西堀 その1

西堀は、明暦元年(1655年)、長岡藩の命により新潟の町が現在の場所に移転した時に、その都市計画によって造られた堀だそうです。信濃川に並行したこの堀は、東堀とともに新潟の町を貫く主要な堀であり、埋め立てられたとあとも、道路に"堀"の名を遺しています。
堀にはそれぞれ違った雰囲気をもっていたようですが、中でも西堀は、かっての「水の都」新潟を代表するのにふさわしい堀だったといいます。両岸は石垣でしっかりと固められ、柳や桜が上から下の方までとぎれることなく植えられていたそうです。
昭和30年代に入って、新潟の堀が次々と埋め立てられて行くなかで、西堀は最後までがんばっていました。しかし、昭和39年の新潟国体を前に、とうとう埋め立てられて道路になってしまいました。道路になった西堀の開通式は、国体のために新潟を訪れていた天皇、皇后両陛下のお車の通過だったということです。
せめて西堀ぐらいは残しておいた方がよかったのにと、父が言っていました。西堀をみた記憶のない私ですが、写真をみたり話を聞いたりしていると、市の中心部に堀があるのも悪くないと思えてきます。

 

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昭和29年(1954年)頃 新潟市西堀前通4付近    Photo by Keiichirou Watanabe.

上の写真は、西堀と鍛冶小路の交差点から、ちょっと上(かみ)の方で撮った写真です。西堀の雰囲気がよくでているのではないでしょうか。

堀の対岸にみえる階段のようなものは、"こうど"と呼ばれる洗い場で、祖母は実際にここで鍋、釜を洗ったそうです。
木の陰でよく分かりませんが、堀の向こうにある高い建物は中村写真館です。

 

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1954年頃 新潟市西堀前通4付近    Photo by Keiichirou Watanabe.

お堀端で一休み?

 

母に、「西堀は、船が通ったの?」と、聞いてみました。
西堀を、野菜売りや下肥を運ぶ船が通るのをよく見かけたそうです。橋の下をくぐるときは、ちょっとした見ものでした。橋の手前で竿を一突きし、さっと船の鞆に身を伏せてくぐったそうです。

 

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西堀、東堀の上手

昭和29年(1954年)の地図

西堀通三にあるは、女子工芸学校は、現在の青稜高校です。
地図をみるとよくわかりますが、西堀に沿って北側にはずらりとお寺が並んでいます。これはいまでも変わりがありません。寺町と呼ばれる所以です。
これらの寺院は歴史が古く、戦国末期から江戸時代初期にかけて、北陸や信州から移ってきたものが多いそうです。
母は結婚前、西堀前通4に住んでいました。お盆の頃になると、お墓参りに来る家族連れや、お供えの花売りでお堀端が賑わったそうです。夕方になると、提灯をぶら下げた着物や浴衣姿の子供たちが行き交い、ちょっと幻想的な美しさだったそうです。

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