し「しからば当家の運と山名の一家の運とを天のご照覧に任すべし!」と義満は高らかに叫んだ。諸将はいっせいに義満に向かって平伏し、ここに幕府として山名一族と真っ向から戦うことが決定されたのである。「帝の勅命を得て、氏清・満幸らを朝敵とされた上で討たれてはいかが」との意見も出たが、「不要じゃ。山名は我が足利の家僕に過ぎぬ。主人に逆らった家僕を討つのに仰々しく勅命などいるまい」と義満は言い放つ。
 かくして軍評定が始められ、諸将の軍の配置が決定された。明けて二十六日、義満自身は直属部隊である「奉公衆」を率いて室町第から一色詮範の屋敷に入ったが、あくまで「主人として家僕を討つ」との趣旨から義満は烏帽子に直垂(ひたたれ)を着て「篠作」という太刀を帯びただけの姿で、従う奉公衆の武者たちも折烏帽子に素袴姿という軽装である。そして諸大名の軍勢は内野(平安時代に大内裏跡の空き地)を決戦場と定めてそれぞれの場所に布陣する。
 頼之もいったん帰宅して鎧を身につけ出陣の用意を始めた。頼元や慈子たちが「もうお年ゆえ、無理をなさらずとも」と諌めたが、頼之は「将軍が命運をおかけになる戦いに、わしが出てゆかずしてどうする」と聞かない。

 こうした京側の動きは八幡に布陣する氏清のもとにも伝えられた。「内野じゃと…東山か叡山か要害に布陣して待ち受けるかと思うたが…」氏清は家臣らと共に布陣の絵図をにらみながらつぶやく。「将軍の長いくさを避けようとの思案なのでは」「むしろこれは我らに好都合でござろう…将軍はいくさのご経験はまるでないゆえ、工夫をされなかったのでは」といった家臣達の意見を聞きながら、氏清は「これは将軍のこのいくさに対する意気込みかもしれぬな…一戦において天下の勝負を決しようとされておられるのかも…」と図面上をにらみつけ続けている。
 軍評定を終えて宿舎に下がった氏清は、一筆したためて小次郎を呼び「この戦、恐らく年の明けぬうちにかたがつこう…勝てばよし、負ければまず命はあるまい。小次郎、お前はこれから堺に赴いてこれを御台に届け、わしに万一のことがあったら開けと伝えてくれ」と命じた。小次郎は「私は義父上のもとからは離れませぬ。その件は他の者にお命じくださりませ」と答える。

 十二月二十九日の夜、山名勢は南北同時に京への侵攻作戦を開始した。八幡を出陣した氏清は氏家 らと部隊を分けて桂川に浮き橋をかけて押し渡り、これと示し合わせて満幸の軍も丹波篠村から峰の堂を経て桂川上流へ進み、山名軍は大きく三方から内野の戦場へ殺到する形勢となった。これに対して京側でも諸将の軍を手分けしてそれぞれの軍勢に当たらせるよう配置していたが、その中で細川頼之は頼元・満春と共に軍二千余騎を率い丹波からの満幸軍に対するべく大宮右近馬場付近に出陣していた。
 十二月三十日の夜が明けた。満幸麾下の丹波勢が桂川を渡って京に向かって押し寄せていたが、その中から荻野、久下、長沢ら一部の武士が寝返って脱走し、そのまま内野の義満側の陣へと駆け込んできた。彼らは頼之の陣営にやって来て降参を申し出、頼之は彼らを義満のもとへ連れていった。荻野らは山名軍の陣容や作戦を義満に詳細に語り、聞いた義満は「すでに山名勢は動き出したか…今日一日で勝負を決しようぞ」と言って「まっさきに馳せ参じるとは神妙なり。頼之の指揮下に加わって忠節を尽くせ」と命じた。そして義満も着長を着け、武士達も武装を整えて山名勢を迎え撃つべく動き始めた。
 「この晦日(みそか)に決戦か…容易ならぬ戦いになろうのう。生きて新年を迎えられるかどうか…」と頼之はそばに控える三島三郎に語る。「お互い年じゃしのう…年が明ければ共に六十四か。もう十分生きたかも知れぬ」と微笑む頼之に、三郎は「どのようなことになりましょうとも、三郎は殿と共におりますぞ」と笑顔で返した。

 卯の刻、氏清軍の先鋒として山名上総介小林上野介の率いる軍勢が二条大宮に達し、これを大内義弘軍が迎え撃った。義弘は「敵は山名勢でもその人有りと知られた猛者じゃ。我ら大内も西国で無双の武勇を誇る兵、都での初いくさで功名を挙げよ!」と三百余の兵を率いて山名軍に殺到する。義弘は自ら小林上野介と一騎打ちで激闘し、腕に負傷しながらもこれを討ち取り、山名上総介も戦死して、最初の戦闘は将軍側が勝利してひとまず終わった。

 山名満幸の軍は当初氏清らの軍と同時に内野へ殺到する手はずだったが、夜陰の進軍のうちに大将の満幸自身が迷子になってしまうというアクシデントがあり、満幸がようやく本隊に合流した頃には二条大宮の戦闘がすでに山名側の敗北で終わっていた。慌てた満幸はただちに内野へと軍を急がせる。
 進撃してきた満幸軍と最初に衝突したのは細川軍であった。頼之も陣頭に立って兵を指揮し、両軍の激闘が繰り広げられる。細川軍が戦闘状態に入ったとの知らせを受けた義満は「わしも動くぞ!武州入道を助けるのじゃ」と下知し、着けていた着長を脱ぎ捨て、フスベ皮の腹巻きを身につけて武者姿となり、直属の三千騎を率いて出陣した。義満のそばを守る今川仲秋が「おんみずから武者姿とは…」と驚くと、「主として家僕を討つのじゃ。もし氏清か満幸を見つけたら、武者どもに混じってわし自らの手できゃつらを斬って落とそうと思うての」と言って義満は腰の太刀に手をやった。
 そこへ全身返り血で赤く染まって負傷した腕を布で覆った大内義弘が到着した。「緒戦はなんとか勝ち申したが間もなく氏清が大軍で攻め寄せて参りましょう。我が兵はすでに戦い疲れておりますゆえ、急ぎ入れ替えの兵をお与えくだされ。この義弘が討ち死にしては将軍のために命をかけて戦う勇士がいなくなりますぞ」と豪快に笑って言う義弘に、義満が「今朝の合戦の忠義、まことに比類なし。この刀でもうひと合戦せよ。苦戦となればこのわし自らが援軍に赴く」と讃えて腰の太刀を授け、二条大宮を守備する赤松軍と合流するよう命じた。義弘はかしこまって退出していったが、義満の近習たちは「なんだ、あの言いぐさは」とブツブツ言っている。義満もまた義弘の後ろ姿を複雑な表情で見送っていた。

 辰の刻から開始された満幸軍と細川軍の戦闘に畠山・佐々木軍も加勢にくわわり、人馬入り乱れる激しい戦闘が展開されてゆく。ついに義満も自ら太刀を抜き放ち、「旗を進めよ!満幸ら反逆の輩を一人残さず討ち取って六条河原にさらし、以後同様の輩に悪逆の末路を思い知らせるのだ!」と叫んで太刀を振るった。これに奉公衆三千騎が「おおーーっ!!」と一斉にときの声をあげて応じ、満幸軍めがけて突撃を開始する。ここで一気に形勢が傾き満幸軍は崩壊、満幸は家臣が必死の応戦をしているうちにどうにか桂川を越え、逃亡していった。
 
 一方、氏清の軍勢も四条大宮まで押し寄せていたが、ここで先鋒の部隊の敗北、満幸の苦戦の情報を聞いて、いったん軍をとめ評定を開いていた。「案に相違した戦況になっております。紀州(義理)の軍をお待ちになっては」との家臣の意見も出たが、氏清は「ここで我らが駆けつけねば満幸を見殺しにすることにもなりかねん。この戦、すでに負ければ討ち死には覚悟の上よ。討ち死にするなら満幸らと共に死のうぞ」と言って、そのまま進撃するよう命じた。
 二条大宮まで進んだ氏清軍はここを守る赤松義則と大内義弘の軍勢と衝突した。氏清、義則、義弘はそれぞれ自ら太刀をふるって激闘を繰り広げるが勝負は容易につかない。満幸軍を破って一息入れていた義満の陣営にもこの戦況が知らされ、「では我らも大宮方面に出向いて、一気に勝負を決しようぞ」と義満が号令し、義満周囲の奉公衆及び一色・今川の軍勢が赤松・大内勢の加勢に向かった。激闘の疲れを癒していた頼之も兵を率いてこれに従う。
 義満直属軍の到来で四条大宮での形勢も一気に傾き、山名勢は総崩れとなっていく。「もはや、これまでか…!」と氏清は観念し、わずかばかりの兵と共に自害の場所を求めて後退を始めた。そこへ一色詮範が三十騎ばかりの兵を率いて駆けつけ、氏清は「おお、一色どのではないか。良き敵とめぐりおうたわ!」と声をかけて一騎打ちを挑む。氏清と詮範は激しく斬り結んだが、氏清はついに詮範に斬りつけられて馬から落ち、そこを詮範の子・満範が駆けつけて父子二人がかりで氏清のとどめを刺し、その首を挙げた。氏清の首が挙げられたのを見た小次郎は氏清の遺骸のそばに駆けつけ、「小次郎もおそばに参りますぞ」とその場で自害してしまった。

 戦いは昼過ぎにはほぼ決着していた。山名軍は崩壊し、落ち延びてゆく兵とそれを追う兵とがあちらこちらで小競り合いをするなか、頼之はなお自ら兵を率いて掃討にあたっていた。さすがに朝から老体に鎧を着て指揮をし続けて疲れた頼之は、路傍にあった寺に入って休むことにした。戦を恐れて避難したのか寺には誰もいない。本堂に腰を下ろした頼之は「腹が減ったな」と三郎に笑って言い、仏前の供え物に手を出してこれをむさぼり食い始めた。「罰(ばち)があたりませぬかのう」と言う三郎も、頼之に「お前も相伴せよ」と言われて笑って一緒に供え物を食べ始める。
 「もう戦もほぼ片づいたか…」飯を食いながら頼之は三郎に言う。「満幸は逃げたが氏清は討たれたようじゃ。これで山名も大きく力を削がれた…将軍もお見事ないくさぶりよ」頼之は飯を食い終えると仏壇に向き直り、手を合わせて祈り始めた。「今度の戦でも多くの者が死んだ…だがこれでしばらくは大きな戦はおこるまい…いや、そうした世を作らねばならぬ。それが命を落とした者たちへのせめてもの供養というものじゃ…」

 義満の本陣に一色詮範が氏清の首級を持参した。義満は氏清の首をじっくりと眺めて、「天も許さぬ謀反人の成れの果てを見よ、方々」と一同に言い渡した。そして一瞬ではあったが、氏清の首に哀れみの視線を落とした上で、首を河原にさらすよう命を下した。
 かくして「明徳の乱」と呼ばれるこの戦乱は、この明徳二年最後の一日の決戦のみで終息した。この一日の戦いの戦死者は名の知られる者だけでも義満側164名、山名側879名に上ったと伝えられる。京郊外・内野の周辺には戦死者たちの血に染まった遺骸が満ち、赤い夕日に照らされていた。

第四十六回「明徳の乱」終(2003年3月12日)


★解説★世阿弥第五弾  
 さて完結に向かって突っ走り、このところ週に二回も解説の収録をやらされている当大河ドラマ解説担当の世阿弥でございます。
 今回の内容はタイトルの通りズバリの「明徳の乱」。このドラマ前半の陰の主役の観もあった山名時氏さんの一族が義満さまに反旗を翻し、大反乱を起こしたという事件であります。これまでも室町幕府は何度と無く危機がありましたけれど、義満さま・頼之さんの時代に一応の安定を迎えてから初めて迎える危機的戦乱であったと言えましょう。その割に勝負は一日で決してしまったのですけれど…前回でもそうでしたが、今回の内容も明徳の乱の記録軍記物語である『明徳記』に多く拠っております。

 山名氏清さんらが幕府に反旗を翻すにあたって南朝の旗印を掲げたという展開は、実は確たる証拠があるわけではないんです。ただ『明徳記』にもそれをうかがわせる記述がありますし(ただし以前南朝についていた時に錦の御旗をもらっているからそれを掲げて…という発言として出てくる)、『南方紀伝』『桜雲記』といった史料に山名氏清らが南朝に帰参して後亀山天皇から錦の御旗を与えられたとか、楠木勝元・正元らが乱の後に山名勢残党と共に戦ったとかいった話があり(いずれの史料も江戸初期編纂のため信頼性はあまり高くない)、状況証拠的には考えられるだろう、といったところです。ここで長慶上皇にご登場していただいたのも完全に作者の創作なんですけど、間もなく南北朝の講和に応じる後亀山天皇より強硬派の長慶上皇の方が山名に加担しただろうと考えた次第です。

 山名一族が南朝だけでなく鎌倉府の足利氏満さんとも連絡をとった、というのもあくまで状況証拠に基づく創作です。ただしこの時氏満さんが京の戦乱を救うとして出兵の用意をし、結局乱が一日で片づいてしまったので出兵を中止したというのは事実。この見返りとして乱後に義満さまは奥州・羽州を鎌倉府の直轄地とすることを認めていたりもするんですが、どうも以前(康暦の政変)以後(応永の乱) の事例から考えても氏満さんにあわよくば将軍に取って代わるという意図があったと考えるのが自然でしょう。だからこそ義満さまは短期に乱を鎮めなければならず、かなり思い切った戦い方をされたようにも思います。ドラマ中氏清さんらが義満さま方が山などの要害に拠らず、内野に布陣したと聞いて「意外」かつ「好都合」と感じる場面がありますが、これも『明徳記』に元となるシーンがあります。

 義満さまが義理さんに手紙を送るがこれが拒絶され、集まった諸将の中に「山名との和平」を唱える者がいたこと、それをしりぞけて義満さまが「当家の運と山名の一家の運を天のご照覧に任すべし」と叫んだという一連のくだりは『明徳記』に記されているもの。義満さまのこの戦いにかける並々ならぬ意気込みとともに、かなりきわどい勝負という面もあったことがうかがえる逸話です。ただこのとき義満さまが決然とした態度(まぁそもそも山名をそういう状況に追い込んだご本人であるからですけど)を示したことで、当初山名側が味方に来るかもと期待した反細川・斯波派系の大名が全く動けなくなったというのも事実でしょうね。
 なお、義満さまが氏清さんらを討つに当たって「主人が家僕を討つ」という姿勢を貫き、この時代とかくよく利用された錦の御旗、相手を朝敵とする勅命を必要としなかった点は注目されるところでして、のちの「応永の乱」でも同様の姿勢がみられます。すでに天皇も上皇もしのぐ権威を持ってしまった義満さまならでは、という気もいたします。

 決戦が行われたのは明徳二年の最後の日、十二月三十日でございました(当時の暦に「三十一日=大晦日」はありません) 。この日の戦いの展開もやっぱり『明徳記』の記述にほとんどのっかってドラマ化してますので、作者は頭を使わずに済んで喜んでいたようで(笑)。ただ『明徳記』の文章って、同じ軍記物である『太平記』もそうでしたけど、かなり読みづらいところもあるんですよね。それとドラマの大筋に関係ない人たちの活躍はほとんどカットしておりまして…けっこう良いエピソードがあるんですけど、ドラマとしてはいちいちそれらを追いかけている暇はないわけで。興味のある方はじかに読んでみてくださいな。
 そんな中でカットせず入れたのが大内義弘さんの大活躍。この時代はまだまだ大名クラスの大将でも自ら一騎打ちやっちゃっていたもののようですね。義弘は負傷しながらも小林上野介(修理介、上野守とも伝わる) を討ち取り、義満さまの前へ来て「義弘ほどの勇士はおらぬ」とあたりを払う気迫で豪語したと『明徳記』は記していますが、どうもこのあたりの描写が義弘の態度に眉をひそめるような感じになっているのは、その後この義弘が「応永の乱」で義満さまに戦いを挑んでくることになる伏線のようにも思えます。

 『明徳記』によればこの日の戦いでは義満さまも自ら陣頭に立って指揮し、時には太刀をふるって兵卒らを叱咤激励したことになっています。この義満さま直属の「御馬廻り」三千騎がそこかしこで大活躍することになるのですが、これがいわゆる「奉公衆」と呼ばれる将軍に直属する軍団であります。もともと幕府草創期からあるにはあったものなのですが、尊氏さま、義詮さまの苦労を見れば大した軍事力でなかったことは明らかです。それが義満さまの時代、特に康暦の政変以後に急激に強化増強されたもののようで、これが義満さまの絶対権力の軍事的バックボーンになっていたようであります(義満さまがしばしばヨーロッパ絶対王政と比較されたりする一要素でありますな)。この奉公衆を増強するために京周辺の土地を彼らに与えて経済的基盤としたとも言われ、このあたりのアイデアが義満さま自身から出たものなのか、それとも細川頼之・斯波義将といった管領たちが作り上げたものなのか正確にはわからないみたいですが…。

 山名氏清さんが戦死する場面もほぼ『明徳記』の記事に拠っています。ドラマとしてはかなり出番を省略させていただいたものの、やっぱり気になってちょっと出してしまったのが氏清さんの甥で養子の小次郎さんのエピソードですね。『明徳記』の記述によると十七歳の彼は大変な美少年であったらしく、どうも氏清さんのいわゆる「お稚児さん」的ポジションにいた少年なのではないかという印象があります(わたくし世阿弥のこともそうですが、義満さま初めこの時代にはこの手の「少年愛」趣味はごく自然に存在した)。『明徳記』の小次郎戦死の場面は記述はもう少し細かくて、氏清の戦死を悟った小次郎はすぐに氏清の遺体にとりすがって「小次郎も参りますぞ」と腹を切ろうとしますが、一色方の武士・河崎帯刀が彼に襲いかかり頬当てのはずれを二太刀斬りつけます。そして顔を見てみたら「十五六ばかりなる武者の世にうつくしくはなやか」なのに驚いて「いかなる人にておわすぞ、名を名乗れ」と問うと、小次郎は「名乗りたるとも不肖の身を知る人もなかろう。ただ首をとって大将のお供に討ち死にしたる首だと言って聞いて回れば知る人もあるかもしれぬ」とだけ答え、息も絶え絶えに念仏を唱えるばかり。河崎は命は助けたいと思いますがもはや手傷を負っていることもあり、やむなく「嵐待つ間の花の枝、手折らば散り行く心地して」小次郎の首を切り落とすことになります。

 そういえばもう一つカットした要素がございました。ドラマとしては面倒なんで山名一族をひとまとめにして敵方として描いておりますが、氏清・満幸と対立して先ごろ義満さまに許されていた山名時熙は軍勢を率いて将軍方で参加しており、『明徳記』によれば義満さまの側を守っている部隊でしたが同族の氏清らと一戦交えようと飛び出していくなど奮戦していたようであります。そのおかげでというべきか、この人の家系が山名の本家として残り、この人のお子さんに応仁の乱で知られる山名宗全なんかが出てくることになるわけです。

 頼之さんが合戦の最中に腹がへって路傍のお寺で仏前の供え物を食べちゃったというエピソードは『細川家譜』などの細川家系図史料に出てくる話で、以後細川家ではこれを吉例とし、代々元旦に仏前に食事の供え物をする習慣があったんだとか。それにしても頼之さん、お年だというのに頑張って戦場に出てきていたことが知られる逸話ですね。
 そして、これが頼之さんにとって生涯最後の合戦となったのであります…

制作・著作:MHK・徹夜城