道教(どうきょう)と神仙思想  老子の論理

 『道教』とは、 道(タオ)を説き不老長寿を究極の理想とする古代中国でうまれた宗教です。
台湾 

龍山寺は、道教や儒教など様々な宗教と習合しており、孔子や関帝(関羽、三国志で知られる)、媽祖など、祀られている神は大小合わせて100以上に及ぶ。  ”老 子”をその祖として崇め、その変化の過程で、巫術禁忌、鬼神祭祀、民俗信仰、神話伝説やさまざまな方技術数を取り入れ、道家黄老の学を旗印と理論的な柱とし、儒家・墨家・陰陽家・神仙家・医家などの諸学派の修練理論・倫理観念・宗教信仰なども取り入れた。
人々を救い、長生し仙人に成り、さらに道と一つになることを総合的な目標に掲げ、神学・方術なども含む雑多な宗教体系である。それは漢の時代に特定の歴史的条件のもとで絶えず仏教の宗教形態を取り入れ、次第に発展し中国の伝統的民衆文化の特色を備えた宗教となった。
 この道教の定義では、道教の源流が母系氏族社会で自然発生した原始宗教であること、漢の時代に黄老の学が神学化・方術化したこと、中国の儒家・道家・仏教およびそのほかのさまざまな文化要素を取り入れたこと、その目標は人々を救い、長生し仙人になり、道と合し神に通ずることであることをはっきり表している。

道教創案の中心人物”老子”は謎めいています。紀元前6世紀の人物とされ、歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様です。老子は神格化され三清の一人である太上老君の神名を持つ。

    道教の最高神格を三清を祀る3柱
  1. 元始天尊~太元を神格化
  2. 霊宝天尊(太上道君)~道を神格化
  3. 道徳天尊(太上老君)~老子を神格化
    三清の下に四御神信仰(天地の事物を司る四大天帝)あり
  1. 昊天金闕至尊上帝~天道を総合的に司る神
  2. 中央紫微北極大帝~玉皇大帝を助けて天地の経緯・日月星辰・四時気候を司る神
  3. 勾陳上宮天皇上帝~玉帝を助けて南北極と天・地・人の三才を司り、また人間の兵器
                  軍装を主宰する神
  4. 后土皇地祇     ~陰陽の生育・万物の美・大地山河の秀を司る女神
    道教の早期の経典
  1. 太平道
    2世紀前半頃、医術、五行思想や予言能力にすぐれていた于吉が、神から授かったという「太平清領書」を 根本教典として発生した。のちに張角が華北一帯で数十万の信徒を軍隊的に組織化し、黄巾の乱を起こした。張角ら3兄弟 が死ぬとともに衰退。多くの信徒が魏の曹操軍に入ったとされる。
  2. 五斗米道
    天師道の源流。もともと儒学を学んでいた張陵(張道陵)が、天降ってきた柱下の史(老子)から授かったという「新出正一盟威の道」で数万の信徒を得て、息子の張魯が教義や組織を完成させた。「三官手書」(天地水の3神に捧げる懺悔文のようなもの:病気は罪の報いと考えられていた)を使った治病のまじないや、「義舎」と呼ぶ無料宿泊所の開設などを行い、巨大な勢力を持ったが、215年曹操に降服した。
  3. 天師道(現在 正一教)
    いったん五斗米道教団は分裂したが、再興して勢力を伸ばし天師道と呼ばれるようになる。6世紀頃には各地に天師堂が建ち、11世紀には北宋と結びついて江南地方一帯に勢力を持った。14世紀ごろには正一教と呼ばれ全真教と勢力を2分し たが、その後衰えている。現在、浄明忠孝道、上清派(茅山派)、武当派などが合併されている。
  4. 上清派(茅山派)
  5. 新天師道
    もともと天師道の修行をしていた寇謙之が、天降ってきた太上老君(老子)から授かったという天師の位に就き、房中術や信徒からの寄進を止め、神仙説の養生術を中心に儒教の礼を加えた教えを説くようになった。5世紀中頃、新天師道は北魏の太武帝の信仰を得て国教化し、太武帝は「三武一宗の法難」の最初となる仏教弾圧を引き起こしたりしている。道教はこの時期に大成されたと考えられている。しかしその後新天師道がどうなったかはよく分からない。
  6. 太一教
  7. 真大道教
  8. 全真教(現在 全真教)
    儒仏道3教の同源論に基づき、禅の要素を多く取り入れた性格を持つ。開祖は王重陽で12世紀に始まり、高弟のひとり丘長春がチンギス=ハンに招かれ信任を得るなど勢力をのばした。仏教との論争に敗れて教勢が衰えたりもしたが、すぐに持ち直して元朝末期まで強い勢力を持った。
  9. 浄明忠孝道
  10. 武当道



 儒教思想(じゅきょうしそう)  孔子の論理

 『儒教思想』は、 日本の縄文晩期、中国では春秋末期(~BC403)の思想家”孔子”(BC551~BC479)を祖とし、人為に重きをおいた人間中心の思想である。
   祭祀・儀礼を重視し、信仰ではなく政治的儀式とした。周代の初めを手本とし、礼による社会秩序の回復・維持 を説くことから、保守的・権威主義的な傾向をもっている。政治は力ではなく徳により行われるべきである、とい う理想主義を掲げた。徳の中で最も重要なのは仁であり、その基本は孝、つまり祖先や親への愛や道徳であると説いた。
 「論語」は弟子の編集による孔子の言行録である。戦国時代(BC403~BC221)の弟子、孟子(BC372~BC289)と荀子 (BC298?~BC235?)による「孟子」 「荀子」は、その後の儒教の普及に大きな役割を果たした。
 漢代に儒教が国教となり儒学五経(詩・書・礼・易・春秋)が経典として採用される。経典としては他に、孝や礼を説く(孝経・周礼・予言書讖緯 しんい)などがある。後に、南宋の朱子は四書(大学・中庸・論語・孟子)を定めた。




 神仙思想(しんせんしそう)  神仙の論理

 当初、神仙は神に近いもので、人間がなることはできないものと考えられていたため、人々はなんとかして渤海中の 三神山(蓬莱、方丈、瀛州えいしゅう)に住むという神仙に会い、長寿の薬をもらおうとした。しかし秦代(BC221~BC206) ころからは、修行をすれば人間でも神仙になれるという思想が生まれたため、それ以降は、様々な神仙術が生み出される こととなった。
 不老長生は古くから中国人の夢であった。多くの皇帝がこの夢を追い求め、手っ取り早い手段として丹薬を得ようとした。 なかでも秦の始皇帝(BC259~BC210)や漢の武帝(BC156~BC87)の丹薬狂いは有名である。 その背景にはペテン師まがいの方法により皇帝たちを扇動した方士たちの存在があった。 晋代(265~419)の葛洪(283~343頃)が著した『抱朴子(内篇)』には、当時の神仙思想の状況が記されている。なお、葛洪自身は役人であり、その外篇では儒教思想を扱っている。
 唐代(618~907)には、道教が優遇されたことを反映し、皇帝や側近のみならず、士人に至るまで神仙思想が広く浸透した。
                     (ウイッキペデイアフリー百科事典他)


【陰陽思想】は、森羅万象(しんらばんしょう )のすべてを()を 「陰」と「陽」の二相に還元する思想で陰と陽とは互いに対極の本質を持つが事物に固有の属性ではなく相対的に決まる性質 があるとしています。 陰陽説を天地創世について次のように説明されています。「もともと宇宙は天地未分化の混沌状態」 だったが、やがて軽く澄んだ気「陽」が 上昇して天となり、続いて重く濁った気「陰」が沈んで地となった。

【五行思想】の特徴は、「相生」 (そうじょう )「相剋」(そうこく ) という、それぞれの要素同士がお互いに影響を与え合うという考え方である。陰と陽が交合した五つの状態を「木・火・土・金 ・水」と分類します。「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず」という関係を『五行相生』 という。「水は火に勝(剋)ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つ」いう関係を『五行相剋』という。 この中で木気は最も陽で水気は最も陰、土気はちょうど中間の状態とされます。

四神相応(しじんそうおう)は、天の四方の方角を司る「四神」の存在 に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢・地相のことをいいます。四方を神獣が守り、時間と色を表すという考え方で、そこ には気象学、地理学、天文学的な意味も持っています。古代にさかのぼり、唐の落陽・長安の都城制を模して難破京・大津京・藤原京 ・平城京・平安京もこの吉相をもってまちづくりされた。南北に朱雀大路を通し朱雀門(南)・羅城門(北)を配置した。今でも家を建て るときに風水や家相による鬼門は四神相応の思想からきています。 ・・・・神社弊殿に祭られる四神旗も”吉相”をもって配置されているのもこの為です。

青龍(東)~支配する色青 朱雀(南)~支配する色は赤  白虎(西)~支配する色は白 玄武(北)~支配する色は黒
草岡神社弊殿に掲げる四神旗

方角 西
四神 青龍 白虎 朱雀 玄武
地勢 流水 大道 くぼ地・湖沼 丘陵

 神社の五色旗は陰陽五行思想から。

陰陽五行思想リンク 陰陽五行解説リンク 道教と仙学リンク

【草岡神社奉賛会】

| HOME |