しるべ政策研究会
 菊たみおが行く
 飛鳥期の富山湾周辺における海水準変動について!  ・・富大・藤井昭二論文より考察・・
艸岡神社
 故事によれば、白雉(はくち)3年(652年)、草岡神社の霊験により激浪難破のきざしあるを知り、 人民相はかり明神の地より南方1600間余りのところに浜田という地味豊で、かつ霊地なるが故に、御本社避難 するに最良のところとして場所3000歩余りを選び御本殿を鎮座した。ところが御遷宮式が終わると同時に明神 の地は深い海に変じ、近寄ることもかなわぬところとなった。数日の後、舟で実地を実験すると、そこは幾尋もの 海底となり、大小の魚類がおびただしく遊泳していた。このようなわけでのちのちの漁業を営む適所となったと伝 えている。
 この故事から奈古の浦(万葉集)の汀線は現在より数キロ北に明神の地があったことになる。これを裏付ける論証 として富大・藤井昭二の富山湾周辺を中心とする海底林と海水準変動についての論文に、明神に隣接する新湊 市浜開(a:現在射水市浜開)の泥炭から、AD.700〜610〜520年(1400±90年)前の海面は、現在より1m低かったことを結論づけている。放射性炭素年代測定(C14)からの海進の推測データは7-8,7-9図による。

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古代の”明神の地”は海の中  古代の地理


番号
地 点
素 材
海抜(m)
C14年代
a 新湊市浜開 泥炭 -1   1,400±90 飛鳥時代
b 氷見市十二町潟 ヤマトシジミ -1.5 1,470±36 大和時代
c 珠洲市川尻 マツヤマワスレ +3 1,550±40   ↓
d 東草野大屋埋没林 +2 1,560±110  ↓
e 魚津埋没林 泥炭 -0.5 1,750±90 弥生時代
f 神通川河口埋没林 -2 1,950±90   ↓
e 魚津埋没林 +2 1,960±70   ↓
g 四方埋没林 +3   2,730±00   ↓
h 氷見市沖布貝層 +6 4,400±100 縄文時代
i 能登島八ケ島貝層 +2 4,50±90    ↓
氷見市十二町潟貝層 -2 4,850±70
石川県穴水貝層 オオノガイ +0.3 5,040±130
氷見市中村貝層 +6 5,410±160
氷見市九殿階層 +2 5,700±125
氷見市雀森貝層 バカガイ -3 6,650±190
新湊市堀岡貝層 カキ -3   6,910±200 縄文時代
b 氷見市十二町潟貝層 オオイガイ -3 7,200±70
氷見市十二町潟貝層 オオノガイ -3 7,060±70
n 吉原沖海底林 -22 8,030+140
n 吉原沖海底林 -25 8,360+180
n 吉原沖海底林 -40 10,150+230 縄文時代
海底林と海水準変動:藤井昭二(富大教授)資料にもとずく
C14は放射性炭素年代測定、C14の破壊率から年代を推定する。



 日本における海水準曲線(ローズ・フェアブリッジ教授の海水準曲線の考え方)
 下末海進 12万5千年前 現海面 +5・0m〜一0・0m
 縄文海進     6千年前 現海面 +3・0m 〜5・0m(貝殻遺跡で立証)
 平安海進   8世紀初期 現海面 −1・0m(万葉集の時代)
         10世紀初期 現海面 ±0・0m
         11世紀初期 現海面 −0・5m(更級日記の時代)
         12世紀初期 現海面 +0・5m
 日本における中世期の海水準曲線
         14世紀後期 現海面 −1・0m
         16世紀中期 現海面より低い
 *海水面の海進・海退は干満の差もあり地域によって異なる

草岡神社 遷座地は明神浜沖の海の中 堀岡海底谷

■   万葉集の奈古の浦は今いずこ!  古代地理変革より海水面の汀線を検証する

a 最寒冷期時代 b 縄文前期時代 c 縄文後期〜弥生時代 d 大和〜平安時代
当時(白雉3年:652年)の草岡神社は、明神の地より南方1600間余りのところと記されている。

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