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ビザの申請をしたら、細かな指摘があり再提出。1ヶ月あるからまぁ、普通に発給されると思いきやいつまでたっても連絡なし。大使館は、問い合わせは受け付けずという。電子申請になる以前は、融通がきいたらしいが、電子化された為に処理が遅くなったと聞く。出国日は数日後に迫ってきた。あきらめようと思ったら突然、旅行会社から発券されたと連絡があった。これからインドのビジネスは活性化されると言われているが、こんな調子で良いのだろうか。しかし、ギリギリでビザを入手してシンガポール乗換え、15時間かけてインドのムンバイに到着した。
ムンバイはボ1995年まではボンベイと呼ばれていた。世界有数の人口を誇るが、日本人は僅か500名と聞いた 上海は5万以上なので直行便が無いのも理解できる。政治的には首都ニューデリーが中心であるが、経済や物流ではボンベイの方が活発である。しかし、倉庫に向かう車の中から見たスラム街は、この地がまだまだ発展途上である事を物語っている。街を歩いていても物乞いが群がってくる。中国でも経験したが、ここまで積極的にアプローチされるのは初めてで、正直、邪魔だった。
地下鉄などの公共交通機関が無く、街の中心街までは渋滞の中、車で2時間近くかかってしまう。地下鉄やモノレールの建設が続いているので、近い将来、景色は一変するかもしれないが、とにかく混沌としているという印象であった。前述の通り、日本人が少ないので日本の食材が手に入らない。駐在員は、半年に1回、シンガポールに買出しに行くそうだ。また、ストイックな国なので、夜もとても健全なようだ。
インドに憧れて、何度も訪れたり、住んでしまった人は数多い。かなり昔の事だが、都会で遊んでいるのが似合っているような女の子が、インドにはまって住み着いた例を見た事がある。インド人は中国人よりは心が許せそうな気がしたが、1度の出張訪問だけではこの国の事を語る資格は無いだろう。映画の「スラム ドッグ$ミリオネア」には、ムンバイのスラム街に生きる人が描かれている。
車から見たムンバイ郊外の街の様子。民族衣装はマレーシアでも見ていたので驚く事はなかったが、やはり異国情緒は感じる。 | |
ムンバイの街中を走るタクシー。半数ぐらいは国産車の「パドミニ」である。 イタリアのフィアット1100Dをベースにしているそうだが、フィアット1100Dは1962年から66年まで製造されたクラシックカーである。インドではなんと2000年まで製造が続いたそうだ。 |
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「ムンバイのモンサンミッシェル」と紹介を受けた教会。 ハジアリ霊廟と言うらしい。海の上にポツンと浮かぶように建っている。橋はあるが、満潮時には水没するとも聞く。イスラム教の施設との事。 ちなみに、ここの物乞いも凄いらしい。 |
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市庁舎 ムンバイの市街地の中心に聳えている。付近は、はお洒落な格好をした若い人が大勢歩いており、スラム街とは全く違う雰囲気であった。 |
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チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅。 ムンバイの中心駅である。 家族で鉄道の旅をした人が、二度と乗りたくなかったと言っていた。私はかなり憧れるが、それでも現地人と狭い部屋に閉じ込められたら辛いかもしれない。 市庁舎のすぐ近くであり、とても賑わっていたが、鉄道とは無関係に人が多かったような気がする。 |
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インド門 イギリスの支配下時代に作られたもの。イギリスから見たらここがインドの始まりのような意味もあったのだろう。第一次世界大戦の慰霊施設であり、フランスの凱旋門にも通じるものがある。 インドは英語が通じ、イギリス風の文化が根強く残っている。韓国や中国との関係を見る度に、イギリスが上手かったのか、中韓が特別なのか、日本が悪かったのかよくわからなくなる。 |
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二階建てバスは、色といい形といいロンドンバスそのものであるが、劣化コピー版を見ているような気がする。市内は高架鉄道の建設も続いており、ムンバイの空港と市内が近くなる日が間もなくやってくる。 |