古代の東アジア外交・遣使派遣
Ancient East Asia diplomacy
he dispatch which is kenshi to China

kiku tamio Office


◇中国へ遣使の派遣
  遣隋使が見た風景 氣賀澤 保規 編
  1世紀~19世紀

遣隋使の経路


    ◇最近読んだ本!(参考文献)
  1. 白鳳・天平の時代
  2. 遣隋使が見た風景 気習澤保
  3. 天平の渤海交流 靑木和夫
  4. 遣唐使が見た中国と日本 専修大学
  5. 朝鮮通信使を読みなおす 仲尾宏
  6. 朝鮮通信使がみた日本 姜在彦
  7. 海峡を結んだ通信使 嶋村初吉
  8. 壱岐・対馬と松浦半島  佐伯弘次
  9. 描かれた行列
  10. 鎖国論(志筑忠雄訳) 杉本つとむ
  11. 江戸時代の政治と地域社会 平川新


委奴国王印:福岡市立博物館所蔵
  1. 1世紀
     BC260年~220年
    ・漢(前・後)時代~漢の時、漢王朝へ朝貢する者がいた 。
    ・57年に後漢の光武帝から倭奴国王(糸都国)に金印(委奴国王印)の賜与を
     受けている。漢委奴国王印(かんの わの なの こくおう)
    ・107年に倭国王帥升等が生口160人を献じた

  2. 3世紀
    3世紀の女性祭司(卑弥呼):大阪府立弥生文化博物館所蔵  AD220年~380年、三国時代(魏・呉・蜀)
     220年~265年、魏の首都は洛陽(黄巾の乱184年 曹操)~
      卑弥呼の魏志倭人伝で「親魏倭王偽」の称号を受ける
     238年、魏の王に遣使派遣、剣士難升米、都市牛利、等
     243年、魏の王に遣使派遣、伊声耆、掖邪狗、等計8人)
     247年、魏の王に遣使派遣、載斯烏越(載斯と烏越か)
     247年、?魏の王に遣使派遣、掖邪狗、等20人

  3. 三国志
  4. 5世紀
     朝貢(東晋・宋・南斉・梁時代)
     413年~478年、倭国の5王(讃、珍、済、興、武)は、
     9回は朝貢(東晋・宋・南斉・梁時代)している。
     413年倭王讃の朝貢

  5. 遣唐使船復元
  6. 7~9世紀 16回派遣
     遣唐使
     630年~894年、遣唐使を20次派遣計画 4回中止

    遣唐使派遣経路


  7. 11世紀半ば~12世紀初頭
     鎌倉時代 - [1185年 ~ 1333年]
     日宋貿易と高麗貿易 対外貿易の拠点:太宰府鴻臚館(こうろかん)廃絶し
     博多の「東房」中国人街形成に移る。
      ・平戸に「宋人綱首こうしゅ:松浦党一族」が住んでいた。~白磁
      ・五島列島の小値賀島は中継港


    ◇古代史から読み解く東アジアの外交 その3! (*^_^*)
     11世紀半ば~12世紀初頭、「倭寇」と呼ばれた「海賊」の時代。
    894年の菅原道真の遣唐使の廃止から300年弱(鎌倉時代)。その間 日本国は公式の使節団は途絶えていたが、日宋・高麗貿易はしたたかに行われ、対外貿易の拠点は太宰府の迎賓館 鴻臚館(こうろかん)から博多の中国人街「東房」に移る。倭寇は1226年、対馬国と高麗国が闘争し、松浦党「鎮西凶党」が高麗で民家滅亡や資財略奪が記録されている。1263年にも、倭寇が高麗の金州沿岸を襲撃する事件があり、高麗政府は日本に使節を送って倭寇を沈静化しようとするが不調に終 わる。1268年、皇帝フビライの国書をたずさえ高麗使一行と太宰府に!日元交渉はいつも不調に終わる。その6年後、1274年(文永の役)、1279年(弘安の役)の二度にわたる蒙古襲来を受ける。

    <記録>
     1274年、(文永の役)
    対馬・壱岐・松浦地方・博多湾から上陸、艦船900艘・26000人の軍隊で元軍(高麗軍)が関蒙古襲来、対馬厳原町で宗助国80余騎全滅・壱岐平経高ら1000余騎全滅(牛全滅)・松浦党は数百人討たれ生け捕り。博多制圧したが翌日撤退。
     1279年、(弘安の役)
    元は南宋をを最終的に滅ぼし日本遠征へ。高麗からの出発42000人、中国からの出発する江南軍10万人が壱岐で合流する計画であったが合流できず。平戸で一騎打ちとなるが、暴風のため元軍の被害(破壊)が多く、撤退。


  8. 元寇ルート:多賀歴史研究所提供


  9. 13世紀の20~30年代
     鎌倉時代 - [1185年 ~ 1333年]
     1226年、対馬国と高麗国が闘争している。松浦党「鎮西凶党」が高麗で民家滅亡、資財略奪
     1232年、肥前鏡社の住人が高麗に渡り夜討ちを数多の珍宝を盗む
         高麗政府は日本に使節を送って倭寇を沈静化しようとした。
     1263年、倭寇が高麗の金州沿岸を襲撃する事件があった。
         高麗政府は日本に使節を送って倭寇を沈静化しようとした。
         外交文書:「倭寇は停泊していた高麗の貢船を襲い、穀米120石・紬布434匹」奪い
         去る。」対馬・肥前・薩摩の人物~高麗と対馬の人々は貿易船「進奉船」で朝貢
         貿易進奉品~水銀・柑橘・真珠・刀剣・牛馬・弓矢
     1268年、皇帝フビライの国書をたずさえ高麗使一行と太宰府に!日元交渉はいつも不調に
         終わる。
     1274年、(文永の役)対馬・壱岐・松浦地方・博多湾から上陸、艦船900艘・26000人の軍隊
         で元軍(高麗軍)が関蒙古襲来
         対馬厳原町で宗助国80余騎全滅・壱岐平経高ら1000余騎全滅(牛全滅)・松浦党は
         数百人討たもの生け捕り。博多制圧したが翌日撤退。
     1279年、(弘安の役)
         元は南宋をを最終的に滅ぼし日本遠征へ。高麗からの出発42000人、中国からの
         出発する江南軍10万人が壱岐で合流する計画であったが合流できず。平戸で一騎
         打ちとなるが、暴風のため元軍の破壊が多く撤退。
     1292年、弘安の役後元から使者を派遣~3度目の襲撃に備え「異国警国番役」を廃止できな
         かった。
     1298年、博多北部九州沿岸をへて五島から日元貿易を
         貿易進奉品~砂金・円金・細絹・水銀樽・鎧・太刀・小刀・茶碗・半捙・角たらい
         ・鈴箱・夜具・蒔絵の硯箱・小袖・武具等さまざま

     室町時代 - [1336年 ~ 1573年]
     1350年、三島(対馬・壱岐・松浦)倭寇が大規模化(1370~1380年代)し、大陸や半島を脅かす
         海賊に手をやく。
     1392年、朝鮮が建国され、倭寇問題が第一の政治課題であった。倭寇達に特権を与え懐柔政
         策が進み沈静化した。倭寇たちが平和な交通者に変貌(受職人)し、莫大な利益を得
         た。綬図書の制(通行証:銅印)
         朝鮮側は交通統制を徹底化するため対馬の宗氏を頼って、朝鮮への渡航証明書
         「文引」の発行を宗氏に依頼。
         文引の発行で、渡航には対馬を立ち寄ることで、宗氏は手数料を取り自分の財源に
         した。
     1443年、朝鮮と対馬宗氏と間で癸亥条約(さがいや)が結ばれた。年間の貿易船50隻を認める。
         又、特送船を認める。
         正式な遣使を、対馬宗氏が仕立てた偽使もまかり通っている。

  10.  朝鮮通信使ルート


  11. 14~15世紀 3回派遣
     室町時代 1336年 – 1573年
     高麗王朝 918年 - 1392年
     李氏朝鮮 1392年 - 1897年

      朝鮮通信使
     1375年、足利義満(日本国王1386~1428年) 国書に対する高麗王朝の返礼が最初。
     1401年、 足利義満の遣明船派遣で始まった日明貿易!朝貢貿易(中継が平戸・五島の港湾)
     1404年、室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。
     1419年、倭寇征伐を理由として対馬に遠征する(応永の外寇)。
     1428年、通信使正使|朴瑞生|副使|李芸 |書状官|金克柔|将軍就任祝賀・足利義教の引見
     1439年、通信使正使|高得宗|副使|尹仁甫|書状官|金礼蒙|旧交・足利義教の引見
     1443年、通信使正使|卞孝文|副使|尹仁甫|書状官|申叔舟|将軍就任祝賀・足利義教の引見

    <足利義満と日本国王冊封>
     室町幕府の最初の外交は中国の王朝が元から明に代わる直前の1366年(貞治元年)に倭寇禁圧を求める高麗の使節が来日したのが最初である。当時の北朝は高麗の使節が元の征東行中書省からの咨文と箚付を持参したことから、かつての元寇などを理由に使節受けいれを拒否したが、2代将軍足利義詮は五山派の禅僧である春屋妙葩を仮に僧録の資格を与えて交渉 に当たらせるとともに自らも使者に引見した。だが、朝廷(北朝)が使節の受けいれを拒絶していたため、義詮は正式な 回答を高麗側に与えることが出来ず、春屋妙葩の名義、世尊寺行忠の執筆によって非公式な返書を与えている(『善隣国 宝記』・『鹿王院文書』)。
     義詮の後を継承した足利義満は、日明貿易の一元支配を望み、1374年(応安3年)以来数次にわたって使節を送る。明朝側としても倭寇を取り締まる能力のある日本の支配者との通交の必要はあったものの、儒学復興が叫ばれていた当時、日本国王として冊封された懐良親王の上表文を持たない使者の来貢を認めない方針を採り、足利氏が日本の君主ではなく「持明」(持明院統の天皇の事。明朝は「持明」を「良懐」(懐良親王)と日本の王位を争っている人物名と解釈していた)の臣下の「将軍」にすぎないことを理由に、通交を拒否していた(『明太祖実録』洪武7年6月乙未条及び同13年9月甲午条 )。しかし、1380年に発覚した明の左丞相(大臣)胡惟庸の謀叛と、当時辞官出家していた義満が、天皇の臣下という立場をとらずに通交を試みようとした結果、1401年(応永8年)、「日本准三后道義」の表文を携えて派遣された使節はついに目的を果たし、「日本国王源道義」宛の建文帝(在位1398年~1402年)の詔書を携えて明使とともに帰国した。義満は北山第に明使を鄭重に迎え、自ら拝跪して詔書を受けたという。
     ところが、明使の滞在中、靖難の変(1399年~1402年)により成祖永楽帝(在位1402年~1424年)が即位。義満は永楽帝に宛てて国書を送った。即位して間もなく、簒奪者との謗りも受けていた永楽帝は、「外夷」からの使節の到来を自らの天子としての徳を証明するものとして喜び、義満に「日本国王之印」と通交に必要な勘合符を与えた。
     こうして義満は「日本国王」の称号を獲得し、中華皇帝に臣従する外臣として認知され、華夷秩序における国王として承認された。これにより足利家が勘合貿易の主導権を握った。

    <足利義満以後>
     義満以来、室町幕府内でも異朝に臣従する姿勢に批判的な意見が根強かった。義満の死後、4代将軍となった足利義持は明と断交するが、6代将軍足利義教が明との国交を再開。国王号も復活した。これに伴い、朝鮮からの来書にも将軍を日本国 王と称したが、日本側では、「日本国源某」の称号を用いた。なお、この時「日本国王」という称号を巡って議論があり、満済は管領細川持之を通じて「将軍は日本の覇王であり、国王の称号を用いて誰に憚るところがあるのか」と進言したと記している(『満済准后日記』永享6年6月15日条)。幕府の討議の結果、「只今鹿苑院殿の御沙汰を改めらるるの条々、一向彼の御非虚を異朝に仰せ顕わせらるるに相当たるべきか。(もし今鹿苑院殿(義満)の先例を改めるようなことを すれば、彼の虚偽を外国に言い出すようなものではないか)」として、日本国王号を採用した。しかし、一方で将軍が明 皇帝の勅書を受ける際に将軍が拝礼することが問題になった。交渉の結果、拝礼の儀を簡略化することで合意が成立したが、この際満済は当初反対していたが、賛成に回るにあたって「本当の日本国王が拝礼することは神慮に背くことになるが、将軍は明側が思っているだけの日本国王なので、拝礼は差し支えない」と回答している。
     7代足利義勝以後の将軍が明の冊封を受けた事実は確認できない。だが、宝徳3年(1451年)に8代将軍足利義成(後の義政 )が明の景泰帝に使節を派遣した時の上表文及び景泰帝からの勅諭に用いられている義成の称号は「日本国王」であり、明側においても実際の冊封の有無を問わず、武家政権の長である義成(義政)を国王として認識していたことが分かる。なお、義政は家督を息子の義尚に譲った後も、祖父・義満に倣って「日本国准三后道慶」と署名した書状を朝鮮に送る(『善隣国宝記』所収文明18年遣朝鮮書及び『蔭涼軒日録』文明18年7月2・11日条)など、外交面においては主導的な立場を保持し続け、「日本国王」の地位を終生手放すことはなかった。
    その後も足利将軍は明や朝鮮では「日本国王」と認識されていたが、細川氏や大内氏、宗氏などが実際の外交の実権を握った。日本国王の上表文が偽造される場合もあった[5]。義満の金印は戦乱により消失した為代用品として木印が用いられた。大寧寺の変の後に大内義長により作られた木印は毛利元就の手にわたり毛利博物館に所蔵されている。なお、大内義長と毛利元就は木印の保有者として日明交易の再開を求めたが簒奪者として朝貢を認められなかった。
     日明関係は1547年(天文16年)の遣明船で断絶したが、1581年(天正9年)と1583(天正11年)に朝鮮国王が日本に送った国書の宛先の「日本国王」とは室町幕府の15代将軍足利義昭であった。

  12. 16世紀以降 2回派遣
      豊臣秀吉に派遣された通信使
     1509年
     1596年、

     朝鮮通信使一覧


  13. 17~19世紀
       607~1811年、12回派遣
       1607年、2代将軍 徳川秀忠時代に日朝国交回復・捕虜返還
       1811年、11代将軍 徳川家斉 家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)




◇遣隋使--遣唐使--朝鮮通信使(足利)--朝鮮通信使(秀吉)--朝鮮通信使(家康)◇


◇ 遣隋使が見た風景 氣賀澤 保規 編

  弥生時代 - 北魏[紀元前300年頃 ~ 250年頃] 卑弥呼
  古墳時代 - 隋 [250年頃 ~ 600年代の末頃] 大和王権・413年倭王讃の朝貢
  飛鳥時代 - 隋 [592年 ~ 710年] 推古女帝・607年~小野妹子の派遣
  奈良時代 - 唐 [710年 ~ 794年]
  平安時代 - 唐 [794年 ~1185年]

楊健聖堅~文帝~煬帝(581~618)2代38年
 文帝は、「開皇律令」の制定、中央3省6部制から地方の州(郡)県制の実施で統一国家体制を整える。  海を渡って日本の古代国家の礎となった。  文帝(581~604)は、北周の武帝の仏教弾圧と違い、儒学を全廃し仏教保護「舎利を諸州に領分つ」した。  煬帝(ようだい 604~618)は、北の黄河流域と南の揚子江流域をつなぐ幹線(大運河605~610)を完成(全長2000㌔)。  唐代において「則天武后の大運寺」を全土に配置。これが日本の国分寺.国文尼寺に連なる。  遣隋使は隋を中心とする東アジアの国際関係を史。  遣隋使は圧倒的な国力の差、隋で何を見て、何を肌で感じたか!
遣隋使6回:随書(4回)&記紀(2回):陳・北斎・北周・随
《隋国の煬帝569~618:倭国の厩戸王子574~622》
 推古ー厩戸(聖徳)時代の倭国に移る。
 小野妹子が随に持参した国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」:皇帝と同じ「天子」  隋の煬帝が国書を見て「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者あり、復(ま)た以て聞(ぶん)することなかれ 」:蛮夷の国王と同 格推古女帝は603年12月に「冠位12階制を制定」、604年4月に「17条憲法を制定」をする。
  ①、600年~倭使、随に至る。
  ②、607年~小野妹子の派遣
  ③、608年~倭使、随に至る。
  ④、608年~小野妹子の派遣(留学生・留学僧)
  ⑤、610年~倭使、随に至る。
  ⑥、614年~犬上御田鍬(いぬがみのきみたすき)の派遣:615年に百済使と帰国
    630年に最初の遣唐使として医恵日(くすしえにち)と唐に渡る。

新羅から隋使
  ①、594年~隋使
  ②、615年~隋使
百済から隋使
  ①、581年~隋使
  ②、582年~隋使
  ③、589年~隋使
  ④、598年~隋使
  ⑤、607年~隋使
  ⑥、608年~隋使
  ⑦、611年~隋使
  ⑧、614年~隋使
高句麗から隋使
  ①、581年~隋使
  ②、582年~隋使
  ③、583年~隋使
  ④、584年~隋使
  ⑤、591年~隋使
  ⑥、592年~隋使
  ⑦、597年~隋使
  ⑧、598年~隋使
  ⑨、600年~隋使
  ⑩、609年~隋使
  ⑪、614年~隋使

飛鳥時代の王宮と儀礼空間
  592年:豊浦宮(とゆうらのみや):奈良県高市郡明日香村豊浦
  603年:小墾田宮(おはりだのみや)
  640年:百済宮
  630年:飛鳥宮~飛鳥岡本宮(630)・飛鳥板蓋宮(643)・後飛鳥岡本宮(656)・飛鳥浄御原宮(672)

○小野妹子(607・608年)、煬帝が築いた洛陽城そして長安へ。
4、6世紀 隋の時代:煬帝と厩戸皇子  ・中国大陸の「登州附近」から上陸。青州(北海郡)→斉州(斉郡)→汴州(熒陽郡)→
  洛陽(洛陽城)→長安(大興城)
 ・洛陽まで2140里(1198㎞)~徒歩で43日:公的基準一日50里(28㎞)
 ・長安まで3000里(1680㎞)~徒歩で60日 

○隋書にみる、倭国にはじめて渡った外交官 裴清世(はいせいせい 608年)
 ・小野妹子と同行する
 ・洛陽→百済→竹島→聃羅(耽羅 たんら:済州島)→対馬国→一支国→筑紫国(博多湾の那津)→秦王国(夷州)→瀬戸内海(十余国)→大阪湾(難波津:迎賓館)→桜井市(迎接儀礼)→大和の飛鳥・小墾田宮(おはりだのみや)


<参考資料>
後世に模写された倭人。
 502~557年の王朝、梁(南北朝時代)は502~557年
 ・「唐客使図:章懐太子墓壁画:しょうかいたいし:711年」~①東ローマ系②渤海の使者(倭国?)③契.契丹系
 ・「梁職貢図:りょうしょくこうず:526~539年完成」~ 1077年模写、絹本彩色(南京博物院旧蔵) 2011年に発見
 ・「倭国使:唐閻立本王会図:とうえんりっぽんおうかいず:絹本彩色」~模写(台湾故宮博物院)
 ・「南唐顧徳謙模梁元帝蕃客入朝図:なんとうこ とくけんもりょうげんていばんきゃくにゅうちょうず:白描画 」
 ・「清張庚諸番職貢図巻:しんちょうこうしょうぼんしょくこうずかん」~清の張庚が模写

隋書からみる倭国の人口
 7世紀前:隋書に記載の戸数が10万戸(一戸あたり20.5人~21.36人)
 8世紀前:400~500万人
 8世紀末:540~590万人

○「梁職貢図:りょうしょくこうず:539年完成」~北宋模本
 「清張庚諸番職貢図巻:しんちょうこうしょばんしょっこうずかん」~模本(清の張庚1685~1760年)

翻刻
 「倭國使
  倭國在帯方東南、大海中依、山鳥居。自帯方循海水、乍南乍東、對
  其岸。歷三十餘國、可万餘里。倭王所止、大抵在木曾東。氣暖地温。
  出眞珠・青玉、無牛馬虎豹羊鵲。[男子皆黥]面文身。以木綿一帖首。衣
  横幅無縫、但結[束相連。好沈水捕魚蛤。婦人只被髪、衣]如單被。穿其[中
  貫頭衣之。男女徒跣、好以丹塗身。種稻禾・麻苧・蚕桑、出袖布・縑錦。兵用矛盾・木弓、箭用骨爲鏃。
  其食以手、器用籩豆。死有棺無槨。齊建元中、奉表貢獻。]

読み下し
 「梁職貢図:りょうしょくこうず:539年完成」遣隋使が見た風景 氣賀澤 保規 編より抜粋
  • 倭国使
     倭国は帯方の東南、大海中に在り、山鳥に至りて居る。帯方より海水に循(したが)い、乍(たちま)ち南し乍ち東し、其(そ)の北側に対(いた)る。三十余国を歴(へ)ること、万余里なるべし。倭王の止まる所、大抵会稽(会稽郡・かいけいぐん=現紹興市)の東に在り。気は暖かく地は温(ぬく)し。
    倭国使:梁職貢図より  真珠・青玉を出し、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(からさぎ)無し。[男女は皆]面(かお)に[黥いれずみし]身に文(いれずみ)す。木綿(綿で織った布)を以て首に貼る(かぶる)。衣は横幅(おうふく・横はば広の布)にして縫うこは無く、但(た)だ結[束(布を縛る)]して相連ぬ。好んで水に沈み魚・蛤(魚類・貝類)を捕う。婦人は只(た)だ被髪(ひはつ・髪を伸ばす)し、衣は]単被(ひとえ)の如(ごと)し。其(そ)の[[中を] 穿(うが)ち 頭を貫(とお)し之を衣(き)る。男女は徒跣(とせん・履き物を履かず裸足)し、好んで丹(朱・赤い絵の具)を以て身に塗る。稲禾(とうか・いね)・麻苧(まちょう=あさ)・蚕桑(てんそう=くわ)を種(う)え、袖布(しゅうふ=麻布)・縑錦(けいきん=絹布)を出だす。兵(武器)は矛・盾・木弓を用い、箭(矢)は骨を用て鏃と為す。
     其(そ)の食は手を以てし、器は籩豆(たかつき)用いる。死して棺(かん=ひつぎ)有るも槨(かく=棺や埋葬品を納める外側の柩ひつぎ)無し 。斉の建元中、表(国書)を奉じ貢献(朝貢)す。

  • 刑罰(中国の律と類似)
     盟神探湯(くがたち)日本書紀の応神9年4月条や継体24年9月条の記事と類似
      (略)小石を沸騰の中に置き、競うところの者をしてこれらを探らしめ、いう理の曲なる者は即ち
        手爛(ただ)る
      (略)人を殺し、強盗し及び姦するは皆死す。盗む者は贓(ぞう)を計りて物を酬(むく)いしめ、財
        なき者は、身を没して奴となす。
      (略)獄訟(ごくしょう)を訊究(じんきゅう)するごとに、承引(しょういん)せざる者は、木を以て
        膝を圧し、あるいは強弓(ごうきゅう)を張り、弦を以てその項を鋸(きょう)す。
      (略)蛇を甕(かめ)の中に置き、これを取らしめ、いう曲なる者は即ち手を螫(さ)さる。

  • ○5~6世紀の「梁職貢図」に見る「倭国使」の風俗とは!
     大化の改新以来、随・唐の大帝国を目標とし、律令国家を築きあげてきた「倭国」。三国志、梁書、隋書、唐書から見る東アジア諸国の遣使。国書を携え朝貢し、共に皇帝に謁見した遣隋使・遣唐使。その儀式を経験したことがない倭国の遣 使。戸惑いと驚きの中で見た倭人を描いた「職貢図」が、新たに 2011年 梁職貢図 として発見された。
     当時、諸外国の遣使は、本国での身分を表示する衣冠をつけ、国王からの書を携え、通訳を通じて問答を交わし、その中には中国にならって律令を制定した国から見る職貢図。倭人はあまりにもみすぼらしい。
     そのはずかしい経験を朝廷に報告。そこで、聖徳太子は603年の「冠位十二階」、604年に「憲法17条」を制定。607年に”大礼の冠”をつけた小野妹子が国書をたずさえ遣隋使として数十人の学問僧ひきいて隋(洛陽・長安)にわたる!!

    1、倭国使:梁職貢図より 2、梁職貢図倭国使:唐閻倭国使 3、倭国使:梁職貢図より 4、6世紀 隋の時代:煬帝と厩戸皇子
    6世紀隋の時代の日本人とは!(梁職貢図倭国使:唐閻倭国使)

    ○北路:時間はかかるが航海は安全
     飛鳥→太宰府→壱岐国→対馬国→朝鮮半島→中国大陸の「登州附近」から上陸。→青州(北海郡)→斉州(斉郡)→汴州(熒陽 郡)→洛陽(洛陽城)→長安(大興城)

    ○遣隋使・遣唐使を朝貢させた!
     2011年に発見された「梁職貢図」に見る「倭国使」の風俗。
     魏志倭人伝(北魏)に見る倭人の風俗から100年が経過した、梁の時代


    ーーーーーーー遣唐使(飛鳥・奈良・平安)ーーーーーーー

    ◇遣唐使
    ○7~9世紀 16回派遣  :  遣唐使
     630年~894年、遣唐使を20次派遣計画 4回中止

     日本古代の朝廷が唐に派遣した使節。目的は国際情勢を知り,大陸文化を輸入することが主。使節団の構成は大使およびその使人,留学生・学問僧らの随員,知乗船事(ちじょうせんじ)以下の船員の3者

     唐(618年 - 907年)は、中国の王朝である。
     李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見 で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。
     690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。
     日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。

    <律令体制とその崩壊>
     律令は、西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝により「開皇律令」が編纂されていた。唐はそれを受け継いで、何度か修正を加えつつ運用していた。
     律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。
     後述する三省六部、九品制、均田制、府兵制などは令によって規定され、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を律令制と呼ぶ。
     唐の律令は何度か変更され、玄宗の737年(開元25年)にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。
     律令が現実の社会状況と合致しない場合、それに代わって詔勅と格が主要な役割を果たしたとされる。安史の乱以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、より格式が多用されるに至る。

    <組織目次を見る>
     遣唐使の組織は、時期によって規模・内容を異にするが、『延喜式(えんぎしき)』によると、大使(たいし)、副使(ふくし)、判官(はんがん)、録事(ろくじ)、知乗船事(ちじょうせんじ)、訳語(おさ)、請益生(しょうやくしょう)、主神(しゅじ ん)、医師(いし)、陰陽師(おんみょうじ)、画師(えし)、史生(ししょう)、射手(しゃしゅ)、船師(ふなし)、音声長(おん じょうちょう)、新羅(しらぎ)・奄美訳語(あまみのおさ)、卜部(うらべ)、留学生(りゅうがくしょう)、学問僧(がくもん そう)、従(けんじゅう)、雑使(ぞうし)、音声生(おんじょうしょう)、玉生(ぎょくしょう)、鍛生(たんしょう)、鋳生(ち ゅうしょう)、細工生(さいくしょう)、船匠(ふなしょう)、師(かじし)、人(けんじん)、杪(かじとり)、水手長(かこちょ う)、水手(かこ)という構成であり、ときには大使の上に執節使(しっせつし)、押使(おうし)が置かれたこともあった。使 節が渡航に用いる船数は、当初は2隻、のち奈良時代になると4隻編成が基本となる。船数の増加に伴って員数も240~250人から500人以上になり、838年(承和5)の遣使では651人という多人数になっている。使の随員には、官人のほか技術者 などがいるが、大多数は公民から徴発された師、杪、水手などの乗組員である。船の大きさは不明であるが、船数と使節 団の総数から試算すると、1隻につき120人から160人程度乗り込める規模であったようである。[鈴木靖民]

    <航路目次を見る>
     使船の航路は、難波(なにわ)(大阪湾)から瀬戸内海を西下し、筑紫大津浦(つくしのおおつのうら)(博多(はかた)湾)に入り、ここから出航した。初期は壱岐(いき)・対馬(つしま)を経て朝鮮の西沿岸を北上し、渤海(ぼっかい)湾口から山東半島に至る北路(新羅(しらぎ)道)がとられた。ところが、白村江(はくそんこう)の戦い(663)ののち、新羅との国交 がとだえると、九州南端から多(たね)(種子島(たねがしま))、夜久(やく)(屋久島)、吐火羅(とから)(宝島(たからじ ま)あるいは吐喇列島(とかられっとう))、奄美(あまみ)(奄美大島)、度感(とこ)(徳之島)、阿児奈波(あこなわ)(沖 縄島)、球美(くみ)(久米島(くめじま))、信覚(しがき)(石垣島)などを経由して、東シナ海を横断して揚子江(ようす こう)口を目ざす南島路がおもにとられるようになった。『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』に記される鑑真(がんじん)の来日航路がこれにあたる。さらに奈良時代後半以降になると、大津浦をたち、肥前値嘉島(ちかのしま)(五島列島)付近から順風を利用して一気に東シナ海を横断して揚子江岸に向かう南路(大洋路)がとられるようになった 。
     遣唐使船の航海にはさまざまな困難が付きまとい、船酔いもさることながら、円仁(えんにん)の『入唐求法巡礼行記(にっ とうぐほうじゅんれいぎょうき)』によると、糒(ほしいい)(蒸米(むしごめ)を乾かした携帯・保存食)と生水のみで飢えをしのぎながら風雨、高浪を乗り越えなければならず、航行中重病になればひとり異国に置き去りにされることもあった 。また造船技術、航海術が未熟なため、難破漂流することも珍しくなかった。たとえば753年(天平勝宝5)11月、藤原清 河(ふじわらのきよかわ)、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)らを乗せ、蘇州(そしゅう)から阿児奈波島へ向けて出帆した帰国船が暴風にあい、南方へ流され安南(あんなん)(ベトナム)に漂着した。結局、2人は辛苦のすえ帰唐し、望郷の念を抱き つつも生涯唐朝に仕えたのは有名である。[鈴木靖民]

    <目的目次を見る>
     このように使節はつねに死の危険と直面しながら渡唐したわけであるが、当初の遣唐使の主目的は、唐の制度・文物を導入することにあった。これは、日本の古代国家を形成するうえで唐帝国の国制を模倣しようとしたためにほかならない。とくに文化面でも、同行した留学生、学問僧らによる先進文化の習得、書籍その他の文化的所産の将来に多大な成果をあ げた。
     奈良時代に入ると、おもに政治外交上の使命を帯びて派遣されることが多くなった。とくに当時の日本の外交は、新羅との頻繁な交渉とともに、東アジアの国際社会で日本の地位を確保することが要請されており、新羅の「朝貢」を媒体とする宗属関係を唐に承認させる必要があった。このことは『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6 年(754)条に記されている753年(唐の天宝12)正月、唐の朝賀の場における新羅との席次争いの一件に現れている。当 日、諸蕃(しょばん)の席次で日本を西畔第二吐蕃(とばん)(チベット)の下に置き、新羅を東畔第一大食(たいしょく)国(サラセン)の上に置いたので、副使大伴古麻呂(おおとものこまろ)が抗議をし、双方の順位を入れ替えさせたのである。
     さらに奈良時代末以降になり、政治外交上の使命が薄れてくると、僧侶(そうりょ)の留学および貿易的利益を目的として 派遣されるようになっていった。
     平安時代には804年(延暦23)と838年(承和5)の2回にわたって遣使されているが、それ以降はまったく中断した。これ は、使の目的の実効性の喪失、政府の財政難などがあげられるが、新羅との公的交渉が779年(宝亀10)に終わり、唐も安 史の乱(755~763)後しだいに衰運に向かいつつあったので、遣使の外交政策上の意義もなくなってきたのである。また9 世紀以降活発になった唐人・新羅人商人との私貿易により経済上の欲求も満たされるようになった。
     かくして、894年(寛平6)大使に任命された菅原道真が唐の擾乱(じょうらん)、航海の困難などを理由に停止を要請し、 それが承認されると遣唐使の制も廃絶されることになった。[鈴木靖民]木宮泰彦著『日華文化交流史』(1955・冨山房) ▽森克己著『遣唐使』(1965・至文堂) ▽江上波夫編『遣唐使時 代の日本と中国』(1982・小学館)』

    ○唐の時代(年表) 618~907年
     617(義寧1)李淵(りえん)が挙兵して長安を占拠
     618(武徳1)隋の煬帝(ようだい)殺され、李淵、恭帝の禅譲を受けて即位(高祖)
     621(武徳4)竇建徳(とうけんとく)や王世充をくだす。開元通宝が鋳造される
     624(武徳7)武徳律令の施行。群雄ほぼ平定される。均田法、租庸調法の施行
     626(武徳9)玄武門の変。李世民(太宗)が即位(貞観の治)
     628(貞観2)全国統一完成
     629(貞観3)玄奘(げんじょう)がインド旅行に出発(627年出発説もあり)
     630(貞観4)東突厥(とっけつ)を滅ぼす。倭(わ)国(日本)、使を唐に派遣(第1回遣唐使)
     636(貞観10)府兵制が完成する
     637(貞観11)貞観律令が制定される
     638(貞観12)『氏族志』が頒布される
     640(貞観14)高昌国を滅ぼして安西都護府を置く
     641(貞観15)文成公主が吐蕃(とばん)に嫁ぐ
     643(貞観17)王玄策をインドに派遣する
     645(貞観19)太宗の高句麗(こうくり)遠征(第二次647年、第三次648年)
     646(貞観20)玄奘の『大唐西域記』が完成する
     647(貞観21)燕然(えんぜん)(後の安北)都護府が設置される
     651(永徽2)永徽(えいき)律令が制定される
     655(永徽6)武氏(則天武后)が皇后となる
     658(顕慶3)高句麗に出兵(~659、661にも)
     660(顕慶5)唐・新羅(しらぎ)の連合軍が百済(くだら)を滅ぼす
     663(龍朔3)白村江の戦い
     668(総章1)高句麗を滅ぼして平壌に安東都護府を置く
     670(総章3)吐蕃、安西四鎮を落とす
     671(咸亨2)義浄がインド旅行に出発(~694)
     676(儀鳳1)安東都護府を遼東(りょうとう)に移す
     679(調露1)安南都護府が置かれる
     683(弘道1)高宗死去。中宗が即位。則天武后が摂政
     684(光宅1)中宗廃され、弟の睿宗(えいそう)が即位。則天武后実権を握る
     685(垂拱1)垂拱(すいきょう)律令が制定される
     690(天授1)則天武后が即位して国号を周とする
     692(長寿1)吐蕃を討ち安西四鎮を回復
     696(万歳通天1)山東に武騎団が置かれる。府兵制が崩壊する端緒
     705(神竜1)則天武后が退位、死去。中宗が復位(唐の復活)。神竜律令の制定
     710(景雲1)中宗が韋后(いこう)に毒殺される。初めて節度使を置く(河西節度使)
     712(先天1)玄宗が即位する(開元の治)
     713(開元1)太平公主が死を賜る
     719(開元7)開元律令(開元七年令)が制定される
     721(開元9)宇文融が括戸(かっこ)政策を上言する
     723(開元11)近衛軍に初めて募兵が用いられる
     725(開元13)玄宗が泰山で封禅(ほうぜん)する
     737(開元25)開元律令(開元二十五年令)が制定される
     738(開元26)『大唐六典』成る。南詔、六詔を統一
     740(開元28)楊玉環(ようぎょくかん)(楊貴妃)、玄宗の後宮に入る
     749(天宝8)府兵制が正式に廃止される
     751(天宝10)安禄山、平盧(へいろ)、范陽(はんよう)、河東の節度使を兼任。
           タラス川の戦いでアッバース朝に敗れる
     755(天宝14)安史の乱が勃発。内地に藩鎮の設置始まる
     756(至徳1)玄宗、四川に逃れる。途中の馬嵬(ばかい)で楊国忠、楊貴妃殺害される
     757(至徳2)安禄山が子の慶緒に殺される
     759(乾元2)史思明が安慶緒を殺して大燕皇帝と称す
     761(上元2)史思明、子の朝義に殺される:
     762(宝応1)李白の死(701―)。袁晁、浙東で挙兵
     763(宝応2)史朝義が殺されて安史の乱が終わる
     764(広徳2)地頭銭(青苗銭)が行われる
     770(大暦5)杜甫の死(712―)
     780(建中1)両税法を施行する
     790(貞元6)吐蕃が安西・北庭都護府を落とす
     793(貞元9)初めて茶税を施行する
     801(貞元17)杜佑(とゆう)の『通典(つてん)』成る
     804(貞元20)最澄、空海入唐
     805(貞元21)永貞革新。憲宗が即位、節度使抑圧策をとる
     809(元和4)両税配分上の改革実施
     819(元和14)藩鎮の兵力が分割され、節度使の権限削減され、やや情勢が安定
     820(元和15)憲宗が宦官に殺される
     821(長慶1)長安で唐蕃会盟(822年ラサで会盟)
     823(長慶3)牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)が宰相となる。牛李の党争激化
     835(太和9)宦官誅滅の企てが失敗(甘露の変)
     840(開成5)ウイグルがキルギスに滅ぼされて四散
     845(会昌5)武宗が仏教を弾圧(会昌の排仏)
     859(大中13)裘甫(きゅうほ)の乱が起こる(~860)
     874(乾符1)王仙芝が挙兵する
     875(乾符2)黄巣が王仙芝に呼応し、黄巣の乱が起こる。藩鎮の自立化の動き起こる
     880(広明1)黄巣、洛陽、長安を占拠。帝位につき国号を斉とする
     883(中和3)李克用が黄巣を破り長安を奪回する
     884(中和4)黄巣が敗死。黄巣の乱終わる
     903(天復3)朱全忠が長安に入り宦官を虐殺する
     905(天祐2)朱全忠が唐の高官を虐殺する
     907(天祐4)朱全忠が後梁を建て、唐が滅びる。
           これを契機に、李克用その他が地方独立王国を建て、五代の分裂時代に入る。
     律令国家である唐では貿易はすべて国の管轄下で行われていて、民間人による自由な貿易はかたく禁じられてた。取り締まりも大変厳しかったようだが、安史の乱からすでに100年以上たっている唐は衰退し多くの民間の商船が航行するようになり、漢人や新羅人の商船が東シナ海や日本海を自由に往来していた事実。

    ○遣唐使に任命された菅原道真の反論
     道真が朝廷のメンツをつぶさず、藤原氏にも反論させないように安史の乱からすでに100年以上たっている唐の衰退と治安の悪化を理由に中止を提案したものですから、この奏状は、『菅家文草』の巻第九に収録されています(大系の一連番号601)。
     200数十年間続いた遣唐使の派遣は、宇多天皇の時、この菅原道真の建議によって廃止されました。(遣唐使の廃止、寛平6年(894))

    <翻刻> 請令諸公卿議定遣唐使進止状       菅原道眞
     右臣某謹案在唐僧中瓘去年三月附商客王訥等所到之録記大唐凋弊載
     之具矣更告不朝之問終停入唐之人中瓘雖區々之旅僧爲聖朝盡其誠代
     馬越鳥豈非習性臣等伏撿舊記度々使等或有渡海不堪命者或有遭賊遂
     亡身者唯未見至唐有難阻飢寒之悲如中瓘所申報未然之事推而可知臣
     等伏願以中瓘録記之状遍下公卿博士詳被定其可否國之大事不獨爲身
     且陳欵誠伏請處分謹言
      寛平六年九月十四日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大
      辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某

    <書き下し文>  諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしめんことを請ふの状   菅原道真
     右、臣某、謹んで在唐の僧中瓘、去年三月商客王訥(おうとつ)等に附して到す
     所の録記を案ずるに、大唐の凋弊、之を載すること具(つぶさ)なり。更に不朝の
     問を告げ、終に入唐の人を停む。中瓘、区々の旅僧と雖も、聖朝の為に其の誠
     を尽くす。代馬・越鳥、豈に習性に非ざらんや。臣等伏して旧記を検するに、度々
     の使等、或いは海を渡りて命に堪へざる者有り。或いは賊に遭ひて遂に身を亡
     ぼす者有り。唯、未だ唐に至りては、難阻飢寒の悲しみ有りしことを見ず。中瓘
     申し報ずる所の如くんば、未然の事、推して知るべし。臣等伏して願はくは、中
     瓘の録記の状を以て、遍(あまね)く公卿・博士に下し、詳(つまびらか)に其の
     可否を定められんことを。国の大事にして独り身の為のみにあらず。且つは欵
     誠(かんせい)を陳べて、伏して処分を請ふ。謹んで言(もう)す。
      寛平六年九月十四日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部
      權大輔春宮亮菅原朝臣某

    ○唐詩に描かれた「日本」のイメージ
     唐代300年の歴史あり。李白・杜甫・王維・白居易の5万首「全唐詩」~日本が読み込まれた詩26首ある。

     東南アジアの国際関係についての情報収集。常時交流の有る百済・新羅等の朝鮮諸国からも手に入ったが、広い視野に立 つとき中国・唐から直接入手したほうが客観的で、新羅に対して日本が軍事行動を起こそうとする時、中国の出方を打診しておく必要があった。第二に大陸文化の受容に移る。第二回は学問僧の随伴で3始まり、第三回から仏教「ばかりでなく儒教や法律も学ぼうと留学生も随伴させる。やがて日本の内典・外典の研究が向上するにつれ、まず内地でできるだけ 勉強してから唐へ仕上げのために短期間行ってくる請益の僧やや学生も随伴し人員が増加していく。情報の収集なら小規 模でも良いが文化の受容なら大規模派遣。航路の変化も、目的の変化も遣唐使の規模に影響した。8世紀から太宰府から 五島列島の西南端へ廻り、東シナ海を横断する南路を選んだ。風向きしだいでは早いわりには危険が伴った。分譲をまし 一艘でもでも目的を達せればよいということになった。北路は安全だが時間がかかる。

     8世紀 唐と周辺国


     8世紀 唐と周辺国



    ーーーーーーー朝鮮通信使(室町)ーーーーーーー

    ◇室町期朝鮮通信使履歴

    ○14~15世紀 3回派遣
      朝鮮通信使 室町60余回/朝鮮から5回の内3回(京都)訪日
       1401年、足利義満は明の皇帝から日本国王冊封を受ける。外交に慣れていない!
       1404年、足利義満は国王として僧周棠(しゅうとう)を朝鮮に派遣。
           朝鮮国王と伉礼が始まる。
           高麗王朝が1392年に滅んで李成桂(いそんけい)朝鮮王朝の国王となる。
       1428年、将軍義持の死と将軍義教の襲位に対する慶弔
       1439年、
       1443年、

     回数     年         目的・名称等
     第1回 1428年(正長元年)|通信使正使 |朴瑞生|副使|李 芸|書状官|金克柔
                      将軍就任祝賀・前将軍致祭・足利義教の引見
     第2回 1439年(永享11年)|通信使正使 |高得宗|副使|尹仁甫|書状官|金礼蒙
                      旧交・足利義教の引見
     第3回 1443年(嘉吉03年)|通信使正使 |卞孝文|副使|尹仁甫|書状官|申叔舟
                      将軍就任祝賀・前将軍致祭・足利義教の引見

    ◇古代史から読み解く東アジアの外交 その4! (*^_^*)
     足利氏が派遣した外交使節団「朝鮮通信使」

    ○正しい歴史認識をしなければ 竹島の不法占拠!
     一般的に朝鮮通信使は江戸時代に始まったと思われているが実は通信使の第一号は室町時代に遡る。
     南北朝時代は地方までは中央政権の施策は及ばず、朝鮮海峡、対馬海峡は『倭寇(わこう=海賊』が蹂躙していた。倭寇 は対馬の浅茅湾を本拠地としてときには朝鮮半島に上陸して侵略の限りを尽くすこともあった。
     当時の対馬島主は宗貞茂で倭寇を取り締まっていたが、その死後、貞盛のころになるとまた倭寇の活動が活発化し、1419年(応永26)朝鮮沿岸を侵されてことに業を煮やした太宗は17,280名の将兵を227艘の軍船に配して対馬を攻めた。これを 朝鮮では『己亥東征』、日本では『応永の外寇』と呼ぶ。
     太宗と足利将軍との間で戦後処理が進み、倭寇を征圧するために『文引の制』を作ります。
     文引というのは海賊や密航船を排除するために日本から渡航する者に発行する通交証明のことで、朝鮮がその実務を対馬 島主の宗貞盛に委託します。
     1443年に癸亥約定(きがいやくじょう)を結び倭寇は鎮静するわけですが、この約定を結んだ朝鮮側実務者が有名な申叔舟、約定締結前に『対馬体察使』として使わされていたのが『李芸』です。
     李芸は朝鮮国王の使いとして来日すること40数回、対馬までの正使としても何度も訪れています。
     李芸の功績は倭寇によって日本に拉致された朝鮮人被虜を刷還すること(667名)、朝鮮国王から足利将軍や太守(大名)などに贈られる大蔵経の伝達などがその目的でした。(永留久恵『わが町に来た朝鮮通信使』)

     国際交流は相互理解が重要。歴史には先人が残した知恵が残されています。
     これからさまざまな形で日韓親善交流が活発になると思いますが、お互いに関係史を正しく確認し合いながら新世紀の友好交流を目指したいと願っています。

    *応永の外寇(おうえいのがいこう)
     室町時代の応永26年(1419年)に起きた。
     李氏朝鮮による倭寇討伐を名目とした対馬攻撃を指す。実際の戦闘は、対馬の糠岳(ぬかだけ)で行われたことから糠岳 戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(기해동정)と言われる。当時足利義持が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記 されている。朝鮮軍は彼らが「島賊」と称した宗氏武士団の少数の抵抗に手こずり、台風の接近もあって、漁村と船を焼 き払っただけで10日余りで対馬から撤退した。明らかに戦果は不充分であり、朝鮮側もすぐに再遠征を議論したが、結局 実現しなかった。朝鮮は以後二度と対馬に対する外征は行わず、土地を与えたり米を送ったりと鎮撫策に終始した。前期 倭寇はそれ以前からすでに衰退傾向であったが、朝鮮が終息したと公式に判断したのはこの遠征の25年後の世宗26年(1444年)である。一方、侵略を受けた対馬はその後の朝鮮との交渉を通じて日朝貿易を独占し、朝鮮との唯一の窓口へと成長した。

    ○室町時代の朝鮮通信使は、
     倭寇への禁圧対策を日本に要請することが当初の目的だった。倭寇による朝鮮半島での活動は13世紀には記録があり、15世紀以降は明が海禁政策によって私的な貿易を禁じた影響もあって大規模化した。海賊行為は日本国内でも問題になっており、1410年(応永17年・太宗10年)には朝鮮の使者が瀬戸内海で海賊に持ち物を奪われる事件も起きている[2]。日本では、14世紀以降に朝鮮との貿易に進出する者が増えて、朝鮮で官職を得る受職倭人、朝鮮各地の港で暮らす恒居倭人、有力者の使いとして訪れる使送倭人と呼ばれる者もいた。朝鮮では15世紀から日本人を応接する施設として倭館を建設する一方、倭寇対策として1419年(応永26年・世宗元年)には対馬を攻撃する応永の外寇も起きた。のちに対馬の対馬宗氏は、朝鮮の倭寇対策に協力して、通信使の交渉役となった。通信使の目的には日本の国情視察も含まれており、この時代のもっとも著名な記録は、1443年(正長元年・世宗25年)の 使節で書状官をつとめた申叔舟が編纂した『海東諸国紀』である。この書は朝鮮の日本や琉球に対する外交の基礎情報となった[4]。申叔舟は6代の君主に仕えて要職につき、世祖の時代に日本や琉球との外交規定の基本も作った。1475年(文 明7年・成宗6年)に死去する前には、成宗に対して日本との善隣関係を維持するよう進言した[5]。また同時代の日本では、僧の瑞渓周鳳が日本初のまとまった外交文書として『善隣国宝記』を著している

    ○『海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 朝鮮語: 해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)
     申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年 )刊行された。 これに1501年(燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。  1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500 年(燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。

    *3-3 海東諸国紀 申叔舟(図解説明):筑波大附属図書館
     *本書は写本であるが、『海東諸国紀』は朝鮮の申叔舟の著作で、1471 年頃刊行された。本州は行基図系の描き方であるが、朝鮮と地理的に近く、古くから関係も深い九州や壱岐、対馬、琉球等については、独自の情報が付加され、記述が詳しくなっている。

    ○海東諸国紀  申 叔舟:田中 健夫 訳注 1471年(成宗2年)刊行
     朝鮮人の見た中世の日本と琉球 ―― 岩波文庫より

     日本国紀 古田史学の会
      天皇代序
      天皇七代
      地神五代

     人皇の始祖は神武天皇なり。名は狭野。地神の末主彦瀲尊の第四予[子]。母は玉依姫。
     M(継体天皇。応神五世の孫なり。名は彦主人なり。元年は丁亥。十六年壬寅、始めて年号を建て善化と為す。五年丙午、正和と改元す。六年辛亥、発倒と改元す。二月歿す。在位二十五年。寿八十二。)  安閑天皇。継体の第二子なり。継体歿後より二年主無し。是に至りて即位す。元年は甲寅。発倒を用う。在位二年。寿七十。宣化天皇。継体の第三子、安閑の同母弟なり。元年丙辰、僧聴と改元す。在位四年。寿七十三。  N(欽明天皇。継体の長子なり。一に宣化の長子という。元年は庚申。明年辛酉、同要と改元し、始めて文字を為る。十二 年壬申、貴楽と改元す。仏教始めて来る。三年甲戌、結清と改元す。六年甲申、師安と改元す。二年乙酉、和僧と改元す。六年甲寅、金光と改元す。在位三十二年。寿五十。)

     O(敏達天皇。欽明の第二子なり。元年は壬辰。金光を用う。五年丙申、賢接と改元す。三年戊戌、六斎日を以て経論を披覧し、其の太子を殺す。)
     P(六年辛丑、鏡当と改元す。三年癸卯、新羅来りて西鄙を伐つ。四年甲辰、大臣守屋仏法は不利なるを以て仏教を壊らんことを奏す。僧尼皆な俗に覆す。五年乙巳、勝照と改元す。在位十四年。寿五十年)。
     用明天皇。欽明の第四子なり。或は第十四子という。元年は丙午。勝照を用う。二年丁未、聖徳太子・蘇我大臣馬子等兵を領して守屋を討つ。聖徳は敏達の孫、用明の子なり。在位二年。寿五十。
     崇峻天皇。欽明の第五子なり。或は第十五子という。元年は戊申。明年己酉、端政と改元す。在位五年。寿七十二。
     椎[推]古天皇。欽明の女なり。幼名は額田部。敏達納れて后と為す。元年は癸丑。明年甲寅、従貴と改元す。百済の僧観勒来りて暦本・天文・地理等の書を進む。八年辛酉、煩轉と改元す。二年壬戌、始めて暦を用う。四年甲子、始めて諸 臣に冠を賜い、聖徳太子十七条の法を制す。五年乙丑、光元と改元す。七年辛未、定居と改元す。三年己酉、大職[織]冠大和州高市郡に生まる。八年戊寅、倭京と改元す。三年庚辰、聖徳太子卒す。
     Q(六年癸未、仁王と改元す。二年甲申、陰陽の書始めて来る。初めて僧正、僧都を立つ。是の時国中に寺四十六、僧八百十六、尼五百六十九あり。在位三十六年。寿七十三。)
     舒明天皇。敏達の孫なり。名は田村。元年己丑、聖徳と改元す。六年甲午、八月彗星見る。七年乙未、僧要と改元す。三月彗星見る。二年丙申、大旱。六年庚子、命長と改元す。在位十三年。寿四十五。
     皇極天皇。敏達の曾孫の女なり。舒明納れて后と為す。元年は壬寅。命長を用う。在位三年。
     孝徳天皇。皇極の同母弟なり。元年は乙巳。命長を用う。三年丁未、常色と改元す。三年己酉、初めて八省・百官及び十禅師寺を置く。六年壬子、白雉と改元す。在位十年。寿三十九。
     R(斉明天皇。皇極復位。 元年は乙卯。白雉を用う。六年庚申、始めて漏刻を造る。)
     S(七年辛酉、白鳳と改元し都を近江州に遷す。在位七年。寿六十八。)
     天智天皇。舒明の太子なり。母は皇極。名は葛城。元年は壬戌。白鳳を用う。七年戊申、始めて太宰師[大宰帥]を任ず。八年己巳、大職[織]冠尋で死す。大友皇子。天智の子。を以て大[太]政大臣と為す。皇子の大[太]政大臣に任ず るは此より始まる。初めて大納言三人を置く。在位十年。  天武天皇。舒明の第二子、天智の同母弟なり。名は大海人。元年は壬申。白鳳を用う。天智七年、天武を太子と為し、天智将に位を禅らんとす。天武辞避して出家し、吉野山に隠る。天智歿す。太[大]友皇子簒を謀り、吉野を攻めんと欲す。天武濃・張二州の兵を将て京城に入り、之を討ちて、遂に即位す。二年癸酉、初めて大・中納言を置く。六年丁丑、始めて詩賦を作る。十一年壬午、始めて冠を作り、国中に令して男子は皆な束髪、女子は皆な被髪せしむ。
     T(十二年癸未、始めて車を造り、銀銭を停めて銅銭を用う。)
     U(十三年甲申、朱雀と改元す。三年丙戌、朱鳥と改元す。彗星見る。在位十五年。)
     V(持統天皇。天智の第二子なり。天武納れて后と為す。元年は丁亥。朱鳥を用う。七年癸巳、町・段を定む。中人平歩して両足相距つるを一歩と為し、方六十五歩を一段と為し、十段を一町と為す。九年乙未、大和と改元す。三年丁酉、八月 位を文武に禅る。在位十年。)  W (文武天皇。天武の孫なり。母は元明。元年は丁酉。明年戊戌、大長と改元し、律令を定む。四年辛丑、大宝と改元す。三年癸卯、初めて参議を置き、東西の市を立つ。四年甲辰、慶雲と改元す。三年丙午、初めて封戸を定め、斗升を造る。在位十一年。寿二十五。)  元明天皇。天智の第四女なり。天武の子草壁太子適い文武を生む。元年戊申、和同[銅]と改元す。四年辛亥、始めて錦 綾を織る。五年壬子、初めて出雲州を置く。六年癸丑、初めて丹後・美作・日向・大隅等の州を置く。七年甲寅、始めて京城の条理・坊門を定む。八年乙卯、霊亀と改元す。九月位を元正に禅る。在位八年。寿四十八。
     X (元正天皇。文武の姉、元明の女なり。名は氷高。元年は乙卯。三年丁巳、養老と改元す。二年戊午、彗星見る。四年庚申、新羅来り、西鄙を伐つ。八年甲子、二月位を聖武に禅る。在位十年。寿六十九。)
     聖武天皇。文武の太子なり。名は首。元年甲子、神亀と改元す。五年戊辰、始めて進士の試を設く。六年己巳、天平と改元す。十九年丁亥、初めて近衛大将軍を置く。二十一年己丑、七月位を孝謙に禅る。在位二十六年。寿五十六。
     孝謙天皇。聖武の女なり。名は阿閉。元年己丑、天平勝宝と改元す。八年丙申、虫蠱八幡神祠殿柱に有りて、天下太平の字と為る。九年丁酉、天平宝字と改元す。二年戊戌、八月位を淡路に禅る。在位十年。
     淡路廃帝。天武の孫なり。元年は戊戌。天平宝字を用う。道鏡を以て大臣と為す。八年乙巳、孝謙のために廃され、淡路州に放たる。在位八年。

    ○【申叔舟 しんしゅくしゅう】のりゃくれき  博多の宗金
     朝鮮,李朝の文臣,学者。字は泛翁,号は保閑斎,希賢堂。高霊の人。卓越した学識と文才で世宗以下6代の王に仕え,世 祖の王位奪取に荷担して官は領議政に至り,対外的にも,1443年通信使の書状官として来日,帰途対馬で宗氏と貿易協定 を結ぶ一方,女真討伐でも活躍した。世宗の〈訓民正音〉制定に参与し,《国朝五礼儀》《世祖実録》《睿宗実録》等の 編纂にあたった。著書に,日本と琉球の地勢,国情を紹介した《海東諸国紀》や詩文集《保閑斎集》等がある。

     代  氏名   生没年  (在職年)        父    母          官 位
     1 足利尊氏 1305-1358 (1338-1358) 足利貞氏 上杉清子      権大納言 正二位
     2 足利義詮 1330-1367 (1358-1367) 足利尊氏 北条登子      権大納言 正二位
     3 足利義満 1358-1408 (1368-1394) 足利義詮 紀良子       太政大臣 従一位  ○1375年
     4 足利義持 1386-1428 (1394-1423) 足利義満 藤原慶子      内大臣  従一位   ○1419年
     5 足利義量 1407-1425 (1423-1425) 足利義持 日野栄子      参議   正四位下
     6 足利義教 1394-1441 (1429-1441) 足利義満 藤原慶子      左大臣  従一位  ○1428年・1439年
     7 足利義勝 1434-1443 (1442-1443) 足利義教 日野重子      左中将  正五位下 ○1443年
     8 足利義政 1435-1490 (1449-1473) 足利義教 日野重子      左大臣  従一位
     9 足利義尚 1465-1489 (1473-1489) 足利義政 日野富子      内大臣  従一位
     10 足利義稙 1466-1523 (1490-1493) 足利義視 日野富子妹(妙音院) 権大納言 従二位
                (1508-1521)
     11 足利義澄 1480-1511 (1494-1508) 足利政知 武者小路隆光女   参議   従三位
     12 足利義晴 1511-1550 (1521-1546) 足利義澄 阿与        権大納言 従三位
     13 足利義輝 1536-1565 (1546-1565) 足利義晴 近衛尚通女(慶寿院) 参議   従四位下
     14 足利義栄 1538-1568 (1568)     足利義維 恵光院       左馬頭  従五位下
     15 足利義昭 1537-1597 (1568-1573) 足利義晴 近衛尚通女(慶寿院) 権大納言 従三位


    ーーーーーーー朝鮮通信使(安土桃山)ーーーーーーー

    ◇豊臣秀吉朝鮮通信使履歴

    ○16世紀以降 2回派遣
      豊臣秀吉政権下の朝鮮通信使
       1509年
       1596年

     名護屋城の概要(ミュージアムより抜粋)
      •名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。
      •1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点と
       なりました。
      •城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。
      •周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったと
       されています。
      •現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。

     名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点 の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は 大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。
     名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。 五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。 城の周囲には城下町が築かれ、最 盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。

     天正15年(1587年)、豊臣秀吉は九州平定をすると、天正18年(1590年)、奥州伊達政宗を服属させ、北条氏直を降し( 小田原征伐)、徳川家康を関東に移封し、天下統一を成し遂げた。国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。「高 麗」つまり李氏朝鮮に、服属と明征伐への協力を要請したが、朝鮮は拒絶した。その後も対馬の宗義調らが複数の交渉を 重ねるが、朝鮮側は拒絶の意志を変えなかった。なお秀吉は同様に琉球や呂宋や高山国(台湾)にも使者を出した。
           回数  年    目的・名称等
      第1回 1590年(天正18年)、通信使
      第2回 1596年(慶長元年)、通信使

    ◇古代史から読み解く東アジアの外交 その5! (*^_^*)
     日本国王、豊臣秀吉政権下の朝鮮通信使

     日本の国内統一を終えた豊臣秀吉は、その延長上にあるアジア諸国に対し「臣従」か「討伐」の政策をうちだす。1592年3月、唐津の名護屋城を拠点とし、対馬を中継し、約15万の大軍で朝鮮攻めをした(文禄の役・朝鮮では壬辰倭乱)。日本 は1589年に秀吉の命で対馬の宗義智に対し、朝鮮国王に「秀吉の天下統一の祝賀」の通信使派遣を要請。翌年の1590年 (天正18年)に朝鮮王朝から国書を携え堺港から京都に入り、朝鮮の回礼使団は拝謁(京に入ってのが7/21・拝謁したのが 11/7)し帰国、秀吉の高飛車の外交でる。この時の朝鮮国王から見た外交筋の「日本国王」とは誰を指さしていたのか、天皇・関白・将軍(征夷大将軍)?二度目は1596年(慶長元年)8月に、明皇帝の国書を携え、朝鮮王朝からの通信使とともに来日、秀吉は堺にとどめ直接会おうとしなかた。明と日本の間での和議交渉が決裂し、秀吉は再度の遠征を指令する。

    1、名護屋城復元模型:佐賀県立名古屋城博物館所蔵 2、名護屋城に配置された諸大名:佐賀県立名古屋城博物館 3、唐津焼:佐賀県立名古屋城博物館所蔵 4、名護屋城跡地
    唐津市:自然・歴史・文化を生かした景観等の整備が進められている。

     朝鮮国王からの国書を天皇・関白・将軍
     朝鮮国王から見た、日本国王とは誰!天皇・関白(豊臣秀吉)・将軍(征夷大将軍)拝謁

     豊臣秀吉の1585年、「壬辰倭乱」時期に朝鮮から朝鮮使「回答兼刷還使」
     1592年、国内の天下統一の誇示と、その延長上のアジア諸国に対する臣従か討伐の拠点となった名護屋城(唐津)。

    朝鮮征伐:多賀歴史研究所提供



    ーーーーーーー朝鮮通信使(江戸)ーーーーーーー

    ◇江戸期朝鮮通信使履歴
     古代史から読み解く東アジアの外交 その6! (*^_^*)
      江戸期の12回にわたる朝鮮通信使が見た日本とは! 

       朝鮮からの使節12回の内、最初の3回(1607、1617、1624年)は、日本国王との国交回復を条件とする、豊臣秀吉の朝鮮出兵後の戦後処理であった。その中間に宗氏対馬藩が介在した。慶長12年(1607年)、1598年11月に朝鮮から日本軍を引き 揚げて以来、不安定な「交隣回復」を征夷大将軍 徳川秀忠(家康)が事に当たっていた。この3回を他の通信使とは区別して「回答兼刷還使」(かいとうけんさっかんし)といってる。「回答兼刷還使」は正使(呂祐吉)、副使(慶暹)、従事官(丁好寛 )、一行は総数504名は、1月12日 「国書」を携えソウルを発ち、秀頼との接見は6月6日。6月11日に本多正信から伝達と礼物 を伝えられ、6月20日に駿河で隠居した家康に礼訪している。家康は返礼として駿河湾内を遊覧させている。使節団は、洋 中に浮かぶ南蛮船が停泊しているのを見て驚きを、後にその印象を復命書(海槎録)に記録している。特に江戸期の日本の歳時「端午の節句の切り合い合戦」を見聞してことで不安を残した。日本との交隣外交は、警戒しながら交わる性格のものと!!

    ○17~19世紀
     1607~1811年、12回派遣
        1607年、2代将軍 徳川秀忠時代に日朝国交回復・捕虜返還
        1811年、11代将軍 徳川家斉 家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)

      回数  西暦(元号)   朝鮮暦   将軍 朝鮮正使   名称    目的
     第01回 1607年(慶長12年)|宣祖40年 徳川秀忠 呂祐吉 回答兼刷還使・日朝国交回復・捕虜返還
     第02回 1617年(元和03年)|光海君9年 徳川秀忠 呉允謙 回答兼刷還使・大坂の役平定祝賀・捕虜返還
     第03回 1624年(寛永元年)|仁祖02年 徳川家光 鄭岦  回答兼刷還使・家光襲封祝賀・捕虜返還
     第04回 1636年(寛永13年)|仁祖14年 徳川家光 任絖  朝鮮通信使・泰平賀
     第05回 1643年(寛永20年)|仁祖21年 徳川家光 尹順之 朝鮮通信使・家綱誕生祝賀・東照宮落成祝賀
     第06回 1655年(明暦元年)|孝宗06年 徳川家綱 趙珩  朝鮮通信使・家綱襲封祝賀
     第07回 1682年(天和02年)|粛宗08年 徳川綱吉 尹趾完 朝鮮通信使・綱吉襲封祝賀
     第08回 1711年(正徳元年)|粛宗37年 徳川家宣 趙泰億 朝鮮通信使・家宣襲封祝賀
     第09回 1719年(享保04年)|粛宗45年 徳川吉宗 洪致中 朝鮮通信使・吉宗襲封祝賀
     第10回 1748年(寛延元年)|英祖24年 徳川家重 洪啓禧 朝鮮通信使・家重襲封祝賀
     第11回 1764年(宝暦14年)|英祖40年 徳川家治 趙曮  朝鮮通信使・家治襲封祝賀
     第12回 1811年(文化08年)|純祖11年 徳川家斉 金履喬 朝鮮通信使・家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)

      通信使接待状況
        地名     接待    動員された大名宿所
    1. 対馬府中 、 対馬藩宗氏 西山寺 国分寺 ○
    2. 壱岐勝本浦、 平戸藩松浦氏 勝本浦阿弥陀堂○
    3. 筑前藍島 、 福岡藩黒田氏 藍島客館○
    4. 長門赤間関、 長州藩毛利氏 阿弥陀寺、引接寺
    5. 周防上関 、 長州藩毛利氏 上関御茶屋館(藩迎賓館)
    6. 安芸蒲刈 、 広島藩浅野氏 御茶屋(藩迎賓館)
    7. 備後鞆  、 備後福山藩 対潮楼(海岸山福禅寺境内)
    8. 備前牛窓 、 岡山藩池田氏 本蓮寺、御茶屋(藩迎賓館)○
    9. 播磨室津 、 姫路藩 御茶屋(藩迎賓館)
    10. 摂津兵庫 、 尼崎藩、 大坂町奉行 浜本陣および阿弥陀寺
    11. 摂津大坂 、 大坂町奉行和泉岸和田藩岡部氏 西本願寺津村別院(北御堂)
    12. 山城淀  、 山城淀藩 御馳走屋敷
    13. 山城京都 、 京都所司代
    14. 膳所藩  、 本国寺
    15. 近江守山 、 膳所藩石川氏 伊勢亀山藩石川氏他 東門院
    16. 近江彦根 、 彦根藩井伊氏 宗安寺(彦根城下)
    17. 美濃大垣 、 大垣藩戸田氏 不明
    18. 尾張名古屋、 尾張藩徳川氏 大雄山性高院
    19. 三河岡崎 、 岡崎藩 御馳走屋敷(藩迎賓館)
    20. 三河吉田 、 吉田藩 不明
    21. 遠江浜松 、 浜松藩 不明
    22. 遠江掛川 、 掛川藩ほか 民家
    23. 駿河藤枝 、 田中藩ほか 大慶寺
    24. 駿河興津 、 御馳走役大名 清見寺御茶屋(迎賓館)
    25. 伊豆三島 、 御馳走役大名 世古本陣
    26. 相模箱根 、 小田原藩 不明
    27. 相模小田原、 小田原藩 片岡本陣
    28. 相模藤沢 、 御馳走役大名 蒔田本陣
    29. 武蔵神奈川、 御馳走役大名 石井本陣
    30. 武蔵品川 、 御馳走役大名 東海寺
    31. 武蔵江戸 、 将軍 浅草本願寺

    ○回答兼刷還使の道程

     1/12(ソウル)→1/27~2/27(釜山)→3/3~3/20(対馬)→隠岐島→藍島(相ノ島)→赤間関(下関)→瀬戸内海航路→4/8(大阪) →京都(鼻塚)→5/24(江戸)→6/6(秀忠と接見:国書と礼物)→6/11(本多正信の伝達:返書と礼物:将軍の命令で対馬が朝 鮮外交の実務)→6/20(駿河の家康へ返礼)

    ○朝鮮王朝の国書のなかみ

     ①徳川家康が国書を書き、秀吉の侵略を謝罪し、二度と侵略しないこと。
     ②秀吉の朝鮮出兵のとき、王陵(朝鮮にあった王様の墓)を、掘り起こしたものを、逮捕し、
      朝鮮に引き渡すことという、
     ③朝鮮から撤兵したのが1598年11月、朝鮮人の刷還(捕虜返還)を! 帰国希望者募る

     ・日本国王の印信が対馬の偽造であったが、あまり表沙汰にしなっっかった。
     ・京都にある「耳塚」の言われ:戦国武将の習わしで、
      秀吉は「首級は挙げず、その鼻を取って潮づけにして送れ」と命令している。

    ○徳川幕府の回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)

     使節の最初の3回は、「回答兼刷還使」(かいとうけんさっかんし)といって、通信使とは区別されています。
    「回答」は、何に対する回答かということですが、これは、対馬の大名、宗義智(そうよしとし)が、文書偽造をしたことに始まります。 皆さん、良くご存じのように、朝鮮は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で大きな被害を被りました。
     そこで、李氏朝鮮は、国交回復の条件として、京都にある「耳塚」の言われ:戦国武将の習わしで、秀吉は「首級は挙げず、その鼻を取って潮づけにして送れ」と命令している。宗氏は、①については、家康が謝罪文を書くことは、ありえないと考え、自分で文書偽造をして、家康の名前で謝罪文を 書き、朝鮮に送りました。そのために、その謝罪文に対する返答として、「回答使」が来たと、いうわけです。
     また、刷還使の目的は、豊臣秀吉が朝鮮出兵で、日本に連行された焼き物の職人等の捕虜を探し出し、連れ戻すことにありました。 幕府は、捕虜の帰国を約束しましたが諸大名は無視したために、目的を果たすことはできませんでした。この時、小麦様(壱岐の鯨捕り、土肥組参照)についても、帰すように交渉が行われています。
     12回来た、使節のなかで、残りの9回が正式の国交回復のための朝鮮通信使です。

    ○当選通信使

     朝鮮通信使とは、江戸時代に、将軍が代わるたびに、朝鮮から、祝賀に訪れた人たちをいいます。1607年に、第一回の使 節が来てから、以後、12回の使節がやってきました。通信使のメンバーは、「正使」「副使」のほかに、「書記」「通 訳」「画家」「書家」「医者」「僧侶」「楽隊」などでした。朝鮮との国交は、豊臣秀吉の朝鮮出兵をして以来、断絶し ていましたが、対馬藩の宗義智(そうよしとし)が、徳川家康から、朝鮮と国交正常化ができるようにせよ、と命令を受け 、7年間の尽力により、1605年に国交が回復しました。一回の使節の人数は、平均人数は450人、そのうちの100人(水夫) は大阪に留まり、350人が江戸に行きました。 朝鮮の釜山(プサン)を出発してから、江戸に着くまでに、4ヶ月~半年も かかっています。

    ○壱岐勝本

     勝本では、使節の歓迎を、当初は竜宮寺(のちの神皇寺(じんこうじ))でやっていましたが、その後、神皇寺の裏山一体を 取り崩して海を埋め立ばて、そこでするようになりました。接待をしたのは、平戸藩です。 建物自体は現在は取り壊され て、小さな正村阿弥陀堂が建っているだけです。そこに、神皇寺の礎石が2個残っています。この当時の、勝本浦の、民 家は100軒くらいでした。当時の勝本浦は、水が浅く、船が入れませんでした。そのため、船を並べて陸橋を作り、そ の上に板を敷き、左右に竹欄(ちくらん)を作り、太く束ねた糸で編んだ敷物をまっすぐ迎接使節まで敷きました。

    ○接待費

     接待の時には朝鮮通信使と対馬藩合わせて1000人以上が滞在したので、勝本浦は大変な混雑ぶりでした。幕府も将軍一代 につき一回しか来ないので、100万両の接待費という、多額のお金を使いました。現在の貨幣価値で、500億円ほどにな ります。勝本浦での滞在期間は、2週間から20日間。滞在期間中は、米50石(7500kg)、するめ5000斤(3000kg)、山芋 1500本、酒15石、卵15000個、あわび2000貫を消費したとの、記録もあります。

    ○順風祈願

     そこで、平戸藩がとった作戦は、使節に一日も早く、壱岐を出てもらうことでした。そのために、藩主は邇自神社(にじじ んじゃ)で順風祈願をしました。この祈願は、表向きは使節一行の航海に追い風が吹き、無事に航海が出来ますように、と いうことでしたが、本心は、壱岐での滞在が一日でも短いことを願ったものでした。 通信使が入港する前に祈願を行った こともあります。

    ○使行録に見る朝鮮通信使の日本観―江戸時代の日朝関係

     鄭 章植【著】《チョン/ジャンシク》
     はじめに
     17世紀の韓日関係を論ずる場合、「交隣関係」と「通信使」はそれをもっともよく象徴する言葉として使われてきた。「交隣関係」とは、中国の冊封を受けた隣国の「国王」同士の対等な外交関係である。朝鮮王朝に先立つ高麗王朝時代から韓日両国間には交隣の関係があった。十四世紀末、中国に漢族により明朝が建てられ、同じ時期に朝鮮半島では高麗王朝にかわって朝鮮王朝が建てられ、朝鮮王朝は中国を中心とする冊封体制に加わることになった。日本では、足利義満が東アジアの冊封体制に積極的に参入することによって、東アジアの外交関係を安定させ、政権の内外に対する威信を高めようとした。
     これにより、朝鮮では足利義満を「日本国王」とみなし、国書を送ることになった。ただし、足利将軍からの返書はおおよそのところ、他称は日本国王、自称は「日本国源某」という名乗りがほぼ定着してきた。しかし、朝鮮では日本からの 使者を一貫して「日本国王使」と扱い、これは交隣関係では大きな政治的意義を持つことであった。朝鮮国王は中国から冊封された国王であり、日本の権力者が朝鮮からの国書に「日本国王」と記されていることを原則的に認めたことは、両国が対等な交隣関係に立つということであった。

     「通信使」とは、対等な交隣関係を持つ国に「信(よしみ)を通ずる」という意味で派遣する使節で、朝鮮初期は日本か らの使節派遣に答える意味で「回礼使」または「報聘使」と呼んだ。朝鮮が「通信使」と呼んだのは朝鮮初期の世宗(セジョン)代(1428・正長元)からで、室町時代には三回の「通信使」派遣があり、その後も三回計画された

     時代が変わって豊臣秀吉が政権を掌握した時にも二度「通信使」が派遣された。一度目は1590年(宣祖(ソンジョ)二三・天正八)、秀吉が対馬の宗氏を通じて朝鮮国王の入貢を求めたので、宗氏は朝鮮に秀吉の天下統一を祝賀する「通 信使」派遣の要請へとそれをすり替えて朝鮮を説得して実現させたものである。二度目は1592年(宣祖二五・文禄元 )秀吉の朝鮮侵略戦争が膠着状態に入って、一五九六年(宣祖二九・慶長元)明の使節が和議交渉のため伏見城を訪問する際に、朝鮮は黄慎(ファンシン)(1560―一617)を正使として309人の使節団を明の使節とともに「通信使」として派遣したことがあった。  このように、朝鮮は秀吉の侵略戦争の時も、対等な交隣関係の象徴として、日本に派遣する使節には「通信使」という使節名を用いた。しかし、日本が派遣する使節の名称は定かではなかった。朝鮮は、足利将軍からの使節については、日本が中国皇帝から「日本国王」として冊封されたことで「日本国王使」として優遇した。1443年(世宗二五・嘉吉三)に九州まで渡日した申叔舟(シンスクチュ)(1417―75)は『海東諸国紀』で、当時の日本のさまざまな使節を「国王使」・「巨酋使」などと区別して接待事例を定めた。足利義政は十七回も国王使を派遣し、十五世紀初めから秀吉政 権下で対馬が画策した国王使まで通算すればおよそ60回の国王使が朝鮮に渡った。このように「日本国王使」の名義で 頻繁に使節が朝鮮に渡ったことは、仏教の交流と貿易の利があったからである。
     その後の秀吉は、足利政権下で両国の交隣体制が存在していたことは知らなかった可能性が強い。また日本がかつて中国の冊封下にあって、勘合貿易により東アジアの華夷秩序の下にいたことを知ろうともしなかった。それゆえ、対馬の宗氏に命じて朝鮮国王に入貢を要求し、「唐入り」を計画するまでにいたった。朝鮮はこのときも、秀吉の侵略戦争のときも「通信使」として使節を派遣しており、日本との関係は一貫して「信(よしみ)を通ずる」交隣志向であった。
     秀吉の侵略戦争を解決する過程で、朝鮮は一時「探賊使」という使節を派遣したり、戦後講和が成立して国交が再開されても、初期の三回は「通信使」という従来の使節名をつけることを渋ったが、その使節の形態は「通信使」と呼んでさしつかえのないものであった。
     本書の目的は、「善隣友好の交隣関係」と「信(よしみ)を通ずる通信使」について「通信使」の使行録を通じて、当時の使節の交流を新たな視点からとらえてみることである。
     「交隣関係」を標榜して両国間の交渉があった高麗末期から朝鮮初期の状況を見ると、両国間の交渉が行われた背景には「倭寇禁絶」があった。十四世紀の中頃から末にかけて、「倭寇」と呼ばれた主に西日本の海民が朝鮮半島沿岸に出没して、食糧や財産・人までもさらっていく海賊行為が頻繁に起きた。この海賊行為への対策に腐心していた高麗王朝は「倭 寇」の禁絶要請のために、度々使節を日本へ派遣した。高麗王朝が滅亡した後、朝鮮王朝も「倭寇」の禁絶要請のために 「回礼使」を派遣した。この「回礼使」という使節名は、日本側が派遣した使節に対する返礼の意味しかなかった。ここ では、交隣より「倭寇を厳しく取り締まって隣国に被害がないように要請する」という意味での使節派遣であった。また 、秀吉の侵略戦争以前に派遣した「通信使」の意味も、「信(よしみ)を通ずる」よりもっぱら日本から兵禍を被らない よう予防することに意味があった。
     これに対して日本が派遣した使節の主要な目的の一つが、高麗大蔵経などの仏典や仏具を請求することであった。それに加えて貿易の利を得ることもできるという、互いに自国の利益を得ることが目的での、いわば「持ちつ持たれつ」の関係であった。秀吉の侵略戦争の戦後処理のために、1607年(宣祖四〇・慶長一二)から派遣された朝鮮の使節も、朝鮮・幕府・対馬が「持ちつ持たれつ」の関係にあったから成立したといえよう。もし両国間に倭寇と対馬が介在しなかった としたら、朝鮮は交隣を標榜する使節を派遣する必要はなかったと思われる。
     これまでの「通信使」研究では、主に政治・外交・文化の面に注目して、韓国の研究者は「通信使」の文化交流に注目し、「通信使」が対馬や幕府の要請で派遣され、「信(よしみ)を通ずる善隣友好」関係を築いてきたという。また、日本 の研究者も、「通信使」が日本で行ったさまざまな活動に注目して、その記録を集めることに集中して、多くの史料や研 究実績を持つことになった。
     だが、「通信使」研究の基礎史料になる使行録を読むと、当時の士大夫であった使臣たちが抱いていた、「信(よしみ)を通ずる善隣友好の交隣関係」に対して、その実態や使臣の本音がどのようなものであったのかが見えてくる。例えば、1748年(英祖二四・寛延元)「通信使」の際に、岡崎では使臣が雉(きじ)を珍味とするとの噂を聞き、五月なのに使臣の食材に雉を送った。しかし、使臣は「これは食うにも味がなく、ほとんど『鶏肋(けいろく)』と同じであった」と本音を認めたが、接待する側はこれを知らず、盛大なもて なしを自慢した。このような盛大なもてなしと、当時の盛大な通信使行列を見物する民衆の熱気だけを見て、通信使は日本で歓迎されたとは言えない。接待を命じられた各藩の財政が苦しい中で、幕府の命令でやむを得ず盛大なもてなしを用 意した人々の本音を調べてみることもこれからの研究には必要だと思われる。
     本書では、「通信使」をめぐって起こったさまざまな事件を記録した使行録を、紀行文という観点から見て、通信使が交隣外交の場で体験した異文化接触を通じて日本をどのように認識していたかを探ることにした。

    ○朝鮮通信使の道

     朝鮮通信使の始まりは足利将軍からの使者と国書への返礼で、室町時代には3回来日している。
     豊臣秀吉の時代は2回。表面的には秀吉の日本統一の祝賀であったが、朝鮮側は朝鮮侵攻の真偽を確かめるのが目的であった。壬辰倭乱(イムジンウェラン、文禄慶長の役)によって国交は断絶したが、江戸時代に入り国交回復のための通信使の派遣が復活した。
     最初の3回は回答兼刷還使と称され、文禄慶長の役で捕虜になった人たちを連れ帰ることが主目的だった。
     4回目からは、将軍の交替や世継ぎの誕生に際して祝賀使節として派遣されるようになった。
     朝鮮の李王朝から信書を持って来日し、徳川将軍から返書を持ち帰った。
    通信使とは、信(よしみ)を通わす使節、信頼関係を深めあう使節という意味である。

    ○対馬まで50㎞ 1日

     日本が江戸時代だった頃、朝鮮半島は李氏朝鮮の時代だった。首都漢陽は現在のソウルにあった。
     申維翰(シンユハン)が「海游録(かいゆうろく)」を書いた享保4年(1719)の第9回朝鮮通信使は、4月11日に漢陽を出発し、陸路釜山へ6月13日に到着。漢陽から2か月以上かかっている。
     釜山と対馬の距離は約50km。釜山での風待ちに時間がかかったが、6月20日に出航しその日のうちに対馬に到着しているようである。

    対馬朝鮮通信使
      対馬でのルートと日程は以下のとおり。
    1. 佐須浦(佐須奈) 6月20日~23日
    2. 豊浦(豊)    6月23日~24日
    3. 西泊浦(西泊)  6月24日~25日
    4. 金浦(琴)    6月25日~26日
    5. 船頭港(小船越) 6月26日~27日
    6. 対馬府中(厳原) 6月27日~7月19日
      対馬に1か月滞在したことになる。
      そして壱岐へ
    7. 風本浦(勝本)  7月19日~8

    ○雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう、寛文8年5月17日(1668年6月26日)- 宝暦5年1月6日(1755年2月16日))
    雨森芳洲の外交:佐賀県立名護屋城博物館提供
     江戸時代中期の儒者。諱は俊良、のち誠清(のぶきよ)、通称は藤五郎・東五郎、号は芳洲、字を伯陽、漢名として雨森東を名乗った。中国語、朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった。[1]新井白石・室鳩巣ともに木下 門下の五先生や十哲の1人に数えられた。
     
     木下順庵門下
    寛文8年(1668年)、近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)の町医者の子として生まれた。1679年、12歳の頃より京都で医学を学び、1685年頃、江戸へ出て朱子学者・木下順庵門下に入った。同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとともに秀才を唱われ、元禄2年(1689年)、木下順庵の推薦で、当時、中継貿易で潤沢な財力をもち、優秀な人材を探していた対馬藩に仕官し、元禄5年(1692年)に対馬国へ赴任した。この間、長崎で中国語を学んだこともある

     隠居の日々
    享保5年(1720年)には朝鮮王・景宗の即位を祝賀する対馬藩の使節団に参加して釜山に渡っている[5]。 しかし、朝鮮人参密輸など藩の朝鮮政策に対する不満から、享保6年(1721年)に朝鮮方佐役を辞任し、家督を長男の顕之允に譲った。その後は自宅に私塾を設けて著作と教育の日々を過ごしたが、享保14年(1729年)、特使として釜山の倭館に赴いた。享保19年(1734年)には対馬藩主の側用人に就任、藩政に関する上申書『治要管見』や朝鮮外交心得『交隣提醒』を書いている。
     宝暦5年(1755年)、対馬厳原日吉の別邸で死去した。享年88。諡は一得斎芳洲誠清府君。墓は日吉の長寿院にあり、傍らに顕之允も葬られている。

     鎖国時代の日本で、朝鮮通信使は貴重な外国情報を入手する機会でもあり、外国文化に接する機会でもあった。通信使の一行の中には儒学者や医者、画家が必ず加えられ、途中の宿で日本人の学者、医者、画家との交流が行われた。中には朝鮮語に巧みな日本人学者もいた。その中で最もよく知られたのが雨森芳州である。彼は元禄から享保の頃、対馬藩に仕えた儒者で、江戸や長崎で中国語を学び、さらに釜山の倭館で朝鮮語を学んだ。当時はまだ公用の文字とされていなかったハングルも学んでいる。雨森芳州は木下順庵門下で、新井白石とは同門であったが、白石の朝鮮通信使への厳しい態度や将軍の称号問題での高圧的な態度に反対し、朝鮮使節との対等な交渉を主張した。時には朝鮮使節と激しくやり合ったが、それも高い朝鮮語の能力によって可能だったし、学者としての見識や詩文では朝鮮の学者から称賛されている。鎖国時代の日本でも外国語をマスターし、堂々と渡り合った「外交官」が存在したのだ。
       <上垣外憲一『雨森  芳州-元禄享保の国際人』1989 中公新書>

     藤沢周平『市塵』(講談社文庫)に新井白石の幕政改革に邁進する姿が詳しく描かれています。
    朝鮮通信使については雨森芳洲との間で問題になったのは朝鮮の国書にある日本国大君という将軍の称号を室町幕府以来の外交慣例である日本国王に戻すという復号の実現だとのことです。

     白石は大君という呼称は朝鮮では臣下に与える職号であり、また易経ほかの中国の書によれば大君は天子の異称でもある。ゆえに大君の呼称は不可であり、室町幕府の外交国書に用いられ、家康も使用した日本国王の称号に戻すべきであるという考え方であった。白石の主張の背景には清朝天子と日本の天皇を同列におき、朝鮮国王と徳川将軍を対等とする思想が働いていて、当時の朱子学の立場からする名文論としては、一応理にかなった主張ではあったのである。


        「たがいに欺かず 争わず 真実をもって交わることが誠心である」
        「水清く 人の心の さめがいや 底ののさざれも 玉とみるまで」


     文化交流、当時の日本人が朝鮮や中国文明に接触することができ彦根では井伊氏ゆかりの宗安寺が正使など三使臣の宿舎にあてられていた。彦根には当時、朝鮮征捕虜もかなりいた。帰京の意思を尋ねても、子を残して帰れないとなげくばかり、中山道には 朱子学者 雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう)の歌碑がある彦根で歓待をを受けている朝鮮通信使一行と対馬藩藩、贈り物その他の荷駴を運送する日本人を含めて1500人前後が対応手厚いもてなしをした。経路には多くの通信使との文化交流がみられる

     雨森芳洲らは結局、朝鮮国王が天皇と対等にしておくほうが外交上波が立たないとしてたわけですが、外交の間に立った対馬藩が対等にしないと日本の天皇と朝鮮国王が対等と考えていた朝鮮の気分をそこね、朝鮮との貿易での利益が得られなくなると判断し、こっそりと。


    ーーーーーーー鎖国と開国?(江戸)ーーー遣欧使・朝鮮通信使(江戸)ーーーーーーー

    ◇古代史から読み解く東アジアの外交 その6! (*^_^*)
     日本国王、豊臣秀吉から徳川家康政権下の朝鮮通信使

     *文科省は次期学習指導要綱改定案を公表した
      江戸幕府の対外政策に初めて「鎖国」から「長崎などで貿易」と歴史用語を改める。
                         2017.2.15(北日本新聞報道朝刊より)

     江戸幕府の対外政策で「鎖国」表記が社会科教科書から消える。17世紀前半、三代将軍徳川家光の政策は、「キリスト教の禁止」、「西国大名などの海外貿易の禁止と、長崎奉行による対外貿易の幕府独占」、「日本人の海外渡航の禁止と、在外日本人の帰国禁止」、「海外からの貿易船の寄港地の制限」や、徳川家康いらいの12回にわたる「朝鮮通信使」、朝鮮 から朝鮮使「回答兼刷還使」との国交回復の事跡があるのに、今まで歴史を間違えて伝えてきた事は多くの歴史学者が指 摘していることである。事例も多く、伊達政宗の遣欧節派遣、松前藩の蝦夷地(アイヌ)交易や、長崎・平戸(オランダ・イ ギリス・スペイン交易)、堺(マニラ交易)、薩摩(中国明交易)等から、お江戸日本を「鎖国」という言葉表現はどこにも見 当たらない。むしろ、鎖国は幕末時期のアメリカに屈した「開国」「開港」を迫られた政策転換期の「攘夷論者」から日本の史実を無視して生まれたた概念であると考える。
     <参考資料>
      幕府は自由な通商と外交関係の締結「通信」は朝鮮、「通称」は中国とオランダに限定していると。

    ○鎖国の意味とは(スペイン・ポルトガル・イギリスとの断行)~強硬的な外交政策
      近世日本の国際関係

      両国は布教による日本征服の戦略を捨てなかったことでスペイン・ポルトガルを来港禁止とし、
      渡航統制も実施。
         1624年、スペイン船の来港禁止
         1639年、ポルトガル船の来港禁止
      法令公布後、直ちに実行されるわけではなく又、大名を完全にコントロールできていなかった。
      江戸幕府の4カ所の窓口:松前(アイヌ)・長崎(オランダ・中国の清と明)・薩摩(琉球)・:p対馬(中国・朝鮮)
      江戸時代の東アジア外交(貿易の利益を所務として大名が独占~4口)
         ①の口 松前氏    :松前藩      アイヌ
         ②の口 島津氏    :薩摩藩      琉球
         ③の口 宗氏     :対馬藩      中国・朝鮮
         ④の口 長崎奉行(直轄):長崎・出島ランダ 中国の清と

         *スペインの敵国である後発のオランダ・イギリスは貿易の機会を得ようとしていた。
         *貿易の条件としてオランダ・イギリスは布教にこだわらず貿易(経済)を優先した。
         *スペイン・ポルトガルは日本を征服しようとしていた。 国交断絶処置

     17世紀前半(江戸前期)、植民地化などを恐れた幕府は、キリスト教の布教に熱心なスペインやポルトガルの船の来航、日本人の海外渡航などを相次いで禁じた。ただ、想定外の出来事も重なった。中国(明)に国交を求めて断られたり、イギリスがオランダとの競争に敗れて日本から撤退したり。その結果、海外との往来が減ったのだという。

    文科省の次期学習指導要綱改定案にもの申す!
    1. (Q 教科書改訂について?)  予算特別委員会質問(2017/03/15)
      佐賀県立名護屋城博物館にて  文部科学省が14日、公表した小中学校の次期学習指導要領の改定案。社会科では、教科書の歴史用語が学術研究を踏まえて変更され、江戸時代の「鎖国」の表記が消える。中学の歴史的分野では、グローバル化に対応し、大航海時代に結び付いた「ムスリム商人の役割」などが盛り込まれた。
       又、高校で世界史と日本史を融合させた「歴史総合」が新設される。
      これまで歴史の教科書で使われてきた「鎖国」という表記をやめ、「幕府の海外政策」に改められる。鎌倉時代の元寇も幕末の造語であるらしい。そのため、『モンゴルの襲来』と記述。鎖国の記述が消える中で、歴史資料館の今後を追う!

       *「鎖国・開国」の歴史的役割を検証する学者達。
      幕末のペリー来航からだった。これが明治維新前後の混乱期に、開国か鎖国かという議論の流行現象の中で、まるで江戸時代初期の日本が鎖国をしていたかのように誤解されるようになった。

    2. (Q 江戸時代の対外関係史の記録)
       豊臣秀吉(1598~1537)
        1596年 サン=フェリペ号事件(土佐国にスペイン船が漂着:ペルー・メキシコ・フイリピンの武力制圧)
        1597年 イエズス会の後に来日したフランシスコ会に禁教令 26人処刑

       徳川家康(1616~1543)
        1612年 幕府がキリスト教の禁教令を出す
        1633年 奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止
        1635年 日本人の海外渡航と帰国を禁止(鎖国令)
        1637年 島原の乱(~38)
        1639年 ポルトガル船の来航を禁止
        1641年 オランダ商館を平戸から長崎・出島へ移転
        1651年 ケンペル1651~1716年:ドイツ)はオランダの東インド会社の医師として来日する。
        1792年 ロシア使節ラクスマンが根室に来航(通商条約)
        1801年 オランダ通詞 志筑忠雄(しずき)訳『鎖国論』が完成
        1854年 日米和親条約  ペリー来航(開国)。
        1858年 日米修好通商条約

    3. (Q 鎖国という言葉はいつから呼ばれたの?)
      19世紀(江戸後期)に入ってからとされる。オランダ語通訳で蘭学者の志筑(しづき)忠雄が1801年、オランダ商館の医師ケンペルの著書『日本誌』の一部を『鎖国論』と名づけて訳した。幕府が禁教令などを出した17世紀には「鎖国」の概念はなかった。

    4. (Q 日本教育における鎖国のイメージとは?)
      日本は世界から見れば非常に小さく、臆病で弱い国だから国を閉ざした。
      「鎖国のせいで世界から遅れた」といった、鎖国の功罪をめぐる議論は下火となっているのだが!

    5. (Q ヨーロッパ列強時代、世界最強のスペインが鎖国を受け入れたか理由とは?)
      宣教師は戦国大名のキリシタン化をはかり、軍事支援をし、分裂こそ征服の大きなチャンスと見ていたのだが!
      豊臣秀吉の「統一政権樹立」と、「軍事の一元編成」で、二度の朝鮮出兵とその後の、家康の統一国家を見ている。
      唐津の名古屋城から20万人の朝鮮出兵をまあたり見ている。

    6. (Q では、なぜ日本を攻め込まなかったのか?)
      鎖国は、日本主導の貿易統制と出入国管理体制できる軍事大国として映る。
      戦国時代の日本国家は分裂していたが、軍事力の面から見ると軍事力は上がっていた。
      統一されたことで外国勢力の付けいる隙ががなかった。
      他の国や地域のように日本に攻め込まなかったのは、武力での闘いは通用しないと日本の歴史から学ぶ。

       当初、宣教師は1000人くらいの兵力と数隻の軍船があれば、日本を征服できると考えていた。戦国時代の日本国内の分裂からみてキリシタン大名の数を増やし影響力を行使しすれば植民地支配は可能と考えていた。秀吉の朝鮮出兵はスペイン宣教師にとって衝撃的であった。あの軍勢が、琉球、台湾、マニラにやってくればひとたまりもない。秀吉の統一国家を恐れた。その後国交断絶となる。

    7. (Q 伊達政宗の一世一代の外交政策~国際貿易の参入)
      1. 江戸前期に生きた群像
        • 伊達政宗(1636~1567)
        • 徳川家康(1616~1543)
        • 豊臣秀吉(1598~1537)
      2. 伊達政宗の国際貿易の参入のもくろみとは?
        • メキシコとの貿易実現に向かって!
        • 仙台という地の利に不利な南蛮貿易より、地の利に有利なメキシコ貿易(スペイン直民地)で主導権を握るため、メキシコ福王の使者としてピスカイが来日している。こ機械を逃さず家康の許可をもら、スペイン国王との貿易交渉のため、政宗の命を受けた「支倉遣欧使節」一行180人は宣教師ソテロの案内で1613年10月に牡鹿半島月浦を出航しメキシコに向かう。メキシコ(1614.4)で日本人80人が洗礼をを受ける。スペインのマニラ貿易はキリスト教徒優先で取引がなされ、実利的な問題の中で日本商人はキリスト教徒に入信したと考えられる。

      3. 家康は政宗による「宣教師派遣要請」を特例を出した理由とは?
        • 家康が政宗の要求を認めた理由は、貿易で利益が生まれるからであり、伊達領に入ってくる貿易船の一部を江戸湾に廻し、家康も貿易の恩恵に浴することで、両者の利害関係が一致したことよる。
        • もう一つの理由は、権力は強いが、まだ国が安定していない家康は、地理的に大阪の豊臣方と奥州伊達方の挟み撃ちになるのをおそれ、家康の禁教令に対し礼伊達領を布教を認める貿易特区扱いにした。政宗の離反恐れてのことである。

      4. 外交ルート
        • 慶長地震津波で1800人の死者を出してい(1611) 復興
          使節派遣のために造船事業で地域経済の活性化をはたす。
          (物資・人~大工・鍛冶・人夫・食料調達・住宅需要・新田開発・北上川改修・石巻港の整備)
        • 牡鹿半島月浦(1613.10) →マニラ→メキシコ(1614.4)→スペイン(1615.1)→ローマ(1615.11) スペイン→メキシコ→マニラ(2年滞在)→長崎(1620.8)→仙台(1620.9)

      5. 政宗が示した条件に対し。スペイン国王の条件とは!
        • 布教と貿易をセットとし考えている
          スペイン国王の条件は、伊達藩のみの布教区域ではなく日本全土でのキリスト教の布教であり、貿易許可書は出さなかった。スペイン国王には家康の江戸幕府の禁教統制が報告されていたいること、外交駆け引きをした。欧州国王の伊達政宗の使者として、

      6. 大名の独自外交は消滅 1620
        • 政宗は、布教だけ認めることのメリットはなく、支倉の仙台帰国を受け直ちに領内に禁教令を出した

      1、対馬市厳原町 2、タイムスリップした朝鮮通信使 3、瀬戸内市牛窓 4、瀬戸内市牛窓:瀬戸内市教育委員会
      江戸に向かう朝鮮通信使一行

    Ⅰ.
    対馬市 厳原町
    Ⅱ.
    唐津市


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