二つの式内社 草岡神社

 社 号
草 岡 神 社
草 岡 神 社
 鎮座地

 越中國 射水郡古明神村 鎮座
 射水市堀岡古明神371  合併2005.11.1
(合併前:新湊市堀岡古明神371)
 近江國 伊香郡余呉町国安 鎮座
 長浜市余呉町国安52   合併2010.1.1
 (合併前:伊香郡余呉町国安52)
 社 格  延喜式内社(射水郡13座の一つ)  延喜式内社(伊香郡46座の一つ)
 旧社格  郷社(明治5年列)  郷社(明治17年列)
 神 紋  違い槌      星梅鉢
 御祭神


 大已貴命
 玉依姫命
 事代主神

 高御産巣日神(タカミムスビノカミ 造化三神)
 神御産巣日神(カミムスブノカミ 造化三神) 
 日子坐王命(ヒコマスオウノミコト
開化天皇の第3皇子)
 菅原道眞
 境 内  646坪 本殿・弊殿・拝殿・社務所(2)・神輿蔵  1294坪 本殿・拝殿・社務所.・末社4社
 宮 司  多田 省吾  片岡 康平
 氏 子  345戸  66〜70戸
 祭礼日  春季5/4 秋季11/3獅子舞・神輿巡幸  道真公例祭3/25 8/25   野神祭・雨乞踊り
 合併人口  射水市 94,217人(旧市38,000人)  長浜市 122,884人(旧町3,615人)
 創祀年代  不詳  不詳
 社号帳  草岡神社(宝暦10年にみえる) 加茂大明神 舊古草岡神社  草岡神社(明治3年復) 天満天神
 故 事



 景行天皇40年秋7月(110年)、日本武尊が東夷の邪神姦鬼、蝦夷などの討伐の際吉備津日子命を遣わされ越の國征伐のみぎり、草岡の里に守護社として一宮を創立。  神功皇后(170〜269年)が敦賀へ行啓のおり、第12代景行天皇の時に北陸・東国を視察して、蝦夷の征討を進言した武内宿禰を従えて、当社へ参拝されたといわれるほどの古社。
 由 緒
 当神社の祭神は大已貴命(大国主命)です。神代のむかし、大已貴命が宝剣でこの地を開墾したことにより、人々が生活を始め、 当地を草岡の里と名付けたと語り継がれています。 平安時代の「延喜式」神名帳のなかに、草岡神社の名が記されています。式内社と呼ばれる官社として、重要な役割を果たしていたと考えられます。鎌倉、室町時代には下村加茂神社を中心とする倉垣庄が庄域をひろげ、この地にも加茂社が勧請されました。のち、大已貴命と、下賀茂社の祭神 玉衣姫命を合祀し、江戸時代には加茂社とも草岡神社とも呼ばれていたこともありました。また、境外末社の恵比須社の祭神、事代主命も大正12年に合祀されました。
 江戸時代後期の天保11年(1840)現在地に遷り、今日まで地域の人々の守護神として、禍事災難を取り除き日々の暮らしに限りない恩恵を与えてくださるものとして厚い信仰を集めています。
 開化天皇の弟3皇子 日子坐王命は余呉地域開拓の祖で、弟14代仲哀天皇(192〜200年)の臨幸があった。北陸道往還の時、礼拝のできるよう大鳥居遙拝所がある。旧余呉之庄上乃郷の大社で総社であった。天正11年(1583年)豊臣秀吉と柴田勝家の賤ヶ嶽合戦(しずがたけ)で兵火にかかりのち復興された。
 明治3年5月、旧領主飯野藩の命で昔の通り「草岡神社」とよぶようになり今市(村)に遥拝地として弐畝拾七歩賜わる。明治9年(1876年)10月村社、同17年(1908年)4月29日郷社、並幣帛供進社として指定される。
 湖北・伊香の地は天神信仰の強いところでもあり、旧片岡村に因み片岡天神と称していたこともある。


 神社額
 (草岡神社)



【越中國射水郡古明神村鎮座 草岡神社奉賛会】
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