春湊浪話
土肥經平
(大田南畝原撰、早川純三郎編『三十輻』第一 卷之八 國書刊行會 1917.4.25)
※ 〔原注〕、(*入力者注記)。縦書きIE用
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中巻
下巻
春湊浪話跋(土肥経平)
三十輻 卷之八
春湊浪話目録
卷上
- 往古年號
年號は孝コ帝御時、大化・白雉の號を置れたる、日本紀に見えし始なり。しかるに伊豫國の湯碑文(*道後温泉碑)を、上宮太子の建給ふに、法興六年十月歳次丙辰としるさせ給ふ。此碑は今廢れたれど、其文は伊豫風土記を引て、釋日本紀にみえたれば、法興の年號有し事明也。考るに丙辰の年は推古天皇の四年なり。此法興の號源平盛衰記にもみえたり。又欽明天皇の御時金光の年號、推古天皇の御時端政の年號等も、平家物語にみえたり。猶後世の書なれども、東山殿の同朋相阿彌が著す君臺觀(*相阿弥(能阿弥とも)『君台観左右帳記』)にも、聖コ六年戊巳としるす。又江州あぶら火の明神の社記にも證明四年と書たりといふにや。海東ゥ國記(*申叔舟『海東諸国紀』)に敏達天皇元年壬辰に金光を用ひ、崇峻天皇二年己酉に端政を用ひ、舒明天皇元年己丑に聖コを用られしといふとみへ(*ママ)たり。法興と證明といふ號は其書にみえず。是等の年號ふるく記し置き、異國にても書たれば、往古大化・白雉より先に年號有し成べし。聖コ太子と申奉る事、御諱名なりとも、御諡號なりとも記せしものあれども、其世の年の名をとりて稱し奉るにやあるべき。其後白鳳と朱雀といふ年號ふるき文に多く見え、水鏡には天武天皇の大友皇子を亡し給ふ年の年號朱雀元年にて、明年白鳳と改元有しなり。神皇正統記には天智の御時白鳳、天武御代には朱雀・朱鳥などいふ號有しと見え、又古語拾遺には難波豐前の朝白鳳四年といふ事も有。是は孝コ天皇の朝の御事なり。此二つの年號ゥ記にしるす所如レ此に齟齬ある上に、正史に見へず、改元考(*山崎嘉〔闇斎〕『本朝改元考』)にも出されず、此二ツの號とるべき名にあらずと思ふに、聖武天皇神龜五年十月に治部省より奏言せし詔報のなかに、白鳳以來、朱雀以前、年代其遠、尋問難レ明、亦所司記註、多有二粗略一といふ事、續日本紀にみへたれば、日本紀にみへずとて、此年號朝廷に一向廢せられし號にもあらざるか。今是を審にせんに外に所見なし。按るに、朱雀・白鳳の年號は天武天皇難をさけて吉野にこもらせ給ひ、それより二年の後、癸酉のとし淨御原の宮に即位し給ひし間に、大津の宮にて大友皇子の立給ひし年號なる故に、舍人親王の日本紀に除て書せ給はざりしや。上に引し聖武天皇の治部省へ詔報ありし詞も、大津宮の大友皇子の御時の事なれば、何事も明に知がたきとあることにて、大津宮の二ツの年號を出されざる事なるべし。亦天平感寶といふは、天平廿年四月に改元有し號なれども、間もなく同年七月に天平勝寶と改元ありし故に、國史にみへたれども、年代記等にはみへず。世の人のしらぬ年號なり。
- 朝廷同考〔◎號カ〕
古に朝廷を稱し奉るに同じき多し。奈良の帝と申奉るは元明・元正・聖武・孝謙・大炊(*淳仁天皇。大炊は諱。淡路廃帝とも。)・稱コ・光仁七代天皇は、奈良にキしたまひぬれば、奈良の帝と申奉る事勿論の事なれども、國史・令義解・延喜式等、又古今集・大和物語に奈良帝と申奉るは平城天皇御事なり。是御讓位の後に奈良に住せ給ふ故に、平城を諡とし奉ればなり。又古今集・大和物語には文武天皇をも奈良の帝と申奉る。是は奈良にキし給ふこともなきに、いかなる故にや。田村天皇と申も兩帝あり。舒明天皇と文コ天皇なり。舒明の御諱を田村と申。日本紀にも田村皇子とみへし故に、田村天皇と申。文コ天皇は山城國田村クの田村の陵に葬り奉る。故に田村天皇と申。又日本紀に高市天皇、萬葉集に岡本天皇と申も、舒明天皇の御事なり。是は大和國高市岡本宮にキし給ふ故なり。田原天皇と申も兩帝あり。施基皇子(*志貴皇子)と其皇子の光仁天皇と也。是はともに大和國田原陵に葬り奉ればなり。西陵は施基、東陵は光仁なり。御父子故に田原天皇・後田原天皇と日本紀略に載たり。天智天皇を誤て田原天皇と記せるものあり。是は施基皇子は皇代を繼せ給はぬ故に、天皇と諡せし事をしらぬが故なり。此皇子を御二春日宮一天皇と追尊し奉ると續日本紀にあり。ゥ陵式には春日宮御宇天皇と記したり。又舊事記に春日宮天皇とあるは開化天皇の御事なり。同じ尊號混ずべからず。難波の朝廷と申は仁コ天皇の御事なり。されども必ず一ならず。養老元年の國史に難波の朝とあるは孝コ天皇の御事なり。其外活目天皇と暦運記(*『弘仁歴運記』。平田篤胤『弘仁暦(歴)運記考』あり。)にあるは垂仁天皇の御事、佐保天皇と文コ實録に有は聖武天皇の御事、岡宮御宇天皇、又長岡天皇とゥ陵式・河海抄等にみへたるは草壁親王御事、舍人親王を崇道盡敬天皇、早良親王を崇道天皇と追號し奉る事も國史にみへたり。
- 大行天皇
萬葉集に大行天皇とあるは持統天皇の御事を稱せしなり。天子崩御の後、諡號を奉らざるうちの稱なり。天安二年八月甲子夜、葬二大行皇帝於田村山陵一と文コ實録にみへたる則是なり。此大行の字は漢書の文字にて、天子崩未レ有二諡號一、故稱二大行一と、音義にみへたり。
- 仙洞多時の稱號
仙洞御所あまたおはします時、世上これを稱し奉る事一樣ならず。九條廢帝(*仲恭天皇)禪受ありし時、仙洞三所おはしましけるを、本院・中院・新院と申せし、後鳥忠@・土御門院・順コ院の御事なり。世に土御門院御製の百首を中院百首(*『土御門院御百首』)と申も此故なり。其後永仁中には仙洞四所まします時は、一院・中院・先新院・新院と申す。後深草院・龜山院・後宇多院・伏見院の御事なり。又後に正安三年後二條院受禪ありては、仙洞五所まします時には、常盤井法皇〔後深草〕・萬里小路法皇〔龜山〕・大覺寺殿〔後宇多〕・持明院殿〔伏見〕・新院〔後伏見〕とも申す。後宇多院を一院、伏見院を中院とも稱し奉る。此等は増鏡にみへたり。嘉元に撰ばれし續後撰には龜山院を法皇、後宇多院を太上天皇、伏見院を院、後伏見院を新院と記し奉る。是等の時の唱よくおもはざればまがふ事あるべし。
- 禪師の親王
伊勢物語に山科の禪師のみこと申奉るを、いづれの抄物にも仁明天皇の皇子人康親王の御事と注したり。二條家の正説に、いかゞ傳へらるゝや、下ざまにしるべからず。是は天安二年(*858年)十一月十四日、女御多賀幾子うせ給ひしと三代實録にみへし、則其七々日の御わざ安寺にてし給ひし時の事なり。此時禪師親王と申、國史にみへたるは高岳親王の御事なり。此親王の御子大江谷淵貞觀四年(*862年)十二月廿七日奏言に、禪師親王と書て奉りし詞三代實録にみへたれば、まがふべくもなし。其上是は阿保親王の兄の親王にて、業平の叔父なれば、親しく參り給へるもいはれあり。此時高岳親王は大同(*大同四年〔809年〕)に一度立坊ありて、弘仁(*大同五年=弘仁元年〔810年〕)に廢られ給ひ、承和二年(* 835年)落飾、貞觀三年(*861年)入唐、元慶五年(*881年)に唐にて遷化し給ひ、眞如親王とも蹲踞太子とも申せし、又小栗栖に住給ふこと何によりて書しか、保元物語にみへて、山科の鄰村なれば、山科の御子と申事も便ある如し。又人康親王を禪師親王と申せし事は、國史にはみへずして、貞觀元年(*859年)五月五日出家し給ふといふことは出たり。さらば多賀幾子の七々日の御わざの時は、出家以前なれば、禪師とは申まじ。人康と申説何によりていひたる事なるにや、覺束なきが如し。
- 橘姓のはじめ
葛城王に橘姓を賜りし、此姓の始といふは誤れるにや。此葛城王の母縣犬養宿禰東人の女にて、三千代と申。此三千代に和銅元年(*708年)十一月廿五日始て橘姓を賜ふ。夫より廿八年の後、天平八年(*736年)十一月に葛城王の母の橘姓を請て、橘宿禰ゥ兄と稱せられしなり。此三千代ははじめ美努王に嫁してゥ兄を産、後に淡海公に再嫁して光明皇后を誕生ありし故に、女ながら其世に威勢ありし人なり。往古は母の姓によれる多にや。武内宿禰の母は影姫と申て、紀直菟道彦の女なりと日本紀にみへたり。六孫王(*源経基)の母は右大臣源の能有の女なり。武内も六孫王も外戚によりて、紀姓・源姓を賜りしなるべし。
- 大津皇子臨期詩歌
大津皇子は天武天皇の第三の皇子なり。文筆を愛し給ひて、詩歌ともに堪能におはしまし、日本にて詩を賦する事は、此皇子に始るといへり。天武天皇崩御の後、謀反の聞へ有て、朱鳥元年(*686年)十月三日譯語田の家にて死を給ふ。作らせ給ふ詩歌、
金烏臨二西舍一、鼓色(*ママ。「鼓聲」とも。)催二短命一。泉路無二賓主一、此夕誰家向。
もゝつどふ(*ママ)磐余の池に鳴鴨を
けふのみ見てや雲がくれ(*ママ)なん
此皇子の妃は天智天皇の皇女山邊皇女と申す。是を聞給ひて髪をみだして、すあしにてはしり行給ひて、死にしたがひて薨じ給ふ。時の人みなおしみなげき奉りけりといふ事、日本紀に見へ、詩歌は懷風藻にも萬葉にもみへたり。
- 昔花と稱は梅か櫻か
萬葉集に花とたてたるは梅なり。古今集よりぞ櫻を正花とするといふ事、よき人の説にもみへたれど覺束なし。人皇廿代允恭天皇の井の傍の櫻花を見給ひて、よませ給ふ御製、
花ぐはし櫻のめでことめでば(*原文「めでは」)
はやくはめでず(*原文「めてず」)わがめづるこら
是は櫻を衣通姫によそへ給ふ御歌なり。かくまで櫻をめで給ふ御歌往古にあり。夫よりははるかに世を經て、淳和天皇の御宇天長八年(*831年)二月に、殿前の櫻花の宴したまふことをも、日本紀略・類聚國史にもみへたり。梅をかくまでめで賞せしことも、梅の宴有しことも往古にみへざれば、ふるくも今も花といふは櫻のことのみとやいふべき。
- 琴
琴のはじめは婆羅門僧正はじめて本朝に渡すと、花鳥餘情(*一条兼良)に書給へれども、雄略天皇の御時に呉人貴信きたりて琴を彈ず。天武天皇も吉野に行幸の時彈じ給ふといふことも、日本紀に見へければ、猶先の事にてはあるなり。其後淳和天皇も彈じ給ひ、又文コ天皇・C和天皇・光孝天皇等は是を高橋文室丸に學びたまひし事も國史に載たり。天暦の御時の宣耀殿の女御〔芳子〕へ、父君小一條のおとゞの琴のことをば人より引まさらんとおぼせといさめ給ふこと枕草子に見へ、業平のうらわかみねよげにみゆる若草のとよめるは、妹に琴をおしへし時の歌なりと、在五の物語(*伊勢物語)にあると、源氏物語にみへし。光君もなべての絲竹よりも琴をばすぐれて好み給ふとも書て、世々に翫れしものなり。其世琴譜も多く有しとみへて、仁明天皇琴譜八十卷を御廚子に置せ給ひしといふ事、國史に見へ、藤原の佐世の日本書目録(*日本国見在書目録)に、琴經一卷〔葵伯喈撰〕・琴操二卷〔普廣綾相行撰〕・琴法一卷・琴録一卷・琴コ譜五卷・雜琴譜百二十卷・琴用手法一卷・彈琴手法一卷・雅琴手勢法一卷とみへしよし河海抄(*四辻善成)に引用せり。又加茂乙木といふ者琴を造事良工なりし事、續日本後紀にあげて出たれば、其世なみ/\の良工は多く有しなるべし。かくまで世々に翫れしものにて、其始はもろこしにて聖人の作り出し給ひしといふものにて、雅樂の器のうちにても殊にすぐれしものなるに、終に引絶ぬる事になりし、おしむにもあまりあり。其琴のおとろへ行て絶たりしいわれ、則物語にみへたり。たとへば絲竹のうちにて琴は鬼神の耳とゞめかたぶきそめけるものなればにや、なま/\にまねびてはおもひ叶はぬ類も有ける。引人後よからずといふまゝに、今はおさ/\(*ママ)傳ふる人なし。若菜の卷に書ることあり。式部の時の俗にかくいひすさみし事のありしにぞ、程もなくはや宇治十帖には、琴を引こと今は好ずなり行とありて、とりかへばやの物語には琴は世に絶たるものにて、ひきならす人もなしと見へて、終に其曲長く絶にし事に成し。
- 圓憲ふたゝび琴を習ふ
琴の曲絶たりけるより遠からず、寛治八年(*1094年)大納言經信卿太宰権帥にうつり下り給ふ時に、圓憲といふもの具せられて鎭西に下向して、唐人に琴を習たりしが、微音にてはなやかなる音なし、又させる樂も侍らず。彈ずる時は紙をたゝみぬらして琴の下敷板に置て引。是はひゞきの音なからましの料なり。只紙障子にあぶをこめしやうに聞えしなりと、禪定殿下仰られて笑せ給ひしかば、まことに聞ざめして人々覺けるといふ事、體源抄にみへたり。さらば以前引給たるといふ琴と、ことかはりたるものにぞ。物語に五節の君がつくしよりのぼるとて、須磨のうらを舟にてつなで引すぐるに、琴の音風につきてはるかに聞ゆと書しは、海は少し遠き配所の御住居にてひき給ふ琴の音なれば、微音ならぬものなる事は明なり。其音は琵琶に似たるにぞ。宇治十帖に琵琶を琴に聞まがひし事みへたり。又近き頃他の國より傳へ來て琴を彈ずる事あり。是も寛治に圓憲が習ひし類に聞えて、源氏物語にかきし琴のやうにはあらず。
- 琴の作り爪
箏の琴をひくに今作り爪をさしてひく。是はいつよりの事にや。齋宮女御の箏を引給ふに、右の御手の爪をたしなみ給ひ、常には左がちにひかせおはしましける故に、後は御くせになりしといふ事、夜鶴庭訓(*藤原伊行『夜鶴庭訓抄』)にみへし。されども大鏡には、此箏を引人はべちに爪作りて、指にさし入て引ことに侍りしと、芹川御幸の物語にみへたれば、昔も必一やうにもなく、作り爪をもまた用ひしなり。つれ/〃\草に、ある男の爪をおふしたるあり。琵琶などひくにやと書たれば、兼好法師の比も作り爪ならでひきける。されども琵琶をひく爪をおふしたるといふはいぶかし。
- 重荷に小付
世の人の詞に、事ある上に事の加るをば重荷に小付といふ。ふるき詞なり。天暦の帝梅つぼにおはしましし時、薪を奉り給ふとて、太政大臣〔貞信公〕、
山人のこれる薪は君が爲
おほくのとしをつまんとぞおもふ
御返し、御製、
年の數つまんとすなる重荷には
いとゞこづけをこりも添なん
後撰和歌集にみへたり。此御製も、萬葉集に山上の臆良(*ママ。憶良)の長歌の中に、ます/\に重き高荷に上荷うつといふ詞あり。是を取てよませ給ふなるべし。
- 草臥たる
人の勞倦せし事をくたびれたるといふ事は、裙帶肩巾垂〔クンタイヒレタル、クタビレタル〕(*右ルビ、左ルビの順)の五字なるべし。裙帶も肩巾(*「ひれ」)も昔の服の名なり。
- おどけもの
戲言をよくいふものを世におどけものといふも舊きことばにて、源氏物語におどけたる人をいふ。是を細流抄(*三条西実隆)に注して大解なりとあり。今のおどけ者といふによく叶へり。
- 古物語
伊勢物語は在五中將の自記なるものに、伊勢御が筆を加へられしものがたりとぞ。むかし朱雀院の塗籠に、業平の自筆の伊勢物語有レ之こと、袖中抄(*顕昭)に範兼童蒙抄を引て記したり。此物語を源氏に伊勢物語とも或は在五が物語とも書て、在五が物語と記せし所には、いもうとに琴をおしへたる所の人のむすばむといひたるをもてと書たり。此琴をヘへたるといふ事、今の伊勢物語にはなくて、在五物語といふ自記なるには有がゆへに、かく書分けるにぞ。さらば其世までは自記なるものと、伊勢御の筆を加へたると、二ツながら並べ有し成べし。又按るに、此物語などや、かなに書しものの初なるべし。夫より先嵯峨天皇の古萬葉集のかなの序あれども、在五中將の比までは、昔のならはしにて、眞名に書ことは易く、かななるは打まかせては書得がたかりけるにぞ。夫故にかな物語など書んには、まづ昔書ならひし眞名に稿して、それをかなにC書せしにぞ有べき。今に傳はりて此物語には眞名なるとかなゝると二ツながら有は、此故なるべし。〔眞名伊勢物語は具平親王の御作といふ説あれども、是は在五物語の眞名なるに傚て、後に伊勢の筆を加へたる伊勢物語をも、此親王の眞名に書改たまふことをいふにや。〕古今集かなの序を書ん料に、其養子なる淑望に眞名序を書しめて、是を土代として貫之の假名序は出來しといふ事、基俊朝臣の説にあり。延喜の御時猶如レ此、況や在五中將物語を見しとあれば、其比は世にも殘りけるにぞ。竹取物語は物語のいでき始の親と源氏にもあれば、伊勢物語より猶ふるきものなることは明らけし。さらば是もはじめは眞名に書たるものの、後には假名に書改しにや有べき。其時文をも改たるにや。伊勢物語より其文古體ならず。かぐや姫を爀〓{亦/火}姫とかきたる時の文字のやう眞名の字殘りたるがごとし。住吉物語も枕草子に古物語の名の第一に出し、源氏にも古物語とあるに、其文の體の古からずみゆるは、是も竹取も同じ類なるか。一説に此物語にあかつきのかねの音こそ聞ゆなれと有しに、是を入相と思はましかばといふ連歌を、後拾遺集に後一條院の御歌とあれば、此物語後に作出せしにやといへども、稱名院殿(*三条西公条)の源氏の抄に此説あれども、古き世のものなる事明しと注し給ひ、風葉集にも後一條院の御歌とはいへども、物語にみへし歌やさきなるべしとかければ、伊勢物語にほどは雲井になりぬともの歌を誤りて、拾遺集に橘のたゞもとが歌とせし類にて、後拾遺集に古歌を誤て後一條院の御歌とおもひ撰び出せしにぞ、よりて住吉物語を後世の物といふは卻てあやまれる説なり。其外にも古物語の今傳はりたるあれども、なかに宇津保と蜻蛉の二つの物語ばかり古めきたるはなし。それゆへよみ得がたき事も多くて、翫ぶ人はすくなし。
- 雲珠を年號に畫
暦のとしの上に雲珠(*うず。唐鞍の鞦〔しりがい〕に付ける宝珠型の装飾)を畫くことは、是を尊みてかぶらしむるなり。推古紀に皇子ゥ王ゥ臣悉以二金髻華一著レ頭とありて、釋日本紀に宇須は玉冠と注して、昔の冠なり。其形今も賀茂祭の飾馬に殘れり。使の次將是に乘給ふ時は、雲珠を放ちて手振の放免に雲珠をば持しめらるゝも、冠に擬したる故に憚給ふ也。
- 舟の官位・舟の名
兵船を昔は高尾船といひし事和名抄にみえたり。其後は早船といふ。今も關舟の小なるを小早といふは、早舟といふ名の殘れるなり。此舟にさま/〃\名をよぶも古き事にて、應神天皇の御時枯野あり、仁コ天皇の御時早鳥あり、淡路廢帝の御時能登有し事國史又風土記にみえたり。この能登舟を高麗國へ遣されて、歸朝の時に風波暴急にして、海中に漂蕩せし時、船靈に祈て平安に歸ることを得たり。其時酬るに錦冠を以てせん事を朝廷に請ふ。是に至て其舟に從五位下を授らる。其冠の制、錦の表・絁の裏にして、紫の組を以纓とすといふ事、續日本紀にみえたり。今も舳を裹みかざり、かもらといふ物をたるゝは、此錦の冠に紫の組を以纓とせし遺制にもあるべき。後代舟の名に丸といふ字を加へて呼。是は舟を愛して人になぞらふなり。古は人を呼ぶにも自らをいふにも丸と稱する。人の名にも麻呂といひ又何丸といふ。藤原麻呂・柿本人麻呂・安部仲麻呂(*ママ)のごとき是なり。今の代にも童名に何丸といふ。皆男子の通稱なればなり。昔は馬に節丸あり、犬に翁丸あり。皆人になぞらへ愛して丸とよぶ意相同じ。又城の名に本丸・二丸・三丸などいふは、上にいふ類にあらず。城を築くの法其形の方なるを惡みて丸きを好む。よりて丸の名ありといふなり。
- 犬の名
ものに名を呼ぶ事犬の名ほど古きはなし。昔丹波國桑田村に甕襲(*みかそ)といふ人あり。其家に犬を飼ふ。是を足往(*あゆき)と呼しこと垂仁天皇の紀にみえて、其時にも猶むかしといひければ、いとも久しき事なり。寶治百首(*後嵯峨上皇)寄レ獸戀といふ(*原文「ふ」脱)題に蓮性法師、
人ぞうきくはた(*桑田)のあゆき山にても
馴にし宿を忘れやはせし
山にて牟士那といふ獸を喰殺して、其犬甕襲が家に歸りしとあり。(*日本書紀にその貉の腹から八坂瓊勾玉が出たという。)此歌此古事をとりてかくはよめる成べし。
- 古今集の歌屑
古今集に、貫之、
いとによる物ならなくにわかれぢの
心ぼそくもおもほゆるかな
是を古今の歌くずといふ事、つれ/〃\草にみへし。其餘の文にはみえず。其もとは誰の説にや。是はものならなくにといふ詞も、おもほゆるかなといふ詞も、後世に好まざるといふ事のあれば、兼好法師の時代に此説有し事か。古今集の後に拾遺集にも再び此歌を撰び入れられたれば、花山法皇もよき歌なりと思召給ふ事疑なし。物語(*『源氏物語』総角)にもものとはならずと貫之が此世ならぬ別をだに心ぼそきすぢに引かけけんと、式部がよみ人の名まであげてかける、よき歌と思へるなり。其外源通親のかける高倉院升霞記(*『高倉院升遐記』)などにも此歌をかゝれければ、ふるくは歌屑の沙汰もなく、只兼好の比に言出せし事にぞ。物語にものとはなしとぞかけると、徒然草にかけるは物ならなくにといふ詞を引直して、式部のかけるを譽たる心なるにや。
- 公任卿の歌同類
拾遺集、公任卿、
朝まだきあらしの山のさむければ
紅葉のにしききぬ人ぞなき
昔も今も世に名高き秀歌なり。公任卿はじめはちる紅葉葉をきぬ人ぞなきと有しを、敕撰の時にもみぢのにしきと直しかへられし事、袋草子に委くみえたり。
しとみ山おろしの風のはやければ
散紅葉ば(*原文「は」)をきぬ人ぞなき
といふ歌あり。同類なるにや。さしもの堪能、此古歌をおかしよみ給ふべき事なし。其比までは此六帖(*『古今六帖』には該当歌なし。「しとみ山おろしの風のはやければ風にはつねになきてこそふれ」〔九一四〕。『歌枕名寄』に該当歌あり〔八二四一〕。)世に出ざりしにや。
- 白川帝堀川の歌をとり給ふ
寛治八年(*1094年)八月十五夜鳥駐aにて池上翫レ月といふ題にて、歌を講ぜられし時、白川帝御製、
池水にこよひの月をうつしもて
心のまゝにわがものとみる
金葉集にも撰び入られし御歌なり。實は御歌にあらず、女房堀川の歌なり。其日院の仰に今日はいかなる歌をやよみしと御尋ありし時、堀川此歌を奏し奉るに、已に秀逸の歌なり。仍て仰に是は汝が歌に似合ざるなり。朕が歌となすべしとて、御收公有し御歌なりとぞ。
- 天變少將・無月宰相
同じ時の歌に失錯ども多かりし。經信卿、
照月の岩間の水にやどらずば
たまゐるかず(*玉のような泡の数)をいかで知まし
此歌には池の字なしと世以傾いひしとぞ。されども歌すぐれたる故にや、是も金葉集に入られし。某の少將の歌に、
池水に影をうつして秋の夜の
月のなかなる月をこそみれ
是をば其世に天變の少將と稱し、高松宰相公定卿は月なき歌を詠じて、無月宰相と稱しける。皆此時の事なり。
- 勝間田兵衞佐
又同じ院白河殿の御歌御會に、柳臨レ池といふ題にて、兵衞佐入道顯仲の歌に、
勝間田の池の緑にみゆるかな
きしの柳の色にうつりて
と讀し此池には水なくて、ふるき歌にも池にはいひ(*楲。地中に埋めた木製の樋口)の跡だにもなしとよみ來るに、かく詠じたりとて、勝間田の兵衞佐と時の人いひし。
- 長鳴郭公・關岩門
又いつのとしにや、五月五日俊綱朝臣のもとにて子規の歌に、良暹、
宿近くしばしながなけ郭公
けふのあやめの根にもくらべよ
とよめるは汝がなくを長啼と思ひあやまりしなり。懷圓法師聞て、ほとと啼はじめて、きすとなかむずるにやと嘲弄せし。此良暹はかゝる誤多き歌よみにや。或所にて語けるに、一日江州より上洛せし間、會坂(*合坂・逢坂とも表記。逢坂関)にて時雨に逢て、石門に立入てかしこくもぬれざりしといひしを、是も懷圓聞て、是は石庵にてはべる。關石門とはいかやうの門に立入給ふにやと問に、良暹閉口せしといふ。みな袋草子にみえたる事なり。八雲御抄に門にあらず石のかどをふみならすなりと注し給ひ、俊成卿の歌合の判詞にも、岩かどは門にあらずとあれば、岩廉勿論の事なり。されども岩門とよめる例なきにもあらず(*石のように堅牢な関所の門)。爲仲の歌に、
東路のおとづてやせしほとゝぎす
關の岩かど今ぞすぐなる
如此よめるは石門かと、是も袋草子にみへたり。又源氏物語の夕霧の大將の歌に、
恨佗むねあきがたき冬の夜に
またさしまさる關の岩かど
是も石門なり。此歌を以て陳ぜば、良暹も難をのがるべきに、其比までは物語の歌を證とはなさゞりしにや。又良暹まくり手といふ事をよみしを、住吉神主國基難じて、まふり(*真振出。布を振り出し染めにして紅に染めること。)なり、まくり手といふ詞なしと難じけるに、良暹、
風越のみねよりおるゝ賤の男の
木曾の麻衣まくり手にして
といひたりければ、國基閉口せし事もあり。よみ誤まれる歌はありけれども、其世の歌仙にて、大原に良暹が舊房の有しほどに、俊ョ朝臣至りて下馬ありしほどの歌よみなり(*袋草子)。
- 小侍從二人
同じ時に小侍從といふ歌よみの女房二人あり。高倉院小侍從(*未詳。後述「阿波の内侍」か。)と太皇太后宮の小侍從(*待宵小侍従)となり。千載集には小侍從といふて、太皇大后宮小侍從と分てり。此小侍從と計ある則高倉院の小侍從なり。其後の撰集には小侍從とのみ有て、二人を混じ出されし。それを請て作者部類(*『勅撰作者部類』)に太皇大后宮小侍從と出て、高倉院小侍從の歌も一所にかぞへ入られたり。今按るに、高倉院小侍從といふは源三位ョ政卿に通じたる人にて、ョ政家集(*『源三位頼政集』)に贈答の歌多くみへたり。新後撰に二月の廿日あまりの比、大内の花見せよと小侍從申ければ、いまだひらけぬ枝につけてつかはしける、從三位ョ政、
思ひやれ君が爲にと待花の
咲もはてぬにいそぐこゝろを
返し、小侍從、
あふことをいそがざりせば咲やらぬ
花をばしばし待もしてまし
是も家集に出たる歌なり。玉葉集に高倉院の御時、内にさぶらひけるが、さまかへて八幡にこもりぬと聞て、刑部卿ョ輔がもとより、
君はさは雨夜の月か雲ゐより
人にしられで山に入ぬる
と申送りける返事に、小侍從、
住かひもなくて雲ゐに有明の
月は何とか人もしられん
此尼になりける時、ョ政卿、
我ぞ先出べき道に先たてて
したふ(*原文「しとふ」)べしとは思はざりしを
返し、小侍從、
をくれじと契しことを待ほどに
やすらふ道も誰ゆへにそは(*ママ)
此ョ政卿の歌は玉葉集にも出たり。千載集に心經のこゝろをよめる、小侍從、
色にのみ染し心のくやしきを
空しととける法のうれしさ
此歌は、尼になりて八幡にこもりて後の歌なるべし。又源平盛衰記に、高倉院御世につかへて、始め阿波の内侍とめされし時、
君が世に二萬の里人數そひて
今もそなふるみつぎものかな
とよめるをも待宵小侍從の歌と書たれども、高倉院の御世につかへてあれば、待宵小侍從ならぬ事明らけし。此餘代々の撰集に小侍從とある歌の中に、猶此小侍從の歌有べけれども、考ふる所なければ、ことごとく太皇大后宮小侍從一人の歌となりたる、誠に高倉院小侍從の不幸といふべし。又按るに、玉葉集に小侍從さまかへて八幡の御山に籠るとあれば、八幡の幸C(*石清水八幡宮別当紀光清と伝える。)が娘といふも、又櫻井村に有小侍從の墓といふも、高倉院小侍從の事なるにや。治承に待宵にふけ行の歌をよみて、待宵小侍從と稱せられしより、世に太皇大后宮の小侍從の名のみ高くなりて、高倉院小侍從の名を知る人なくなりしことなるべし。
- 待宵小侍從の年齡
太皇大后宮小侍從の許へ、後コ大寺左大臣〔實定〕かよひ給ひて、待宵にふけゆくかねの聲きけばとよみて、世に待宵小侍從と稱せられし事、平家物語・源平盛衰記にみへて、此歌は人の口にあるなり。此太皇大后宮と申は近衞院の后宮多子の御事にて、二條院の御時に再び入内ありければ、世には二代后と申則是なり。入内の時は宇治左府〔ョ長公〕の姫君といへど、實は土御門の右府〔公能公〕の姫君、後コ大寺の妹にてましませば、したしく此宮へ入立給ふより、此小侍從にも逢給ひしなり。其後廿餘年を經て建仁元年(*1201年)千五百番歌合有し時も、小侍從其人數にめされて、あまた歌よみける中、述懷の歌、
思ひやれ八十の年の暮なれば
いかばかりかは物はかなしき
とよみし。以前後コ大寺のおとゞに逢ひ奉り、待ばこそふけ行鐘もと讀し時は、福原遷キの時にて、治承四年(*1180年)なり。此建仁元年八十といふよりさかさまに年をかぞへみれば、治承に待ばこその歌をよみし時、小侍從のとし五十九なり。後コ大寺のおとゞは四十二なり〔公卿補任〕。むかし源内侍が光君に逢奉りて、君しこばたなれの駒にかりかはん(*下句「盛り過ぎたる下葉なれども」。「手馴れの駒」を「刈り飼ふ」は草を食ませて飼う意。)とよみしを、あひなき事に物語に書しだに、五十六七とみへし。是れはそれよりもまさりたりし。
- 文覺の歌
高雄文覺坊の歌、
世の中のなりはつるこそ悲しけれ
人の住かはわれ(*ママ)すみかぞかし
定家卿のともへ來て物語に、此歌世を諷するに似たれども、世の事にはあらず、文覺が事をいふなり。人の咎め有べからずといへり。定家卿も無心の歌にあらず、不思議殊勝の歌なりと稱せられし事、明月記に見えたり。
- 直垂といふ物古今不同
直垂と云物、宇治左府台記(*藤原頼長『台記』)にみえし處、夜のふすまの名なり。後撰集にひたゝれをこひにつかはしたるに、裏なんなき。それはきじとやいかゞといひたりければ、C原元輔、
住吉のきしともいはじ沖津波
猶うちかけようらはなくとも
とある歌に、爲家卿の直垂はとのひもの(*ママ)なりと注し給ふ。此ひたゝれ(*原文「ひゝたれ」)引著て臥たりけるなど有て、みな夜の衾(*直垂衾)の事をいふなるに、後白川帝の御世の比よりや、武士の服の名となりて、今にいたれり。公卿も内々にては著用したまふことありといへり。
- 布直垂・革緒直垂
京キ將軍の比よりや直垂專ら武家の官服となりて、今は四位の侍從以上は燕D(*精好〔せいごう〕織。経を練糸・緯を生糸、又は経緯とも練糸で織った絹織物)の直垂、五位は布直垂なり。近代は是を大紋といふ。無位の武士は布直垂に革をつく。齋藤助成記(*斎藤助成『布衣記』)に革緒直垂といふ則是なり。畠山重忠直垂に紫革の緒つけ、折烏帽子を著たりしと義經記に見へし。いつよりか是を素襖といふは誤なり。本名革緒直垂なり。
- 素襖
素襖といふは今の布衣といふものの名なり。稱名院おとど(*三条西公条。実隆男。)の細流抄(*現在は三条西実隆〔逍遥院〕作とする。)に、當時すあをとて著するは、狩襖の裏をのけたるものなりと注し給ふにてしるべし。狩衣を布衣とも狩襖ともいひて、皆一物なる事はゥ記に明かなり。素といふ字は染ざる絹の名なれば、是をとりて飾を加へざるものを素といふこと多し。銚子の柄を裹み飾らざるを素銚子といひ、韈(*靴〔くつ・かのくつ〕または襪〔しとうず・したうず〕か。)をはかざるを素足といふ、皆是なり。素襖といふも狩衣に裏も文なく、飾なければ其名をよぶ。是を布衣といふは後代の誤なり。
- 肩衣袴
肩衣袴といふもの、又上下ともいひて、今の世武家にて貴きもいやしきも尋常の禮服となりぬ。此服の始をさま/〃\にいふ事あり。近衞龍山公の薩摩國へ下りおはしませし時に、島津龍伯とはかりて、直垂の袖をとり、袴のすそを切て作り出し給ふといふ。又松永彈正久秀が所爲なりともいふ。或はそれより遙前明コ元年(*1390年)内野合戰正月元日に起ければ、殿中嘉會の面々、直垂の袖を切て義滿將軍に隨從せしに始るなどもいへども、是等の事たしかなる所見なければ、いかゞあらん、虚談なるが如し。夫より以前此の肩衣見えし事あり。伏見帝の御時に畫かれし法然上人の畫傳に、侍のカ等とみへしものの、肩衣に大口の袴著たりしもの品々見えたり。其後今川了俊の大雙紙(*『今川大双紙』)にも、袖付ざる直垂といふ事見えたれば、後世に始りしものとも思はれず。猶往古を考るに、延喜の隼人式に肩巾の領緋帛五尺とあれば、昔の薩摩の隼人などいふものゝ服なりしひれといふも、今の肩衣のごときものなりしや。又六月大祓の祝詞の詞にも、比禮挂る伴男とある、此比禮も同じものなるか。さらば此肩巾といふもの昔健童〔◎兒カ〕(*健児〔こんでい〕)などいふものゝ著るものにやありし。又御代の始に行るゝ大嘗會の時の小忌の中に、形のごとくの小忌(*小忌衣〔おみごろも〕)といふものは、今の肩衣といふものに似たりと聞し。是は神祭のものにて、肩衣のためしにすべき物にはあらねど、往古よりかゝる形の衣服有しはまがふべからず。かれこれ合せ考れば、肩衣は肩巾の遺制にて、往古よりありしもしるべからず。
- 上下といふ服
香(*香染。黄ばんだ赤色)の上下、あさぎの上下、かちん(*褐)の上下、赤き上下などいふこと、其外も古き書にみへし何程もあり〔玉海(*九条兼実『玉葉(玉海)』)・東鑑・著聞集・宇治拾遺・御駕記(*従駕記か。)の類等〕。夫を近きころの名といふは、吾國の書にうとき故なり。或はまた此上下といふ名によりて、今の上下といふもの古く有しといふ據とするも又誤れるなり。昔も上下の裁縫の如き有し事は上に論ずるごときなれども、ふるく上下といふみな直垂の事をいふなり。今の上下の事にはあらず。宇治物語にみへし三善C行の家の變化の畫をかきし古き畫をみしに、上下といふに直垂を著たる翁を畫たり。其餘も直垂のごとく聞へたり。今も其唱なきにあらず。鞠の時にみな人の著るひたゝれの上を、裝束の上と唱ふること昔に相同じ。此服を世にはなべて水干といへども、是は誤にて直垂の上なり。其製盤領・方領(*まるえり〔あげくび〕・かくえり〔たりくび〕)の異る有て、水干と直垂は裁縫同じからず。
- 寢殿并中門
昔の寢殿を作れる六間なり、又四間なりとあり。武家にも是をうつして、鎌倉の後の九代のうち、足利成氏の時造らし(*「造らせし」か。)殿宇のさし圖、今も世に殘れる、六間四方なる寢殿ともみへたり。又今の寺の方丈といふもの、多くは六間の寢殿作りなり。是昔の宮殿を寺へ施入有しもの多故なり。それより其形によりて後世も方丈を造れる故なるべし。その中央の間を帳臺といふ。是には額突をし、帳をたれて夜の臥所とする故の名なり。表の角によりて中門を作る。是は門といへども門にあらず、今の玄關・式臺といふものなり。太平記に、中門の方をみれば、宿直しける者、物具・太刀・刀を取散してといふ是なり。又中門の外の沓ぬぎ或は中門の板式なども書しもあり。是につゞきたる廳(*表座敷)或は廊下を中門の廊といふ。是にかならず窻をひらく。是を大鏡には中門の廊の連子と云、古事談には中門の連子と書、職人歌合の歌には中門口のすき連子などよみて、古き書にも多くみえたるに、いつの比誰名付たるにや、今の世なべて是を實檢の窻とのみ唱て、廊の連子をいふもの更になし。それのみもあらず(*ママ)、主將たる人敵の首を實檢あるに、此窻より見給ふ式なども作なしていへる事あるにや。かくいふより今城中の殿宇寢殿の作ならず。中門もなきにも必實檢の窻をば造るを作法のごとくいふ。無稽の俗説といふべし。按るに、元暦のむかし木曾義仲を討退けて、源九カ義經の手の軍兵宇治路より洛に入、義經院參ありし時、後白川法皇中門の連子より六人の武者を叡覽有しこと、平家物語に見えし。是等によりて取出せし事なるか。其後元弘三年(*1333年)河野・陶山等鳥窒ノて赤松が軍と戰ひ、首百七十三討取て、六波羅にはせ歸りて、其首ども實檢あるに、主上も〔光嚴院〕御簾を捲て叡覽ある、兩六波羅は敷皮しきて庭上に坐して是を檢知ありしと、太平記にみえし。かゝる世の亂には、天子の御身にてだにかくぞおはしましゝに、いかに主將たりとも、武士の身にて連子を隔て首の實檢有べき事とも思はれず。又かゝる例古き事に聞しこともなし。
- 泉殿
昔の宮殿に泉殿といふものを造られし事必あり。月輪殿(*九条兼実の山荘)の泉殿法然の畫卷物に見えたり。又鎌倉殿中の指圖に能舞臺并橋がかりを圖して、是を泉殿と書たり。是によりて思へば、昔の泉殿の有しを、すぐに猿樂能をする所に用ひしより、舞臺とのみいひて、泉殿といふ名は廢れたる成べし。しかあれば昔の泉殿といふものは今の能舞臺なりと思ひはかりて、大樣たがふまじ。只板をはるべきやう異なるにや。
- 塗籠
又塗籠といふ名あり。是をば寢殿の廂に作る事なり。源氏物語に二條院にて經供養の有し時、西の庇のぬりごめにて紫の上聽聞し給ふことある是なり。此ぬりごめは皆むり廻して内より外よりも戸を明たるものなり。拾遺和歌集に貞盛がすみ侍ける女に、國持が忍びてかよひけるほどに、貞盛が來ければ、塗籠にかくして後の戸よりにがしけるとみえけるも、物語に小野にて落葉宮のもとへ夕霧の大將の行給ひし時、中の塗籠の戸あけあはせて渡り給ふと書たるも、皆相同じ。花鳥餘情・細流抄に自然の調度など置所なりとも、文庫などのごとしとも注して、今の俗に納戸・物置といふ所に同じ。納戸といふ名もむかしは帳臺の一名なり。鎌倉殿中の差圖にみへたり。今も其唱殘りて殿中の帳臺を御納戸構といふなり。
- 武士の家作り
武士の家にも帳臺・塗籠といふ名古も聞えたり。されども下ざまのは其名混じておのづから事かはりたり。著聞集(*『古今著聞集』)に書しは各打やすみてねぬれば、あるじも塗籠に入てねにけりとあり。又平治物語に義朝朝臣生害の時、玄光・金王丸(*渋谷金王丸、鷲栖玄光)、長田(*長田忠致)が家に切入、塗籠口まで攻入けれども、美濃・尾張のならひ帳臺のかまへしたたかに拵たれば、力なく長田父子を討得ずと書たるなどは、帳臺といふも塗籠といふも同じやうに聞ゆれども、是は下樣の家作り、定たる式もなければ、帳臺のまうけなくて、塗籠を臥所にして、是を帳臺とも唱ける事と聞ゆ。法然上人の畫卷物に、武士の家を畫きたるあり。其樣主は廂に臥し、カ等は中門のうちに臥し、下部は廏の牀にふしたる所見えたり。昔の下ざま武士などの家作り、是等にておもふべし。
- 切懸・鰭板
昔も今も公卿の家は築地を廻りにつきて、是を築垣ともいふ。武士の昔の家の圖には板を以てす。是を江次第・大和物語・源氏物語等にきりかけと(*原文「きりかとけ」)いふ。又鰭板(*「はたいた」)といふ物もあり。是は柱を地に掘立て作るなり。玉海の承安の記に、今は切懸も柱を地に掘立て造るよしなれば、其比よりきりかけといふも鰭板といふも大樣同じ製になりけるか。後はきり懸といふ名は聞えず、東鑑等に鰭板とのみいひたり。右大將家さしも日本總追捕使を奉りて、天下を掌に治給ひし御館も、土門に鰭板の圍なりし事東鑑にみえし。其後年を經てョ經將軍の時の執権たりし武藏守泰時、御所に參りて物語の次で、將軍の仰に泰時が家の鰭板のやぶれて見ぐるしと聞しと有し時、みな/\執權に奉公・追從せんと思ふ折なれば、誰も/\かくこそ存候へ。今御沙汰あれ。各申はからひて築地つきて參らせんと有ければ、泰時こたへて、各の御心ざしのほどは悦存候へども、是を築んに人夫多く集りて世の煩ひなるべし。家に築地つき廻し候とても、運つきなば泰時たすかる事候まじ。左なくとも運ありて召つかはれ候はゞ何の恐れか候べきと申て、かたく辭し申けるといふ事、沙石集にみへたり。昔の質素かくのごとく、又泰時の廉直なる事有がたきことなり。
- 節木の天河
ョ朝卿治承の末に關東にて義兵を擧給ひしはじめ、相摸國土肥の杉山の鵐(*シトト、シトド。ホオジロ・アオジの類)の岩屋といふ所の谷の、ふし木の天河にかくれ給ふといふ事、又昔天武天皇を榎木の天河にかくし奉るといふ事、共に源平盛衰記にみへし。此天河と書たるを人の不審することなり。順(*源順)和名抄に本草を引て、半天河の三字を出して、和名木乃宇豆保乃見豆(*木の空洞の水=樹液という。)と訓ぜり。さらば天河をば木のうつほとよむべきにやあるべき〔按るに、半天河水といふものは、古人説に、樹木の中の水、或は竹木上露水など注して、竹木を伐たる跡のくぼみにたまりたる水の事をいへり。さらば天武天皇・ョ朝卿かくれ給ひしを、天河としるせしは不レ叶がごとし。もし記者のおもひ誤りてかく書しか。猶可レ尋〕。
(上巻<了>)
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春湊浪話跋(土肥経平)