平家物語○巻弟9 敦盛最期巻

   [凡例] 平家物語現代語訳
        内容は平安朝末期の治承(1177)から寿永(1185)年代前後



平家物語
○敦盛最期巻
 一ノ谷の戦況もほぼ決着を見た頃、戦端を開いた熊谷次郎直実は組むべき相手を求めてなお戦場をうろついていました。
(平家の公達は、助け舟に乗ろうと波打ち際の方へ落ちて行くであろう。ああ、なんとしてでも身分の高い大将軍がいれば取り組みたいものだ)

と思いながら磯の方へ馬を寄せてみると、豪勢な装束の侍が沖へ沖へと逃れて行くのを見つけました。 練貫に鶴の姿を刺繍した直垂に、萌黄匂の鎧を着て、鍬形の飾りをつけた兜をかぶり、金具を黄金で飾った太刀を身に付け、切斑の矢を背負い、滋籐の弓を持って、連銭葦毛の馬に黄覆輪の鞍を置いて騎乗した武者一人が、沖の舟を目指して、海岸から五、六段ばかり離れたところを泳ぐように進んでいました。 格好の敵を見つけた、という熊谷の思いはいうまでもありません。

「そこにおられるは、大将軍と御見受けいたす。卑怯にも敵に後ろを見せられるとは見苦しうござるぞ。お戻りなされ」

と大声で叫びながら、声だけでは意が届かぬとみて、扇を上げて大きく招く素振りをしました。 くだんの武者もしばらく止まって熊谷の方を振り返り見ていたのですが、やがてその招きに呼応するかのようにして波打ち際に馬を寄せてきました。
両者は近付き、武者が波打ち際に上がろうとするところを、熊谷が馬を押し並べ、むずと組み合いになり両者揃ってどさりと浜辺へ落ちました。 熊谷は腕力が強い方ではありますが、それにしても思いの外手応えがありません。
(はて、何者であろうか)
と思いながら相手を上から押えつけ、首を掻こうと兜をぐっと押し上げてみると、
(子供ではないか)
当時の貴人の習いとして、薄く顔に白粉を塗り歯は黒く染めているので、すでに元服は済ませたものと思われるものの、その薄化粧の下にはまだあどけなさの残る童顔がみられました。
(年はせいぜい十六か十七ぐらいであろうか。ともに先陣を切った息子の小ニ郎と同じほどの年であろうが 無骨な我が子の顔とは比べものにならぬほど美しい顔立ちの若武者ぶり。とうてい武人には向きそうもない容貌だが・・・)
などと思いながら、今一度この若武者に目をやりますと、豪奢な甲冑に身を包んでいて一段と素晴らしい若武者に見えます。
熊谷は、右手に握り締めた刀のことを忘れしばし、息を呑んだまま動こうとはしません。 今までに覚えのない感情が湧き出てくるのがわかります。 どうした、と自分を叱責してはみるものの、やはり右手は動きません。
(どこに刀を刺したらよいものか・・・)
(助けてやれぬか、)
本気でそう考え始め、

「そもそも、そこもとはいかなる人にていらっしゃるか。御名を名乗りなされ、微力ながら御助け申しまする」

と馬乗りの姿勢を変えずに申し出ました。これを聞いて相手も驚いたに違いありません。

「おぬしは誰じゃ」
「物の数に入るような者ではございませぬが、武蔵国住人、熊谷次郎直実と申す者にござる」
「そうか」

と若武者は表情も姿勢も変えずに一言だけ発しました。あるいは今朝、熊谷の先陣の名乗りを聞いていたのでしょうか。
「されば、おぬしの前では名乗るまい。おぬしにとっては我が身はよい敵じゃ。自分が名乗らずともこの首を取って人に問えば、見知っておるであろう」
「あっぱれ大将軍じゃ」

この一言はきっと声になったに違いありません。
見れば未だ年端もいかぬ者おようですが、この絶望的な状況に追い込まれての堂々とした物言い、これほど豪胆な武者は東国にも珍しいでしょう。
(この者ひとりを討ち取ったところで負けるべき戦に勝つわけでもなく、まして、この若武者ひとりを討たなかったからといって勝つべき戦に負けるわけではない。 小ニ郎が軽い手傷を負うたのでさえわしは心苦しく思っておるのに、この殿の父君は息子が討たれたと聞けばどんなに嘆かれるであろう)
自分の感情が自分ではどうにもならぬ方向へ奔流しているのがわかっている熊谷は、動こうとはしません。
(助けてはやれぬものか)
混乱した頭の中が、背中から聞こえる地響きめいた音で現実に引き戻されました。 はっ、と後ろを見ると、土肥、梶原が兵五十騎ほどで近付いてくるのが見えました。 すでに戦場の事後検分といった次第なのでありましょうか、土肥、梶原はそれぞれ義経、範頼の参謀格であります。 彼らの前で、敵を逃すことは今更できないこと。
熊谷は、また、若武者の方へ向き直り、

「御助け申したいのはやまやまなれど、味方の軍勢が雲霞のようにおります。 よもや逃れられますまい。他人の手にかかられるよりは、同じことならば直実の手におかけして、後世の御供養を仕りまする」

言葉の最後は涙に消え、どうしようもなく涙が頬を伝わり落ちています。

「もうよいから、早く、早く首を取れ」

若武者の瞳もわずかに潤んだように思われました。 戦での敵味方とはいえ、あまりにも不憫。 熊谷は溢れる涙で視界も曇り、ものを考えることもできなくなりました。 しかし、時間は確実に過ぎて行きます。 いつまでもこうしてばかりもいられません。 ついに泣く泣く、若武者の首を掻き切ってしまったのです。

「弓矢取る身ほど情けないものはないではないか。武芸の家に生まれなければ、どうしてこんな辛い思いすることがあったろう。情けなくもなんでまた討ち奉ってしまったのか」

くどくどと恨み言を述べながら、そでに顔を押し当てて、武士らしくもなく、さめざめと泣きました。 武士らしくもない、というのはふだんの熊谷なら最も恥じるところであろうが、いまはそんなことを考える余裕さえもありませんでした。

 しばらく時間が流れました。 いつまでも浜辺に突っ立って泣いているわけにもいきません。 熊谷は、相手の鎧直垂を切り取って、首を包もうとしました。 当時はこうすることが、身分ある相手への礼儀とされていました。
鎧直垂を切り取るときに、屍の腰に錦の袋に入れた笛が差されているのを見つけました。
(そうか、今朝明け方、城の中で楽を奏でていらっしゃったのはこの御方であったか。 今、味方の軍に東国の兵が何万騎かあるであろうが、戦陣へ笛を持ってくる者はまさかおるまいに。 貴人はやはり風雅なものじゃ)

首級ともども笛も義経のもとへ見参に入れました。陣屋でも、これを見て涙せぬ人はなかったといいます。

 後で聞くところによれば、若武者は平修理大夫経盛の子で大夫敦盛という名の、享年十七歳。 その時から熊谷の出家の志はますます強くなっていきました。
例の笛の由緒は、敦盛の祖父にあたる忠盛が笛をよくするのをめでられて、鳥羽院より拝謁したものを子、孫と相伝したものであるということでありました。 それを敦盛が名人であったので、持っておられたということであります。
名を小枝の笛というそうであります。

 さらに後日談になりますが、熊谷次郎は仏門をこころざすようになり、戦乱終結後ついに発心して法然上人のもとを訪ね、出家しました。 仏門では音楽を、人の心を惑わすものとして戒めているのですが、敦盛の笛が熊谷を仏門へ導くことになったのも運命というものでありましょうか。 この笛は、現在、神戸市にある須磨寺に「青葉の笛」として伝えられています。



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