三高歌集月見草大正八年 岡本扇一 作詞
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1 紅萌ゆる岡の上 夕月淡く照らす頃 戀に泣く子は唯一人 吉田の山をさまよひぬ |
くれないもゆるおかのうえ ゆうづきあわくてらすころ こいになくこはただひとり よしだのやまをさまよいぬ |
2 折から山の静けさを 破りてひびくマルサスの 挽歌の聞こゆ来て見れば 此処に一人の乙女あり |
おりからやまのしずけさを やぶりてひびくマルサスの ばんかのきこゆきてみれば ここにひとりのおとめあり |
3 月は東の空に出で 曠野の果ての月見草 一人咲くべき戀の夜に 可憐の乙女何を泣く |
つきはひがしのそらにいで こうやのはてのつきみそう ひとりさくべきこいのよに かれんのおとめなにをなく |
4 思ひぞ出づる去年の夏 三津が浜邊の夕月に 末を誓ひしその君は 花の都に出で立ちぬ |
おもいぞいづるこぞのなつ みつがはまべのゆうづきに すえをちかいしそのきみは はなのみやこにいでたちぬ |
5 戀知り初めし雛鳥は 乙女心の涯もなく 帰らぬ君を待ちつゝも 浜邊の月に泣きたりき |
こいしりそめしひなどりは おとめごころのはてもなく かえらぬきみをまちつつも はまべのつきになきたりき |
6 待ちにし甲斐も荒波の 砕けて散りぬその君は 學びの路にいとすぎて 病の床に打ち伏しぬ |
まちにしかいもあらなみの くだけてちりぬそのきみは まなびのみちにいとすぎて やまいのとこにうちふしぬ |
7 神に祈りし甲斐もなく 佛に泣きし甲斐もなく 嗚呼その君はその君は 永久の旅路に死の蔭に |
かみにいのりしかいもなく ほとけになきしかいもなく ああそのきみはそのきみは とわのたびじにしのかげに |
8 君にと投げしこの腕 君にと梳きし黒髪も 今將此處に何かせん 戀しの君は今はなし |
きみにとなげしこのかいな きみにとすきしくろかみも いままたここになにかせん こいしのきみはいまはなし |
9 取り残されし乙女子は 京に上りて東の 御空に月の出づる頃 君逍遙の跡に泣く |
とりのこされしおとめごは きょうにのぼりてひむがしの みそらにつきのいづるころ きみしょうようのあとになく |
10 げにもうたての君が身よ 戀に破れしかげろふの 其にもまして堪へがたき 涙は如何に誘ふらん |
げにもうたてのきみがみよ こいにやぶれしかげろうの それにもましてたえがたき なみだはいかにさそうらん |
11 されど乙女子戀の子よ 君永劫の死に去れど 戀には朽ちぬ命あり うましき戀に君よ泣け |
されどおとめごこいのこよ きみえいごうのしにされど こいにはくちぬいのちあり うましきこいにきみよなけ |
今田英作が「寮歌月見草の由来」を残している(同窓会報7(1955))ので、以下に掲載する。
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この歌が作られて一、二年経った大正八、九年頃、全国津々浦々の若い男女の間に盛んに歌われたのがこの歌である。未だラジオもない時分で別にレコードに吹き込まれた訳でもないのに、自然に口から口へと伝わって今の流行歌謡何のものかは旋風のように全国を風靡したが、其れはこの歌の持つメロディーと、歌の物語の哀れさとに第一次大戦後の人々の胸を深く打つものがあったものと思われる。
この歌が作られたのは大正八年の四月の対一高戦前の野球部合宿でのことで、当時捕手をつとめていた一部の文科の岡本扇一君の作である。<中略>
この猛練習期間の多分日曜日ででもあったと思われるが、場所は三高東門の南の方にあった教会の、北隣の野球部の合宿の一室、岡本扇一君初め宇津木君、小生、その他には誰がいたかはっきりせぬが歌の調子から考えると石橋嘉一郎君もいたかも知れぬ。また勝島君や先輩の前田和一郎氏なども一役買ったのかも知れぬ。寝ころびながら話している内に自分と廣島一中時代の同窓で三高に入って野球部に関係していたY君のロマンスの話が出た。結局このロマンスが歌になることになる。Y君は大投手として有名だった折田氏の助手として二年間松山中学にコーチに行ったのだったが、その時Y君は松山の海岸の三津ケ浜に下宿していたが、その下宿の隣に非常に美しい一人の乙女があった。Y君も色の白いどちらかといえば小柄の新派の俳優にも似つかわしい好男子であった。コーチから帰ってきたY君の話からこの事は野球部の皆の知るところとなっていた。
さすがは文科に籍を置く岡本君(神戸一中出)、日曜日のつれづれにひとつこのロマンスを歌にしようではないかと云い出して紙と鉛筆を持ってきた。先ずその乙女S子さんがY君をたずねてはるばる四国から京都へ出てきた事にしようと云うことになって「紅萌ゆる岡の上、夕月淡く照らす頃戀に泣く子は唯一人、吉田の山をさまよひぬ」と第一節が出来た。この歌は岡本扇一君の創作ではあるが、実は宇津木君や小生その他一、二の人の合作とも云えるもので、十節に余るその内容は相談しながら作ったものである。歌が出来て最後に歌曲はどうしようかと云う事になったときは、宇津木君がこれがいいと云ってあの曲譜(編者注:同窓会本部海堀昶理事によると、この曲は一高寮歌「紫淡くたそがるる」(明治41年)の流用)にしたことをはっきり覚えている。
最後に今は故人となったY君にお詫びをせねばならぬことは、この歌を作った大正八年にはY君は東大法科の一年生でピンピンしていたが、歌を作る便宜上生きていたのでは面白くないからY君は胸か何かを病んで亡き人になったことにしようじゃないかと簡単に決めて、美しき乙女が亡き人を慕って月のある晩月見草の咲く吉田山をさまよう態にした。しかしY君は卒業後この歌の主人公のS子さんと結婚してほんとに幸福な家庭生活を持ったが、ふとした仮りの病がもとで二、三年であの世の人となった。嗚呼何たることか、甚だ相済まぬような気がしているのは独り小生ばかりではあるまいと思う。(後略)(大正8・二部甲卒)