監督:大林宣彦 主演:黒木瞳 片岡鶴太郎
久々の全国規模での劇場公開となった大林映画「SADA」は様々な話題を振りまきながら予定どおり本日(4/11)公開された。(実は奥山親子が
松竹から追放されたことで一時、公開が危ぶまれたらしい?。)
OBsである自分は定例どおり公開初日に見に行ったが、案の定というか、
やっぱりというか客の入りは良くなかった。まあ特別なものは除いては今の邦画界では仕方がないことだろう。(この「SADA」も一応は”ベルリン映画祭
国際批評家賞受賞”という冠があり特別な映画なのだが....)
映画本編の方は今まで何作か作られてきた”阿部定”を主人公としたものである。
(他に宮下順子主演の「実録 阿部定」や大島渚監督作の「愛のコリーダ」などが
有名。それから晩年の本人が登場する石井輝男監督の「明治大正昭和 猟奇女犯罪史」とか。)
阿部定と言えばご存じの通り、昭和初期という不安定な時代に情欲に溺れ、最後にはその男の愛しさからか男を絞殺した後、局部を切り落とし、それを持って逃走...という事件を起こした稀代の淫女として有名である。
が、この「SADA」は事件そのものに焦点を当てることよりもそれに至るまでの
顛末を、特に定にはハンセン氏病に冒された初恋の人がいたという新事実に
注目している点が興味深いところである。
またこの定を昨年の「失楽園」以来一躍トップ女優となった黒木瞳が、そして定の愛人役を片岡鶴太郎が演じたこともマスコミ的には話題となった。
特に定役は元々あの葉月里緒菜が演ずる予定であったが、スケジュールの都合で降板したということで黒木瞳が抜てきされたのだが予想以上に定役にハマっていたように自分としては思えた。
そして今回新登場の定の初恋の人岡田を演じたのが石井隆の映画などでキレた演技が印象的な椎名桔平である。
が、しかし定の初恋の人であるという設定と同時にハンセン氏病患者であることから冒頭ぐらいしか登場はしなかった。医学生であった岡田はハンセン氏病の恐ろしさと世間からの偏見を充分心得ているだけに(最近までハンセン氏病は完全隔離が鉄則であり、伝染するとまで思われていた......この件は熊井啓監督「愛する」が詳しいのでそちらを参考されたし)自らを隔離しようと定のほのかな恋心を遮るように一方的に別れようとする。
定にはそのような事情は知る由もないため(知っていても、あまりにもその不幸な現実を理解するには幼すぎた?)この別れがどうしても納得できない。その定をなだめるように岡田は「心はキミ(定)のものだよ」と自分のメスで心を切り取る仕草を見せ永遠の別れを告げる。(このメスが後半への伏線となっている。)
この別れのシーンが、この映画の最も象徴的なものであり大林映画の大林映画らしいシーンだ。
この岡田の存在が定の理想(トラウマ?)へとなっていくのが納得出来るものとなっていた。
定は岡田との別れの後、芸者から(どうせ最後は男に抱かれるのだからと)娼婦にまで身を落としていくのだが、それはまるで岡田の存在を消し去る為のようで痛々しい。
しかし、それも運命の人”喜久本辰蔵”と出会ったことで定の心の中では岡田の存在よりも辰蔵の存在の比重が大きくなっていく。それは岡田から得た純粋な愛とともに今まで自分の体を通り過ぎていった男から刻みつかれた爛れた性愛のバランスとの上に成り立った微妙なものであり、辰蔵と宿を転々としながら情事にふける定にはもはや男なしでは生きられない女へと変貌していたのである。特に所用で宿を辰蔵が留守にした時などはほとんど半狂乱であったようで、この時の定にはもう岡田と出会った時の姿は微塵もない。
正に淫女という感じで、我々一般が阿部定にもつ印象そのものに描かれていた。
しかし、だからあのような事件を起こしたのだという短絡的な結論をこの映画は導いているのではなく、辰蔵への愛しさ、しいては辰蔵の向こうに垣間みれる不幸な岡田への愛があのような行為を定に行わせたと思えた。特にラストシーンの現代の(生きているかもしれない)阿部定が、岡田が隔離されていると思われる瀬戸内の島を見つめている後ろ姿に全て集約されていたように思える。
それは”真実の愛”を一生思い続け求め続けた一人の女が確かにそこにはいたと言っているかのようだった。
阿部定という人は結果的に不幸な人生を歩んでしまったが、どこにでもいる普通な女であったことがこの作品でよくわかった。
ただ人より独占欲や占有欲が強かっただけ。また不景気と戦争になだれ込もうとする不幸な時代に、たまたまセンセーショナルに扱われただけのことなのだ。
大林監督が言うように「ここに”私”がいて”あなた”がいる。そして”私”と”あなた”が深く強く結びつけたいが故の”殺人”だった。あのころの”殺人”の中にも人間の顔があった。しかし現代の殺すほうにも殺されるほうにも人間の顔がない”通り魔殺人”とは異なっている。」という意見には全く同感である。現代もあの頃と比べてあまりにも類似点の多い時代であるが毎日報道される事件は、なぜだと首を傾げるものばかりで暗い気持ちになる。理解不能、同情不能であることはもちろん最近の少年犯罪の仮名報道がよりいっそうの”顔のない犯罪”を広めている。
またオウムによる集団犯罪は責任の広範囲化とともにその所在が薄められていくことでここでも”顔のない犯罪”が成り立ってしまっている。
こう考えると現代の方が、あの頃よりもずっと不幸であると言えるかもしれない。
大林監督の映画的手法について
この映画には大林監督が今まで培かってきた技法が満載であった。
モノクロとカラーの併用、コマ送り、コマ落とし、サイレント映画風メイクアップなど今まで大林映画で垣間みられた実験的手法が多く使われた。
この点がこの映画についての評判をもうひとつのものにしているようだが、自分としては実験的手法が行われた今までの作品の中で一番の成功例だと確信している。
尾道3部作に見られる叙情的な部分と「HOUSE」や初期の自主映画の実験的部分がバランス良く成り立った大林映画の集大成とも言える作品であったと言え、一連の”阿部定映画”以外の部分でもっと評価されてしかるべきである。
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82点
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