仏教伝来後 神仏習合の歴史
538年、畿内の『豪族連合政権』で日本を統一していった大和王朝に百済から”仏教”が伝えられた。
大和時代(古墳時代)
今まで有力豪族は”神道”をもとに各々の氏神(先祖神)を祀り繁栄をもたらすと崇拝していた。仏教伝来は大和王権を支えた有力豪族(氏姓制度)、蘇我氏(崇仏派:改革派)と物部氏・中臣氏(廃仏派:保守派)の国家論争へと発展する。
日本の国家を今まで通りの氏姓制度で推し進めるか、仏教信仰も取り入れた中央集権国家を目指すか『神の國 大和王権』は大きく揺れた。
最初、仏教を容認しない方法で動いていたが、仏教は教理の上で、民族の平等性、無階級性、汎人類性を持っていることから、土着住民は豪族支配下からの脱却を求め、階級区別のない平等性の仏教に精神的安らぎを覚え指示されたと考えられます。 推古天皇12年(604年)に聖徳太子は十七条憲法により大和王権が仏教を崇拝することを明文化し、仏教が我が神の国に根を下ろすことに成った。以後、仏教と神道は互いに接近し融合していくことになる。
神仏習合の歴史
気比神宮境内に”神宮寺”建立/越前國気比神宮
南無八幡大菩薩(鎮護国家・仏教守護の神)/宇佐八幡宮
神官・僧侶が供に春日大社/興福寺
鶴岡八幡宮寺/鶴岡八幡宮
慶長18年(1613年)に修験道法度が制定
霊山と社寺・修験道当山派本山(真言宗〜山伏)/醍醐寺三宝院、
藤原氏の氏神(春日大社)・氏寺(興福寺)を祭る
神社に仏道帰依の託宣があり”神宮寺”を併設し本地仏(仏像)を祭る
- 伊勢神宮 神宮寺移転 698年、続日本紀に多気神宮寺から度会郡に移転と記
- 越前國気比神宮 託宣により神宮寺併設 715年(霊亀元年)、類聚国史に記

- 賀茂神社 神宮寺併設 715年・ 839年、金剛大般若経転読が類聚国史に記
- 若狭比古神社 神宮寺併設 717〜724年(養老年間)
- 宇佐八幡宮 神体が菩薩形をとる神(僧形八幡)を祭る 737年、続日本紀に記
- 鹿島神宮 神宮寺併設(釈迦入滅の常楽会有り) 749‐757年、類聚三代格に記
- 箱根神社 神宮寺併設 749年(天平勝宝1)
- 多度神社 神宮寺併設 763年(天平宝字7年)
- 宗形神社 神宮寺に僧7名をおき大法師等位を派遣し読経すると類聚国史に記
- 鶴岡八幡宮 神宮寺併設 1208年(承元2年)
- 厳島神社 大願寺(弘法大師空海作の厳島弁財天)〜厳島神社の普請奉行
- 談山神社 法華教を守護とする三十番神像(仏の化身)
寺院に守護神(本地仏・垂迹画〜仏法の守護神)を祭る
- 東大寺 宇佐八幡の神託があり守譲として手向山八幡宮に祭る 748年 最古

- 興福寺 春日大社〜藤原氏の氏寺・氏神 813年(弘仁4年) 春日宮曼陀羅
- 延暦寺 日吉大社〜天台宗・延暦寺の鎮守社(山王神道)として発展:修験道
- 金剛峯寺 丹生神社〜金剛峯寺の鎮守神/高野四社明神像
丹生明神像・狩場明神像:修験道(和歌山県高野町〜真言宗・弘法大師)
- 東寺 伏見稲荷大社〜祭礼時の東寺神供
- 薬師寺 鎮守八幡社(休ケ岡八幡宮)内部に板絵神像
- 宝積寺 鎮守堂内部に板絵神像(15所権現)
- 醍醐寺 清滝権現像(如意輪観音の化身)
- 長寿院 赤山明神像・摩多羅神像
- 園城寺 新羅神像
明治の神仏分離令による神社名の改称
- 神田(かんだ)明神 神田神社と改称
- 根津(ねづ)権現 根津神社 〃
- 三社(さんじゃ)権現 浅草神社 〃
明治の神仏分離令により使用廃止の神様と廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)
- ○○明神(みょうじん) 神が明らかな姿になってあらわれる
- ○○権現(ごんげん) 仏が権(かり)に神の姿になってあらわれる
- 八幡大菩薩(はちまん) 八幡神(武運の神)を神仏習合時に八幡大菩薩と呼ばれた
- 明治元年末以降、強力な廃仏毀釈が行われた藩は、隠岐、佐渡、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩、苗木藩、富山藩、松本藩などである。富山藩は、一宗1カ寺という廃寺政策を強行し、その結果、1636あった寺院が6ケ寺になる。
射水郡を統括する加賀藩は、明治の神仏分離令以前(43年前)の文政7年(1824)に「領内神社祭神等従来混雑いたし候義等」があるので4名の神職を充て、神社行政の整備を進めている。加越能三国の社号調理等の指導を行う。式社の争い、各種称号と祭神名の指導は旧記の照合・偽作個所の発見、仏教色を払拭し本来の神号(春日権現廃止)にもどす依願等「神殿ニ仏像等立置間敷事」の布達していることである。
射水郡の廃仏毀釈政策は神社から”仏色”を取り除くゆるやかな政策で地元の多くの寺院がことなきを得たと思われます。
《参考文献:加賀藩の文政天保年中における神社調理と神仏分離令 廣瀬誠著》

神仏習合(春日大社:興福寺)
【 春日神社本殿前の桜門前で”神官”や”社僧”に託宣を伝える橘氏(女)場面 】
神仏習合の始まり(奈良時代)
天平宝字4年(760)、聖武天皇の時、疫病が流行しそれを鎮めるために奈良東大寺に、仏教による国家太平を祈願して大仏造立し、全国にも国分寺をつくり、その成功を祈るために、宇佐八幡宮から”八幡神”を勧請しました。その八幡神が祀られているのが近くにある手向山八幡宮です。この歴史的事実から、神仏習合が始まったとされています。
その後、全国の神社境内に”神宮寺”が併設され、寺院内にも”神社”が併設されていきます。神宮寺は、神祇(じんぎ)に仕えることを目的として神社に付属した寺院でしたが、平安期に入ると従来の神祇信仰を圧迫する事なく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となり、時の権力者と結びつき神仏習合がなされていきます。明治政府の神仏分離令(祭政一致・王政復興)に至るまで、永きに渡り日本に根づきました。
神仏習合は、神仏混淆()とも言う。
神宿る聖地と修験道
日本において、もともと山は古来から、神宿る霊地として礼拝されており、山神を無視しては造ることができませんでした。これが仏教(密教)と神道・道教・陰陽道などと融合習合し発展したのが”修験道”である。
比叡山延暦寺(天台宗)には日吉山王社(山王権現)を祀り、高野山金剛峰寺(真言宗)には丹生都比売神社(丹生明神)を祀っています。

春日権現験記絵:巻11 弟4段 永万夢相事
神仏思想、現世と来世について
”本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)”思想は、神仏は同一で、仏が神に化身し、仮に現れる○○権現(神号)を、平安時代の貴族や武家社会に神仏習合として受け入れられていく。
神道には来世と言うものはない。八百万(やおよろず)の神を祭る事により、神々の荒御魂を鎮め、和御魂に変え五穀豊穣をもたらす事にある。仏教はさまざまな教派が有るが基本的には救いである。 解脱する事により魂の救いを得るわけである。
神道は現世利益、仏教は来世利益ともいえるのかな・・・!
【草岡神社奉賛会】
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