高志国(こしのくに)もう一つの神話  その1

                 ・喚起泉達録(カキセンタツロク 野崎伝助著) (1731)
                 ・肯構泉達録(コウコウセンタツロク 野崎雅明著)(1781)





 風土記的・泉達録によれば にさかのぼります。

 高志国(こしのくに)(越国)とは、
現在の富山、石川、福井、新潟、列びに山形県庄内地方の一部に相当する地域で、古事記・日本書紀には越洲(こしのしま)高志 (こし)古志 (こし )とも呼ばれた。ここで高志(くに)と明記していますが、国の形態を成していたとは必ずしも言えないとされています。古代の高志国は大化改新後、越国となり、七世紀天武天皇の頃、越前・越中・越後に分けられた。

◇・・越中国の古代史・・◇


 江戸中期に記された泉達録(1731年or1781年)には、
崇神天皇(10代)即位十年(紀元前88年)、中央集権を遂行するため大和王権が大彦命(おおびこのみこと)を派遣し高志国の再編が行われた。当時、地方の多くの豪族は大和朝廷に従わず独自の王国を築いていた。豪族阿彦も阿彦王国(古志の国)として君臨していたのである。阿彦王国の発展はそのまま天皇系勢力の衰退であり古志の国の征伐が急務となっていた。大彦命は越中(こしのみちなか)伊豆部(いずべ )山の麓、杉野(婦負郡内裏野)に軍隊を駐屯させ、大急ぎで太田郷中地山(卯辰山)に小城を築いた。 そして従軍の部将の中から大将に椎摺彦(しいずりひこ)、副将に手刀摺彦(たちづりひこ)を選任し、越中全土の統治を続ける様に命じた。翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。

    《泉達録に見る豪族の居城神話(富山県の古代史)》
  1. 沢古舅の居城:東城(角間城)
  2. 富崎舅の居城(石動町):熟城(厚根城)
  3. 甲良彦の居城主(小杉町附近):辻城(日宮城)
  4. 玉椎老翁の居城(富山市婦中富崎):滝城(白滝城・富崎城)
  5. 高住舅の居城(富山市):安住城(安田城・金城)
  6. 美麻奈彦の居城(新庄):辰城(萩城・新川城)
  7. 阿彦の居城(立山周辺):枯山城or岩峅城
  8. 椎摺彦・手刀摺彦の統治した居城(卯辰山):中地山城

四道将軍(しどうしょうぐん) は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おお びこのみこと)武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)吉備津彦命(きびつひ このみこと)丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。 大彦命(生没年不詳)は日本の皇族(王族)。

崇神天皇 は『古事記』には没年が干支で記載されており、それから推測して実際は318年(または258 年)の没とする説もある。『記紀』に記される事績の史実性には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにか けて実在した大王と捉える見方が多い。

第10代・崇神天皇(在位:BC97年~BC30年)




京の都では
中央官僚としての三善為康
時は平安後期(律令制で目指した中央集権国家)


草岡康成(射水郡草岡)  喚起泉達録(カキセンタツロク)(1731年)に面白い記録がある。
 『射水郡草岡という所に草岡の”康守”という者あり(まき)を切り、 野に(いね)作りて家内左のみ貧しからで住めり、此者の祖は美麻奈彦の孫で美見比古と云う人の更に 玄孫(やしゃご)なり。美見比古よりこの草岡に住しけるか、美見比古卒して後に、神に祀る。 草岡の神社と号ぶ今にあり。射水郡13座の内なり。』

 草岡康成は幼少から才知に勝れていた、阿彦の乱から約一千年近く経過した、後冷泉院の朝、治歴2年(1066年)、18才の時、遠祖美 麻奈彦から伝えられた算法の書や其他一切を携えて京都に行き、時の算学博士、三善為長に師事し、持参の伝書をすべて公開した。 研学の功あって寛治4年(1090年)博士となり、翌年44才の時、朝議太夫(従五品上)に列せられ、”三善(みよし)為康(ためやす)”と姓名を変更したと伝えられて居る。  美麻奈算法は十百千万の位を2、3、4、5と置く簡易計算法で、現在の対数計算に相当する。
  (堀岡村史発刊昭和15年より)


肯搆泉達録(富山県郷土史会校注より抜粋)
 美麻奈彦、才徳、衆に超えたれば、大若子命、推挙ありて、越の国造に封ぜられしとなり。美麻奈、人民を撫育し、徳義を教へければ、庶民次第に善きに化せり。美麻奈また数学に善し。世に美麻奈算と称し今に伝ふ。その胤、射水郡草岡といふ所に在り。久しく続きて後、草岡の康守といふ者あり。その子康成、幼稺より才智勝れ、十八才の春京都に赴く、時、後冷泉院御宇、治暦二年なり。算学の博士三善為長を師とし筆術を学べり。康成、美麻奈より伝へし算書を為長に披露し、精を研き、思をつくして後、算学大成し、進士・明経のニ科までも学び得たり。堀川院御宇、寛治二年、為長に代わって算学の博士となる。同五年朝儀太夫に至り、姓名を改め善為康と号す。『元享釈書』にも、「算学博士善為康、晩年浮屠の法を信ず、越中射水郡の人なり」と書せり。


● "算道家(大学寮の教授)" 三善為康の著作
  1. 朝野群載(28巻)
  2. 懐中歴(10巻)掌中歴(4巻)
  3. 続千字文
  4. 童蒙頌韻
  5. 拾遺往生伝
  6. 後拾遺往生伝
  7. 仏法感験記
  8. 六波羅蜜寺縁起
  9. 叡山根本大師伝世俗往生決疑(散逸)
  10. 金剛般若験記(散逸)



【草岡神社奉賛会】
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