●鹿島臨港線(鹿島臨海鉄道)
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鹿島臨港鉄道は、大洗鹿島線では旅客輸送を、臨港線で貨物輸送を行っている。元々は貨物輸送の為に設立された会社でり、臨港線がオリジナルの路線である。その貨物線でも旅客営業していた事があった。1978年(昭和53年)から1983年(昭和58年)までである。運行本数は3往復/日。住宅もないコンビナートを行く路線でもあり、乗客がゼロの日もあったそうだ。成田空港までの燃料輸送に対する、地元への見返りという特殊事情が背景にあった。その為、燃料輸送の廃止とともに、旅客列車の運行も廃止された。
鹿島スタジアム駅。鹿島臨海鉄道の起点駅でありながら、臨時駅。サッカーの試合も無いのに乗車券を買い求める人々が長蛇の列を作っている。なんとか手に入れた切符は「神栖」行き。普段は旅客列車の走らない臨港線の駅までの往復乗車券である。鹿島臨海鉄道では時々、このようなイベントを行っている。大洗方面から3両編成でやってきた列車の後部2両が切り離されて、この臨時列車となった。満員であったが、辛うじて最後部が見れる位置に陣取る事が出来た。10時50分出発。ススキが一面に生い茂る荒地の向こうに広がるコンビナートという景色の中を走り出した。鹿島宇宙技術の巨大アンテナも印象的であった。
神栖駅は貨物駅であるが、車両基地もあり、大洗鹿島線の旅客車両も整備中であった。右手に朽ちつつある「マリンライナーはまなす」が留置されていた。かつて有料の優等列車として使用されていた車両であり、サロンも持つ豪華列車であったが、優等列車廃止以降、イベントに使われる事もあったが近年は出番が無い。能登鉄道の「のと恋路号」が同じような境遇の後に廃車になった事を思い出した。これらの車両が登場したのはバブル経済時代であった。
神栖駅にホーム跡はあるが列車から降りる事は出来ない。また、ホームの残る側線は東日本大震災の影響で線路が飴のように曲がったままになっている。入線する事も出来ないのだ。11時14分に折り返し、11時30分には鹿島スタジアム駅に戻ってきた。「鹿嶋まつり」を見学して、車で臨港線を巡る。神栖駅は市立公園の中にあったが、ホームに入る事は出来ない。臨時列車はここで折り返したが、臨港線はまだ続き、かつての旅客列車もこの先まで走っていた。コンビナート内は生活感が全く無く、ここに旅客列車を走らせても乗客がいなかったのはよく判る。ただし、車の交通量は決して少なくないが、銚子方面への通過車両だろう。
やがて、かつての旅客列車の終点の鹿島港南駅跡に差し掛かるが、駅の跡は何一つ残っていなかった。線路はさらに延びて、コンビナート内に掘り込まれた港をグルリと周るように続いている。工場内に伸びる側線もあるが、朽ちていたり、ロープが張られていたりしており、この臨港貨物線も決して盛況ではない事が感じられる。工場の中を走ってきたが、やがて海に出てしまい、線路もそこで終わっていた。終点奥野谷浜駅である。貨物列車は1往復/日との事で、いつまで走れるのだろうか・・・。
鹿島臨海鉄道の起点は普段は営業していない臨時駅であるが、この規格列車の切符はこの駅でしか販売していない。枚数に限りがあるので、切符を求める人が大勢集まってきていた。 |
大洗鹿島線には鹿島臨港鉄道が敷設した踏切は存在しない。臨港線だけの景色である。 | |
神栖駅跡は公園の中にあるが、公園にも人気がなく、ホームに入る事も出来ない。線路は東日本大震災から復旧していない。 被災した線路の先に「マリンライナーはまなす」が留置していた。 神之池駅跡。この駅は臨港線が旅客輸送を行っていた時点で既に廃止されていた。パターゴルフ場が広がっていたがここにも人気は無かった。 |
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左がかつての旅客列車の終点、鹿島港南駅があった所、右は旅客列車の回送列車が折り返していた知手駅の跡。 | |
工場への側線跡は、臨港地区では何処でも見られる光景。しかし本線の終点はまだ現役である。 | |