◇中国へ遣使の派遣 遣隋使が見た風景 氣賀澤 保規 編 1世紀~19世紀 ◇最近読んだ本!(参考文献) 白鳳・天平の時代 遣隋使が見た風景 気習澤保 天平の渤海交流 靑木和夫 遣唐使が見た中国と日本 専修大学 朝鮮通信使を読みなおす 仲尾宏 朝鮮通信使がみた日本 姜在彦 海峡を結んだ通信使 嶋村初吉 壱岐・対馬と松浦半島 佐伯弘次 描かれた行列 鎖国論(志筑忠雄訳) 杉本つとむ 江戸時代の政治と地域社会 平川新 1世紀 BC260年~220年 ・漢(前・後)時代~漢の時、漢王朝へ朝貢する者がいた 。 ・57年に後漢の光武帝から倭奴国王(糸都国)に金印(委奴国王印)の賜与を 受けている。漢委奴国王印(かんの わの なの こくおう) ・107年に倭国王帥升等が生口160人を献じた 3世紀 AD220年~380年、三国時代(魏・呉・蜀) 220年~265年、魏の首都は洛陽(黄巾の乱184年 曹操)~ 卑弥呼の魏志倭人伝で「親魏倭王偽」の称号を受ける 238年、魏の王に遣使派遣、剣士難升米、都市牛利、等 243年、魏の王に遣使派遣、伊声耆、掖邪狗、等計8人) 247年、魏の王に遣使派遣、載斯烏越(載斯と烏越か) 247年、?魏の王に遣使派遣、掖邪狗、等20人 5世紀 朝貢(東晋・宋・南斉・梁時代) 413年~478年、倭国の5王(讃、珍、済、興、武)は、 9回は朝貢(東晋・宋・南斉・梁時代)している。 413年倭王讃の朝貢 7~9世紀 16回派遣 遣唐使 630年~894年、遣唐使を20次派遣計画 4回中止 11世紀半ば~12世紀初頭 鎌倉時代 - [1185年 ~ 1333年] 日宋貿易と高麗貿易 対外貿易の拠点:太宰府鴻臚館(こうろかん)廃絶し 博多の「東房」中国人街形成に移る。 ・平戸に「宋人綱首こうしゅ:松浦党一族」が住んでいた。~白磁 ・五島列島の小値賀島は中継港 ◇古代史から読み解く東アジアの外交 その3! (*^_^*) 11世紀半ば~12世紀初頭、「倭寇」と呼ばれた「海賊」の時代。 894年の菅原道真の遣唐使の廃止から300年弱(鎌倉時代)。その間 日本国は公式の使節団は途絶えていたが、日宋・高麗貿易はしたたかに行われ、対外貿易の拠点は太宰府の迎賓館 鴻臚館(こうろかん)から博多の中国人街「東房」に移る。倭寇は1226年、対馬国と高麗国が闘争し、松浦党「鎮西凶党」が高麗で民家滅亡や資財略奪が記録されている。1263年にも、倭寇が高麗の金州沿岸を襲撃する事件があり、高麗政府は日本に使節を送って倭寇を沈静化しようとするが不調に終 わる。1268年、皇帝フビライの国書をたずさえ高麗使一行と太宰府に!日元交渉はいつも不調に終わる。その6年後、1274年(文永の役)、1279年(弘安の役)の二度にわたる蒙古襲来を受ける。 <記録> 1274年、(文永の役) 対馬・壱岐・松浦地方・博多湾から上陸、艦船900艘・26000人の軍隊で元軍(高麗軍)が関蒙古襲来、対馬厳原町で宗助国80余騎全滅・壱岐平経高ら1000余騎全滅(牛全滅)・松浦党は数百人討たれ生け捕り。博多制圧したが翌日撤退。 1279年、(弘安の役) 元は南宋をを最終的に滅ぼし日本遠征へ。高麗からの出発42000人、中国からの出発する江南軍10万人が壱岐で合流する計画であったが合流できず。平戸で一騎打ちとなるが、暴風のため元軍の被害(破壊)が多く、撤退。 13世紀の20~30年代 鎌倉時代 - [1185年 ~ 1333年] 1226年、対馬国と高麗国が闘争している。松浦党「鎮西凶党」が高麗で民家滅亡、資財略奪 1232年、肥前鏡社の住人が高麗に渡り夜討ちを数多の珍宝を盗む 高麗政府は日本に使節を送って倭寇を沈静化しようとした。 1263年、倭寇が高麗の金州沿岸を襲撃する事件があった。 高麗政府は日本に使節を送って倭寇を沈静化しようとした。 外交文書:「倭寇は停泊していた高麗の貢船を襲い、穀米120石・紬布434匹」奪い 去る。」対馬・肥前・薩摩の人物~高麗と対馬の人々は貿易船「進奉船」で朝貢 貿易進奉品~水銀・柑橘・真珠・刀剣・牛馬・弓矢 1268年、皇帝フビライの国書をたずさえ高麗使一行と太宰府に!日元交渉はいつも不調に 終わる。 1274年、(文永の役)対馬・壱岐・松浦地方・博多湾から上陸、艦船900艘・26000人の軍隊 で元軍(高麗軍)が関蒙古襲来 対馬厳原町で宗助国80余騎全滅・壱岐平経高ら1000余騎全滅(牛全滅)・松浦党は 数百人討たもの生け捕り。博多制圧したが翌日撤退。 1279年、(弘安の役) 元は南宋をを最終的に滅ぼし日本遠征へ。高麗からの出発42000人、中国からの 出発する江南軍10万人が壱岐で合流する計画であったが合流できず。平戸で一騎 打ちとなるが、暴風のため元軍の破壊が多く撤退。 1292年、弘安の役後元から使者を派遣~3度目の襲撃に備え「異国警国番役」を廃止できな かった。 1298年、博多北部九州沿岸をへて五島から日元貿易を 貿易進奉品~砂金・円金・細絹・水銀樽・鎧・太刀・小刀・茶碗・半捙・角たらい ・鈴箱・夜具・蒔絵の硯箱・小袖・武具等さまざま 室町時代 - [1336年 ~ 1573年] 1350年、三島(対馬・壱岐・松浦)倭寇が大規模化(1370~1380年代)し、大陸や半島を脅かす 海賊に手をやく。 1392年、朝鮮が建国され、倭寇問題が第一の政治課題であった。倭寇達に特権を与え懐柔政 策が進み沈静化した。倭寇たちが平和な交通者に変貌(受職人)し、莫大な利益を得 た。綬図書の制(通行証:銅印) 朝鮮側は交通統制を徹底化するため対馬の宗氏を頼って、朝鮮への渡航証明書 「文引」の発行を宗氏に依頼。 文引の発行で、渡航には対馬を立ち寄ることで、宗氏は手数料を取り自分の財源に した。 1443年、朝鮮と対馬宗氏と間で癸亥条約(さがいや)が結ばれた。年間の貿易船50隻を認める。 又、特送船を認める。 正式な遣使を、対馬宗氏が仕立てた偽使もまかり通っている。 14~15世紀 3回派遣 室町時代 1336年 – 1573年 高麗王朝 918年 - 1392年 李氏朝鮮 1392年 - 1897年 朝鮮通信使 1375年、足利義満(日本国王1386~1428年) 国書に対する高麗王朝の返礼が最初。 1401年、 足利義満の遣明船派遣で始まった日明貿易!朝貢貿易(中継が平戸・五島の港湾) 1404年、室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。 1419年、倭寇征伐を理由として対馬に遠征する(応永の外寇)。 1428年、通信使正使|朴瑞生|副使|李芸 |書状官|金克柔|将軍就任祝賀・足利義教の引見 1439年、通信使正使|高得宗|副使|尹仁甫|書状官|金礼蒙|旧交・足利義教の引見 1443年、通信使正使|卞孝文|副使|尹仁甫|書状官|申叔舟|将軍就任祝賀・足利義教の引見 <足利義満と日本国王冊封> 室町幕府の最初の外交は中国の王朝が元から明に代わる直前の1366年(貞治元年)に倭寇禁圧を求める高麗の使節が来日したのが最初である。当時の北朝は高麗の使節が元の征東行中書省からの咨文と箚付を持参したことから、かつての元寇などを理由に使節受けいれを拒否したが、2代将軍足利義詮は五山派の禅僧である春屋妙葩を仮に僧録の資格を与えて交渉 に当たらせるとともに自らも使者に引見した。だが、朝廷(北朝)が使節の受けいれを拒絶していたため、義詮は正式な 回答を高麗側に与えることが出来ず、春屋妙葩の名義、世尊寺行忠の執筆によって非公式な返書を与えている(『善隣国 宝記』・『鹿王院文書』)。 義詮の後を継承した足利義満は、日明貿易の一元支配を望み、1374年(応安3年)以来数次にわたって使節を送る。明朝側としても倭寇を取り締まる能力のある日本の支配者との通交の必要はあったものの、儒学復興が叫ばれていた当時、日本国王として冊封された懐良親王の上表文を持たない使者の来貢を認めない方針を採り、足利氏が日本の君主ではなく「持明」(持明院統の天皇の事。明朝は「持明」を「良懐」(懐良親王)と日本の王位を争っている人物名と解釈していた)の臣下の「将軍」にすぎないことを理由に、通交を拒否していた(『明太祖実録』洪武7年6月乙未条及び同13年9月甲午条 )。しかし、1380年に発覚した明の左丞相(大臣)胡惟庸の謀叛と、当時辞官出家していた義満が、天皇の臣下という立場をとらずに通交を試みようとした結果、1401年(応永8年)、「日本准三后道義」の表文を携えて派遣された使節はついに目的を果たし、「日本国王源道義」宛の建文帝(在位1398年~1402年)の詔書を携えて明使とともに帰国した。義満は北山第に明使を鄭重に迎え、自ら拝跪して詔書を受けたという。 ところが、明使の滞在中、靖難の変(1399年~1402年)により成祖永楽帝(在位1402年~1424年)が即位。義満は永楽帝に宛てて国書を送った。即位して間もなく、簒奪者との謗りも受けていた永楽帝は、「外夷」からの使節の到来を自らの天子としての徳を証明するものとして喜び、義満に「日本国王之印」と通交に必要な勘合符を与えた。 こうして義満は「日本国王」の称号を獲得し、中華皇帝に臣従する外臣として認知され、華夷秩序における国王として承認された。これにより足利家が勘合貿易の主導権を握った。 <足利義満以後> 義満以来、室町幕府内でも異朝に臣従する姿勢に批判的な意見が根強かった。義満の死後、4代将軍となった足利義持は明と断交するが、6代将軍足利義教が明との国交を再開。国王号も復活した。これに伴い、朝鮮からの来書にも将軍を日本国 王と称したが、日本側では、「日本国源某」の称号を用いた。なお、この時「日本国王」という称号を巡って議論があり、満済は管領細川持之を通じて「将軍は日本の覇王であり、国王の称号を用いて誰に憚るところがあるのか」と進言したと記している(『満済准后日記』永享6年6月15日条)。幕府の討議の結果、「只今鹿苑院殿の御沙汰を改めらるるの条々、一向彼の御非虚を異朝に仰せ顕わせらるるに相当たるべきか。(もし今鹿苑院殿(義満)の先例を改めるようなことを すれば、彼の虚偽を外国に言い出すようなものではないか)」として、日本国王号を採用した。しかし、一方で将軍が明 皇帝の勅書を受ける際に将軍が拝礼することが問題になった。交渉の結果、拝礼の儀を簡略化することで合意が成立したが、この際満済は当初反対していたが、賛成に回るにあたって「本当の日本国王が拝礼することは神慮に背くことになるが、将軍は明側が思っているだけの日本国王なので、拝礼は差し支えない」と回答している。 7代足利義勝以後の将軍が明の冊封を受けた事実は確認できない。だが、宝徳3年(1451年)に8代将軍足利義成(後の義政 )が明の景泰帝に使節を派遣した時の上表文及び景泰帝からの勅諭に用いられている義成の称号は「日本国王」であり、明側においても実際の冊封の有無を問わず、武家政権の長である義成(義政)を国王として認識していたことが分かる。なお、義政は家督を息子の義尚に譲った後も、祖父・義満に倣って「日本国准三后道慶」と署名した書状を朝鮮に送る(『善隣国宝記』所収文明18年遣朝鮮書及び『蔭涼軒日録』文明18年7月2・11日条)など、外交面においては主導的な立場を保持し続け、「日本国王」の地位を終生手放すことはなかった。 その後も足利将軍は明や朝鮮では「日本国王」と認識されていたが、細川氏や大内氏、宗氏などが実際の外交の実権を握った。日本国王の上表文が偽造される場合もあった[5]。義満の金印は戦乱により消失した為代用品として木印が用いられた。大寧寺の変の後に大内義長により作られた木印は毛利元就の手にわたり毛利博物館に所蔵されている。なお、大内義長と毛利元就は木印の保有者として日明交易の再開を求めたが簒奪者として朝貢を認められなかった。 日明関係は1547年(天文16年)の遣明船で断絶したが、1581年(天正9年)と1583(天正11年)に朝鮮国王が日本に送った国書の宛先の「日本国王」とは室町幕府の15代将軍足利義昭であった。 16世紀以降 2回派遣 豊臣秀吉に派遣された通信使 1509年 1596年、 17~19世紀 607~1811年、12回派遣 1607年、2代将軍 徳川秀忠時代に日朝国交回復・捕虜返還 1811年、11代将軍 徳川家斉 家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)