敗戦後の混乱、物資の欠乏 | |||
昭和20年9月10日になって、ようやく二学期の授業が開始された。、幸い工業関係の教科、敗戦後も直接的な影響を受けることも少なく、従来の教科書もノートもそのまま使うことができた。 戦災による工場の焼失、燃料、原材料の枯渇により、工業界はほとんどの生産がストップした。それでも昭和20年は本土決戦に備えた軍の蓄積した物資の放出、横流しで何とか過ごすことができたが、本当の混乱と欠乏は昭和21年になってからだった。 |
|||
第4回卒業式 | |||
このような状況の中で、昭和21年3月、第4回卒業式が行われた。4年生として卒業したこの生徒たちは、戦争の被害を最も強く受けていた。 卒業したものの就職先もなく、先生が八方手を尽くして探しても、卒業式までに生徒の半分は就職先が決まっていなかった。 |
|||
混迷の数年 | |||
昭和20年から数年間は職員の異動が激しかった。敗戦を機に教職を去ったり、他校へ栄転された人もあったが、戦地からの復員、外地からの引き上げ、閉鎖された工場の従業員から勤めるようになった人など、平常の2〜3倍の激しさだった。また激しいインフレ、教員の給与体系の混乱が、その傾向に拍車をかけた。 しかしこの苦難の時代に耐えて残った職員は、敗戦の混乱から立ち直ってゆく原動力になった。 |
|||
学制改革 | |||
敗戦と同時に教育制度が抜本的に改革され、昭和21年に6・3・3・4の新学制が決定された。教育内容も一変し、教師は慣れない教育専門語にとまどいながら、復興の意気で取り組んだ。しかし落ち着くまでにはかなりの時間がかかり、この前後の2、3年は生徒編成に変化が多く、混乱の時期でもあった。 昭和22年4月に新制中学が発足したが、準備が間に合わず、大部分が旧制の中学に間借りした。新潟工業にも5月に市立第一中学(現 関屋中学)がおかれた。 新潟工業は一年生が募集停止でいなかったので、2年生と3年生が新潟工業学校併設中学に移った。 昭和23年3月に旧制第五回卒業式が行われた。(大部分が旧制5年生で卒業したが、42名が残って新制高校3年生になった。)また、併設中学の3年生も卒業し、大部分は新制高校になった新潟工業へ進学した。 |
|||
昭和23年4月に新制高校が発足し、名前も新潟工業高等学校と改められた。 このときの校舎には新制高校3年生、2年生、1年生に加え、併設中学3年生、市立第一中学2年生、一年生というややこしい構成だった。 昭和24年3月に新制第一回、旧制第六回の卒業式が行われ、旧制は最後の卒業式であった。旧制第六回の卒業生は新制高校の2年生にあたるので、旧制5年間で卒業したものを除いた残りは進級して新制高校3年生になった。併設中学3年生も大部分が工業高校に進学し、ようやく併設が解消された。 |
|||
|
|||
昭和29年(1954年) 渡辺 馨一郎 撮影 |
|||
土木科、建築科の設立 | |||
昭和24年4月には土木科、建築科が新設され現在の5科がそろった。当時土木科、建築科は高田工業と新発田商工(現新発田南高校)にあるだけで、建設関係の技術者が極端に不足していたためだった。 | |||
|
|||
昭和28年(1953年) 渡辺 馨一郎 撮影 |
|||
教師として就任 | |||
渡辺馨一郎は、昭和23年4月、新制新潟工業高校に化学科教師として赴任した。新制新潟工業高校の誕生と同時であり、新制の最初の1年生の授業も受け持った。 このころは世の中がまだ混乱しており、先生の出入りがはげしく、先生の確保に校長はずいぶんと苦労したようだ。インフレで民間はどんどん給料があがるが、公務員は比較的低かった。卒業生の初任給が先生の給料よりも高くなり、給料が原因で民間へ流れた先生も多かったようだ。 そんな中で米沢工専を卒業後、秋山校長に打診をしたところ、承諾された。(当時は採用はほとんど校長の裁量だったようだ。) |
|||
|
|||
昭和25年(1950年)10月 渡辺 馨一郎 撮影 |
|||
設備の増強 | |||
世の中が本当に落ち着いてきたのは、昭和30年近くになってからだろう。 | |||
戦後の混乱も、昭和25〜26年頃には一応最悪の事態を脱し、統制も次々にとかれ、物資が比較的手に入りやすくなった。しかし肝心の実験、実習設備は戦前の旧式のままだった。設備の更新には莫大な経費がかかるので、通常の県予算では手がでなかった。 | |||
昭和26年に産業教育振興法が成立し、実習に必要な設備に国庫補助がつくようになり、27年に各科に新しい機械が入り始め、ようやく設備の充実と近代化の時代に入った。 | |||
|
|||
昭和27年(1952年) 渡辺 馨一郎 撮影 |
|||
昭和28年には理科教育振興法が成立し、物理、化学の設備にも補助金がつくようになった。 この2法の施行で新潟工業高校の実験設備は一新された。 さらに昭和30年には学校独自の学校設備拡充5カ年計画がたてられ、次々に各科の施設、設備を増強した。 |
|||
|
|||
昭和29年(1954年) 渡辺 馨一郎 撮影 |
|||
昭和35年には第二次5カ年計画が始まった。戦後のベビーブーム世代(現在の団塊の世代)が高校入学の時期にさしかかり、募集する生徒数が増加し、敷地が狭くなったので、浜手の砂丘地を削って造成した。また工業化の施設ばかりでなく、図書館、社会科教室、視聴覚室などが建てられた。 こうして学校の諸設備は一応充足され、戦前に比べて約2倍の面積に増大した。 |
|||
|
|||
昭和38年(1963年)頃 渡辺 馨一郎 撮影 |
|||
秋山校長の勇退 | |||
昭和31年3月、秋山校長が退職をされた。秋山校長は学校創立以来、校長として在職17年間にわたり、校舎建築、戦争、復興と学校の歴史そのものを歩んでこられた。まれにみる熱血の人で、ワンマンであったが、常に職員、生徒の先頭に立ち、その実行力にはだれも頭があがらなかった。 退職後も学校の近くに居をかまえられ、毎日のように学校を訪れて校庭をを散歩し、生徒のクラブ活動を笑顔で見守ってこられたが、わずか2年後の昭和33年6月、病魔に倒れ、不帰の客となられた。 その功績をたたえる胸像は、今も学校を見守っている。 |
|||
|
|||
昭和34年(1959年) 渡辺 馨一郎 撮影 |
|||
参考文献: 県立新潟工業高等学校三十年史 |