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出発駅は我が地元駅「取手駅」です。取手駅の7・8番ホームが関東鉄道常総線に割り当てられています。非電化私鉄とはいえ通勤路線ということもあり、最近はご覧のとおり外観に関してはなかなか都会的な列車が走っています。 | 取手を出発して4つ目の「ゆめみ野」駅で早くも下車。実はこの駅、今年3月12日に開業したばかりの新駅でして、その見物も予定のうちだったのです。最新の駅だけに常総線各駅の中では一番モダンでおしゃれ。 これから駅周辺を宅地化する予定で、現在は空き地ばっかり。不動産屋の事務所がポツンとあるだけで、社員がヒマそうに外でタバコを吸ってました(笑)。 なお日付をみればお分かりのように、東日本大震災の翌日が開業予定日でして…記念セレモニーも吹っ飛んでしまい、何やら先行きに暗いものを感じてしまう船出でした。 |
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その「ゆめみ野」駅から出て行く列車(決して「電車」ではありません。アナウンスでもしっかり「列車」と言ってます)。途中の水海道までは通勤圏なので列車は最大四両編成になることも。またこの写真でも分かるように、非電化の複線区間が延々と続いているのも特徴です。 電化の計画もあったと言われますが、茨城南部に地磁気研究所があり、それへの影響を避けるために非電化を続けることになったといういきさつがあります(JR常磐線は取手以北交流なので問題なし)。 | 「ゆめみ野」からは「快速」に乗って一気に終点・下館まで。常総線の「快速」は「つくばエクスプレス(TX)」開業の影響のもと作られた列車で、取手〜守谷は各駅、そこから先は主要駅のみ停車する快速運転をして、下館まで各駅停車より20分ほど早く到着する仕掛け。 ただしもともと水海道〜下館間はひたすら水田の中を走っていく大ローカル線で、「快速」といってもディーゼルカー一両編成です(上の写真がそれ)。乗ってる人も日曜とはいえ決して多くはありませんでした。 |
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下館駅。JR水戸線と関東鉄道常総線、そして真岡鉄道の三者が接続する重要ポイントなんですが、僕も駅の外に出たのは今回が初めて。乗り換えで何度か降りたことはあったんですけどね。 乗り換え利用が多いせいか、駅前は思ったより閑散としてる印象でした。駅前の書店等が最近閉店しているのも、なんだか景気の悪さを感じてしまいます。 ここはかつては駅名と同じ「下館市」でしたが、市町村合併を経て現在は「筑西市」(筑波山の西だからでしょう)となっています。 | さて下館で昼飯を済ませてから再び常総線に乗って南下。下館から3つめの「騰波ノ江(とばのえ)」駅で下車します。無人駅ながら昔から風格のある駅舎として知られており、「関東の駅百選」に選ばれたほか、映画「下妻物語」のロケに使われたこともあります。 2008年から駅舎の改築が行われ、現在は新駅舎になっています。でも旧駅舎の雰囲気を残したデザインになってるのが嬉しいところ。 |
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騰波ノ江で降りたのは、ここが南北朝時代の古戦場「関城跡」の最寄り駅だったから。最寄りと言っても案内も何もなく、地図を頼りに梨畑や水田の中を歩きに歩き、1キロほど歩いてたどりつきました。 上の写真の前方、少し小高い丘に森林が茂ってるあたりが「関城」の跡です。今だとなんでここが激戦地だったのかピンときませんが、当時城の周囲は「大宝沼」という沼沢地で、関城は三方を沼に囲まれた要害の地だったのです。上の写真の水田部分(ちょうど田植えの真っ最中でした)が全て沼だったというわけ。 ところで昔沼だったせいなんでしょうか、関城へ向かう道路の途中にかかる橋が継ぎ目部分で陥没しているなど、地震の影響が見られました。あと周辺の農家のほとんどで瓦屋根の破損も見受けられました。 | 南北朝時代の1338年、南朝の劣勢挽回をはかった北畠親房は海路を経て常陸に上陸、筑波のふもとの小田城に入りました。しかし小田城城主・小田治久が北朝方に寝返ったため1341年11月に関城に移り、一族の春日顕国を近くの大宝城に入れ、連携して北朝軍への抵抗を続けます。 左記のように大宝沼に突き出した「岬」の上に作られた関・大宝両城はかなりの要害で、攻撃にあたった高師冬軍もせめあぐねます。結局2年後に陥落することになるのですが、よくもったものだとも思えます。上の写真は落城と共に自害した城主・関宗祐の墓とされるものです。南朝武将のパターンで明治以後に顕彰され「正四位」の贈位がなされ、墓も整備されました。なお、この墓の裏手に北朝方で戦死した武将・結城直朝の墓もあります。 |
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観光地としてはあまり整備されてるとは言い難いところでしたが、筑西市が建てた作りだけは妙に大げさな説明板はあります。ここにも書いているように、北畠親房は小田城にいるときから書いていた歴史書「神皇正統記」をこの関城で完成させたと言われています。 | この関城の攻防戦が攻め手にとっても大変厳しいものであったことは参加していた武蔵武士・山内経之の書状によっても知られています。攻めあぐねた高師冬は鉱夫たちをやとって地下トンネルを掘って城の中に入り込む作戦を実行しましたが、これに気付いた城側もトンネルを掘り、双方が競って掘ったために落盤事故が起きてしまい、結局役に立たない結末になってしまいました。 このトンネル跡は大正時代に発見され、現在は写真のような形でコンクリート補強をして保存されています。 |
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この地下トンネル、「坑道跡」も説明板があります。 これによると「日本三坑道」の一つ、なんだそうですが、あとの二つってどこなんでしょう。ネット検索をかけてもなぜか関城の例だけしか見つかりません。 | 「坑道跡」から少し歩くと、「大将山」というところがありました。なんでも関城落城の際、ここにたてこもっていた守永親王(後醍醐天皇の長男・尊良親王の子)がここを落ちのびるにあたって別れの宴を開いたという話があるそうで(出典不明)、「守永親王別宴の地」なんて大きな石碑が茨城県知事岩上二郎(在職1959-1975)の名前付きで建てられてました。 もっともこの守永親王って人、南朝関係をあたってると神出鬼没に登場する便利キャラ(笑)なので、その逸話の大半が実のところ怪しくって。彼がこの関城に来ていたという話も僕はここで初めて聞きました。護良親王の子・興良親王の話なら聞くんですが… |
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さて関城見物を済ませてから、また梨畑と田んぼの中を2kmほど歩いて大宝城跡へ向かいます。 かつて城があったところには大宝八幡宮という、なかなか大きな神社がありまして、ちょっとした観光スポットになってます。現在の神社本殿は戦国時代に地元の武将・多賀谷氏が再建したものだそうです。 | 大宝八幡宮の境内の隅に「大宝城跡」の史跡説明板が。これによると関城の地域まで含めて「大宝城跡」として国の文化財指定を受けていることがわかります。なぜ親房というビッグネームの入った関城ではなく大宝城の名前が代表とされたのか謎です。 |
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八幡宮の裏手に、大宝城の城主・下妻政泰の記念塔(?)が。それらしい墓は見つからなかったのかもしれません。下妻政泰は大宝城落城時に自刃したとされ、その「忠死の地」と書かれています。彼も「正四位」を贈位されています。 | その隣には昭和18年に建てられた下妻政泰の記念碑が。南朝武将顕彰運動は何度かブームがありまして、太平洋戦争中もその一つ。これもその一つだなぁ…とよく読んでみたら、この石碑の文面は「東京帝国大学教授従四位勲三等文学博士平泉澄」が撰したとあってちょっとビックリ。皇国史観の旗振り役だったあの有名な学者です。こんなところでも仕事してたのか。 |
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八幡宮でお土産の団子を買って、あとは帰るだけ。大宝駅から帰りの列車に乗ります。ポツンと小さいながらもなんとなく風格を感じさせる駅舎です。 | 下妻〜下館間はどれも行き違い設備があり、2番線ホームが設置されています。大宝駅は向かい側の下りホームにも待合室があり、これまた小さいながらもどこか風格があります。 このあと水海道乗り換えで取手まで帰還しました。 |
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この日は「がんばろう茨城」の字も入ったヘッドマーク付きの列車も運行されていました。 | 駅前でやっていた地域交流会。記念で限定販売の「ゆめみ野ロール」などを売っていた他、駅の中では鉄道模型の運転もやっていました。 |