續鳩翁道話
柴田鳩翁 (男 武修 聞書)
(塚本哲三 校訂『心學道話集』〈有朋堂文庫普及版〉 株式會社有朋堂 1945.2.25)
※ 第三巻に唖者等の語があるが、古典解釈のために原文の儘とした。
※ 原文を目次小見出しに従って適宜段落に区切り、会話・心話には鈎括弧を施した。
※ 漢文は、原文の読み方に従って読み方を付した。
(正編)
(続編)
(続々編)
序(源寵天錫父)
序(中山美石)
壹之上
壹之下
貳之上
貳之下
參之上
參之下
參之上
至善はきよろりとした樣なもの
「詩に云ふ『邦畿千里、これ民の止まるところなり。』」これまた大學の傳に、「商頌」玄鳥の篇(*『詩経』の篇名。殷王朝の始祖説話として玄鳥説話を歌う。)を引て、經文至善にとゞまるの工夫を御しめしなされたのでござります。まづ「邦畿」とは、たとへば山城・大和・河内・和泉・攝津を五畿内といふやうなもので、畿内は天子の御座所、千里とは其廣きをさして申しまする。「惟民の止る所」とは、からもやまとも、天子のおはします所を都というて、土地うるはしく、四方へ通路よく、何ひとつ不自由なる事なく、おのづから風俗もいやしからず、萬事につけて便よければ、人多く集りすむ。「止る」といふは其所へうつり住んで、外へ動かぬと申す事じや。されば此詩をおひきなされたる意は、「人の本心、もと明らかなるものなれば、此にしたがふときは、君に事へ、親につかへ、夫に事へ、目うへに事へ、世間の人にまじはるまでも力をいれずして、自由自在なれば、此にとゞまれ。」とのおしめしでござります。これを「至善にとゞまる」といふ。
さてこの至善は、形の上で見ますれば、孝弟忠信、禮義廉恥、そのあぢはひをいはんとすれば、唖がゆめを見たやうなもので、人に對して話されませぬ。しからば何もない歟と申せば、ないではない。押て申さうなら、きよろり(*ぼんやり・けろり)とした樣なものでござります。又斯申すと早合點して、「さては何も知らぬ、きよろさく(*「きょろり」とした者の意か。)を見るやうなもの歟。」とおもへば、先師堵菴先生の道歌に、
きよろりとはいかなるものかしらねども味噌をねぶれば味をしる
と申して、たとへば、長吉どのが晝寐をしてゐる。男とも知らず、女とも知らず、また寐てゐるとも知らず、なにも知らぬところへ、旦那どのが「コレ長吉。」とおよびなさると、其聲の下から、「ハイ。」と返事が出る。またおさよどのが「長吉どん。」と呼ぶ聲のしたに、「オイ(*受け答えの返事。「はい」は改まった感じを表す。)。」と返事が出る。この「ハイ。」と「オイ。」とは何ものが分別して、返事をしわけた。チト考へて御らうじませ。味噌をねぶれば味をしる。しかも知るといへば、何ぞ知るらしいものがある樣に聞えますれど、なにも知るらしいものはござりませぬ。又「ない。」といへば、何もないと御合點なさるれど、中々さやうなものではござりませぬ。所詮あるともないとも、分別はとゞきませぬ。只きよろりといたして、用が勤まるのでござります。
我なしのつとめ
今ひとつ申して見ませう。赤子の生れおちた所は、只芋蟲を見る樣にうご\〃/と動くばかり、目もみえねば、さだめて耳も聞えますまい。もとより物はいはれず、たゞホギヤア\/。此とき知惠らしいものも、分別らしい物も、何もありさうには見えませぬ。しかるに母おやが乳ぶさをふくめると、赤子が舌をもつて其乳ぶさをまいて、乳を吸ひます。この乳首を舌でまかねば吸はれぬといふ事は、何者が分別したぞ。ナント奇妙なものではござりませぬ歟。その赤子がどうもせずに只大きうなりましたのでござります。三つのとし知惠を貰うたのでもなし、五つから分別出來たのでもなし、もとよりただ赤子が成人したのなり。しからば三十も赤子、五十も赤子、八十も赤子、赤子となにもかはりはない。
赤子には私の心がない。至善ばかりじや。大人には私の心が有つて、夫だけ赤子とちがひます。かるがゆゑに、孟子も、「大人は、その赤子の心をうしなはず。」と仰せられました。赤子の心とは、只私の心のない事を申しまするのじや。私心がなければ、至善ばかりで、我といふものはない。我といふものがなければ、只むかふがまゝなり。向ふまゝなれば、忠孝おのづからつとまる道理、この「我なし」を見つけよと、先師がたの御世話をなされるのでござります。すでにいろはうたにも、
我をたてねば惡事は出來ぬしれよこゝろに我はない
と堵庵先生も仰せられて、「我なし」の勤は、勤といふことを知らぬ。もし勤を知る事あらば、それは「我あり」といふものでござります。「おれは嫁じや。」「おれは姑じや。」「おれは旦那じや。」「おれは娘じや。」「おれは親を大事にかけてゐる。」「おれは奉公に精を出してゐる。」と覺えたらば、本眞ものではござりませぬ。
たとへば、人つねに額を忘れてゐれど、額を覺えると、かならず頭痛がしてある。齒はつねに忘れてゐれど、覺ゆるときは齒がいたんである。此方にこたへがあると、眞ものではござりませぬ。今一つたとへて申しませう。楊弓をひくに、的にあたれば、カチリと音がして、矢が戻り、こたへがある。しかれども、是は的の眞中に中つたのではない。きりというて、的のまん中に穴がある。これにあたると、矢ももどらず、カチリといふ音もなく、こたへがない。こゝが至善の場じや。これを「我なし」と申します。カチリ\/と音のする間は、まだ我があると思しめせ。若また大間違にまちがうて人の道を失ひますると、する事なす事、矢が幕へあたつた樣なもので、尻すぼりに、ごそ\/と落ちてしまふ。埒もないものでござります。「道は須臾もはなるべからず。」(*『中庸』の句。)道にあたれば、生れるも死ぬるも、苦しむも樂しむも、我なしでするゆゑ、我にはあづからぬ。かるがゆゑに、大安樂でござります。又人のみちを失ひますると、生死苦樂、しつかりとこたへが出來ます。是は丁度、いたむに依つて齒をおぼえ、いたむによつて額を覺える樣なものでござります。このところをヨウ味うて御らうじませ。兎角道でなければなりませぬ。「朝に道を聞いて、ゆふべに死すとも可なり。」と孔夫子の仰せられたは、僞ではござりませぬ。
何でも近路を好む人
斯う申しても、かしこいお人は中々御合點なされぬ。「聖人の道じやの、仁義五常のみちじやのと、そんなまはり遠いみちでは、今の時節に世わたりが出來るもの歟。とかく近みちでなければならぬ。」と、滅多に近みちをこのむ人があるものじや。其ちか道トントあてには成りませぬ(*原文「成りませせぬ」)。
これについて可笑しいはなしがある。さるところに勘辨者(*物事をよく考える人・打算的な人物)が有つて、何事によらず、近道をこのむ人じや。あるとき一人旅を致されましたが、途中において、尾籠な事じやが、急に大便にゆきたうなつた。日ざしを見れば四つ半すぎ(*午前十一時頃)、「いま一息あるいたら驛までゆくのじやに、こまつたものじや、大用に隙がいると、餘ほどの道を損せにやならぬ。どうぞあるき\/用を便じる仕かたはない歟。」と、色々と近道をかんがへても、小用とちがうて、大用は工めんがわるい(*よい算段がない)。とかくするうち、ます\/急に成つてくる。せんかたなさに、道ばたの野雪隱(*屋外の雪隠の意か。)へはしりこみ、ほしいまゝに黄海(*後架か。)にまたがりながら、「是はつまらぬ。斯隙どつてゐると、大分のみちがおくれる。どうぞ仕やうはない事か。」と勘辨を廻らしたが、忽ち一つの近みちを思ひついた。其子細は、「時は晝まへ、今こゝで隙をいれて、又むかうの驛で晝支度をすると、二重三重の休息になり、ことさら茶の錢もいり、かた\〃/もつて不勘辨(*不経済・不合理)じや。それより、斯してゐる隙に、懷中の辨當をしてやると、茶の錢もいらず、二重やすみもせず、至極よいちかみちじや。」と、靜にやき飯(*焼結)をとり出し、菰だれのすきまから、菜種ばたけを遠見して、悠々と給てゐられた。扨樂あれば苦ありじや。氣のどくな事が出來た。山蜂(*スズメバチの類)の大きなやつがかの雪隱へ飛びこんで、大事の所をさしをつた。びつくりして蜂はらふ拍子に、手にのせた皮包の燒飯を、おもはず野壺(*野原や屋外の肥壺)へとりおとして、又びつくりし、暫くのぞいてゐられたが、横手を打つて、
「ハヽアこれは近道じや。」
といはれた。
ナントおもしろい話ではござりませぬか。これほどの近道はない。燒めしをかみこなして、喉を通し、腹を通して、而して後、下へおろすのでござります。それを直に手のひらから野つぼへおとしたものなれば、弓と弦ほどちがふ(*回り道と近道の違いを形容する句。)近みち、此上の近道はない。
こゝが大事の聞きどころでござります。近みちはちか道なれど、喉をこさぬとやき飯が實にならぬ。まはり遠いやうでも、本街道でなければ近道はやくにたゝぬ。金まうけの近みちしては、相場事にかゝり、立身出世の近みちしては山事(*投機的な仕事)にかゝり、婚禮のちか道しては主・親の家をほり出され(*=放り出され)、葬禮の近道しては心中・身なげ・首くゝり、みな氣のみじかい人たちじや。「短慮功をなさず。」のうたに、
いそがずばぬれざらましを旅人のあとよりはるゝ野路のむらさめ(*にわか雨)
しばらく見あはせて辛抱すると、時節到來のあるものを、さり迚は短氣ものが多い。
心學をするは安樂なもの
「綿蠻たる(*小鳥の囀り声の形容)黄鳥、丘隅にとゞまる。」(*『詩経』〈綿蛮〉)というて、聲面白うさへづる小鳥も、身の大事はよう知つて、高いところや木深いところの、枝葉のしげつた中に身をおいて、やすらかに遊んでゐる。これは弓・鐵砲もとゞかず、うつ事のならぬ所を考へてとまるのでござります。さるによつて、孔子も、この詩を御評判なされて、「止るにおいて、其とゞまるところを知る。人をもつて、鳥にだも如ざるべけんや。」と仰せられた(*未詳)。これは鳥におとるといふ事ではない。「人として、鳥にもおとるべき歟。」と激まして、志をおこさせ、「我なし」の場所にとゞまらさうと、有りがたいお示でござります。すべて、鳥にかぎらず、蜘蛛は大風ふく前には巣をたゝみ、狐は雨ふるまへに穴をふさぐと申しつたへて、未然にそのわざはひを用心いたします。人は只、利欲のためにまなこくらんで、目の前に倒るゝことも知らず、「あれがほしい。」「これがすまぬ。」と、何事も自分の才覺で出來るものの樣におぼえ、ならぬ事もなる樣に心得て、無理無體にくるしみます。其實はあくびひとつ、くつさめ(*くしゃみ)一つ、指一本うごかす事も、時節到來でなければ、本眞の事は出來ませぬ。心學をするは、何も外の事を稽古するのではござりませぬ。なる事はなると知り、ならぬ事はならぬと知る。故に甚安樂にござります。此安樂をせうとおもへば、本心を知るが始じや。本心を知れば、無理は出來ぬ。もし本心を知つて無理をする人が有つたら、それは本心を知らぬのでござります。
極樂へ行つた死人の話
かく申せば、わたくしが無理せず、無理いはぬやうに聞えますれど、中々さやうではござりませぬ。「箕うり笠でひる。」(*「箕売が古箕」とも。)と申して、かへつて常に無理をいたします。是について今ひとつ話がある。ちやうど私のやうなものが、死んで極樂へ參りました。觀音・勢至が御出むかひなされて、やがて阿彌陀如來の御前へつれて御出なされた。如來のおつしやるには、
「向後其方も、極樂の仲間いりをするものなれば、ごくらくのやうすも見覺えておかねばならぬ。今日はまづ見物をしたがよい。」
と、觀音さまに案内を仰附られました。觀世音心得て、かの亡者を導き、そここゝと極樂の體相を御見せなさる。七寶莊嚴目をおどろかし、天人の舞樂耳にみち、八功徳池には蓮のはなざかり、伽陵頻伽のさへづる聲はうぐひすよりもおもしろく、あなたこなたと見物するうち、一の堂へ御案内なされた。見れば、質屋の藏の中見るやうに、四方に棚をつりまはして、夥しいきくらげ・數の子がつみ上げてある。さては百味の飮食を調進する御臺所かとおもひ、觀音さまに申すは、
「あの仰山なきくらげは、佛達の食物になりますの歟。」
と問ひましたれば、
「イヤ\/あれはきくらげではない。」
「それなら何でござりまする。」
「さればあれは、人、娑婆にありしとき、常に忠孝の話を聞いて、實にもと思ひ、また談義・説法を聞いてありがたいと思へども、身につとむるところの所作は惡いことばかりしてゐる者が死ぬると、からだは無間地獄へおち、耳ばかり極樂まゐりする。あれは耳の佛になつたのじや。」
と仰せられた。ソコデ又おたづね申すは、
「耳の干物は聞えましたが、あのかずの子は、極樂には不似合なもの、あれはどうしたことでござりまする。」
觀世音お叱りなされて、
「めつさうな(*とんでもない)。極樂に腥いものがあつてたまるもの歟。あれはかずの子ではない。娑婆にあるとき、口に忠孝をのべて人を教訓し、口に經論を説いて人を濟度し、しかもその身は氣ずゐ氣まゝをはたらく、そんなやつが死ぬると、からだは忽ち地獄へゆき、舌ばかり極樂まゐりする。あれは舌の干物じや。」
と仰せられた。
ナントこはい話ではござりませぬ歟。私どもは舌ばかり極樂まゐりする連中、またわるうすると、あなたがたは耳ばかり極樂まゐりするお仲間うちじや。御油斷はなりませぬ。感心上手のおこなひ下手。口ばかりの龍がしら(*未詳。)で、尻のないにはこまつたものじや。
家の本は身、身の本は心
堯舜の御代といへば、遊んでゐても口過の出來るもののやうに思ひ、延喜・天暦の聖代といへば、只酒のんでゐらるゝとおもふは、みな迷ひでござります。聖人の御代ほど、家業に精出し、正直にせねば、世渡りは出來ませぬ。お互に今日、けつこうな御代に生れ合せ、亂ばう狼藉の患もなく、山家の隅々、海のはし\〃/まで、何ひとつ不自由ない、有難い御上樣の御仁惠をかうむり、せめてもの冥加のために、めいめい分限をかへりみて、其止るべき所にとゞまり、大切に御法度を守りて、少しでも御苦勞をかけたてまつらぬ樣にいたさねば、罰があたります。かした物を返さぬ歟、何ぞつまらぬ事が出來ると、御上樣の御存じ遊ばした事の樣に、假初にも公事訴訟、勿體ない事ではない歟。これ皆其とゞまるところに止らぬによつてじや。止る所とは、主人は家來をあはれみ、家來は主人をうやまひ、子は親に孝、親は子をいつくしみ、世間の人とは眞實にまじはる、これがお互の止り所じや。もし此場所をふみはづすと、何所まで落ちてゆかうやら。むしろの著物に竹の杖まで、うろたへると落ちまする。自分の不了簡には氣もつかず、時節がわるいの、鬼門がたたるのと、雪隱をたて直したり、親のゆづりの家藏を切りくだいたり、時節に科を負せて見たり、家藏に科をおふせて、我とがを遁れうとすれども、天罰はのがれぬ。尤家相も方角もかまはぬと申すのではござりませぬ。それ\〃/道理のある事なれど、所詮算用しあげた處は心の事じや。家の本は身、身のもとは心じや。其心がゆがんで有つたら、人相がようても、家相がようても、方位がようても、とても叶はぬ。内のやまひは、外から膏藥はつても治らぬ。人相がわるいというて、ゆがんだ鼻がねぢ直されるものでもない。然れども、心のたて直しさへすれば、恐い顔も柔和になり、下品のすがたも上品になる。只大せつなは心のもち樣じや。
面作りの話
わが友何がしといふ人、商賣の透間、なぐさみに面をつくられましたとき、或人のいふは、
「此頃は顔色もよからず、なんぞ腹のたつ事はないか。」
と問はれました。何がし合點ゆかず、
「さらに腹たてた覺はござらぬ。」
といふ。たづねし人、ふしぎさうにして、歸られました。其のち半季ばかりたつて、又面を作る。さきに尋ねし人、折節また來あはせました。何がしさきの事をおもひ出し、
「此頃わが顔色は、いかに。」
と問ひましたれば、かの人うち笑ひて、
「至ごく柔和で、前に見し顔色とは、大きなちがひじや。」
といはれた。
何がし此ときはじめて心附きましたは、さきに顔色の恐ろしといはれしときは、鬼の面を作つてゐた。此面を作るには、かならず齒をくひしばり、眼をいからせなど、こゝろにさま\〃/工夫してつくる。其心わが顔色にあらはれ、恐ろしう見えたものと見える。今またおたふくの面をつくる。心にいかにも愛敬を思うて作るゆゑ、わが顔色、おのづから柔和に見えたものと覺える。「さるにても心は大事のものじや。」と物がたりいたされました。
これでヨウお考なされませ。古人の語に、「一切の法は、一心の異名なり。」というてある。心をすてて、別にとるべき法はない。心を正しうし、家業を精出して、家相も人相も見ておもらひなされませ。 休息。
參之下
我なし極至善にとゞまる
水鳥のゆくもかへるも跡たえてされどもみちはわすれざりけり
ナント有りがたい歌じやござりませぬか。飯たきのおさんどんが、目をこすり\/、釜の前で火うちカチカチ。此とき何がある。「わしは大和の新口村で生れ、藪際の、次郎兵衞後家のむすめじや。」ともおもはず、手でうつやら、足でうつやら、さつぱりと何もない。「されども道はわすれざりけり。」見事茶がまの下がもえる。旦那どのが、神の棚のまへで、どんがめ(*団亀=すっぽん)や鯉鮒をよぶやうに、かしは手パチ\/。此とき金もちらしいものが有つた歟。百貫目もちやら、千貫目持やら、立つてゐたやら、居つてゐたやら。「されども道は忘れざりけり。」影もかたちもない人が「子孫長久。商賣繁昌。」といふ。何がいうたぞ。うまいものじやござりませぬ歟。朝から晩まで、「我なし」で勤めてござる。樂なものじや。これを「至善に止まる。」と申します。「至善に止る。」といへば、何ぞ至善らしいものがある樣におぼえ、窮屈がつて、きく事もいやがる。至善はそんな、石で手をつめた樣なもの(*動きのとれない、窮屈なもの)ではない。あなたがたの、日がな一日何心なう仕てござる事が、皆至善の働じや。
斯いふと、早合點する人は、「そんならおれが、おやま買ふのも、ばくちうつのも、皆至善歟。」とおつしやらう。さううまうは立合はぬ。至善は何もおぼえませぬ。「我なし」のきつすゐじや。ばくちうつたり、お山買のは、「われなし」では出來ぬ。「人が見附けはせぬ歟。」「聞いてはゐぬ歟。」「内の首尾はどうあらう。」と、何かは知らず、苦しいものをになひあるく。ナント至善に止まらぬといふものは、窮屈なものではござりませぬ歟。心に何ともなかつたら至善じや。心に咎めることが有つたら、「我なし」ではござりませぬ。どうぞ御機嫌よう、一日「我なし」でお勤めなされませ。樂なものじや。
越前の次左衞門の話
此「我なし」を、ようつとめた人がある。序におはなし申しませう。越前の國、大野郡大野領に、西市村と申して、御城下をはなれまする事半道ばかり(*半里ほど)、高八石(*石は十斗・百升。)あまり持ちましたる次郎右衞門といふ百姓がござりました。女房には早うはなれ、忰一人もちまして、名を次左衞門と申しまする。親子さしむかひで農業をつとめて居りまするうち、親類よりも、この次左衞門に嫁の世話をしてくれるものもござりましたれど、次左衞門合點いたしませず。その故は、「次第にとしよられる親の事なれば、せめて心づかひを懸けぬ樣にいたしたい。他のむすめをもらへば、少々親の氣にいらぬ事が有つても、義理なれば辛抱もせねばならず、左すれば、親に苦勞をかける事ゆゑ、まづ女房はもちますまい。」と、かたく斷を申して、心やすう親子くらされました。ナント有りがたい志じやござりませぬか。是に引きかへ、世間には、年のゆかぬうちから女房を持ちたがり、百文の錢をまうけるすべも知らず、親のお蔭でひだるい目せぬを、己が力とおもひ、わが口ひとつ給るほどの手覺(*経験して身についたもの)もないくせに、「あんな器量は氣にいらぬ。」の、「こんな娘でなければならぬ。」のと、小言八百いひちらす不孝な子もあるのに、此次左衞門は、親の心をやすめうと、女房をことわりいふは、さりとは(*さてもまあ)やさしい志じや。これがほんの「我なし」と申すもの、則ち至善に止まつてゐるのでござります。
孝行するには我身を省みざる説
さて父の次郎右衞門は、ことの外長いきしたる人で、すでに年八十あまりに成つて、老にほれ(*老に耄る=おいぼれる・耄碌する)じや。ことばや所作も不揃になり、たゞ小兒の樣になられました。たとへのふしに、「八十の三つ子」(*老齢になって再び小児のようになること。)と申す通り、ぐわんぜのない(*分別のない)所作にて、九十六歳まで存命せられました。すべて此十六ヶ年の間、あとさきわかぬ親につかへて、一度もそむかず、實に「我なし」の行状。その一二ヶ條をおはなし申しませう。
あるとしの冬、みぞれのつようふりまする日、次左衞門村用にて、御城下の郷宿、油屋何がしといふかたへ參られました。亭主何がし、次左衞門が形を見まするに、簑かさも著ず、半道あまりをみぞれにうたれて參りましたれば、衣類は悉くづぶぬれ。亭主大におどろき、
「今朝よりのみぞれに、何ゆゑみのかさを著てはござらぬぞ。若寒氣にあたらば、いかゞせらるゝ。早う衣類をぬがつしやれ。火にあぶつて進ぜませう。」
といふ。次左衞門、笑ひながら、
「イエ\/ぬれあるくは常の事じや。親ども(*「ども」は謙遜の意の接尾語。単数・複数ともに用いる。)のいはれるやうに致しますれば、おかげで寒氣も身にいりませぬ。出がけに簑かさの用意をいたしたれば、親どもがいはるゝには、『此天氣のよいに、簑かさをきたら人がわらふ。やめにせよ。』と申されました。夫ゆゑに、簑かさはきませぬ。」
と、何氣なき體に申されました。
此事は油屋何がし、私へ直にはなしでござりまする。すべて忠孝の人は、寒暑もたやすく、身を傷る事が出來ませぬ。何ゆゑなれば、常に精神みちて、少しのすき間がないゆゑ、寒邪その虚をうかゞふことが成りませぬ。銘々どもは、飽くまでにくらひ、暖に著て、猶それでも飽きたらず、火燵に寄り、すき間の風をふせぎ、其うへ居間に火鉢をたくはへ、間をあたゝめると名づけて、しきりに暖氣をこしらへ、剩、酒をのんで晝寐まする。これでは寒氣にあたらねばならぬ筈じや。其うへに、間思雜慮で氣をやぶり、透間だらけのからだへ、滅多に陽氣をかり込んだものじやによつて、立居する拍子に必陽は陰をまねいて、かのすきまより寒邪をうちへ引きいれますると、夫から肩がこるやら、頭痛がするやら、齒がいたむやら、難なく、至極の病者となる。はなはだこはい事じや。わたくしども(*「ども」の意味は前出。)が、年中かやうなことをして、すたれものに成りました。御用心なされませ。忠孝はよい事といふばかりではない。第一はからだの養生、長生する妙術じや。どなたもお勤めなされませ。
又あるとき次左衞門、菜種を賣りまして、金三歩(*歩=分。1分は四分の一両。)をうけとり、てゝ親に見せて、
「これ程になりました。」
といふ。父はにこ\/して、
「其うち二歩、おれによこせ。」
といはるゝ。「ハイ。」というて、金二歩をわたし、さらに其子細を問ひませぬ。父は二歩のかねを財布にいれ、首にかけて、
「うちの馬が大分よわつた。此二歩の金を、あの馬に足して、博勞どのへ往て、よい馬と仕かへて來う。」
といふ。次左衞門大によろこび、
「ホンニ馬がよわりました。御くらうながら、よい馬とお仕かへなされて下されい。」
と申されました。實は小百姓の事なれば、馬を持ちはいたしませねども、父が馬といへば、其意にしたがうて、馬といふ。さらに一言も咎めませぬ。菜種代、金三歩は、小家ではいたつて大切の金でござりますれども、父の望むときは、明日の事も思ひませず、たゞ父のこゝろにまかせて、一言も口ごたへをいたしませぬは、いたつて成りにくい事ではござりませぬ歟。
さて次郎右衞門は、老にこそほれたれ、もとより達者なれば、かの二歩の金を持つて、杖にすがりて、御城下へ出で、あなたこなたと古道具屋をみあるきましたが、或家にて、塗盃のかけ損じたると、印籠のそんじたるを手にとり、直段を尋ねましたれば、此家の亭主、心ざまのよからぬ者か、「代金二分なり。」と申しました。次郎右衞門よろこんで、二歩の金をわたし、かの印籠とさかづきを持つて家に歸り、
「コリヤ\/次左衞門、よいものをもとめて來た。これを見よ。」
と出して見せる。次左衞門これをみて、
「是はよいものを御買ひなされました。」(*原文「これは」の後に鈎括弧を施す。)
次郎右衞門笑うて、
「缺けそんじたる所を直しておくと、お客のあるとき間に合うと思うて買てきた。」
「左樣なら、ぬり物やへやりませう。」
「オヽさう仕やれ。又此印籠はくすりを入れて、其方が腰にさげてゐると、田へ往たとき、にはかに腹でもいたい折に間に合うとおもうて、かうて來た。」
といはれました。次左衞門落涙して、
「有りがたうござりまする。ヨウ氣を附けて、買て來て下された。」
と眞實に悦ばれたと申す事じや。
すべて此次左衞門、老に耄たる父につかへて、更に父を老にほれたる人とせず。何故なれば、只親にむかへば親ばかりにして、我といふものをたてねば、詞を返す世話もござりませぬ。此一條、古人のいはゆる「孝子に私のたからなし。」(*未詳。)とあるは、これでござりませう。
されば次左衞門の孝心、人を感ぜしむる所あるにや、はるかに日がたちまして後、かの古道具屋、孝心のほどをつたへきゝまして、心に恥かしう思ひましたか、ひそかに二歩の金を持參し、無調法(*不始末・至らぬこと)のよしことわりいうて、缺損じたる道具を乞ひもどして歸りましたとうけたまはりまする。
又ひととせ秋のはじめ、父の次郎右衞門、わが田を見まはりに出ましたが、俄にかへつてしかり聲にて、
「餘所の田はみな苅入をしたのに、ナゼこちの田は苅らぬのじや。早う往て田をかれ。」
といふ。次左衞門、こゝろよううけ合ひ、
「この頃はことにおくれました。ドレ往て苅て來ませう。」
と、鎌を腰にさいて出かけましたが、頓て少々苅てもどりました。父大に悦び、
「よう苅て來た。」
と、一段のきげんであつたと承りました。この時まだ秋のはじめ、青田でござりまするを、一言も詞をかへさず、親の意にまかせて青田をかつて來ました事、見る人みな感心せぬものはなかつたと申す事じや。實にめづらしい孝子でござります。
猶この外、次左衞門の行状、中々一夕二夕には申し盡されませぬ。中にも耳をおどろかす行状、いま一つおはなし申しませう。父次郎右衞門、とし九十あまりのとき、何おもひました歟、次左衞門にいふやう、
「そちが月代は、きつと延て見ぐるしい。久しぶりでおれが剃てやらう。剃刀を合せて持てこよ。」
と申されました。次左衞門こゝろ得て、
「いかさまこの頃は、いそがしさに取りまぎれて、髪月代もいたしませぬ。夫はありがたうござりまする。どうぞ剃つて下さりませ。」
と、剃刀をとり出し、能くとぎて父にわたし、其身は水にてさかやきをぬらせば、父はわが膝を叩いて、
「こゝを枕にせよ。」
といふ。ハイというて横になり、父の膝を枕として、すこしも恐れたる色はござりませぬ。
さて此はなしを致しますると、中には理屈をおつしやる方があつて、「夫は孝子といふものではない。大膽ものといふのじや。九十にあまつて、老耄したる親に、剃刀をもたせるといふ事があるもの歟。もし親の身に疵が附いたら何とするぞ。またおのれが身にあやまちがあつたら、どの命をもつて、親を養ふぞ。中々孝子といふものは、其樣なあやふい事はせぬものじや。」とおつしやる。隨分御尤でござります。去ながら大舜か、または孔夫子が此次郎右衞門におつかへなされたらば、常に髪さかやきも立派にして、箇樣に不意のことばを聞かぬ樣になされませう。邊鄙にうまれて、本もよまぬ、百姓一むき(*一途)の人なれば、夫ほどにまではとゞきませぬ。しかし此理屈は、其場の時宜(*〔しぎ・じぎ〕その時の状況)、そのときのもやうを知らぬ人が、疊のうへで分別していふことじや。めい\/共は兎角、その知惠づかひがあつて、親のこゝろにしたがふことが出來ませぬ。「この金がみなに成つたら(*尽きたら)、あすはどうせう。」「青田をかつたら、あとの工めんがわるからう。」と、とかく前後に氣がつき過ぎて、得て親の氣をやぶりまする(*気持ちを傷つける・機嫌を損う)。孝子は親ある事を知つて、我ある事を知らぬ。晉の王祥が氷をたゝいて鯉をもとめ、呉の孟宗が雪中に笋をぬき、後漢の郭巨が兒を埋めころさんと致したこと(*母親を養うために、自分の子どもを生き埋めにして口減らしを図った。)など、今の人に見せたら、氣違のやうに思ひませう。是はこれ、「親に鯉がたべさせたい。」とおもふ心ばかりで、氷をふむのあやふきを知らず、「親に笋をまゐらせたい。」と思ふ心ばかりで、時節をわするゝ。これみな古今孝子の常でござります。日月はいまだ地におちず、神明のてらし給ふ所、孝子のこゝろざし、感應のないといふ事はござりませぬ。もとより次左衞門は、父を老耄せし人とは生涯思はず。さるによつて、其危きを知らぬのでござります。此知らぬのが、中々常人の及ぶ所ではござりませぬ。しかればというて、親が盜をしに行くのに、子が其提灯もちをする(*お先棒を担ぐ)を孝行じやといふのではござりませぬ。幸ひおたがひに箇樣の變に出合ぬは、ありがたい事でござります。
さて父の次郎右衞門は、ふるふ手に剃刀をもち、次左衞門が左の鬢のかみを、何の苦もなく、ゴソ\/とそり落し、手を以て其跡を撫ながら、
「さてもうつくしう成つた。」
といふ。次左衞門も又自らなでて、
「ホンニうつくしう成りました。」
と、親子もろとも、うち笑うて居たるとき、庄屋何がし、折ふし用事ありて參りましたが、此體を見て大にあきれ、其子細を問ひましたれば、次左衞門ありのまゝにはなして、顔つき平生にかはらずと承はりました。
さればこれらの行状、終に御領主樣の御聞きに達し、御褒美として御米おびただしく下し給はりしかば、隣境これをつたへ聞いて、おのづから不孝の子弟もかれこれ行状をあらためましたるものもござりましたといふ事じや。語(*論語)にいはく、「徳孤ならず。かならず隣あり。」との聖語、むなしからず。此西市村は小村にて、家數わづかに十五六軒、しかれども孝子順孫(*従順な子孫)、相つゞいてたゆるときなく、今なほ、又市長右衞門など申して、御褒美頂戴いたしたる人々、堅固に耕作をつとめてゐられまする。
大孝は身を終るまで父母を慕ふ
さて父の次郎右衞門、九十六歳にて病死いたされました。次左衞門もそののち、甥をやしなうて子といたし、その身は生涯無妻にて、長壽いたされました。寛政二年(*1790年)すでに年七十歳、そのころの太守樣、ことさらに御仁惠ふかく、老人御いたはりとして、御領分中へ御酒下さるゝにつき、六十已上の老人を村々にておしらべなさるゝ事がござりました。去によつて西市村にも、村役人の宅へ、次左衞門をまねき、其としを尋ねられました所が、次左衞門さらに年を申しませぬ。
「何ゆゑぞ。」
と(*原文「と」の後に鈎括弧を付す。)問へば、
「さる子細あつて、私の年はどうも申されぬ。」
といふ。村役人もこまり、
「此度の事は、御領主さまの御慶事につき、御酒代を下される事なれば、有りがたい事じや。何も年をかくすには及ばぬ。あり體に(*ありのまま)いはれよ。」
といふ。然れども次左衞門一向承知せず、
「何ぶん年を申すことは、御免にあづかりたい。」
と、ひたすらに申しまするゆゑ、據なく段々、このよし御重役へ聞えまして、終に御役人さまより御吟味になり、
「何ゆゑとしを申さぬぞ。もし申されぬ子細あらば、其子細を申せ。」
と仰られました。ソコデ次左衞門も詮方なく、
「さやうならば、年の申されぬ子さいを申し上げませう。私親次郎右衞門、存命中、わたくしへ申しまするには、『其方がとしを人がたづぬるとも、必ずいうてくれな。そちが四十になるの、五十になるのと年をいうてくれると、おれはいかう心ぼそう思ふによつて、必としをいうてくれな。』と申されました。親ども相果てまして、年月は立ちますれども、申されましたることは、猶耳のそこに殘りまして、今のやうに覺えまする。ことさらお佛壇に見てござるゆゑ、なんぼう御上樣の事でも、こればかりは御めんなされて下されい。」
と、落涙して申されました。是によつて、此段御聞に達しましたれば、殊の外御感心あそばされ、其せつ又、御褒美を頂戴、仰附られました。誠にありがたい、珍しいことでござりまする。孟子に、「大孝は身を終るまで、父母を慕ふ。」と見えましたるが、この西市村の次左衞門は、實に其人とぞんぜられます。
古金一歩を得たる孝子の話
これについてをかしい話がある。さるところに不孝な息子どのが有つて、母御の手にあはぬ。友だちが氣のどくがつて、さる先生のかたへ道話を聽聞につれてゆきました。其夜の道話に、「むかし或國に孝子が有つて、家まづしい。しかるに親子とも大病にとりあひ(*遭遇し)、こしが拔けてたつ事が出來ぬ。已に餓死にもおよぶ所に、孝心のほど、天の感應ありしや、隣の鷄が、ある日土のかたまりをくはへて、かの孝子のまくら元に運ぶ。ふしぎにおもひ、碎き見るに、古金一歩を得たり。これをはじめとして、日々にはこぶ。終に此かねをもつて、藥をもとめ、本復して、剩、のこる金を元手として、家をおこしたり。」といふ話を、かの不孝もの、大に感心して、聞いて居ましたが、内へもどつてはゝおやにいふは、
「おれもこれから孝行するほどに、鷄を二三羽かうて來て下され。」
といふ。母おやよろこび、
「孝行は嬉しいが、其鷄は何にするのじや。」
「ハテさて(*不満や打消の意を表す。)買うてござれといふに、跡でしれる事じや。」
「それでも、鷄が孝行になりさうな事でもない。殊に此米のたかいのに。」
と、半分いはせず、
「ハテやかましい。こなたの樣に小言いふと、孝行も出來るものじやない。『老ては子にしたがへ。』じや。往て買うてござれ。」
といふのに、母親もせんかたなく、にはとりを二三羽かうて來た。ソコデ息子はうれしがり、舌つゞみうつて鷄をよび餌をやりながら、
「コレ母者人、そちら向つしやれ。背中さすつてやらう。」
「イヤ\/私は肩がつかへ(*肩がこり)はせぬ。」
「又こなた小言をいふ。だまつて肩を出さつしやれ。」
と、無理無體に肩をさする。鷄がうらへゆくと、酒飮んで寐て居をる。とかくして、三十日計たち、「モウ鷄が土くれをくはへて來さうなものじや。」と、毎日まてども、しるしがない。不孝もの大きに氣をいらち(*苛立たせ)、「さりとては目のあかぬ鷄じや。これ程に孝行するのが、己が目にかゝらぬ歟。よいかげんに目をさませ。」と、鷄をつかまへて述懷(*愚痴・不満)いふ。鷄も氣のどくに思うた歟、ある日、土のかたまりをくはへて來る。息子は悦び、「これは大ぶん大きなかたまりじや。小判であらう歟。二歩金であらうか。」と碎て見たれば、蚯蚓が出た。不孝者肝をつぶし、「ナンボウ時節柄でも、せめて一朱ぐらゐは有りさうなものじやに、此ざまは何じや。」と、にらみ附けて叱りますれば、鷄もかんしやくに障たやら、大きな口明て、ベツカコウ(*べかこう・べっかっこう=あかんべえ)と啼きました。
ナントおもしろいはなしでござりませぬ歟。家業もせずして「金がほしい。」の、わるい身持で「よいところへ嫁入がしたい。」の、遊んでゐて「うまいものがくひたい。」の、博奕うつて「譽められたい。」のと、そんなこといふ人は、みなベツカコウにあふ御連中じや。此無分別をやめにして、どうぞ至善の場にとゞまり、「我なし」でおつとめなされませ。ある人のうたに、
よしと見る其ひとふしをなには江のあしかるかたにうつさずもがな
あとは明ばんおはなし申しませう。 下座。
(*続編參巻了。)
序(源寵天錫父)
序(中山美石)
壹之上
壹之下
貳之上
貳之下
參之上
參之下
(正編)
(続編)
(続々編)