蔵所堀と学校町界隈 その1

現在の新潟市役所裏から関屋本村までの国道116号線は、かっての蔵所堀を埋め立てて造成したところです。
蔵所堀は、関屋本村にあった長岡藩の蔵と信濃川を結ぶ運河だったようです。
新潟の中心部にあった西堀、東堀のように地名に残っているわけでもなく、若い人たちの中には、蔵所堀の名を聞いたことのない人も多いことでしょう。

現在の学校町三番町のバス停付近から下手を望む

昭和30年 (1955年)     新潟市白山浦    Photo by Keiichirou Watanabe

昭和30年頃の話ですが、県庁裏から鏡淵小学校(当時は現在の下越婦人会館のあたりにあった。)付近までは、堀の幅が比較的広く10m位あったそうです。上の方に行くと、所々が埋め立てられて、かなり狭いところもあったそうです。堀の両側には道路がありました。白山浦側は堀が上に向かって右へ折れたあたりから暫くのあいだ家が立ち並んで道路がとぎれています。上の写真はちょうど道路がとぎれているあたりから、下手向かって撮影したものです。奥に新潟大学医学部の建物が見えます。
蔵所堀と宮浦堀は白山通の下を暗渠でつながっていたようです。
蔵所堀の県庁裏付近には、堀の土手をちょっとくだった所から、堀に向かって張り出して"ことりや"という居酒屋がありました。県庁関連の客で結構賑わい、父もしばしば利用したそうです。
 

昭和29年(1954年)の新潟市内地図より

私の両親は、結婚後しばらくの間、白山浦に住んでいました。家のすぐそばに蔵所堀がありました。すでに堀は生活廃水の流れ込むどぶ川になっていました。
水を流すためには人為的な力をくわえてやる必要があり、昭和36年7月5日付けの「市政だより」では、都市排水用の蔵所堀ポンプ上の一部が、白山グランド裏の蔵所堀出口に完成したと伝えています。
 

自宅の前にて。

昭和33年1月 (1958年)     新潟市白山浦    Photo by Keiichirou Watanabe

住んでいたあたりの堀の対岸に小さな天然ガスのガス井戸があり、そのガスを使った銭湯がありました。ガスを汲み上げるポンプの音と排水管から流れ出る水の音がうるさかったそうです。
 

このあたりの対岸は一部が埋め立てられて幅がせまくなっていた。

昭和33年 (1958年)     新潟市白山浦    Photo by Keiichirou Watanabe

上の写真で、右側に写っているのが、ガス井戸の排水管です。
蔵所堀の先端(念仏寺も前)は、昭和30年頃は荒れ地のようになっていて、下に向かって水たまりがだんだんと溜まって流れになっていたそうです。父が工業学校に通っていたころは、蔵所堀の先に暗渠があって、そこから水がでていたような記憶があると言っていました。

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