常山樓筆餘 卷一
湯淺常山
(『少年必讀日本文庫』第1編 博文館 1891.6.15)
※ 〔原文注記〕、(*入力者注記)。鈎括弧等は入力者が補充した。(2011.9)
解題(内藤耻叟)
序(赤松国鸞)
序(富士谷成章)
巻1
巻2
巻3
解題
※ 日本文庫編者による解題。
此書は備前岡山世臣常山先生湯淺元禎の著書也。先生字之祥、通稱新兵衛、未だ弱冠ならざるに江戸に於て業を服部南郭に受け、其同門ゥ子に交る。其聞く所を録して文會雜記と云ふ。家を嗣て要職に居り、方正獨立、身を忘れて國に殉ず。危言正論、忌諱する所なし。蓋之に因て罪を得て貶黜せられ、是より後杜レ門著レ書。天明元年沒す、年七十四。先生雅に武事を好み、古への名將勇士の事跡を集録して常山記談を編す。庫(*未詳)好んで左傳を讀む。左傳解、及兵革圖を著す。此書の如きも亦多く本朝の武事を論ず。引據鉛獅ノして議論識見あり。其爲人を想見仰慕するに足れり。今之を文庫中に收む。
常山樓筆餘序
常山樓筆餘者、備藩湯之祥所レ著也。湯氏世爲二備名臣一、而之祥爲レ人C廉端直、其忠君愛民之誠、觀二於生平所レ爲詩賦文章一而可レ見也。至二於博聞強記卓識明見一則當今列國士大夫蓋鮮二其比一焉。備大國也。其人才亦不レ爲レ不レ多、然以三余所二聞見一言レ之、先有二熊澤子(*注─熊沢蕃山)一、今乃湯子、是其杰然(*注─傑然)者也。余嘗竊謂、曰仁曰文、曰先王之ヘ、曰仲尼之道、其道雖二爾異一、均レ之謂二治國安民之術一已。丈夫不レ爲則已、苟讀レ書學レ古、而無二治レ國安レ民之志一斯二之百家衆技之流一、碌々乎鄙哉。君子不レ取焉。世之學者、誰不レ讀二六經子史一、誰不レ述二詩賦文章一。至三與レ之論-二説吾
大邦古今事體、民俗好尚一、往往鉗レ口、而不レ能レ出二一語一。是無レ它、其志不レ在二於治國安民一也。傳曰、齊二其政一不レ易二其俗一。吾邦人欲下治二吾國家一安中吾人民上、而不レ知二其邦俗事體一、安能有レ爲哉。讀二其書一期レ知二其志一。余讀二筆餘一而u知四湯子所-三以爲二湯子一云。
或曰、甚矣子之賢二湯子一也。湯子誠賢、然何遽與二熊澤子一竝稱也。熊澤子事業之盛、恐非三湯子所二得而望一也。曰越哉子之言。何見之遲。古人有レ云、譬二之雁聲一也。雝-二々乎春一而唳-二々乎秋一何也。時使レ之然。且夫三脊之茅、可三以藉二欝鬯一、以レ之作レ羹、則藜藿之不レ如矣。百莖之蓍、可三以供二占筮一、以レ之樹レ籬、則杞棘之不レ如矣。唯在二其所一レ遇爾。若夫湯子詩賦文章之美、則實非三熊澤子所二得而望一也。雖レ然此固屬二文藝末伎一、其在二熊澤子一亦何傷。迺在二湯子一安知レ非二不幸而然一哉。要レ之二子易レ地皆然。余雖レ汚亦不レ敢阿一レ所レ好。識者或味二乎余言一焉。
安永甲午孟春
播磨赤松鴻(*滄州赤松国鸞)撰
常山樓筆餘序
備前の高田維亨、くによりのぼりもてきて、ふところよりさうしひとつをひきいでゝ、しめしていふ、「これは岡山の湯淺ぬしのつくれるふみなり。名を筆餘といふ。かのぬしぞこの序をこはむとするに、またくはいまだうるはしくもかきたてねば、かつ/〃\これをだにとて、なにがしにつけたり。『これはみつがひとつなり。のこりをば、今かきはてゝなむ、みすべき』とあり。」といふ。維亨かへりてのち、かたはしづゝみるに、大むねいにしへをひきて今をしるし、かしこをかよはしてこゝをあかせり。見きくことひろからず、思ふことくはしからざらむ人は、いかでかこのおもぶきをもて、このことわりをもしらむ。さて道々につけたるさだめ、くに/〃\にわたれるものがたりなど、めづらかにけふあることもおほかれば、いつゝかとのこりゆかしけれど、「かのぬし、これが序をおなじくははやくえばやと、うち/\にいへり。」と、維亨もいひいそめれば、「さはれ、かのぬしは、名たかくきゝおける人ぞかし。いまだそのおもてをしらねど、その名とそのいさをしとを、はやくいひつたへたり。さばかりの人のいはむこと、まさにおろかならむや。このふみをばむげにみねども、ありぬべし。ましてみつがひとつを見しをや。こと人のこはましかば、まづそのふみをよみはてゝぞ序はかくべし(*原文「かくまし」)。これをばたゞ序かきてのちにこそ、のこりをばみめ。」とて、いさゝかそのよしばかりをしるしおきて、三四日ばかりありて、維亨かへりく(*ママ)たるにつく。
明和九年(*1772年)七月
富士谷成章
常山樓筆餘 卷一
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吾日本の祖は、呉の太伯の末なりといふ事、もと晋書に載たり。太伯の日本に來りたまはざる事は、論を竢ず。然るに林春齋(*林鵞峰)、東國通鑑の序を著して、泰伯至コニシテ而基ヒス二我王迹ヲ一といはれし事、無稽の甚しき、日本の帝祖を誣と謂べし。神皇正統記に、昔日本は三韓と同種なるといふ書のありけるを、桓武天皇の御時に焚れしよし見へ(*ママ)たり。〔此頃又世に日韓は同域也といふ腐儒もありとかや、笑ふべし。─頭注〕
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日本紀に神武天皇乙卯の年、入吉備國行宮以居之、是曰高島宮、三年と見へたり。古事記には、吉備高島に、八年駐蹕と見へたり。今の高島の地ならんには、其島少くて、帝の師を駐蹕有べき所に非ず。島を去る事遠からぬ兒島の北浦に、宮浦といえる(*ママ)所あり。正しき證なしとはいへども、神武帝行宮の跡なるがゆへに、かくは名づけしにやといふ人あり。
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太古の時、陰陽の二神、矛を執て滄海を畫したまひし事、國史に見ゆ。又其矛を磤馭廬島の上に建て、天柱としたまひし事も見へたり。此島は今淡路島西南の隅に在て、俗猶存二其名一也と、私記に註せられたり。經略の地に矛を建たまひし事、太古の時、帝者の表なるべし。其後神功皇后新羅を伐たまひし時も、新羅王の門に矛をたてたまへる事、國史に載たり。又天孫筑紫を略したまひし時、日向の國高千穗二上峯に建させたまひし矛は、猶今の世に存せるといふ。高千穗の峰、今は世に霧島嶽といふ。此山に火井ありて、時々猛火發出るといふなり。神名式(*延喜式神名帳)に、日向國ゥ縣郡霧島神社といふ事見へたれば、きり島といへるも久しき名なるべし。極めて高山にて、鹿兒島に臨み、又西洋海をも見をろすとかや。其頂に天孫の建たまへる矛あり。禎(*筆者湯浅元禎)が方外の友、釋宜牧筑紫に游し時、其嶽に登りて見しに及しに、矛の秘(*必。矛の刃と柄を繋げる部分。)の長さ四尺餘もあるらん、黄金にて造れるにや、又鐵をもて造れるにかあらん、辨まふべくも非ず。地より二尺餘に至りて、鬼の面貌とおぼしき物を彫たるかと見ゆ。風雨に蟲ばみて(*ママ)審かならず。其の形數千年を經たるありさま、眞に神造といふ事、誣ゆべからず。其矛の刃は、盜賊の折たると土人いひ傳ふ。故に刃は存せず。又火井に陽焔の炎出て、石巖の赤壁なるよし、又其矛を土人は天の逆矛と名づけ稱すると、彼僧の詳に語たりき。此の矛も亦おのころしまに建たまひし天柱と仝じ御事なるべし。〔天孫の西陬に下りしは、もと外寇に備ん爲なるべければ、別て勇武を表せん爲にせられしならん。─頭注〕日本紀に日向襲の高千穗峯としるされし其襲といへるは、熊襲の國と、舊事紀に見へたり。されば日本の兵器に、矛より重きものあらじと覺ゆ。〔後世の武士、槍を以て武器の最も重きものとせしも、亦此遺風なり。─頭注〕又大己貴神(*大国主神)吾邦を細戈千足國(*くはしほこちたるくに)と名づけられし事もあり。矛といひ戈といひ、其名を異にすれども、其實大に異ならぬ物なるが故なるべし。棖の字を、爾雅に門兩旁木也といへり。順(*源順)和名抄に、ほこたちとよませたり。昔は遠き近きをいはず、道をあるく時は、ほこをつきて兵具とせり。然る間人の家に入ては、此ほこを妻戸にたてそへて置けるが、きずのつきける故に、それをかくさんとて、ほらたち〔ほこたち、其後語の轉ぜしなり。〕をしはじめたり。さればほらたちは、ほこたち也といふ事、もしほ艸(*月村斎宗碩『藻しほ草』)に見ゆ。ゥ臣に儀戈を賜事も、令に詳なり。此道路の武備なる事明なり。定家卿の明月記、寛喜二年(*1230年)、北條時氏朝臣下向の事をしるして、單葛直埀、夏毛騰、征矢を負て、然るべきカ從三百騎許にて、進發せられしが、小き馬に乘たる扈從を傍に從て、手戟をもたせられしよし見へたり。さらば、今のゥ侯士大夫の槍を從者して傍に持する事、戰國に始れるにはあらず、昔の遺風なるべし。戈矛槍戟、其形少く異なりといへども、相實は相遠からざる物なり。〔或人のいひしは、熊野十津川の土民、常に鎗を自ら持て、人家に行ときは、戸外にたて置て入るとかや。古の遺俗と覺ゆと語りし。〕
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吾邦を日本と稱する事、何れの時より始りたるや。史記夏本記(*ママ)の正義に括地志(*李泰『括地志』)を援て、百濟國西渤海中有二大島一、十五所皆邑落有二人居一。屬二百濟一。又倭國、武皇后改曰二日本國一。在二百濟南一。といへり。又東國通鑑に新羅文武王、十八年八月、倭國更號二日本一、自言近二日所一レ出以爲レ名。と見へたり。新羅の文武王十年は、唐の高宗咸亨元年(*670年)にて、吾邦天智天皇の十年なり。史記の注に載る處(*ママ)の武皇后は、則天武后の事也。武后の吾邦の名を改られし事、年月をしるさず。武后の元年は、天武天皇の御時に當れり。されば、東國通鑑に見へし所は、尚武后より前の事にて、吾邦の史に日本と始稱せられしは、猶それより前の事なるべきにや。又唐書の東夷傳、咸亨元年遣レ使賀レ平二高麗一。後稍習二夏音一、惡二倭名一、更號二日本一。使者自言、國近二日所一レ出以爲レ名。(*原文「以レ爲名。」)と見へたり。大日本磐余彦尊と申奉るは、神武天皇の御事にておはしませば、日本といひし事、太古よりの事にや。然ども異國の書に皆倭國とのみ記載して、唐より後の書に日本と記せしなれば、異國にて吾邦を古は倭といひ、後に日本とはいひし(*原文「いし」)なり。又吾邦の古き書に、日のもとゝいふ事を見へざるにや、さらば改號ありし事も有るにや。然ども、記載せる事を見ず。又日本磐余(*原文「盤余」)彦尊の御事を、やまといはれひこと稱し奉るも、日本紀撰られし時、倭の字をあらためて、日本の字を用ひられけんもしるべからず。昔より日本をもて吾邦を稱して、人々國號と思へり。異國の國號とは又異なる也。異國には其代々の開祖の君の興りたまへる地をもて、國號とせらる。但虞の如きは帝舜の氏たる故を以てなり。湯王の商を國號としたまへるは、湯の祖契始而商に封ぜられたまふ故に、商を以て稱したまへり。湯王の興業の地は亳(*原文「毫」。以下「亳」に改める。)なり。書經に朕載ムレ自レ亳と見へたり。湯王天下を有せたまふに及て、商と號せられ、湯王數世の孫盤庚、キを殷に遷したまふによりて、殷と號したまふ。これによりて、殷の湯王とも、後の世にて稱し申き。元の太祖は、朔北の地より興り、世祖南宋を平げて、天下一統しければ、易の大哉乾元の文をとりて、國號を大元と定められ、至哉坤元の義をとりて年號を至元といふと見へたり。明の太祖は(*原文「ば」)、始は呉を國號としたまひしが、後に易の大明終始の義をとりて、國號を大明と稱せらる。吾邦は異始(*異姓か。)の天子おはしまさゞる故に、今に至るまで、日本と稱す。異國天子の國號とは異なる也。
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吾邦冕旒(*原文「寃旒」)の制、いづれの御時にか始りぬらん。大甞會の御時めさせたまふ玉の冠は、應神天皇の御冠なり。後三條帝の御頭にめでたくあわせ(*ママ)たまへるといふ事、古事談に見へたれば、冕旒の制は應神天皇より猶さきの世に造り出されしと覺ゆ。されども、聖武天皇天平四年(*732年)正月始冕旒を着御有し由、日本紀にのせたれば、應神帝の御冠は、王仁來りし時造り出して奉り、其餘の服は、天下に始まれるにやあるべき。よくしれらん人にたづね問べし。
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異國の古、周の代に、士といひし者、吾邦今のゥ侯の國に稱する所の士といへるには、相似て同じからず。禮記の王制に、王者之祿爵を制するに、上士・中士・下士、凡三等といふ事、見へたり。唐の孔穎達は、士者事也と注し、皇熊皆云爲レ任二職事一といへり。詩經にキ人士といへる事あるを、孔穎達は士者男子行成之大稱也と注したり。禮の玉藻に、古之君子必佩レ玉といへるを、鄭玄注して君子は士已上なりといへり。されば論語に士、志二於道一而恥二惡衣惡食一者、未レ足二與議一也。と孔子のたまへり(*原文「のたゑり」)。周の兵制六十四井より長彀といひて、兵車一乘を出す。それにそひて(*ママ)、戎馬四匹、牛十二頭、甲士三人、歩卒七十二人を出す。此甲士といへるは、三人とも車上にあり。左は射を主どり、右は撃刺を主とし、中は御者とて、手づなを把れるなり。此故に射御を六藝の中にしたるなれば、鄭玄の士已上を君子といへるにて、此甲士をば君子といふべきなり。周の時、寓兵於農の制度なるが故に、此甲士といへるは、農に有て、軍の時は車に乘て、戰塲に臨むなり。これ周の代の士といへるは、農に耕すを事とし、今日本の士は祿を世々にして、耕を事とせざれば、同じからぬに似たり。然ども、擢られて位にあるにあらざれば、政に從ふ事を得ず。是を以て見るに、周の代の士と大に異なるにも非ず。孟子に、又周の制を擧て、上士・中士・下士三等有といへり。其下士といへるものは、與二庶人在レ官者一同レ祿(*原文「官一者同レ祿」)と見ゆ。此庶人在官者といふは、周禮に見へたる府史胥徒なり。王制には、ゥ侯の下士視二上農夫一、祿足レ代二其耕一也。中士倍二下士一、上士倍二中士一とも見へたり。下士は田百畝可レ食二九人一とも注したれば、中士は二百畝にて、十八人をくらはす(*原文「くらす」。以下同様に訂正。)べく、上士は四百畝なれば、三十六人をくらはすべき也。是は農民より出て仕へたる士なり。又大國三卿下大夫五人、上士二十七人とも見へたれば、士の數甚少くして、吾邦今の士とは同じからぬなり。王制は漢文帝の時に作れりともいへば、周の制必しも如此ありしにや。されども、孟子にも又三等には見へたり。周の世には、田祿を受て、天子の朝廷に仕へ、又ゥ侯の國に仕ふるも有なるべし。又祿なくて農に有て、田を耕し、事ある時、車に乘て出るもあるなるべし。齊の桓公管仲を用て、政を執らしめられしに、四民勿レ使二雜處一と管仲論じて、兵農をわかちし事、國語又管子にも詳に見へたり。これ侯國にて兵農わかれたる事、春秋の始の事なり。蘇子由(*蘇轍)がこれを論じて、農不レ知レ戰、而士不レ知レ稼。各治二其事一而食二其力一。兵以衛レ農、農以資レ兵といひしなり。即今吾邦ゥ侯の國の士と相同じければ、今の士の制は、管仲の制たるにてこそあれ。又桓公のゥ侯の會盟に、士無二世官一といふことあり。是は祿をば世々にすといへども、官は其才なければ任せざるをいふなり。是をもて見る時は、齊の國の士、皆祿を世々にしたるなれば、即今吾邦の士といふ者と同じき事をしるべきなり。春秋の末に至て、周の制大に變ぜしと覺し事、あまた左傳に見ゆ。戰國に及て、禮制盡敗れ、四海戰爭を事とす。蘇秦が魏襄王に説し詞に、武士二十萬、蒼頭(*雑兵)二十萬といふことあり。是日本國の武士といへるものと、名も實も相同じき者なるべし。又漢の世に材官(*弩兵)あり、南北軍あり。南北軍は禁衛の兵なり。是等を詳にせんは、事長ければ畧しつ。日本の古に、士といふ名はまた見ず。國史に丈夫をますらをとよみ、兵の字つはものとよみ、軍卒の字いくさびとなどよめる、貴賤殊なるべけれども、大抵士なるべきにや。〔兵士・衛士といふ名は令制に見ゆ。─頭注〕
神武天皇の御時、宇麻志麻治命の帥るを物部といひ、道臣命の帥るを來目部といふと、國史に見へたり。源氏物語桐壺の卷の河海抄(*四辻善成)に、物部氏遠祖天津麻呂兵を提げて、天孫の御前を奉る。仍其子孫ゥの物部を領して、武勇の道を掌る。其後勇者を物の部といひならはせるなりと見へたれば、是來目物部は、古の士の名なりと稱すべし。舒明天皇の御時に及て、來目・物部並稱せしかども、其後は物部のみ稱せり。物部は兵部の畧語にて兵器をとるの名、久目部は貢馬部にて馬を貢するの名にや有べき。〔貢馬部の説はうけがたし。久米は組と云ふに同じ。一際を一組と云ふ。─頭注〕大化二年新政の詔四條の中に、第四調貢に凡官長者中馬、毎一百戸一匹、若細馬、二百戸一匹。其買馬直者、一戸布一丈二尺。凡兵人身輙刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者改舊、毎二十戸一人、而五十戸一人以宛二ゥ司一。と見へたり。これ古の物部貢馬部の法の遺れるにて、兵を農に寓しられたる(*ママ)も、又見つべきなり。農工商賈(*原文「商賣」)、各其業わかれしは論なし、此民にも又良賤ありしと見ゆ。其良賤のわかりし(*ママ)は、神胤皇胤より出る民多き故なり。國史に景行天皇皇子七十餘人おはしまして、皆國郡に封じて、各其國にゆかしむ。故に諸國の別といふもの、即其別王の苗裔なり、といふ事見ゆ。皇胤とは此類をいふなり。兵士をキへ奉りて、警衛の士とし、邊塞の防人とす。農民の中より年少にして健なるを擇て奉る。其員額(*員數か。)は、延喜式に見へたり。又唐の制に傚て、軍團を置る。唐の太宗貞觀十年(*868年)に、天下に府を置事六百三十、折衝府と名づく。キ尉、左右果毅キ尉等の名あり。府に上中下ありて、人數べて四十萬人といへり。然ども皆これ今のゥ侯の國の士とは異なるものなり。
日本の軍團も人數の多少によりて、上中下三等に立られ、大毅領二千人一、少毅副領して二人あり。五百人已下の團には、毅一人あり。又古の法に傚て、五人爲レ伍といふより、くみあげて、十人を一火とし、五火を一隊とし、隊正これを掌る。二隊を旅とす。旅師一人是を掌る。百人のくみ頭也。二旅を挍とす、挍尉一人これを掌る。二百人のくみ頭なり。是皆農兵の制度なり。其詳なる事は令に見ゆ。天子不庭を征伐ある時は、兵滿二一萬人一以上、將軍一人、副將軍二人、軍監二人、軍曹・録事等あり。契符を用ひて兵を諸國より出せり。其詳なる事は、軍防令に見へたり。軍監・軍曹等は、士以上なるべし。それより以下は、農に寓するの兵にて、今の士といふものに異なり。
諸國より警衛に京に上る、これを兵士の上番と令に見ゆ。是即衛士なり。又或は大番ともいへり。三年にて代りて、其故クに帰る時、兵杖を解て返し奉りし事、式に見へたり。然るにいづれの時にか、其制亂れけん、故クに歸りても、猶兵杖を帶けるほどに、諸國に武士多くなりにけり。其子孫も又相傳、其又子孫大番に京に上れば、本國に歸りても、本所を經たる士とて、一等貴く稱しけるほどに、京に候せし所の稱を、猶人もいひければ、帶刀先生義賢、平山武者季重などいひしが是なり。亦唐の世、武官左右衛、左右驍衛、左右翊中カ將、左右武衛、左右領軍衛、左右監門衛、左右千牛衛等あり、又左右苧ム軍衛あり。是皆宮廷警衛の兵なり。日本にも其制に傚て、左右近衛各大將一人、左右衛門府督各一人、左右兵衛府督各一人、是皆禁衛の警固なり。職原抄(*北畠親房)ゥ書に詳なれば、こゝには畧しつ。
士をさむらひといひし事は、延喜の比よりや始まりけん。古今集東歌に、みさむらゐ、御笠と申を、宮城野の、木の下露は、雨にまされりと見えし(*ママ)、これは鎭守府將軍宮城野に狩せし時の歌にぞ有べき。其府の兵士を率て出たりし故に、みさむらゐ、みかさと申せとはいひしなり。〔令に、凡年八十に及て、篤疾者に侍一人、九十に二人、百歳に五人を給と見へたるは、侍といふ字さむらゐとよみぬれども、是は其人に侍養するをいふなれば、士とは心得べからず。〕〔帳内資人などはつかひ人と稱せり。─頭注〕源義家朝臣陸奧守たりしが、父ョ義より後三年の戰に至りて、武勇たくましかりければ、關東の弓箭とる者ども、皆畏從ひけり。士源平の家に屬する事を止むべき由、鳥鋳驍フ勅せられし事、神皇正統記に見へたれども、此法行はれず。すべて其比までは、弓箭とる者ども源平兩家に屬せしといへども、必しも君臣の禮あるには非ず、只武威に從ひ服したると見へたり。それより後、漸々に主從の名も起り、君臣の禮も定りけるとぞ見へたり。然ども源平の士といへる者、唯僕隸に近くして、弓箭をもて、其主君を守護する而已にして、献可替否の道(*善を勧め悪を止めさせる。君主を補佐すること。献替。)はなかりしと見ゆ。今の世の侯國の士とは、少く異なるものと覺へたり(*ママ)。其始はいづれの時にや、諸國より京に上る士を、上皇、東宮・ゥ親王にわかたれ、是皆士と稱したると見へたり。是に於て瀧口・北面等の名も出來にけり。
北面の士といふ事は、白河帝の御時より始れり。えふどもあまたありけり。爲俊・守重、童より千壽丸・今犬丸とて、切物(*きりもの)にて侍りけり。鳥鋳驍フ御時は、季範父子共近く仕れ奉り、傳奏する折も有けり。されども身のほどを計て、ふるまひけるに、此御時の北面の下カ共は殊の外に過分にて、公卿殿上人をも、物ともせず、下北面より上北面にうつり、上北面より殿上をゆるさるゝ者も有けり。其中に、少納言入道信西のもとに、師光・成景といふ者あり。成景は、京の者、小舍人わらは太カ丸といひけり。師光は、阿波國のいなか人なりけり。童より召ぐしけるが、兩人靱負の尉になさる。事にふれてさか/\しかりければ、院の御目にもかけまゐらせ(*原文「やいらせ」)て、召仕れけり。師光は左衛門の尉、成景は右衛門の尉とぞ申ける。信西平治の亂に討れし時、二人とも出家しけるが、其西光が子息近藤左衛門の尉師忠、きりものなりければ、けびゐし五位の尉まで成り、安元元年(*1175年)除目には、加賀守になると、源平盛衰記に見へたり。又西面の士といふ事は、後鳥鋳驍フ武藝を好ませたまひて、弓取りてよく、打物もちてしたゝかならんものを、めしつかはばやと、御尋有ければ、國々よりすゝみ參りぬ。此時に西面といふものを召置れける(*原文「召置れる」)よし、承久記に見へたり。唐の太宗左右屯營飛騎於玄武門で、又其中才力驍健善騎射する者百騎撰みたまひし事、吾邦北面の士に似たる樣にぞある。保元の時、鎭西八カ爲朝筑紫にて恣なりけるが、父爲義解官せらるゝ由を聞て、いそぎ上りけるに、大勢にてまかり上らん事、穩便ならずとて、かたの如く附從ふ兵ばかり召具しけるに、箭前拂須藤藤九カ家季、すきまかぞへの惡七別當、手取與次等二十八騎具したりといふ事、保元物語に見ゆ。此人々、今の士に大やう近き物なるべし。此頃より、ゥ國の武士といふもの多く成りぬるもしるべきなり。又高倉宮義を倡ひたまひし(*ママ)時、平家より兵を舘につかはしけるに、宮の士長兵衛・はさべの信連といふもの、宮の出たまひしあとにのこり留りて、「逃たりといはれん事、口おしく候べし。弓箭とりは、かりにも名こそ惜く候へ。」とて、散々に軍しける事、平家物語に見へて、信連をからめて繩をつけて、六波羅にゆかんといひしに、信連、「いひがひなきもの共哉。士ほどの者に、繩かくる事やある。况やゆぎゑの尉において、内侍所と申は、
天照大神(*原文「天照天神」)の御時、吾が御かたちを寫しとゞめ(*原文「寫しとめ」)おはします御鏡なり。さて弦袋といふは、其後の内侍所の御すがたをかたどれり。其故は、百官悉朝に召仕奉るといへども、衛府の官は、あさき位なれば、地下にして奉公致すたゞ人にまぎるべきによりて、内侍所の御すがたをまなびて、弦袋を給て、左右の兵衛の尉、赤皮、左右の衛門の尉、藍皮、これを以て士の品をしるべし。」といふ事も、盛衰記に見へ、又は八島の大臣を、信連耻しめし詞にも、「士品の者が、奉公私なければ、ゥ大夫に上り、それより殿上をゆるされ奉る事、其例これ多し(*原文「多と」)。」といふ事も見へたり。永仁年中に、伏見帝の北面の士、ゥ家の侍相集りて、北面・瀧口・布衣・判官以下、出仕進退の事ども、詳にしるして布衣記と名づく(*ママ)、今も傳りて、其時の有さま想見るべきものなり。瀧口は上指の外に的矢一手さしよるといふ事あり。是は禁中にて君の御ゆるされ有て、的をつかふまつるなりといふ事見ゆ。源三位ョ政の士競瀧口が、園城寺に赴く時の事を、平家物語にしるして、重代の鎧着て、二十四さしたる大中Kの矢をおひ、瀧口のこつ法忘れじと、的矢一手さし添たる、といふは、幾程なく討死せん事を期する身にも、其故實を忘れざる志、いと殊勝にこそ。是によりて、其世の士風も、おしてはかり知らるべきにや。ョ朝ク兵を起して、關東盡く靡從ひ、安コ帝西海に崩御まし/\て、後府を鎌倉に開き、海内兵馬の權をとりたまひ、文治元年(*1185年)十一月二十八日補-二任ゥ國平均ニ守護・地頭一、不レ論二權門勢家莊公一、可宛課兵糧〔段別(*原文「別段」)五升〕之由、今夜北條殿謁-二申藤經房ク中納言一。同二十八日、北條殿所レ被レ申之ゥ國守護・地頭兵糧米事、任二申請一被二仰下一之間、帥中納言被レ傳二勅於北條殿一。といふ事東鑑に見ゆ。北條殿とは、時政にて、此時京に有し(*ママ)なり。段別にといへば、租税の外に一段に五升を加斂(*原文「加歛」)して、士を養ふ俸祿にあてられしなり。是よりして、兵農はuわかれけれ。又和田小太カ義盛、士所の別當を命ぜられし事も、東鑑に見ゆ。實朝將軍の時に及て、北條家に仕ふる者に、士と稱するの名なかりしかば、有功の者、士に準ぜんことを相摸守義時請たりしかども、實朝ゆるさずして、カ等・カ從をもて稱したりけり。承久の事起し時、鎌倉にて、二位の尼軍出して、京へ攻上るべしと謀られし時の詞に、日本の士ども、昔は三年の大番とて、一期の大事と出たち、カ從・眷屬に至るまで是をはれとて上りしかども、力盡て下りし時は、手から蓑笠を首にかけ、歩はだしにて下りしを、故殿〔ョ朝〕のあわれませ玉ひて、三年を六月にすゞめて(*ママ)、分に隨て支配せられ、ゥ人たすかるやふにはからひ有しといはれし事も、承久記に見ゆ。嘉禎四年(*1238年)六月、爲二洛中警衛一、出二辻々一、可レ掛レ箭之由被レ定、仍被三充催-二促御家人等一。といふ事も東鑑に見ゆ。篝の武士といふ事、此頃よりぞ始れる。元亨(*原文「元享」)建武の後に於て遂に武士といへるものゥ國にみち/\ぬ。室町將軍の時、上下を分ちて、士に十一位といふ品ありけれども、海内亂爭の世、一人のこれを用たるもなく、兵農いよ/\分れて、其後封建の制定りければ、士皆祿を世々にする事に成ぬ。又古の源平の世にいへる士とは異なる事あり。古へ源平の世に、其君に社稷といふべき事なき世也。〔北條に從ふ者は、士とはいふ事を得ず。─頭注〕今の世にありて、ゥ侯の國に仕ふる士は、其君の知遇によりて、あらたに祿賜りて仕ふるは暫論ぜず、其侯國の君の開祖と共に、百戰に生長して、功名を遂げたる人の子孫、今其君に仕ふるなれば、其國の社稷と存亡を倶にすべきなり。よりて思ふに、異國漢より後、郡縣の時にあたりて、進士及第して仕へし人とは、大に異なるものなり。古今の移りかわれる、大抵思ひ見つべきもの、十が一二を爰にあげしるす。詳にせんは事長ければ畧しぬ。
- ○
弓箭とる者(*原文「弓」)は名こそ惜けれといへるは、源平の時の士の常の詞なり。されば其世の士は、名節を重ぜし事ども、古き物語に見へたり。平治の亂に、源義平待賢門にて、十七騎の兵をうちぐして平重盛と軍せられし事、平治物語に見ゆ。此人々名節を重じけるに、齋藤別當實盛は、後に平家に從ひて、北國の役に討死せしは、子細もや有けん。
古の士名節を重ずるのみにもあらず、其世の風俗文雅なる事共多かりけり。義家朝臣十二年の合戰の後、宇治殿へ參りて、戰の物語有けるを、大江匡房クよく/\聞て、器量はかしこき武士なれども、猶軍の道をばしらぬと、獨ごとにいはれけるを、カ等聞て、かゝる事をこそのたまひつれと語りければ、樣あらんとて、車に乘られける所にすゝみよりて、會釋せられけり。やがて弟子になりて、それより常に學問有けり。永保の合戰に、金澤の城を攻けるに、一行の雁飛去て、苅田の面におりんとしけるが、俄に驚てつらを亂して(*又は「亂りて」か。原文「亂れて」)、飛歸けるをあやしみて、くつばみをおさへて、「江帥(*原文「江師」)のヘたまへる事あり。夫軍野に伏時、飛雁行をやぶる。此野に伏たるなるべし。」と、手をわかちて三方をまく。案の如く、三百騎をかくしたりけり。亂合て戰ふに、武衡が軍やぶれしといふ事、古今著聞集に見ゆ。義家朝臣の學問せられしは、軍旅の法なり。されども素より文雅におはしける、「みちの國にまかりける時、なこその關にて、花のちりければ、
ふく風を、なこその關と、思へども、道もせに(*道も狭に)ちる、山櫻哉、
と千載集にのせられたり。又宗任・貞任を撃たまひし(*原文「たまへし」)時、貞任城のうしろより落けるに、八幡殿衣川に追たて攻ふせて、「きたなくうしろを見する物かな。しばし引かへせ。物いはん。」とて、「衣のたては、ほころびにけり」といへりけり。貞任しころをふりむけて、「年をへし、いとの亂れの、くるしさに」と付たりしかば、義家朝臣はげたる箭を、さしはづしたまひし(*原文「たまいし」)といふ事、著聞集に見ゆ。新羅三カ義光は、八幡殿の弟にておはせしが、笙に堪能なりけり。豐原時元が弟子なり。時秋いまだおさなかりけるに、時元は失にければ、大食入調曲をば、時秋には授けず、義光には慥にヘたり。陸奧守義家朝臣、永保年中に、武衡・家衡を攻ける時、義光は京に有てかの合戰の事を傳へ聞、いとま申て下らんとしけるに、御許しなかりければ、兵衛尉辭し申て、陣に弦袋をかけて馳下りけり。近江國鏡の宿につく。日花田のひとへかり衣に、袴着て、引入烏帽子したる男、おくれじとはせ來る。怪しく見れば、豐原時秋なりけり。只「御供仕るべし。」と許りぞいひける。義光「此度の下向、物さわがしき事にて馳下る也。不可然。」と、しきりに止らるゝを、きかずして、しゐて從ひて、終に足柄山まで來りけり。義光馬をひかへて、これまで伴たまへる事、其志淺からず。義光は所職を辭して、命をなき物にしてまかりむかへり。それには、是より歸たまへといふ。時秋猶聞す。其時義光馬より下りて、柴切はらひ、楯二枚しきて坐し、空穗より一紙の文書をとり出て(*原文「とり出つ」)、時秋に見せられけり。父時元が自筆にて書たる、大食調入調の曲譜なり。又笙は有やと時秋に問ければ、候とてふところよりとり出したりけり。其時是までしたひ來れる志、定て此料にて候らんとて、則授てけり。義光は「かゝる大事によりて、躬の安否しりがたし。萬が一安穩ならば、キの見參を期すべし。貴殿は豐原數代の樂工なり。我に志をおぼさば、速に歸京して、道を全ふせらるべし。」と、再三いひて、理に折れてのぼりけるといふ事も、同じ書に見たり。君子のコは風なりといへり。屬せし人々も、此に從ひてやしからぬ人々多く聞ゆ。源三位ョ政、高倉宮をすゝめ申て、平家をうしほろぼすべきとせられしに、事成ずして、軍敗れ、宇治の平等院にて自害の時、
むもれ木の、花さく事もなかりしに、身のなるはてぞ、悲しかりける、
是を最期の詞にて、劍に伏したまひし事、平家物語に見ゆ。絶命の辭これを勝れたりと、世にも申傳ふるなり。又戰に、伊賀・伊勢の兵ら、馬いかだをおし破られて、川水に流しに、ひをどし鎧着たる武者三人、あじろに流れかゝりて、浮びしづみ、
いせ武者は、みなひをどしの鎧きて、 うぢのあじろに、 かゝりける哉
とよめりけり。伊豆守仲綱は、源三位の嫡男にてぞありける。ョ政の歌に長ぜられしは、ゥ書にも多く見へ、世の人あまねくしれる所なれば、こゝには畧しつ。右大將ョ朝の蛭が島の配所より出て、關東を忽ちうち從へ、終に日本を掌握したまひし事、世の人よくしれる事なり。此君も又風雅にこそおはしましけれ。前大僧正慈圓、文にては思ふこと申しつくしがたき由、申つかはして侍ける返しに、
みちのくの、いはで忍ぶは、えぞしらぬ、書つくしてよ、つぼの石ぶみ
とよみてたまひし歌、新古今集にのせられたり。一谷の城を攻る時、梶原平次景高先がけせんとすゝみ行に、親の平三使をやりて、後陣のつゞくをまてといひしに、景高しばしひかへて、
物のふの、とり傳へたる梓弓、ひきては人の、かへすものかは、
といひて、生田城へかけ入ることも、平家物語に見へたり。武勇と風流と相兼たるといふべし。梶原梅のさかりなる(*一字欠。「を」か)、一枝折て箙にさして、敵の中へかけ入て、たゝかふ時も、ひく時も、梅は風にふかれて、さとちりければ、敵も味方(*「も」脱。)これを見て感じけり。城内よりよわゐ三十許りの男、馬には乘らず、弓脇にはさみ、進出て申けるは、本三位の中將殿の御使にて候。梅花さゝせたまひて候に申せと候。「こちたくも見ゆる物かな櫻狩」と、いひもおはらぬに、源太景季馬より飛おりて、「御返事申さん。」とて、「生どりとらんためと思へば」とぞ申したりけるといふ事、長門本平家物語に見へたり。箙に梅の花さしたる事は、盛衰記にものせたり。亦奧州征伐のとき、ョ朝白川の關を越たまふ時、景季を召して、「只今初秋なり。能因が古風思ひ出すや。」と、のたまひしに、景季馬を駐て、
秋風に、草木の露を、はらはせて、君が越れば、關守もれなし、
とよみたりし事も、東鑑に見へたり。又平家の人々、武勇も有て、文藝を兼て、優にやさしき人多し。源義仲京に攻上りし時、宗盛以下の人々、安コ帝挾て、西國に落ゆきしに、薩摩守忠度、ひた冑七騎に取てかへし、五條三位俊成卿のもとに行て、「是は三位殿に申べき事有て、忠度參て候。」と申されければ、門をあけて對面有けり。忠度申されけるは、「此二三年は、京キのさはがしき、國内の亂れ出來て、當家の身の上にまかりなりて候へば、常に參る事も候はず。君既に帝キを出させたまひぬ。一門の運命けふはや盡果候。それにつけては、撰集の御沙汰有べき由承て候ひし程に、生涯の面目に一首なりとも御恩を蒙らふと存つるに、かゝる世の亂出來て、たゞ一身のなげきと存ずるなり。此後撰集の御沙汰候はゞ、是に候卷物の中に、さりぬべき歌候はゝ、一首なりとも御恩蒙て、草のかげにてもうれしと存じ候はん。」とて、百餘首書あつめられし卷物を、鎧の引あはせよりとり出して、俊成クにおくられしかば、「ゆめ/\疎略を存まじう候。さても只今の御わたりこそ、情もふかう、哀も殊にすぐれてこそ候へ。」とありしかば、忠度、「骸を野山にさらさばさらせ。うき名を西海の波にながさばながせ。今は浮世に思ひおく事なし。」とて、「前途程遠し。馳二思於雁山夕雲一。」と口ずさみて、落られけるが、其後千載集に、故ク花といふ題にて、
さゝなみや、志賀のキは、あれにしを、昔ながらの山櫻哉、
とよめりけるを、よみ人しらずとて入られたり。又行盛歌を定家卿に贈られし事、盛衰記に見へ、又長門本平家物語には、行盛文こまやかに書て、よみたる歌ども定家卿におくりて、
ながれての、名にだにとまれ、水ぐきの、あはれはかなき、身は消ぬとも、
新勅撰には、行盛と名をしるして入られし事も見へたり。一谷合戰敗れし時、忠度岡部の六彌太とくんで討れたりしに、名をばたれともしらざりけるも、箙にゆひ付られしふみを取て見るに、旅宿の花といふ題にて、
行くれて、木の下かげを宿とせば、花やこよひの、あるじならまし、
忠度とかゝれたりける故に、薩摩守とはしりたる事も、平家物語に見へたり。曾我十カ・同五カ兄弟、父の仇を撃んとて、右大將家狩塲の營に忍び入し時、資經所をかへしかば、あきれて有しに、秩父の内なる本多次カちかつね、夜まはりせしが、こよひもあましけりと、小聲にいふを聞き、一定曾我のとのばらなるべしと、按にもたがはず兄弟なりければ、工藤が臥したる方の妻戸を開き、扇をあげて招しに、五カ此由を見て、「何事ぞや。」といへば、本多小聲になりて、「波にゆらるゝ、おきつ船、しるべの山は、こなたぞ。」といひてければ、「そこともしらぬ、よる波(*夜の波)、かぜをたより(*風をたよりの)、湊入。心あるよ。」といひし事、曾我物語に見ゆ。大やう其世の人々、風流文雅なりける事も、おししるべきものあり。北條泰時の賢才なりし事は、世の人のよくしれる事にて、此君も風流におはせしなり。仁治二年(*1241年)三月評定所にて、
事しげき、世のならひこそ、ものうけれ。花のちりなん、春もしられず、
と獨吟有し事、東鑑に見ゆ。元亨の亂に、菊池寂阿、探題英時(*原文「秀時」)のもとへおしよせける時、櫛田の宮の前を過けるに、乘たる馬、俄にすくみて進み得ざりしかば、箭一ツまひらせんとて、
ものゝふの、上矢のかぶら、ひとすじに(*ママ)、思ふこゝろは、神やしるらん、
とよみて、上ざしの鏑をもて、神殿の扉を射たりしかば、矢をはなつと、馬のすくみ直りてければ、あざわらひて(*原文「あさはらひて」)打通り、透間なく探題がもとへ攻入しに、小貳大友六千騎にて後攻したりければ、英時が城を枕にして討死すべしとて、
ふるさとに、今夜ばかりの、いのちとも、しらでや、人のわれを待らん、
とよみて、袖の笠印しに書て、故クにおくりける事も、太平記にみゆ。忠義と文雅と相兼たると謂つべし。仝じ頃赤坂の城へ、關東の軍兵打向ひけるに、人見四カ・恩阿資貞、天王寺の石の鳥居のはしらに、
花さかぬ、老木のさくら、朽ぬとも、其名は苔の、下にかくれじ、
と書付て、城へ先がけして、馳入討死しけるを、子なりける源内兵衛資忠、聞もあへず、即ちうち出て、鳥居の右の柱に、
まてしばし、子を思ふやみに迷ふらん、六のちまたの、道しるべせん、
と書しるして、城に馳入て、父が討たれしあとにて死しけるよしも見ゆ。後醍醐帝隱岐に遷されさせたまひしを、備前國兒島三カ高コ、路次にて迎まいらせんとて、船坂山にかくれて待たりしに、播磨の今宿より山陰道にかゝりたまひしかば、力なく、院の莊〔美作〕へ入たまひしに、微服して忍びて、庭なりし櫻の木を削て、天莫レ空二勾踐一、時非レ無二范蠡一と、五言二句をしるせる事も、同じ記に見ゆ。又鎌倉の北條家滅びし時、普恩寺前相摸守入道信忍、假粧坂の軍に、僅に討なされ、自害せられけるに、其子越後守仲時六波羅を落て、江州番場にて腹切ぬと告來りければ、其最期の有さま哀に堪ずや有けん、
まてしばし、死出の山邊の旅の道、同じくこへて、浮世かたらん、
と御堂の柱に血を以て、書つけられしとぞ。又延元元年(*1336年)尊氏直義軍敗て、兵庫に於て、既に自害せんとありしに、細川律師是を諫て、船に乘り、筑紫におもむく時、尊氏、
いまむかふ、方はあかしの浦ながら、まだはれやらぬ、わが思ひ哉、
と詠ぜられしに、細川和氏とりあへず、
物のふの、是や限りの折々も、わすれざりにし(*原文「わすれさりしにし」)、しきしまの道、
とよみたりし事、櫻雲記に見へたり。楠正行四條繩手にうち向ふ時、弟の正時以下、今度の軍に一足も引ずうち死せんと約したる兵、百四十三人、如意輪堂の壁に、姓名をしるして、其終に、
返らじと、かねて思へば、梓弓、なき數に入る、名をぞとゞむる、
と書置たる事も、太平記に見へたり。正行は父が武畧にもおとらず、歌の道にも志ありて、おほやけの仕へ人にもはぢざるほどの、ことの葉多しと、吉野拾遺物語にも見へたり。又辨の内侍を、南帝正行にたまはせんと勅有りければ、正行かしこまりて、
とても世に、ながらふべくもあらぬ身の、かりのちぎりを、いかで結ばん、
と奏して、辭しにけり。其時は心得がたく覺へしが、後に思ひあはせて、いと惜みあへりといふ事も見ゆ。是は辨の内侍南朝に在しに、武藏守高野師直(*ママ)、其かたちのめでたく候ひしを、いかなる折にか見そめけん、心にかけて、遂にたばかり出し、侍廿人が程、やがて内侍の供したる人をば打殺して、住吉へいて(*ママ)ゆきけるに、正行吉野の宮へ參るとて行あひ、事のさまあやしければ、立よりて問に、内侍のなきたまへる聲を聞て、こしのほとりへ立寄てきけば、かう/\の事と聞ゆ。やがて師直が侍ども三四人きつて棄、其餘はからめて、さて吉野へ參りて奏しければ、「正行なかりせば、いと口おしからし(*ママ。「口をしかるべし」か)。」とて、内侍をたまはらんとの事也けり。仝じ書に詳なれば畧しつ。南北朝、戰爭のみ事として、其後風俗おとろへて、名節を重んずる士、風雅の人も倶に鮮くなりければ(*ママ。「なりけれども」か)、其人必なしといふべからず。康安元年(*1361年)仁木義長、長野の城に籠て、城すでに落んとせしに、土岐右馬頭氏光・外山遠江守直ョ・今峰駿江守(*ママ)光政、兄弟三人、始めは仁木と倶に城に有けるが、弟の二人こゝろがはりして、寄手に加はり、兄の氏光を何ともしてたすけばやと、潛に人して降參あれかしと、いひつかはしたるに、氏光とかくの答に及ばで、其文をひき返し、一首の歌を書て返しける、
連りし枝の木の葉の、ちり/〃\に、さそふあらしの、音さへぞうき、
義滿將軍の時に及て、細川ョ之、賢才の補佐にて、海内しばらく治りしかども、〔明コ年中、山名陸奧守氏C、室町將軍義滿を憾る事ありて、軍起し、京へ攻入、討れたりしに、其妻和泉の境に有けるが、かくと聞て、自害したりけるに、久しく手に不放して持たる文に、最期の時書添て、胷にあてて死したるを、怪しみて、とりて見るに、氏C八幡より、和泉へ文して、奧に、「とり得さす(*原文「とり得すさ」)、消ぬと思へ、梓弓、引て歸らぬ、道芝の露」といふ一首の歌あり。其側らに、「沈むとも、同じく越む、まてしばし、くるしき海の夢のうきはし」と其妻の書添たるよし、明コ記に見ゆ。氏C亂を好むの人にて、此事は誠にいふに不足といへども、其世の弓箭とるもの、和歌を好みけるは、想見るべきなり。〕又程なく世亂れけり。ョ之は學才もおはしけるが(*原文「もをはけしてるか」)、流言により南海にひきこもれりし(*原文「ひきこもりれし」)時、詩あり、
人生五十愧レ無レ功。花木春過夏已空。滿レ室蒼蠅掃不レ去。獨尋二禪室一挹二C風一。
室町家の號令世に行はれず、奸雄國々に起り、遂に戰國の時とはなりたりき。武州松山城主難波田彈正をたのみにて、上杉朝定至られしを北條氏綱攻められしに、難波田出むかひて軍しけるが、利なくて引返し、城へ入らんとせしを、北條家(*原文「化城家」)の將、中山主膳追かけて、
あしからじ、よかれとてこそ、たゝかはめ、など難波田の、にげて行らん、
といひかけしに、彈正馬を引返して、
君をおきて、あだし心を、我もたば、末の松山、波もこゑなん(*ママ)、
といひすてゝ、城に入りしとぞ。主君朝定をのこし置て戰死したらんには、松山によせくる波も、こへて域破るべしと、古今集の和歌のこゝろをとりて、口ずさみけるは、いそがはしき半に、よくこそ思ひ出したるなれ。此事は鎌倉九代記に見へたり。凡そ聖人のヘ、人情をしる事を重んずれば、和歌も亦吾邦にて人情を知るの一端なり。人情をしらで、いかでか衆に臨み、人をも治むべき。元龜天正の頃に及て、甲斐の信玄の兵威、關東に熾なる、其時の國々、甲斐を見る事、六國の秦を見るがごとし。甲斐の士風、秦の士風とやいふべき。されども、風流なきにあらず。相州三ます嶺(*三増峠)の軍に、内藤修理、寺尾豐後といふ者共を、馬塲美濃が方にやりて、
待宵に、ふけゆく鐘の、聲きけば、あかぬわかれの鳥は、ものかは、
といへる歌にて、謎をかけたりしに、美濃ときたる事もあり。(*「車牛〔来る間憂し〕、放れ牛〔離れ憂し〕」というなぞ。)矢石飛ちるべきも程なきに、優にやさしき事なり。信玄も又詩を作られし、其事甲陽軍鑑に詳なり。謙信は海内に比類なき勇將にておはせしが、殊の外に風流にて、文藝も有たりき。能登の國へ攻入たりし時、九月十三夜月を賞し酒宴ありて、
露下軍營秋氣C。數行過雁月三更。越山併得能州景。遮莫(*さもあらばあれ)家ク念二遠征一。
毛利元就は、安藝の國七十五貫の地を受つさし人(*ママ。「受けたりし人」か。)にておはせしが(*原文「おけせしか」)、弓箭をとつて大志有しかば、大内家の恩を報ゆとて、陶尾張守リ賢をいつくしまに討れし時、十死一生の軍して、勝利を得、尼子を滅して、中國十州をあわせ得られたるが、風雅にもおはしつゝ、其詠草、今も猶世に傳へぬ。勇畧に風雅を兼たりとも稱すべきにや。其子元春の長子元長も、和歌を好まれしが(*原文「好られしか」)、いかなる志にや、山中に閑居有たきと思て、口には出されざりしが、或時、
皆人のわたりはてたる、世の中に、吾身ぞもとの、まゝの繼橋、
と、これは塵世を捨て遁れたる人を見て、よまれしにや。其詠草も三卷有りとなん、申すなり。戰爭の世久しくなりし程に、古の時名節を重んじ、弓箭とりは、かりにも名こそおしけれといひし風俗は、日々におとろへて、只槍を合せ、剛のものと稱せられん事をのみ志しけるに、其君家危く國亡るに至て、難に殉ひける、小宮山内膳友信が類は、至て希なる事に成たりけるに、されども、又高橋紹運の巖屋の城を守りて、薩摩の大軍に圍れて、少も大友家に屬するの志撓ず、城落ける時、
ながれての、末の世遠く埋れぬ、名をやいわ屋の、苔の下水、
といふ歌を扉に書とゞめて、戰死有しが、城兵一人も落くるものなかりしとかや。紹運のごときは、名節文雅相兼られしなり。豐臣秀吉、匹夫より起り、天運に乘じて、神祖の御爲に民を驅り、海内を治められし、不學不文におはしける程に、古のいみじき風俗は、喪たる世となりき。
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源ョ信朝臣、東國のよき馬を乞に遣しけり。馬盜此馬をみて、ひそかにつきてぞのぼりける。朝臣の子ョ義、「行てみて、誠によくば、申請ん。」とて、行て父に對面して、物語ありけるに、此馬を請ん爲と推量して、「東よりよき馬牽來りぬるに、いまだ見ざるなり。今夜はくらし。明朝見てん。心につかばまいらせん(*ママ)。」とありしかば、ョ義うれしと思ひて、夜更ぬれば、かたわらに臥たまひぬ。夜半に雨にまぎれて、馬盜忍び入、馬を牽出して去ぬ。厩の方より聲をあげて、「御馬をぬすみとれり。」と呼る。ョ信聞て、胡籙をかき負、厩にゆき、馬ひき出し打乘、關山をさして追てゆく。ョ義も聞て、父のごとく、父にも告ず、胡籙を負て、厩にある馬ひき出し乘て、關山へ追て行。父子とも必追來らんと、互に思ひて、おくれじと馳ゆきて、關山にかゝりぬ。盜川を渡る音を、ョ信聞て、目ざすともしらぬくらき夜に、聲をあげて「はや、射よ。」といひける詞もおはらざるに、はつしと中る音しけり。射おとしたり(*原文「射おとしたし」)と覺て、人の乗ざる馬のあぶみの音、から/\としければ、ョ信はや先にまはりて、「馬をとりて來れ。」とばかりいひて歸りたまひしに、ョ義馳めぐりて、馬をとられし時、カ等ども追つゝきて來りける事、今昔物語に見ゆ。其世の有さま想見るべきなり。又其居のせまき、厩より呼る聲の、臥たまひたる(*原文「臥たまへたる」)所に、よく聞へたるにて知るべし。吾邦のむかし、郡縣の世なりしかば、士君子の寒酸なりし事情をもおしてしらるべし。小松帝(*光孝天皇)親王にておはしませし時、多借-二用町人ノ物一。御即位之後、各參内責申、仍以二納殿物一被二返與一。といふ事、古事談に見ゆ。士君子の寒酸は、いふにや及ぶ、天子尚かくのごとし。又徒然草に、鎌倉北條時ョのもと(*原文「こと」)より、平宣時朝臣のもとへ使して、よばれしに、「直埀などのさぶらはぬにや。夜なればことやうなり(*原文「こそやうなり」)とも、とく。」とはいわれしほどに(*ママ)ゆかれしに、てうしにかわらけ(*ママ)添てもて出て、「肴こそなけれ、人はしづまりぬらん。」とて、くま/〃\をもとめ、棚に小土器にみその少つきたるを取り出して、「事足る。」とて、數獻に及びし事見ゆ。時ョは、日本六十餘州の兵馬の權をとりし人にてぞ有し。今封建の世に生れし士君子は、かゝる事を聞ては、驚愕してあやしむべし。されば其世をしらざれば、其人は論じがたきことわりにこそ。
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舊事記は、眞贋相錯れる書なり。開卷陰陽二神の御事をしるせる、其詞も事も、體を得ず。歡喜寃家、僧尼蘖海を讀に似たり。猥褻汚衊、いふ許なし。これ勅命を奉て撰し、天子に奏する書の體ならんや。其序を見るに、かゝる事辨へしらざる人に非ずと見ゆ。されば、後世の附會にてあるなるべし。國造記にも、又後の世の事多く見ゆ。是を以て、眞贋相まじはれる事をしるべきなり。
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日本紀は、舍人親王の撰たまひし上世の實録。これより正しき書なき事、論ずるに及ばず。然り(*原文「然い」)といへども、天武帝大友革命(*壬申の乱)の事に至ては、甚信じがたし。其故は、天武帝佯り讓りて、大友を欺て兵を起し、其位を奪はせたまひたるに、其しるせし樣は、全く矯誣の言と覺ゆる有り。舍人親王は、天武帝の皇子にておはしませしかば(*ママ)、いかでかは父帝の奸計を記したまふべき。子爲レ父隱、直在二其中一といへる言の如し。朝野に記載せし書、多く傳りたらんには、其實明白なるべけれども、外に徴とすべき書なければ、今に及て、いかんともいふべからず。然れば日本紀の説たりとも、此革命の事實は信じがたし。明の成祖の、從子の建文帝の天下を奪われし(*ママ)、天武帝の御事と相似、近頃東來せし、Cの乾髓驍フ明紀綱目をよむに、燕王棣〔祖成の事〕擧兵反と書し、棣兵渡レ江犯二京師一と書し、棣自立爲二皇帝一と書したまひき。是予が心を得たり。董狐筆を把て史をしるしなんには(*董狐の筆の故事。権勢に阿らない史筆をいう。)、天武帝の御事も、燕王に同じかるべきにや。
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日本紀文字の訛れる多きにや、今の刊本讀得べからざる事甚多し。三韓の王の名、三韓の史に考ふれば、異なる有り。日本紀の字訛なるべし。又脱字も多く見ゆ。又脱字訛誤に非ずして、疑ふべき事なきにあらず。埀仁天皇の三年に、新羅王天日槍(*あめのひぼこ)來て寳を獻じ奉る、遂に吾邦にとゞまりし事見ゆ。是神功皇后の御時より、遙に前の事なれば、三韓の事、日本に審に聞へて、天子もしろしめされし事、論を竢ず。然るに、神功皇后三韓を征せさせ賜ふ御事を日本紀にしるして、西征の御時に臨て、吾瓮海人烏麿(*あへのあまをまろ)を海上につかはされ、國有や否を見せしめられしに、國なき由歸り奏せしかば、又磯鹿海人名草(*しかのあまなぐさ)に見せしめられしと載られたり。皇后三韓の有無だにしろしめさゞるに、いかにぞや師を出したまへる、疑ふべし。石C水の縁起八幡愚童訓には、仲哀天皇は、新羅國より寇し來れる兵の箭に中らせたまひて、崩御有しといふにや。然ども鬼妖の事をのせたれば、信ずべきに非ず。舊事記には、熊襲を撃たまひ、賊の箭にあたらせたまひて崩御とし、日本紀には、一云と記し、古事記には彈琴の中、神の旨に忤て崩ずと見ゆ。皇后俄に大海を渉りて、西征させたまふ事、必其故有べし。日本紀に載る所は、唯財寳を貪たまふの師とこそしらるれ。いかでかかゝる事のあるべき。舍人親王諱む所ありて、其しるさせたまふ事、有が如く無が如くして、國のために諱むの禮にぞ有べき。又仲哀帝壽五十二と見へたり。帝は日本武尊の御子にておはします。日本武尊は、景行天皇の四十二年に薨じたまふと見ゆ。景行天皇の四十二年より、仲哀帝崩御の年を通計するに、八十八年なり。されば仲哀帝壽五十二といふ事心得られず。仲哀帝を以て、日本武尊の御子となしたらんには、日本武尊の薨年に生れさせたまふとも、八十八年なり。仲哀帝の御年八十八歳にて、神功皇后の應神帝を御誕生ありし(*原文「あし」)も如何や有べき。仲哀帝は、日本武尊の御孫なるべきにや。然ども徴とすべき書なし。其餘安寧帝の崩御を、古事記にしるして、壽四十九とし、日本紀五十七と見ゆ。二十一にて皇太子に立せたまふ由見ゆ。それより通計するに、壽六十六にておはしませば、二書ともに誤れるにや。水鏡には、十一立爲太子と見へたれば、四十九なり。編年集成(*『帝王編年記〔歴代編年集成〕』)に、即位二十の御年と見へたり。日本紀と相同じ。日本紀二十一爲皇太子と見へたるも、二の字衍字なるべし。日本武尊熊襲を討たまひし事、舊事記には景行天皇二十年に記して、十六の年とす。日本紀には二十七年にしるして、年十六とす。景行天皇の二年に生れたまへば、二十七年には二十六にてこそおはせ、二の字日本紀に脱せしにや。景行天皇の壽日本紀に一百六歳とし、前に父の天皇二十五年に太子に立たまふ由載せられしをもて推計るに壽百四十なり。水鏡には、百四十三としるせるも、誤なるべし。古事記には、百三十七としるせり。成務天皇壽一百七歳と見ゆ。父の天皇四十六年の御時、立爲太子年二十四といふを以て推考るに、九十八なり。百七は誤れるにや。古事記には、九十五としるせり。其餘異同疑べき事多し。中山内府(*後鳥羽朝の内大臣中山忠親)水鏡を著して、日本紀を援てしるされたる事に日本紀に載ざるもあれば、中頃兵燹に罹て、全からざるを、博士家の綴輯して傳たるにやあらん。古を稽るの士の遺憾少からず。
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應神天皇十六年二月に、王仁吾邦に來りし由、詳に日本紀にしるされたり。三韓の史に、王仁の事をしるさず。古事記に王仁論語十卷・千字文一卷を献ずと見へたるは誤なり。千字文は梁の時周興嗣といふ者の撰びしなり。應神天皇十六年は、晋の武帝太康六年にあたれり。晋武より東晋宋齊を歴て、梁の武帝に至て、二百年餘に及べり。王仁が献ず可に非ず。日本紀にしるされたる(*原文「しるされさる」)を正しとすべし。(*菟道稚郎子の師阿直岐の推薦によって来朝。菟道稚郎子はさらに王仁を師として学んだ。王仁は書首の始祖となった。)又按ずるに、續日本紀桓武天皇延暦九年(*790年)百濟貴須王、擇二宗族一遺其孫辰孫王〔一名智宗王〕入朝爲二皇太子之師一。於レ是始傳二書籍一大闡二儒風一。といふこと見ゆ。辰孫王即王仁の事なるにや。又延暦十年(*791年)正六位上文忌寸最弟(*もおと)武生眞象・(*たけふのまきさ)等申せし表に、王仁は漢高祖の後、百濟に至りて、日本に來りし(*原文「來れし」)よし見ゆ。されば、日本紀に載せられたる、其詳なる事は、遺漏有しにや有べき。
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吾邦太古(*原文「大古」。以下同じ。)の時、龜卜有し事、日本紀私記に見へたれども、いかなる法にやあらん、又いかなる人が相傳へしにや。三代實録貞觀十四年(*872年)、宮王從五位下兼丹波權掾伊伎宿禰是雄卒。の事をしるして、是雄者壹岐島人也。本姓卜部、改爲二伊伎一。始祖忍見足尼命(*おしみのすくねのみこと)、始レ自二神代一、供二龜卜事一。厥後子孫、傳-二習祖業一、備二於卜部一。是雄卜數之道、尤究二其要一。と見へたり。されば龜卜の法は、古き世より傳へしなり。今も猶對馬には、龜卜の法ありといへり。神功皇后三韓を伐たまひし時より、其國に傳はれりと、對馬の人はいふなりと聞たりき。延喜式に、卜部取二三國卜術優長者一、伊豆五人、壹岐五人、對馬十人と見へたり。今に至りても、對馬には、大事をば必ず卜す。だらといふ木をもて灼と、其土人はいひけり。されば三韓より卜法をつたゑし(*ママ)にや。然れども、龜卜の法漢の世既に詳ならず。いかにして、誰やの人か、三韓に傳たりけん。對馬人の卜法をよくしれらんに尋問ふべき事にぞある。龜は神物にて、四端の一ツなり。これを剥殺すべき理なしと、明人はいへりける、其説長ければ、こゝに盡さず。
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吾邦の射法、古より受傳ふること有るべけれども詳ならず。
天照大神(*原文「天照太神」)、戎裝有し時、靱を負ひ、弓を執たまひし事、太古の時に聞へしを始て、天鹿兒弓・矢之波士弓など、皆太古の時に聞へたり。其後調役にも弭を定られし事、景行天皇の紀に見ゆ。中葉に至りて、善射の人もあまた世に聞へて、保元の亂に、鎭西八カ爲朝の射、殊にすぐれたりとす。其後も名ある人、數へ盡すべからず。然れども、古には病といふ事有とも聞へず。病有ても、其事を詳にしるさずや有けん。但し今川貞世の大草紙(*『了俊大草紙』)を視るに、了俊〔貞世の事〕一切の弓のくせといふほどの事をもちたりしかば、人をきらはず、弓の上手といひし人々に、あまねく習聞しかば、わが身は下手なれども、くせを直さん樣は、淵源を盡して、問聞しなりと識されしなれば、昔より病は有りけるなり。古今を通し考ふるに、吾邦は、弓の強弱といへども、弓の輕重を論ずる事をしらず。明の高頴が、射學正宗に、因レ弓制レ矢。量レ力調レ弓。此不刊之典也。弓之強弱、必須レ量二我力之大小一。大率以二百斤一爲レ準。といへり。詳に其躬の力のほどを試て、弓の輕重を料りて、弓を造り出す法あり。これ日本の射法に無き事なり。左傳にも、又弓の輕重を論ぜし事見へたり。されば、弓の輕重は、其身の力より出て、人々其躬の力の限あるなり。是聖人弓を造り出したまひし遺法なるべし。吾邦の士、勁弓を好むよりして、病は出來るなり。聖人の遺法に遵て、己が身の力の強弱を試て、弓箭を造りたらば病つく事尠かるべし。弓の力定りて後、箭にも輕重ある事詳に高頴が書に見ゆ。吾邦にて、矢の輕重を論ぜざるに非ず。然ども、弓の輕重によりて論ずるにあらず。又弓を造ること、高頴が書に詳にて、吾邦の弓に較ぶれば、以ての外にうすき物なり。郊射は、百歩にて射ると見へたれば疑ひ思ひしに、吾藩山川氏のもとに、烈公(*吉備烈公池田光政)の賜はりたりし、異國の弓あり。其制射書に見へしに相同じ。試て射たりしに、百歩に及べり。されば書にしるせしことも、疑ふべからず。射法を好む士に謀りて、弓を造出すべし。さらば聖人の弓矢の法も、吾邦に興さるべきにや。
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日本の樂は、隋唐より受傳へたれども、三代聖人の遺聲なりといへり。伶人其業を愼重し、專門にして多數なかりしが、聖人の邦に滅たりし三代の樂の、吾邦に傳りし事、眞に崇むべき事ならずや。宋の時、李昭、景祐樂を定し時、歌工私に其銅劑を滅し、聲の稍C而昭(*李昭)しらず。楊傑、元豐の樂を定し時、欲レ毀二舊鍾一而不レ得。乃陳二其己敝者一、爲二樂工一一夕易レ之。傑しらず。魏漢津、崇寧の樂を定し時、制器不レ成二劑量一。工人皆隨レ律調レ之。大率非二其本説一。漢津亦しらずなどいひし事、治平略(*朱健『古今治平略』)に見へたり。日本の伶人、衆管合奏の時、音相恊ざるあれば、必これを詰る。これを以て視るに、日本の伶人は、萬國に勝れたりと稱すべし。伶人のすぐれたるは、聖人の樂を專門に學び傳はれる故なるべし。
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熊澤大夫〔名は伯繼、世に了介先生と稱するなり。〕樂を論じて、近き世は箏・琵琶にも家といふ事起りて、其家の人ならでは、他の人の彈ずるを制し、師とし事ふれども、つめをゆるさず。和漢皆古へは自爪なりき。かけ爪は、婦人女子の物なり。自爪にて、糸の音美なれば、人をふせぎて、我のみよからんとす。樂音神明に通ずる妙あるに、かゝる事は、いかなる事ぞや。古人大海を渡りて、唐に行、命をかけて學得歸し雅樂も、絶るに近し。百年こなたは、公家ならでは、しりたまはぬ樣に成ぬるに、公家にも、家といふ事起りたり。後陽成帝より、小倉公根卿に、直に琵琶を傳へさせたまひ、四辻大納言季綱卿より、其弟藪大納言嗣良卿へ、箏を傳へられぬ。且後水尾帝よりゆるさせたまへば、此二人は四辻より妨ぐる事能はず。其子たちよりは、早防ぎして彈ずる事能はず。是は四辻大納言公理卿、樂所の奉行たりし時より、此防出來たり。其子中納言程なく下世、其弟も早世したまひぬ。箏にはふりといふ事有り。書に記すべからず。今の藪嗣章卿、亞相公のすがらきのふり、耳目にふれ、爪音とゞまりておわすらん(*ママ)。幼少より、さとくも有たりき。今は四十餘にも有らん。此人おはする中に、おこさば(*興さば)おこさるべし。とり出す事もならぬ勢におはするこそなげかしけれ。樂は書籍に書とゞめられざるわざあり。絶て後、聖人神明のコならでは興すべからず。琴のふり絶たる故に、琴と書有といへども、再興の難きは、此故なるよし、孝經外傳(*山崎闇斎。〔参〕熊沢蕃山『孝経外伝或問』)に載たり。凡皇朝衣冠の君子、物を愛して、人に視する事を忌、書籍を深く閟して(*原文「悶して」)、人に傳へたまはず、唯われのみ美事をしりたるに夸りたまへ共、其業を失ひ、其道滅ぶに至るは、悲しき事なり。衆と與にすといふ孟子の論しりたまはざるが故なり。况や樂は聖人の作りたまへるものにして、天下を治むるの道なるを、私の一物としたまへるは、不學の故なるべし。
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琴を彈ずることの喪し事、體源抄(*豊原統秋)に詳に見へたり。然ども、其事甚奇怪にて、且時代も詳ならず。此書の撰者統秋、法華經を信ずる故に、附會の説を記したるにぞ有べき。熊澤大夫の説に、八音の中にて、糸は君なり。糸の中にて、琴又大君の如し。他の樂器に響きわたりて、つかさどる聲なり。ある樂の古書に、琴をひくを聞たる人の云く、「あかりしやうじの内に、蝱をこめたる聲の如し。」といへり。源氏物語などにしるしたりとは格別なり、といふ事、孝經外傳に見ゆ。樂の古書といへるは、體源抄なり。體源抄に云く、「禪定殿下の仰にいはく、圓憲といひしものは、經信の師に相具して、鎭西に下向して、唐人に琴をならゐたりしなり(*ママ)。件の琴を殿下にヘへまいらせんとて、申けるは、『琴は鼻〔禎按ずるに、微の字なるべし。〕音にて、はなやかなる音なし。又させる樂も侍らず。只詩を講て、其詞を彈侍るなり。』とぞ。さて彈時は紙をたゝみて、ぬらして琴の下にしくいたに置てひけば、響の音のひゞき(*ママ)をならさゞる(*原文「ならさる」)料なり。彈ずる間ものども少々いる。常に仰せられけるは、『さる興もなかりき。只紙障子の内にあぶをこめたるやうにきこゑしなり(*ママ)。』とて、わらわせたまひしかば(*ママ)、誠に聞ざめしてぞ、人々覺侍りけり。」と見へたり。禎按ずるにこれは異國に古の聖人の作りたまへる樂喪ひて、後世に作れる琴をヘへたる故なり。源氏物語、須磨の卷に、源氏の君、月の夜海上を眺望の時、大貳筑紫よりのぼるとて、船にて海を過ぎし事をしるして、「五節の君つなでひき過るも口をしきに、琴の聲風につきて、はるかに聞ゆるに、ところのさま、人の御ほど、物のね心細き、とりあつめ心あるかぎり、皆泣きにけり。」といふ事見ゆ。此琴の聲といへるは、源氏の彈たまふなり。五節の君、其時、
琴の音に、ひきとめらるゝ、つなでなは、たゆたふこゝろ、君しるらめや、
といへる歌も見へたり。あかり障子にあぶをこめたらんやうならば、海上遙に聞ゆべきや。體源抄にのせたるは、古樂亡ひたる後に作りたるを、吾邦の人にヘへたりしを、古の琴の法なりと思へるなり。統秋は誠に世にすぐれし伶人と聞ゆれども、不學なりし故、人の欺をうけてかくは傳へしなり。尤誤れりとすべし。熊澤大夫又いはく、「長崎に來るもろこしの人に、琴をならゐたり(*ママ)とて、(*「といふ」か。)人あり。予もむかし樂しらざる時は、樂なりと思ひしなり。越殿樂(*えてんらく)の短き樂をなすさへしらで、筑紫のふき(*富貴)の歌にあはせひきたり。音律合ひたるにあらず。つくしごとの調は、大體は平調にて、商窒めらせたる(*「減らせたる」)ものなり。しからざれば、浮聲(*かりごゑ)のなへたるふしにはあらず。樂の平調は、五聲正しく、かりめり(*「浮り減り」)なく合たるものなり。それにては淫聲は、のらざる故に、ふきの歌をなへたるふしなくて、すなほにうたひてひくなり。古の琴は、琵琶・箏・笙・笛・打物に合て、大にたのしみたる物なり。古樂はもろこしにとく絶たり。代々に作りかへて、本をば失ひたり。今中夏に明王いでなば、日本に來て、古樂を學ばるべきに、かく危く成たるは、是非なき事なり。堯舜の御世に住心ちする、樂のおもかげは、樂の遊の中にあり。此事は學ばざれば、しらざる事なり。琴は、箏・和琴・琵琶よりも小ぶりなり。樂の琵琶は、たけ短けれども、はゞひろく、大ぶり也。樂ども箏・和琴よりは小き物故、聲つかさどりて大なり。小き物ほど音高し。十二律も短きほど、次第に音高し。箏の十三絃も、細きほど高し。今の琴の形にて、順の調子にもあがるべからず。故に至極乙におとして、しらべする故に、微音なりといへり。」と見へたり。通し考ふるに、體源抄に記せる蝱を障子にこめたらんといへるは、聖人の作りたまへる樂には非ざる事明なり。徠翁(*荻生徂徠)琴書を著して、琴のすたれたる故も、詳に論ぜり。作者位にあたらば、必物子(*徠翁に同じ。)の琴書によりて、古樂を興さるべきにや。物子は王者の師と稱すべし。
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かなにてしるせる書の中、神皇正統記は、議論確實なりといふべし。其餘多く其詞美なりといへども、理趣に遠きが故に、世の學士名ヘに背かん事を論ぜり。源氏物語におよびては、殊に誹て、淫を導くの書とせり。禎つく/〃\是をよむに、吾邦禮樂文物、此物語に存する事多し。孔子告朔之餼羊をおしみたまひし事あり。此物語も、羊存といふべきにや。されども人に語らば、必世の學者と爭はん事を慮りて、自信せし(*自ら判断・納得すること)のみなりしに、熊澤大夫の源氏外傳を見しに、予見る所と符を合せたりしかば、自信して、知者を竢て語るべきなり。
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吾邦の鳥井(*ママ)を、華表にはあたるべからずといふ人あり。華表の事は、古今註に見ゆ。又通雅(*方以智)を考ふるに、漢書の酷吏傳を援て、又桓門も亦謂和門、華表と謂なりと詳に見へたり。大低(*ママ)鳥井とは、似て同じからざれば(*原文「同しがらされは」)、これをあつべからずといふを、非なりとはすべからず。然ども日本の事、異國の事、宮室衣服より初て、何かは䐇合(*脗合〔吻合〕か。)する事のあり。皆大同小異にてぞある。器物の形大に異なりといへども、其用ゆる(*ママ)處同じからんには、借用んも、必しも違たるともいふべからず。
日本慶元以來の世を封建と稱す。朝聘より初めて、何かは周の世の封建と同じかるべき。以ての外に異なる制度にてこそあれ。周禮地官に、ゥ公之地、封彊(*ママ)方五百里、其食者半。ゥ侯之地、封疆方四百里、其食者參之一。ゥ伯之地、封疆方三百里、其食者參之一。ゥ子之地、封疆方二百里、其食者四之一。ゥ男之地、方百里、其食者四之一。と見へたり。公はゥ侯の中にて、其國大なるが故に、税多く、其半をとゞめて、國用とし、其半を天子に貢す。矦伯は三分の二を國用として、一分を天子に貢すと見へたり。猶此等の事は、別にしるせし物あれば、略しつ。されば日本には、貢法なければ、大なる所も、以ての外に異なるに非ずや。唯地をわかち、國を立たるは、周の代に同じければ、封建とは稱するなり。其餘凡百の事、異同皆かくのごとし。然れば日本の事を、異國の雅言によりてしるしなんには、借用ひん事、半を過べし。然ども實録の躰、修飾の文、其言各主とする所あれば、其斟酌筆をとる人の技倆に有べきなり。
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項窒フ鉅鹿の戰に、河を渡りて、皆湛レ船破二釜甑一といふこと、史記に見へたり。これ必死の軍すべきを、衆に示せるなり。正字通(*張自烈)に韓詩外傳(*韓嬰)を引、舜甑盆無レ膻、注膻即今甑箅、所-二以盛一レ。使二水火之氣上蒸一、而後可レ熟謂二之膻一。猶二人身之膻中一也。と見へ、また説文に、甑は鬵屬、本作レ䰝、無レ底曰䰝。と見ゆ。底なからんには、食を烹べきにあらず。今吾邦の俗にいふこしきといふものなり。甑は土にて造れるこしきなり。後漢の孟敏が甑を荷て、地に墜し破れたるを、顧ざりし事もあり。箅は所-三以蔽二甑底一なりと字書に注したれば、今のこしきのす(*簀)といふ物にてぞある。世説に陳太丘がもとに客詣しに、太丘其子の元方・季方に食を炊せしに、其物語を二子聽て、炊とき忘箸レ箅ヲしかば、落二釜中一、糜となりしといふ事あり。これ客と父との談論に聞いりて、こしきのすをわすれしかば、こしきの米、下の釜におちて、かゆになりたるなり。通し考ふれば、吾邦の白むしのこわいゐといへるものにすると見へたり。を爨くの法、日本とは同じからぬなり。されども又呉郡の陳遺の至孝にて、母の好みし鐺底焦を、一嚢に裝したる事も、世説に見へたれば、必悉くこわいゐとするにも非ざるべし。又日本のみそ(*味噌)といふもの、本草綱目にも見えず。みそにやゝ似たるものあれども、異なる物なり。豆油鹹鼓(*醤油や納豆)の類、造法皆異なる也。
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孔子の裔孫子襄といひしが、秦法の峻急なるを畏て、孝經・尚書・論語・家語を、孔子の舊堂の壁の中に藏められし故、始皇書を燔れし災をばのがれたりき。其後漢の世に及て、魯の恭王、孔子の故宅を壞れし時、其書は世に出しなり。其竹牒長さ一尺二寸、字は科斗(*蝌斗)の形なるよし、孔安國の孝經の序に見ゆ。されば其世には、竹を編て、それに文字をしるしけり。漢の世にも、削レ竹爲レ策、編レ策爲レ簡(*辞書には、竹簡を編んだものを竹策とする。)といひて、專竹を削て、それに文字をしるせし事、ゥ書に多く見へたり。後漢の時、石經といふ事出來たり。蔡蔡邕書二碣碑一、使レ工鐫レ之とも見へ、刻レ石鏤レ碑、載二五經一立二大學講堂東側一、など見へたり。石經の事長ければ、爰には記さず。唐より以前は、經傳子史皆寫本にて、彫本の法なし。五代の時、馮道始めて彫版をば始ける。又ある説に、唐に彫本有しかども、監本(*国子監で刊行した書物。)を始たるは馮道なりと、胡元瑞(*胡応麟)が經籍會通に、詳に載たり。活字版は宋の世より始れると、沈存中の筆談(*沈括『夢渓筆談』)に、其法も又くはしくしるしたり。絹帛は、彫板をするに用ひがたき故、彫本といふ事はじまらざることわり也。紙は、後漢の和帝の時、蔡倫始てつくり出せり。漢書の中に、赫■(*{足偏+虎})といふ物見へて、紙の事なりといへども、盛に世に行はれずと見ゆ。晋の武帝の杜預に、紙を賜はりし事も見へて、紙乏しかりしと見へたり。されば彫版といふ事は、はるかに後の世には出來しなり。日本の紙は、ゥ方に勝れて、上古にも多かりし事ども、想見つべけれども、中葉に至ても、彫本をしはじめける人を聞ず。寛元二年(*1244年)に、後鳥鋳驍フ宸筆(*原文「震筆」)の法華經百部の供養有し。是は本に彫て、百部をすりたる也と、東鑑に見へしや始なるべき。法然の選擇集(*選択本願念仏集)の印板を可二燒失一よし、山門より申状を奉りしは、元久元年(*1204年)にや。さらば、其頃彫本も有ける也。されども、海内に盛に行はれず。慶長の末より、庭訓往來の類、僅に彫本出來て、正保・慶安の頃に至て、稍平安・東武にも彫本出來て、今日に至ては、誠に汗牛充棟、又無uの書も限りしらるべからぬに及べり。〔昔の寫本の卷物にして殘れるを、今もたまたま見る事を得るに、其卷尾に多くは年號姓名をしるして、必其字數を書記したり。彫本なき時、書を師に受て、是を重んずるの事なり。實は唐よりの事なり。陸コ明が經典釋文に、字數をしるせるをしるべき也。むかし、吾邦の僧安覺が、異國にゆきて、一切經を暗誦して歸るといふ事、鶴林玉露(*羅大経)に見へ、吾邦に歸りて書たてたりし經の、今も筑紫に有と聞き、古への人の於ヘを盡せしも、思ひやるべし。今書籍於ヘを盡さずして、一日に千卷の書も架上に致さるべし。かゝる時に、於ヘを盡す人の多からぬにや。〕
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朝鮮の李退溪が著せし、自省録を見るに、凡事到下無レ可二奈何一處上、無二恰好道理一、則不レ得レ已、擇二其次者一而從レ之。といふ事あり。千古の名言といふべし。古へより、大業を爲したる人、果敢に决斷したるは皆、其次なる處を擇て從へる也。近く日本元弘の亂の時を見るに、新田左中將の義兵を擧たまはんとて、會議有て、决せざりしに、脇屋義助の「弓矢の道、死を輕じて、名を重むずる(*ママ)を義とす。利根川をさかふとも、運盡なば叶まじ。越後の一族も不和ならば、何にかはせん。綸旨を額にあて、只一騎なりとも、うち出鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき。」といはれしに、其坐の人々、一同して、やがて師を出されしと。鎌倉を攻亡したまへるは、此君果敢に其次なる所を擇られしによりてなり。〔孫子の秘訣にて、兵は拙速を貴ぶといふも此事なり。─頭注〕後醍醐帝隱岐を出させたまひて、伯耆に幸まし/\、名和長年にたのみ思召由勅有しに、一族相集て酒宴して有しに、皆案じわづらひて、言を出す者のなかりしに、弟の小太カ長重すゝみ出て、「弓とりは名こそ惜けれ。天子にたのまれまひらせて(*ママ)、尸を軍門に暴すとも、名は後代に殘さん事、思ひ出でならずや。」といひし一言に、决斷せり。皆英雄の本色とすべし。古今皆决斷するは、其次なるを擇て從はざるにあらざるはなし。是英氣の故なり。英氣害事と、程朱のいはれし言ぞ、却て大に事を害すべき。只亂世干戈の事而已にあらず、治平の世も亦然り。十全を謀る時は、いかで事を决すべき。易の泰の九二の辭にも、包荒用馮河と、聖人もヘへたまひき。
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雨森伯陽(*雨森芳洲)は、錦里先生(*木下順庵)の門人にて、對馬の書記なり。年老て橘窻茶話といへる書を著せし由。其書はいまだ覩る事を得ず。其中に、聖人者英雄の極者也、といへる語有しと語りし人あり。眞に千古の卓識なるべし。朱子も聖人必豪傑、豪傑不レ必二聖人一の論あり。世の道學先生のしる處に非ず。
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王充が論衡に、周時天下太平、越裳獻白雉(*原文「曰雉」)、倭人貢鬯草、といふ事あり。越裳中國に至りしは、周の成王の時、周公政をとりたまひし時なりといふ事、ゥ書に見ゆ。日本太古の時に當れり。鬯草の事も、吾邦の書に見あたらぬ事なり。又五雜俎(*謝肇淛)に、日本に龍蕋あり、價甚貴こと見へたり。梁任ム述異記に、日本國有金桃、其實重一斤としるせり。これ等の類多く異國の書にしるして、吾邦には曾て言傳へ聞傳ふこと(*ママ)の無き事多し。明の徐■(*{火偏+勃})が筆に、嘉靖中胡總制宗憲、有軟倭刀。長七尺、出レ鞘地上卷レ之、詰曲如二盤蛇一、舒之則勁自若。唐天寳時有二軟玉鞭一。光可レ鑑レ物、屈レ之則如レ環、伸レ之則如レ繩、亦異國所レ獻。鐵玉最堅剛之物、能屈-二伸之一、理之不レ可レ曉者、といふ事見へたり。軟刀といふもの、吾邦には聞も及ざる事なり。胡宗憲は、閩へ日本の落武者の寇せしを防て、切したがへし大將なれば、吾邦よりとり得たる者なるべし。徐■(*{火偏+勃})、胡宗憲と時世近き人なれば、必しも傳聞の過ちともいふべからず。實にかゝるもの、吾邦にも有りけるにや。
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武内大臣三百餘年を享られしといひ傳ふ。然ども日本紀には薨年をしるさず。景行天皇より仁コ天皇に至るまで、大臣として政を執たまひき。王元美(*王世貞)三代人臣の壽を考て、鯀壽百八十歳、伊尹百三十歳、呂尚百五十二歳と、其事宛委餘篇に詳なり。又呉の季子も、百歳に踰たり。此四公といへども、武内大臣に及ざる事遠し。水鏡に仁コ天皇十七年武内薨ずと見ゆ。宛委餘篇に宋史を引て、日本國有大臣、名紀武内者、年三百七歳、尤爲異聞。と記し、五雜俎にも、日本紀武内年三百七歳としるせり。武内景行天皇の十年庚辰に生れたまひしより、仁コ天皇の五十七年己巳(*原文「巳己」)に至て、二百九十年なり。然れども、景行天皇の二十五年、武内北陸及東國を監せられし事、國史に見へたり。其時壯年なるべければ、是をもて推計るに、十年(*景行天皇十年)より前に生れたるなれば、三百餘歳たる事誤ならずと覺ゆ。公卿補任には三百十二歳としるせり。
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孔子陳に在せし時、有隼、於陳侯之庭而死。楉(*楛とも。)矢貫之。石弩、其長尺有咫(*45cmほど。後出「周尺」を参照)、是を孔子に問ければ、孔子、隼の來る事遠し。此肅愼氏の矢なり。昔武王克商、道を九夷百蠻に通し、時肅愼氏(*原文「愼肅氏」)貢楉矢石弩、其括に銘して、陳に賜はりしと答させたまひしかば、古府に求しに、得之金牘といふ事、孔子家語に詳なり。國語も又同じ。續日本紀、承和六年(* 839年)十月乙丑、出丁言、去八月二十九日、管田川郡司解儞、此郡西濱達府之程五十餘里、本自無石、而月三日霖雨無止、雷電鬪聲、經十餘日、乃見天リ。時向海畔自然隕石、其數不少、或似鏃、或似矛、或K或赤、凡厥壯体、鋭皆向西、莖則向東。詢于古老、所未曾見。國司商量、此濱海地、方寸之石、自古無有、仍上言者、其所進上兵之石數十枚、收之外記局、と見へたり。亦三代實録、元慶八年(*884年)九月二十九日、出丁言、六月二十六日、秋田城雷雨晦冥、雨石鏃二十三枚。仁和元年(*885年)六月二十一日、出丁秋田城中、及飽海郡神宮寺西濱、雨石鏃。同二年(*886年)二月、出丁飽海郡ゥ神社邊雨石鏃。と見へたり。奧州壺の碑に、肅愼を去る道程をしるしたり。されば、出窒ヘ北海に出たる國たるよしいへば、肅愼(*原文「愼肅」)の地も遠からじと覺ゆ。〔今も出窒フ海邊に、石鏃往々にあるよしを聞たりしかば、衷B莊内の大夫水野明卿に請たりしかば、明卿石弩三つ、禎にあたへられぬ。國史に記せしごとく、赤も白もKもあり。莖に入る事の長さは、鏃にすべきこと、疑ふべからず。〕
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釋迦如來長/\(*ママ)一丈六尺ありしといふ。宛委餘篇にも、佛長一丈六尺以爲レ神、然其小弟阿難與從弟調達、倶長一丈四尺五寸。といふ事見ゆ。「佛長一丈六尺といふ事は、彌勒下生經に見へたれども、阿難等の長き事は、いまだ見ず。」と、吾方外の友江西禪師語りき。但し其尺は周尺(*周尺の大尺=24cm強。咫=20cm弱。丈六で3m90cmほどになる。座像で2mほど。)にてしるせしには非ざるべし。詳ならず。
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日本の古、髯剃る事なかりし也。萬葉集に、新田部の皇子の大鬚といふ事見へ、源氏物語に髯Kの大將あり。致仕の大臣のいたみにこもりたまひし時、ひげをもつくろい(*ママ)たまはぬといふ事も見へたれば、其世に至て髯剃る事はなかりし證なり。後三條帝の御時、興福寺南圓堂を作りけるに、國の重任(*ちょうにん)を關白大二條殿まげて申させたまひけるに、ことかたくして、度々成りければ、主上逆鱗ありと、仰られて云く、『關白攝政の重くおそろしき事は、帝の外祖(*なればなり)。我は何んと思はん。』とて、御髯をいからして(*原文「いからかして」)、事の外なりけるといふ事、古事談に見へたり。何れの時よりか、髯を剃る事にはなりたるにや。然れども武人は猶髯有しゆへ(*ママ)、齋藤別當實盛、鬚髯を墨にて塗りし事も見へたり。
又婦人の齒を染し事は、源氏物語にも見へたれども、男子のかゝる事をなせしは、いかなる時にや始まりぬらん。薩摩守忠度のかねKなりしといふ事、平家物語に見へたれば、是れより前に始りたるなるべし。或説に男の齒を染るは、鳥鋳驍フ御時より始るといへり。皇朝ゥ君子の衣服のこわく(*ママ)張りて衣紋をつくるといふ事、同じ御時より始れり。神皇正統記に、鳥忠@御容儀めでたくまし/\ければ、きらを好ませたまひけるにや、裝束のこわくなり、烏帽子のひたゐ(*額烏帽子)などいふ事も、其頃より出來にき。花園有仁の大臣、又容儀有人にて、仰合されて、上下同じ風になりにけると見へたり。今鏡に、花園左府有仁、御能も御みめも人にすぐれて、詩つくり歌などよませたまふ。殊の外衣紋を好みたまひて、うへのきぬなどの長さ短さなど、細にしたゝめて、其道にすぐれたまへりといふ事、詳に見へたり。眉をつくり、齒を染る事、今鏡には載ざれども、もし此左府やつくり始めたまひけんもしるべからず。戰國の比までも、武人齒を染けるも有けり。北條五代記に、關東の昔の士風俗をしるして、「常の放言にも、賢臣二君に事へず、Kいろは變ぜざるをもて、鐵漿を以て士たる人は、老若ともに齒Kをしけり。昔關東敵味方合戰し、首實撿の時、齒ぐろの首を、士の首とて先上に置けり。古の實盛は鬚髯を墨にてそめ、小田原の北條家の士は齒を染る、心は同じ事なり。」といふ事見ゆ。
常山樓筆餘 卷之一 終
解題(内藤耻叟)
序(赤松国鸞)
序(富士谷成章)
巻1
巻2
巻3