1561 | 辛酉 | 永禄四 | ○藤原惺窩、播州細河邑に生まる。○海外、明の世宗の嘉靖四十八年。 |
1562 | 壬戌 | 五 | |
1563 | 癸亥 | 六 | |
1564 | 甲子 | 七 | |
1565 | 乙丑 | 八 | ○江村專齋、平安新在家に生まる。父を既在と曰ふ。聞香の技を以て其名時に著はると云ふ。 |
1566 | 丙寅 | 九 | |
1567 | 丁卯 | 十 | ○藤原惺窩、龍野昊東東明和尚に従ひて句讀を受く。時に年七歳。○海外、明の穆宗の隆慶元年。 |
1568 | 戊辰 | 十一 | |
1569 | 己巳 | 十二 | |
1570 | 甲午 | 元龜 | |
1571 | 辛未 | 二 | |
1572 | 壬申 | 三 | |
1573 | 癸酉 | 天正 | ○海外、明の神宗の萬暦元年。 |
1574 | 甲戌 | 二 | |
1575 | 乙亥 | 三 | |
1576 | 丙子 | 四 | |
1577 | 丁丑 | 五 | |
1578 | 戊寅 | 六 | |
1579 | 己卯 | 七 | |
1580 | 庚辰 | 八 | ○三宅寄齋、泉州堺に生まる。 |
1581 | 辛巳 | 九 | ○菅(*原文「管」)得菴、播州■(艸冠/甫:::大漢和31025)田邑に生まる。 |
1582 | 壬午 | 十 | |
1583 | 癸未 | 十一 | ○八月某日、林羅山、平安四條に生まる。幼名菊松麿。○十月某日、石川丈山、三州泉郷に生まる。幼名孫介。 |
1584 | 甲申 | 十二 | |
1585 | 乙酉 | 十三 | ○林東舟生まる。 |
1586 | 丙戌 | 十四 | |
1587 | 丁亥 | 十五 | |
1588 | 戊子 | 十六 | ○藤原惺窩、論孟集注・學庸章句等の書を得て、始めて之を講ず。儒の學、稍世に行はる。 |
1589 | 己丑 | 十七 | ○九月八日、朝山意林菴生まる。 |
1590 | 庚寅 | 十八 | ○林羅山、穎悟常ならず、頗る俗字を知る。人の太平記を讀むを聞き、其事實を闇誦す。人皆之を奇とす。時に年八歳。 |
1591 | 辛卯 | 十九 | |
1592 | 壬辰 | 文禄 | ○松永昌三生まる。 |
1593 | 癸巳 | 二 | ○藤原惺窩、江戸に赴き、幕府に謁して貞觀政要を講ず。○朝鮮國靈山の李眞榮、我兵淺野長政の囚ふる所と爲りて肥前名古屋(*名護屋)に来り、其れより紀州に居る。時に年二十三。乃ち梅溪の父なり。 |
1594 | 甲午 | 三 | |
1595 | 乙未 | 四 | ○那波活所、播州に生まる。○林羅山、元服して又三郎と称す。時に年十三。東山建仁寺に登りて古澗慈稽長老の室に入り、書を讀む。 |
1596 | 丙申 | 慶長 | |
1597 | 丁酉 | 二 | ○林羅山、東山に在ること既に三年なり。学業大に進み、衆僧出家を勸む。可かずして潜に寺を出、家に帰る。時に年十五。 |
1598 | 戊戌 | 三 | ○谷時中生まる。○石川丈山、始めて幕府に奉仕す。時に年十六。嘉右エ門と称す。 |
1599 | 己亥 | 四 | ○石田三成、近江佐和山城に在り。屡人をして藤原惺窩を召さしむ。惺窩將に行かんとして果さず。○三月某日、人見卜幽、平安二條烏丸の寓居に生まる。 |
1600 | 庚子 | 五 | ○林羅山、始めて朱子の論孟集注・學庸章句を讀み、之に信服し、遂に徒を聚め之に講ず。程朱の學の世に行はるるは是より始まる。○朱舜水、淅江の餘姚に生まる。父は正、字は存之、定寰と號す。時に明の神宗の萬暦二十八年なり。 |
1601 | 辛丑 | 六 | ○十月十一日、川井東村生まる。 |
1602 | 壬寅 | 七 | ○林羅山、西海を經歴して長崎に到り、數月を經て歸る。 |
1603 | 癸卯 | 八 | ○林羅山、始て訓點を四書集注に加ふ。 |
1604 | 甲辰 | 九 | ○三月朔日、林羅山、吉田玄之を紹价して、藤惺窩(*藤原惺窩)の門に入る。○小倉三省生まる。○菅得菴、始めて京師に遊び、醫を延壽院道三の門に學ぶ。 |
1605 | 乙巳 | 十 | ○藤惺窩、林羅山の春秋を講ずるを聞き、書を與へて云く、古人春秋を羅浮に讀む。足下の春秋を讀みて羅浮の意旨を得ば、則ち我に告げよと。是より羅浮洞を以て號と爲す。羅山時に年二十三。 |
1606 | 丙午 | 十一 | ○紀伊和歌山城主淺野幸長、聘を厚くして藤惺窩を召す。和歌山に到り、月を經て歸る。○朝鮮、其國僧惟政松雪を遣して来聘す。林羅山之と筆語す。近世の文士の韓使と筆語するは、此より始まると云ふ。 |
1607 | 丁未 | 十二 | ○四月、朝鮮修聘正使呂祐吉、副使從事官三員來る。藤惺窩・林羅山、之と筆語す。三使の來問するは此より始まれり。○林羅山、祝髪して道春と號す。時に年二十五。○江村剛齋生まる。 |
1608 | 戊申 | 十三 | ○三月七日、中江藤樹、江州高島郡小河邑に生まる。○菅得菴始めて藤惺窩の門に入る。時に(*年)二十八。遂に業を改めて儒と爲る。 |
1609 | 己酉 | 十四 | ○二月二日、向井靈蘭、肥前神崎郡酒邑に生まる。 |
1610 | 庚戌 | 十五 | ○人見卜幽、同邑柏原氏と爲り、養はる。柏原、代(*よよ)撃鼓の技を以て聞ゆ。卜幽又從ひて其技を習ふ。時に年十二。 |
1611 | 辛亥 | 十六 | ○三月、那波活所、始めて京に學び、藤惺窩の門に入る。 |
1612 | 壬子 | 十七 | ○林東舟、祝髪して永嘉と稱す。時に年二十八。 |
1613 | 癸丑 | 十八 | ○八月、藤惺窩紀州に往き、淺野幸長を哭す。 |
1614 | 甲寅 | 十九 | ○那波木菴生まる。 |
1615 | 乙卯 | 元和 | ○林羅山、旨を奉じて群書治要・大藏一覽開板の事を監す。○正月二十一日、野中兼山生まる。○石川丈山、思ひを官途に絶ち、薙髪して妙心寺に潛居して、專ら禪定を學ぶ。○正月十五日、鵜飼石齋生まる。 |
1616 | 丙辰 | 二 | ○中江藤樹、其祖父吉長に從ひて、伯州に之く。明年又豫州に之き、遂に大洲侯に仕ふ。 |
1617 | 丁巳 | 三 | ○石川丈山、林羅山の勸めに依て、始めて藤惺窩に謁して、聖賢の道を聞き、禪學を廢棄す。時に年三十五。 |
1618 | 戊午 | 四 | ○五月二十九日、林鵞峰、平安新町に生まる。幼名は吉松なり。○十二月九日、山崎闇齋、平安に生まる。幼名は長吉なり。 |
1619 | 己未 | 五 | ○九月十二日、藤原惺窩歿す。年五十九。○熊澤蕃山、平安に生まる。 |
1620 | 庚申 | 六 | ○人見卜幽自ら其業淑せざるを嘆じ、奮然として學に志す。菅得菴に從ひて、四子五經の句讀を受く。遂に其本姓に復す。○林羅山、訓點を朱子詩集傳に加ふ。○海外、明の光宗の泰昌元年なり。○人見鶴山生まる。 |
1621 | 辛酉 | 七 | ○十月二十日、長澤潛軒生まる。○林羅山、『徒然草野槌』成り、刻して世に行ふ。○海外、明の喜宗の天啓元年なり。 |
1622 | 壬戌 | 八 | ○正月十八日、安東省菴生まる。○八月二十六日、山鹿素行生まる。○木下順菴生まる。○村上東嶺生まる。○貝原存齋生まる。○江村剛齋、始めて那波活所の門に入る。時に年十六なり。○林羅山、訓點を春秋胡傳・禮記集説に加ふ。 |
1623 | 癸亥 | 九 | ○二山伯養、石見濱田に生まる。○九月二十九日、伊藤坦菴生まる。○三宅道乙生まる。○石川丈山、藝州淺野氏に遊事し、姓名を變じて■(土偏+巳:い・し・つちはし:土の橋:大漢和4889)左近と曰ふ。時に年四十一なり。 |
1624 | 甲子 | 寛永元 | ○朝鮮來聘す。○十一月二十一日、林讀耕齋、平安に生まる。 |
1625 | 乙丑 | 二 | ○谷一齋生まる。○十月十八日、米川操軒生まる。○林羅山、訓點を周易傳義・蔡氏書傳に加ふ。此に至つて五經皆備はれり。 |
1626 | 丙寅 | 三 | ○林羅山、惺窩文集を編輯す。○山崎闇齋、土佐高知に遊學し、吸江寺に寓す。時に年九歳なり。○李梅溪生まる。 |
1627 | 丁卯 | 四 | ○七月二十日、伊藤仁齋生まる。○菅玄同、惺窩續集を編輯す。○松下西峰生まる。○林羅山、訓點を周禮・儀禮・公羊・穀梁・爾雅・楚辭・國語等に加ふ。皆成る。 |
1628 | 戊辰 | 五 | ○天台海上人、木順菴を一見して、其才を奇とし、其父母に請ひて將に以て法嗣と爲さんとす。順菴從はず。時に七歳なり。○中江藤樹、大學啓蒙を著す。時に年二十一なり。○人見卜幽、始めて江戸に來り、水戸侯に仕ふ。 |
1629 | 己巳 | 六 | ○二月九日、中村■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋、平安に生まる。○十二月晦日、林羅山、民部卿法印に敍せられ、林東舟、刑部法印に敍せらる。○去年六月十四日、菅得菴、門人安田安昌の爲めに害せらる。年四十八なり。(*原文では一年を二行で記載する体裁をとっているために、余白の都合でここに記したものか。以下、「去年」とある場合も同様。) |
1630 | 庚午 | 七 | ○林鵞峰元服し、又三郎と稱す。時に年十三なり。○那波木菴、始めて江戸に來り、林羅山に學ぶ。時に年十七なり。○十月、林羅山、郭外上野の内、百弓の地を賜はり、別墅と爲す。將に私塾を開かんとす。○十一月十四日、貝原益軒生まる。 |
1631 | 辛未 | 八 | ○尾張侯、一堂を林羅山の上野別墅中に經營せしめ、聖像及び顔・曾・思・孟の像を安置し、親しく先聖殿の三字を書して之を賜ひ、且つ祭器若干を納め、大に群書を收藏せしむ。 |
1632 | 壬申 | 九 | ○山鹿素行、既に林羅山の門に學び、經史を講説し、見臺を用ふるを許さる。時に年十一なり。○十月某日、後藤松軒生まる。 |
1633 | 癸酉 | 十 | ○二月十日、林羅山、初めて先聖及び十哲を先聖殿に釋菜す。○李眞榮、南紀に歿す。時に年六十三なり。其子梅溪、其葉を繼ぎ、南龍公に奉仕す。 |
1634 | 甲戌 | 十一 | ○十月、中江藤樹、大洲侯の禄を辭し、江州に歸る。時に年二十七なり。○十月三日、林羅山、家を■(手偏+雋:::大漢和12831)して江戸に移る。時に年五十二なり。鵞峰十七、讀耕十一、之に從ふ。○木下順菴、太平頌を作り、亞相烏丸藤公(*烏丸光宣、または烏丸光広か。光宣は准大臣、光広は権大納言。)に獻ず。遂に宸聽に達す。世以て國瑞と爲す。時に年僅に十三なり。 |
1635 | 乙亥 | 十二 | ○林羅山、旨を奉じて武家法度十九條并に麾下諸士法度二十二條を作り、皆頒行さる。○去年、熊澤蕃山、始めて備前侯に仕ふ。板倉内膳正重昌之を薦むるなり。時に年十六なり。 |
1636 | 丙子 | 十三 | ○十二月、朝鮮來聘す。林羅山、旨を奉じて幕府御書及び執政答書を作る。是に先ちて書翰に反り答ふるには五山僧徒をして之を作らしむるが既に舊例たり。今茲に初めて羅山をして之に代らしむ。林氏、世〃其事を掌るは、始めて是時よりすと云ふ。時に羅山、年五十四なり。 |
1637 | 丁丑 | 十四 | ○山鹿素行、北條氏長に從ひて兵略を學ぶ。時に年十六なり。○去年、石川丈山、安藝を辭して平安に歸る。時に年五十四なり。 |
1638 | 戊寅 | 十五 | ○八月十九日、林東舟卒す。年五十四なり。 |
1639 | 己卯 | 十六 | ○熊澤蕃山、致仕して近江桐原に隱れ、始めて學に志す。○正月二十日、高玄岱(*高天■(三水+猗:い:人名:大漢和18164)、深見天■)、長嵜に生まる。幼名は龜松なり。 |
1640 | 庚辰 | 十七 | ○中江藤樹、王陽明全書を得て之を讀み、其學を喜び、始めて其説を唱ふ。時に年三十三なり。是より後、王氏の學、稍世に行はる。 |
1641 | 辛巳 | 十八 | ○二月七日、林羅山、旨を奉じて武林諸家系圖を編輯す。備中守太田資宗、之を總裁し、各をして其家譜を獻ぜしむ。○七月、那波活所生まる。(*この記事不明。)○石川丈山、台麓の一乗寺に卜築し、詩仙堂と曰ふ。 |
1642 | 壬午 | 十九 | ○山鹿素行、北條氏長に從ひて學ぶこと此に五年なり。群弟の其上に出づる者無く、氏長悉く其秘奧を傳授す。時に年二十一なり。 |
1643 | 癸未 | 二十 | ○朝鮮來聘す。○林羅山編輯する所の諸家系圖、題して諸家系圖傳と曰ふ。總て三百七十二卷なり。九月九日告成す。○八月十一日、林梅洞生まる。○熊澤蕃山、中江藤樹の門に入る。時に年二十四なり。 |
1644 | 甲申 | 正保元 | ○松浦交翠生まる。○去年、山嵜闇齋、髪を畜へて還俗し、嘉右衞門と稱す。年三十五にして、始めて儒を業とす。○(*1644)海外、清の世祖、順治元年。○十二月十四日、林鳳岡生まる。○林羅山旨を奉じて鎌倉・京都將軍信長・秀吉家譜及び中朝帝王譜を作る。 |
1645 | 乙酉 | 二 | ○臼田畏齋生まる。中村篁溪生まる。○十二月、林鵞峰、法眼に敍せらる。時に年二十八なり。 |
1646 | 丙戌 | 三 | ○備前侯、熊澤蕃山の藤樹の門に入り、學術大に進むを聞き、再び之を招きて、委ぬるに國政を以てす。旬月の間に、上大夫に至り、食邑三千石なり。時に年二十七なり。○林讀耕齋初めて幕府に謁見し、采地を賜はる。時に年二十三なり。 |
1647 | 丁亥 | 四 | ○川井東村、年五十に垂んとして、始めて學に志し、始めて山嵜闇齋の門に入る。闇齋時に年三十、東村年四十七なり。 |
1648 | 戊子 | 慶安元 | ○正月三日、那波活所歿す。年五十七なり。○五月、松永尺五、板倉防州の薦擧に依り、旨を奉じて私塾を堀川に建て、號して講習堂と曰ふ。○八月二十五日、中江藤樹歿す。年四十一なり。 |
1649 | 己丑 | 二 | ○六月十八日、三宅寄齋、平安油小路の家に歿す。年七十なり。○十二月晦日、谷時中歿す。年五十二なり。○小河立所生まる。○大高芝山(*大高坂芝山)、土州に生まる。 |
1650 | 庚寅 | 三 | ○味木立軒生まる。○八月二十七日、佐々木池菴生まる。○佐藤直方、備後福山に生まる。○林鵞峰の中華歴代紀略・日本王代一覽・歴代筌宰録等成る。 |
1651 | 辛卯 | 四 | ○林羅山、執政阿部忠秋の請に應じて大學和字鈔・貞觀政要諺解を草して之に奉る。 |
1652 | 壬辰 | 承應元 | ○八月十八日、淺見■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋、近江に生まる。○山鹿素行、赤穗に遊事す。時に(*歳)三十一なり。 |
1653 | 癸巳 | 二 | ○六月七日、佐久間洞岩(*佐久間洞巌)生まる。○閏六月十九日、森儼塾、攝洲高槻に生まる。 |
1654 | 甲午 | 三 | ○七月十五日、小倉三省歿す。年五十一なり。○三月、惺窩文集刻成る。 |
1655 | 乙未 | 明暦元 | ○六月、林鵞峰、旨を奉じて日本百將傳抄五卷を作る。○山嵜闇齋、始めて帷を下して教授す。時に年三十八なり。○十月、朝鮮來聘す。○十一月十二日、板坂卜齋歿す。年七十八なり。 |
1656 | 丙申 | 二 | ○山鹿素行、起草する所の四書句讀大全・七書諺解・武類全書等成る。時に年三十五なり。○榊原篁洲生まる。○香月牛山生まる。○安積澹泊生まる。○十二月、林讀耕齋、法眼に敍せらる。 |
1657 | 丁酉 | 三 | ○正月二十三日、林羅山卒す。年七十五なり。私に文敏先生と諡す。○二月十一日、新井白石生まる。○二月、山嵜闇齋、始めて江戸に遊ぶ。○四月、宇都宮遯菴、君命を承りて岩國に歸り、巖邑紀行を著す。時に年二十五なり。○六月二日、松永昌三歿す。年六十六なり。 |
1658 | 戊戌 | 萬治元 | ○二月二十六日、室鳩巣生まる。○細井廣澤生まる。○南南山生まる。○西山健甫生まる。○熊澤蕃山、病に因て禄を辭し、京師に歸隱す。時に年三十九なり。 |
1659 | 己亥 | 二 | ○二月、朱舜水、亂を避けて長嵜に來る。是に先ちて屡來往す。是に至て已に四次なり。竟に留まりて歸らず。時に年六十なり。○三月二十二日、佐々木文山生まる。 |
1660 | 庚子 | 三 | ○七月十七日、江村剛齋歿す。年五十四なり。○山鹿素行、赤穗の禄を辭す。時に年三十九なり。 |
1661 | 辛丑 | 寛文元 | ○三月十二日、林讀耕齋卒す。年三十八なり。私に諡して貞毅と曰ふ。○天野信景(*天野白華)生まる。○六月、林羅山集刻成る。○十二月二十八日、林春齋、兵部卿法印に敍せらる。○人見卜幽、老いて眼疾を患ひて致仕す。時に年六十三なり。 |
1662 | 壬寅 | 二 | ○矢野拙齋生まる。○正月四日、三宅尚齋、播州赤石に生まる。○十一月七日、熊澤蕃山、深草に元政上人を訪ね、小倉少將と音樂を奏す。○海外、清の聖祖、康熈元年なり。 |
1663 | 癸卯 | 三 | ○伊藤仁齋、論孟古義・中庸發揮等の書を草定す。時に年三十六なり。專ら漢魏傳注の學を唱ふ。人之を古學と謂ふ。○十二月二十日、野中兼山(*原文「野山兼山」は誤り。)歿す。年四十九なり。○十二月二十六日、林鵞峰、弘文院學士の號を賜はる。時に年四十六なり。 |
1664 | 甲辰 | 四 | ○七月、後水尾上皇、江村專齋を召して修養の術を問はる。敕して鳩杖を賜ふ。○九月二十一日、朝山意林菴歿す。年七十六なり。○九月二十六日、江村專齋歿す。年一百歳なり。法謚して仙壽院日榮居士と曰ふ。○七月二十一日、鵜飼石齋歿す。年五十なり。 |
1665 | 乙巳 | 五 | ○譯士高尾兵左衞門、朱舜水を導きて水府に著く。○正月十九日、三宅石菴生まる。○中江岷山生まる。○去年七月二十八日、林鵞峰、旨を奉じて本朝編年録を編纂す。永井伊賀守尚庸、總裁たり。後、改めて本朝通鑑と曰ふ。 |
1666 | 丙午 | 六 | ○二月二十六日、物徂徠(*原文「物徂來」)生まる。○四月、山鹿素行、罪有りて播州赤穗に流さる。年四十五なり。○向井滄洲生まる。○九月朔日、林梅洞歿す。年二十四なり。○貝原益軒の近思録備考成る。○岡嶋石梁生まる。 |
1667 | 丁未 | 七 | ○五月十四日、安東■(人偏+同:::大漢和601)菴生まる。○貝原益軒の小學備考成る。近思録備考と世に刊布す。○高瀬學山生まる。○八月六日、中野■(手偏+爲:き:人名:大漢和12716)謙生まる。○去年八月、山嵜闇齋の會津風土記成る。 |
1668 | 戊申 | 八 | ○正月元日、田省吾(*田中桐江、のち富桐江)生まる。○正月、那波木菴、中庸異見を著し、朱子章句を辨駁す。時に年五十五なり。○三月、山嵜闇齋の小學蒙養集・大學啓蒙集成る。○雨森芳洲生まる。○細井廣澤、始めて江戸に來る。時に年十一なり。 |
1669 | 己酉 | 九 | ○三月、荒川天散、徴されて紀藩の儒官と爲る。時に僅に十六なり。○三輪執齋生まる。 |
1670 | 庚戌 | 十 | ○三月、佐藤直方、京に遊び、永田養菴に紹价せられて始めて山嵜闇齋の門に入る。時に年二十一なり。○四月二十八日、伊藤東涯生まる。○六月十二日、林鵞峰の本朝通鑑成る。總て三百十卷なり。○七月八日、人見幽軒歿す。年七十二なり。 |
1671 | 辛亥 | 十一 | ○熊澤蕃山、播州に遊び、赤石侯松平信之に寓す。時に年五十二なり。○五月、山嵜闇齋の中和集説・性論明備録成る。○六月九日、陳元贇歿す。年八十五なり。 |
1672 | 壬子 | 十二 | ○正月二十四日、梁蛻■(山/品:::大漢和8295)(*梁田蛻巌)、江戸小川街に(*欠字あり。「住す」か。)。○五月二十三日、石川丈山歿す。年九十なり。舞樂寺村中山に葬る。○十二月六日、戴曼公歿す。年七十七なり。時に僧と爲り、獨立禪師と稱す。○十二月二十八日、林鳳岡、法眼に敍せらる。 |
1673 | 癸丑 | 延寶元 | ○五月、京師大火あり。伊藤仁齋災に遭ひ、京極の大恩寺に僑居す。○宇都宮遯菴、著書の時の諱忌に觸るゝを以て、其君に罪を得、周防岩國に幽せらる。時に年四十一なり。 |
1674 | 甲寅 | 二 | ○九月十日、伊藤仁齋、其父を喪ひ、三年の喪に服し、丙辰の歳に及ぶ。○十月、莊田琳菴、誅せらる。時に年三十六なり。 |
1675 | 乙卯 | 三 | ○明人天南何・清林珍、難を長嵜に避け、遂に此に留まる。大高芝山(*大高坂芝山)の文を見て、大に之を奇とし、日東の巨擘と爲す。時に芝山は二十七歳なり。○六月二十四日、宇都宮遯菴、赦に遭ひて平安に再遊し、生徒に教授す。○新井白石、其父正濟に從ひて土屋民部の藩を去る。時に年十九なり。 |
1676 | 丙辰 | 四 | ○山鹿素行、赦に遭ひて江戸に歸り、淺草田原街に僑居す。時に年五十五なり。○祇南海(*祇園南海)生まる。○五月、長澤潛軒歿す。年五十六なり。 |
1677 | 丁巳 | 五 | ○正月、山嵜闇齋の朱易衍義成る。○二月、南南山(*南部南山)、南艸壽(*南部草寿・南部陸沈軒)の見て稱する所と爲り、長嵜學校の弟子員と爲る。時に年二十なり。○十一月朔日、向井靈蘭歿す。年六十九なり。○十一月六日、川井東村歿す。年七十七なり。 |
1678 | 戊午 | 六 | ○八月十九日、米川操軒歿す。年五十四なり。 |
1679 | 己未 | 七 | ○六月、淺見■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋、始めて山嵜闇齋の門に入る。○七月八日、若林強齋(*若林寛斎)、平安に生まる。○並河寛亮(*並河簡亮か。並河天民の名。)生まる。○八月、物徂來(*荻生徂徠)の父荻生方菴、罪有りて南總に播遷す。徂來之に從ふ。時に年十四なり。 |
1680 | 庚申 | 八 | ○二月二十三日、林鳳岡、大藏卿法印に敍せられ、三月十一日、弘文院學士の號を賜はる。時に年三十七なり。○二月二十八日、林鵞峰卒す。年六十三なり。私に謚して文穆先生と曰ふ。○九月十四日、太宰春臺生まる。 |
1681 | 辛酉 | 天和元 | ○梁蛻岩(*蛻巖)始めて人見鶴山の門に入る。時に年十一なり。梁田元叔と稱す。○來年、李梅溪歿す。年六十なり。乃ち李眞榮の子なり。紀府に仕へて儒官と爲る。(*次年の記述を入れることも、「去年」の記述の場合と同じ。翌2年分の記事に余白がないための処置と思われる。) |
1682 | 壬戌 | 二 | ○四月十七日、朱舜水歿す。年八十三なり。私に諡して文恭と曰ふ。 |
1683 | 癸亥 | 三 | ○正月二十八日、藤東野(*安藤東野)生まる。○二月、田省吾(*富桐江)、黄金一枚を父に受け、其郷里を去つて江戸に來る。時に年十六なり。○三月、那波木菴歿す。年七十なり。○七月朔日、香川修菴生まる。○八月二十一日、三宅道乙歿す。年六十一なり。 |
1684 | 甲子 | 貞享元 | ○九月十七日、稻葉迂齋生まる。○森儼塾、佐々子朴(*佐々十竹)の薦に依て、水府に仕ふ。時に年三十二なり。 |
1685 | 乙丑 | 二 | ○四月、仁齋、其門長澤純平(*長沢楽浪)の求めに應じ、大學定本を著す。○中野■(手偏+爲:き:人名:大漢和12716)謙、始めて江戸に來る。年十九なり。○九月十五日、石田梅岩、丹波桑名郡東懸邑に生まる。○九月二十六日、山鹿素行歿す。年六十四なり。 |
1686 | 丙寅 | 三 | ○三月五日、澤琴(*沢村琴所)生まる。○十一月十一日、土藍洲(*土屋藍洲・土屋伯曄)生まる。 |
1687 | 丁卯 | 四 | ○山縣周南生まる。○八月、熊澤蕃山、赤石侯の下總古河に移封するに從ふ。時に年六十九なり。○十一月二十三日、林退省生まる。 |
1688 | 戊辰 | 元禄元 | ○太宰春臺、其父太翁に從ひて、始めて江戸に來る。時に九歳なり。○正月十四日、人見鶴山歿す。年六十九なり。○平金華(*平野金華)生まる。○十月三日、西山健甫歿す。年三十一なり。 |
1689 | 己巳 | 二 | ○三浦竹溪生まる。○七月、田省吾、山鹿藤助より其流派の秘訣を傳授さる。藤助は山鹿素行の子なり。○八月二十二日、祇南海(*祇園南海)、木順菴(*木下順庵)の門に入る。時に年十四なり。 |
1690 | 庚午 | 三 | ○梁蛻岩(*梁田蛻巌)、始めて帷を下して市中に講説す。時に才右衞門と稱す。○十月七日、臼田畏齋歿す。年四十六なり。○物徂徠、赦に値ひて江戸に歸り、芝増上寺門前に僑居し、講説して業と爲す。時に年二十五なり。○伊藤東涯の刊謬正俗成る。 |
1691 | 辛未 | 四 | ○正月十四日、大藏卿法印林鳳岡、特に蓄髪を命ぜられ、即日從五位に敍し、大學頭に任ぜらる。其餘の儒官皆■(髟/几:::大漢和45359)を止む。○八月十七日、熊澤蕃山歿す。年七十三なり。野州古河の鮭近寺に葬る。 |
1692 | 壬申 | 五 | ○田龍溪(*八田龍渓)生まる。○物徂徠、其門人吉有隣(*吉田孤山)をして譯文筌蹄を筆記せしむ。操觚の士、皆之を寶とす。○祇南海(*祇園南海)、自ら其才を試み、一夜にして百詠の詩を賦す。時に年十七なり。 |
1693 | 癸酉 | 六 | ○三月、細井廣澤、始めて柳澤侯に仕ふ。時に年三十六なり。○四月十一日、鵜飼金平(*鵜飼練斎)歿す。年六十一なり。○十二月、新井白石、褐を甲府に釋き、侍講と爲る。時に年三十七なり。○伊藤仁齋の童子問刻成る。○十二月、松下西峰歿す。年六十七なり。 |
1694 | 甲戌 | 七 | ○太宰春臺、出石侯に仕ふ。時に年十五なり。○中根東里生まる。○五月朔日、伊藤蘭嵎生まる。 |
1695 | 乙亥 | 八 | ○三月廿五日、谷一齋歿す。年七十一なり。○木順菴(*木下順庵)、祇南海(*祇園南海)を其本國に薦め、書記を掌らしむ。遂に父の業を改め、儒官と爲る。○九月九日、劉東閣歿す。年六十三なり。當時、林道榮と名を齊うす。人之を長嵜の二大家と呼べり。 |
1696 | 丙子 | 九 | ○大高芝山(*大高坂芝山)、適從録を著し、大に伊藤仁齋を駁す。○去年十二月十日、貝原存齋歿す。年七十四なり。○七月十七日、小河立所歿す。年四十八なり。○十一月二十三日、蘆東山(*芦野東山)生まる。○服南郭、江戸に來り、始めて柳澤侯に仕ふ。 |
1697 | 丁丑 | 十 | ○大高芝山(*大高坂芝山)の南學傳刻成る。○三月二十七日、松君山(*松平君山)生まる。○梁蛻岩(*梁田蛻巌)、始めて加納侯に仕へ、儒官と爲る。時に二十七なり。○去年八月二十二日、物徂徠、始めて柳澤侯に仕へ、月俸十五口を受く。時に年三十一なり。 |
1698 | 戊寅 | 十一 | ○五月十二日、青木甘藷(*青木昆陽)生まる。○五月二十日、宇野明霞生まる。○後藤松軒、梁蛻岩(*梁田蛻巌)を一見して、大に其學術を賞し、以て後進の領袖と爲す。是より蛻岩の名、大に起ると云ふ。○祇南海(*祇園南海)、操行不羈なるを以て藩譴を獲、熊野に蟄居す。時に年二十三なり。 |
1699 | 己卯 | 十二 | ○七月二十一日、良華陰(*良野華陰)生まる。○田省吾(*富桐江)、兵學を以て甲斐侯に仕へ、禄二百石を受く。時に年三十二なり。○十二月二十三日、木順菴(*木下順庵)歿す。年七十八なり。遺言して孝經一卷を以て、其葬に從はしむ。門人私に諡して恭靖先生と曰ふ。 |
1700 | 庚辰 | 十三 | ○正月十九日、物徂徠、新に二百石を受け、班上士に比す。是より恩遇殊に渥く、加増して遂に五百石に至る。時に年三十五なり。柳澤侯、河越に封ぜらる。○太宰春臺、骸骨を其君(*出石侯)に乞ふ。三たび許さず。遂に臣たるを致し、去つて京に之き、又大坂に之く。時に年二十一なり。 |
1701 | 辛巳 | 十四 | ○四月十八日、石王塞軒生まる。○宇野史朗生まる。○十月二十日、安東省菴生まる。 |
1702 | 壬午 | 十五 | ○伊藤仁齋、篤學の聲、宸聽に達し、勅して其文章を索む。遂に兵部大輔藤貞維に因つて、以て之を朝に進る。○正月十一日、羽黒養潛、平安に歿す。年七十四なり。○七月二十二日、中村■(立心偏+易:てき:人名:大漢和10803)齋歿す。年七十四なり。○十二月二十九日、安東■(人偏+同:::大漢和601)菴歿す。年三十六なり。 |
1703 | 癸未 | 十六 | ○秋山玉山生まる。○三浦竹溪、始めて柳澤侯に仕ふ。時に年十五なり。○和智東郊生まる。根武夷(*根本武夷)生まる。○十一月十日、坂井漸軒歿す。年七十四なり。○貝原益軒の筑前續風土記成る。○伊藤東涯の用字格成る。 |
1704 | 甲申 | 寶永元 | ○貝原益軒の花譜・菜譜・和名本草等成る。○九月、安藤東野、甲斐侯に仕ふ。時に年二十二なり。○柳澤侯、甲斐に移封し、物徂徠、掌書記を以て、兼ねて其藩政を與聞す。有名の士、一時に其邸に輻湊す。 |
1705 | 乙酉 | 二 | ○三月十二日、伊藤仁齋歿す。年七十九なり。私に古學先生と諡す。○八月廿九日、村上冬嶺歿す。年八十二なり。○十二月十八日、三浦竹溪、甲斐侯の邸に於て、幕府の御前に講經す。時服の賜有り。時に年十七なり。○十二月十八日、山東洋(*山脇東洋)生まる。 |
1706 | 丙戌 | 三 | ○正月三日、榊原篁洲歿す。年五十一なり。○二月十一日、新井白石の五十の壽なり。○四月十七日、栗山潛峰歿す。生三十六なり。○去年、山縣周南、始めて江戸に來り、物徂徠の門に入る。○九月、物徂徠、田省吾(*富桐江)と、其君命を奉じて甲州に之く。峽中紀行を著す。徂徠、時に四十一、省吾三十九なり。 |
1707 | 丁亥 | 四 | ○五月十四日、三宅尚齋、強諫を以て、罪を其君に獲、忍城に幽せらる。時に年四十六なり。○八月十五日、石川麟洲、平安に生まる。○九月二十七日、松浦交翠歿す。年六十四なり。○去年、物徂徠、紀行を作り、後又風流使者記を著す。 |
1708 | 戊子 | 五 | ○三月十二日、湯淺常山生まる。○四月四日、江村樸齋歿す。年七十なり。○八月廿四日、伊藤坦菴歿す。年八十六なり。○林東溟生まる。○貝原益軒の大和本草成る。時に年七十九なり。○十月二十二日、林道榮歿す。年六十九なり。 |
1709 | 己丑 | 六 | ○中江岷山、宋儒理氣の説を辯駁し、盛に伊藤仁齋の學を主張す。四書辨論・理氣辨論の二書を著す。○十月、新井白石、采地五百石を賜はる。○八月二十日、二山伯養歿す。年八十七なり。○宇都宮遯菴歿す。年七十七なり。 |
1710 | 庚寅 | 七 | ○正月二十二日、宇■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水(*宇佐美■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水)生まる。○三月、祇南海(*祇園南海)、赦に遭ひて舊職に復す。時に年三十五なり。○十月晦日、伊藤錦里生まる。○十一月、新井白石、命を奉じて京師に使し、翌年二月に至り、還り報ず。○去年六月三日、岡島石梁(*岡嶋石梁)歿す。年四十四なり。 |
1711 | 辛卯 | 正徳元 | ○二月、室鳩巣、辟されて侍講と爲り、二百石を賜はる。時に年五十四なり。○十月朔日、淺見■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋歿す。年六十なり。○十月、新井白石、從五位下に敍し、筑後守に任じ、五百石を加賜せらる。○太宰春臺、再び江戸に來る。生實侯召して記室と爲す。 |
1712 | 壬辰 | 二 | ○正月八日、中村篁溪歿す。年六十八なり。○三月、南南山(*南部南山)歿す。年五十五なり。○山田麟嶼生まる。○白石詩草成る。○去年、朝鮮來聘す。○去年、安藤東野、致仕し、駒籠白山に隱居す。草堂を築き、白賁書屋と曰ふ。 |
1713 | 癸巳 | 三 | ○三月十四日、江村北海、播州に生まる。○五月二日、大高芝山(*大高坂芝山)歿す。年六十五なり。○貝原益軒の養生訓成る。○細井廣澤、今井順菴と謀り、始めて打摺鏤刊の法を製す。我邦の謂はゆる正徳板は、是より始まると云ふ。 |
1714 | 甲午 | 四 | ○正月、山嵜闇齋の垂加全集刻成る。○正月十九日、龍草廬生まる。○二月、宇明霞(*宇野明霞)、始めて平安に遊び、向井三省(*向井滄洲)の門に入り、其塾に寓す。○三月、貝原益軒の自娯集刻成る。○八月二十七日、貝原益軒歿す。年八十五なり。 |
1715 | 乙未 | 五 | ○太宰春臺、病に託して生實の禄を辭す。時に年三十六なり。是より終身仕へず。○七月五日、稻若水(*稻生若水)歿す。年六十一なり。○明年、服南郭(*服部南郭)、致仕し、帷を下して徒に授け、芝赤羽に隱居す。時に年三十四なり。(*「明年」の記述についても、「次年」の記述の場合を参照。)○去年、伊藤東涯の古學指要・鄒魯大旨等成る。 |
1716 | 丙申 | 享保元 | ○仙臺の源洞■(山/品:::大漢和8295)(*佐久間洞巌)、其君に請ひて、多賀城址の壺の碑の屋宇を修造せしむ。○八月七日、武梅龍(*武田梅龍)生まる。○木蓬莱(*木村蓬莱)生まる。○物徂徠、始めて明の李王の文説を以て修辭の業を唱へ、別に一格の經義を構ふ。時に年五十一なり。 |
1717 | 丁酉 | 二 | ○五月十八日、後藤松軒歿す。年八十六なり。北澤森岩寺に葬る。○十二月、田省吾(*富桐江)、其君を強諫し、臣たるを致して去る。岡嶋冠山・太宰春臺・安藤東野の三人、其途中に遭難するを慮り、各懷甲して之を護送すること數十里、遂に仙臺に之く。姓名を變じて、富春叟と號す。 |
1718 | 戊戌 | 三 | ○四月八日、並河簡亮(*並河天民)歿す。年四十なり。私に天民と諡す。○北村篤所歿す。年七十なり。○新井白石、諸友の詩を集録して停雲集と曰ひ、世に刊行す。昔思を當世に絶ち、門を杜して客を謝し、專ら著述を以て娯と爲す。時に年六十二なり。○八月二十六日、三宅觀瀾歿す。年四十四なり。 |
1719 | 己亥 | 四 | ○四月十三日、藤東壁(*安藤東野)歿す。年三十七なり。○六月七日、劉龍門(*宮瀬龍門)生まる。○山縣周南、其君命を受け、新に■(半+頁:はん::大漢和43400)宮(*=■(三水+半:はん:周代諸侯の国学〈学校〉〈=■宮〉、半ば・溶ける・分ける・堤:大漢和17323)宮)を剏め、號して明倫館と曰ふ。○八月十五日、佐藤直方歿す。年七十なり。○梁蛻岩(*梁田蛻巌)、始めて赤石侯に仕へて儒官と爲る。 |
1720 | 庚子 | 五 | ○五月、富春叟(*富桐江)、京師に遊ぶ。是より屡東西に漫遊し、其居處を定めず。○七月二十三日、中野■(手偏+爲:き:人名:大漢和12716)謙歿す。年五十四なり。○去年、朝鮮來聘す。○水府の大日本史成る。二百四十六卷なり。安積澹泊の總裁する所なり。○九月十五日、井太室生まる。 |
1721 | 辛丑 | 六 | ○幕府、物徂徠に命じて、清帝の六諭衍義に句讀せしむ。○蘆東山、其本國に仕へて儒官と爲る。時に年二十六なり。○三月十三日、森儼塾歿す。年六十九なり。○閏七月十八日、五井持軒歿す。年八十一なり。 |
1722 | 壬寅 | 七 | ○八月八日、高玄岱(*高天■(三水+猗:い:人名:大漢和18164)・深見天■)歿す。年七十四なり。○伊藤東涯の讀易私説・讀易圖例・周易卦變考・周易經翼通解等成る。○物徂徠、論語徴・學庸解等の諸書を草定す。時に年五十七なり。 |
1723 | 癸卯 | 八 | ○正月十日、片北海(*片山北海)生まる。○二月二十二日、佐々木池菴歿す。年七十四なり。○海外、清の世宗の雍正元年。○五月三日、若林強齋(*若林寛斎)歿す。年四十五なり。○物徂徠の唐後詩絶句解・詩題苑・四家雋等成る。 |
1724 | 甲辰 | 九 | ○山田麟嶼、徴されて儒官と爲り、二百石を賜はる。時に年僅に十三なり。○正月、服南郭(*服部南郭)の校訂唐詩選刻成り、書舖嵩山房、之を発兌す。○三月、板美仲(*板倉帆邱・板倉■(玉偏+黄:こう::大漢和21242)渓)、始めて物徂徠の門に入る。時に年十六なり。○閏四月二十三日、林鳳岡、老に因つて致仕す。時に年八十一なり。 |
1725 | 乙巳 | 十 | ○四月二十日、味木立軒歿す。年七十六なり。私に諡して覆載先生と曰ふ。○五月四日、松崎觀海生まる。○五月十九日、新井白石卒す。年六十九なり。○十月、伊藤東涯の名物六帖刻成り、門人奧田三角、之を校す。 |
1726 | 丙午 | 十一 | ○三月、宇子迪(*宇佐美■(三水+旡2つ+鬲:せん:人名:大漢和49237)水)、物徂徠の門に入る。時に年十六なり。○三宅石菴、官命を奉じ、懷徳書院を大坂尼崎に設け、生徒に教授す。大坂府學、是より始まる。○四月二十七日、安清河(*安達清河)生まる。○六月十日、中江岷山歿す。年七十二なり。 |
1727 | 丁未 | 十二 | ○四月朔日、物徂徠、幕府に謁見す。○六月十日、中島浮山歿す。年七十なり。私に諡して文節先生と曰ふ。○那波魯堂、播州に生まる。○富春叟(*富桐江)、六十の壽賀なり。時に仙臺に在り。歌詩を以て祝を寄する者多し。 |
1728 | 戊申 | 十三 | ○正月二日、岡嶋冠山歿す。年五十五なり。○正月十九日、物徂徠歿す。年六十三なり。○四月二十三日、板復軒(*板倉復軒)歿す。年六十四なり。○六月二十八日、紀平洲(*細井平洲)生まる。○守山侯源頼寛、平金華(*平野金華)の詩文を編輯し、金華稿■(册+立刀:さん・せん:削る・除く:大漢和1917)と曰ふ。 |
1729 | 己酉 | 十四 | ○二月二十日、物金谷(*荻生金谷)、台命に依て、先人徂徠の遺書度量考・鈴録を幕府に上る。○五月十日、盧草拙(*蘆草拙)歿す。年五十九なり。○新井明卿、其先人(*新井白石)の遺詩を集め、白石條稿と號す。○十二月十三日、村士玉水生まる。 |
1730 | 庚戌 | 十五 | ○七月二十六日、三宅石菴歿す。年六十六なり。○中井甃菴、石菴に代り、懷徳書院の教授と爲る。○八月二十四日、伊藤東所生まる。○伊藤東涯の■(門構/月::〈=間〉:大漢和77620)居筆録・蓋簪録・同餘録等成る。 |
1731 | 辛亥 | 十六 | ○林東溟、其郷里を去つて大坂に來り、專ら物徂徠の説を唱ふ。時に年二十四なり。○伊藤蘭嵎、紀藩に筮仕す。時に年三十八なり。○正月二十九日、向井滄洲歿す。年六十六なり。○十二月二十三日、宇士朗(*宇野士朗)歿す。年三十なり。黒谷の光明寺に葬る。 |
1732 | 壬子 | 十七 | ○正月十二日、矢野拙齋歿す。年七十一なり。○二月十四日、永富獨嘯菴生まる。○六月朔日、林鳳岡卒す。年八十九なり。私に諡して正獻と曰ふ。○源東江(*沢田東江)生まる。○井金峩(*井上金峨)生まる。○七月二十三日、平金華(*平野金華)歿す。年四十五なり。 |
1733 | 癸丑 | 十八 | ○二月、井太室(*渋井太室)、始めて昌平學舍に入る。○三月、太宰春臺、沼田侯に因り、其校定する所の古文孝經孔氏傳を幕府に獻ず。○九月八日、天野信景(*天野白華)歿す。年七十三なり。時に剃髪して信阿彌と稱す。 |
1734 | 甲寅 | 十九 | ○二月二十五日、田蘭陵歿す。年三十六なり。○八月十二日、室鳩巣歿す。年七十七なり。○十二月八日、皆川淇園生まる。○江村北海、禄を襲いで宮津に仕ふ。時に年二十二なり。○宇■(三水+旡2つ+鬲:せん:人名:大漢和49237)水、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社を辭して郷に歸る。板美仲(*板倉帆邱・板倉■(玉偏+黄:こう::大漢和21242)渓)を招ぎて其家に寓せしめ、之に從ひて講習す。 |
1735 | 乙卯 | 二十 | ○荒川天散歿す。年八十二なり。○三月十九日、山田麟嶼、痘を病みて夭す。年二十四なり。○四月十二日、鷹見爽鳩歿す。年四十六なり。○五月七日、佐々木文山歿す。年七十七なり。○十二月二十三日、細井廣澤歿す。年七十八なり。 |
1736 | 丙辰 | 元文元 | ○二月十一日、佐久間洞岩(*佐久間洞巌)歿す。年八十四なり。○三月、林東溟、大坂より平安に遷る。其業大に一時に行はる。○七月十七日、伊藤東涯歿す。年六十七なり。私に紹述先生と諡す。○柴栗山生まる。○海外、清の乾隆元年。 |
1737 | 丁巳 | 二 | ○七月七日、岡田朝陽(*岡田新川)生まる。○九月、伊藤東涯の墓碣銘成る。花山内府常雅撰し、坊城亞相俊將篆額し、八條中將隆朝書す。○十二月十日、安澹泊(*安積澹泊)歿す。年八十二なり。○龍草廬、業を改めて儒と爲り、平安に講説す。 |
1738 | 戊午 | 三 | ○五月、蘆東山(*芦野東山)、藩の有司の彈劾する所と爲り、罪を其君に得て幽せらる。時に年四十三なり。○去年、金輪寺の宥衞上人、命を奉じて碑を飛鳥山に立つ。鳴錦江(*成嶋錦江)、代りて之を撰す。○去年十一月二日、小倉尚齋歿す。年六十一なり。 |
1739 | 己未 | 四 | ○正月九日、澤琴所(*沢村琴所)歿す。年五十四なり。○伊藤蘭嵎、紹述文集を校す。○四月二十二日、熊坂臺洲生まる。○四月、太宰春臺の論語古訓・同外傳成る。五月、詩書古傳成る。 |
1740 | 庚申 | 五 | ○三月十六日、香月牛山歿す。年八十五なり。○四月、物徂徠文集刻成る。凡そ三十卷なり。服南郭(*服部南郭)・平竹溪(*三浦竹溪)、輯録する所なり。○七月朔日、平東海(*篠崎東海)歿す。年五十四なり。 |
1741 | 辛酉 | 寛保元 | ○正月二十九日、三宅尚齋歿す。年八十なり。○三月、林東溟の詩則刻成る。徂徠学を崇奉する者、皆之を寶とす。○四月、劉龍門(*宮瀬龍門)、始めて江戸に來る。○七月、莊子謙(*荘田子謙)、富嶽に登り、芙蓉記を著す。○七月十七日、佐藤周軒歿す。年七十七なり。 |
1742 | 壬戌 | 二 | ○十月、永富獨嘯菴、青錢一百文を持ちて、將に京に遊學せんとし、其郷里を走りて赤馬關に至る。其父追ひて之を止む。時に年十一なり。○太宰春臺の帝王年表録成る。 |
1743 | 癸亥 | 三 | ○二月四日、富春叟(*富永春叟)歿す。年七十六なり。○井太室(*渋井太室)、佐倉侯に仕へて、儒官と爲る。時に年二十四なり。○六月四日、林退省歿す。年五十七なり。私に諡して靖彦と曰ふ。 |
1744 | 甲子 | 延享元 | ○正月十五日、三輪執齋歿す。年七十六なり。○宇■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水、再び江戸に來りて、麹街に僑居し、講説もて業と爲す。○太宰春臺の周易反正・易道撥亂・易占要要略等成る。○九月二十六日、石田梅岩歿す。年六十なり。 |
1745 | 乙丑 | 二 | ○高野蘭亭、相州鎌倉に遊ぶ。其風景を愛し、草堂を瑞鹿山下に築き、松濤館と號す。○太宰春臺の斥非成る。○四月十七日、宇明霞(*宇野明霞)歿す。年六十八なり。 |
1746 | 丙寅 | 三 | ○三月二十五日、越雲夢(*越智雲夢)卒す。年六十三なり。○四月、獨嘯菴(*永富独嘯庵)、萩侯に從ひて江戸に遊ぶ。○六月朔日、頼春水生まる。○九月十九日、松下眞山歿す。年八十なり。 |
1747 | 丁卯 | 四 | ○正月十九日、藤蘭林(*中村蘭林)、旨を受け、醫を改めて儒官と爲る。時に年五十一なり。○五月二十六日、菅野兼山歿す。年七十なり。○五月晦日、太宰春臺歿す。年六十八なり。○六月二十四日、板帆丘(*板倉帆邱)歿す。年三十九なり。 |
1748 | 戊辰 | 五 | ○元淡淵、其君竹腰氏に從ひて江戸に來る。○山縣周南、病に因りて退職を懇求す。其君之を許す。○十月朔日、苗村介洞歿す。年七十二なり。○十二月二十三日、木順菴五十年忌なり。○朝鮮來聘す。 |
1749 | 己巳 | 六 | ○三月二十二日、桂山彩嵒(*桂山彩巌)歿す。年七十二なり。○五月、東野遺稿刻成る。其友人石川大凡・根武夷・山井崑崙等、物徂徠の指揮に依りて輯校する所なり。○六月十五日、高瀬學山歿す。年八十一なり。○市河寛齋生まる。○大田南畝(*原文は「太田南畝」)生まる。 |
1750 | 庚午 | 七 | ○四月、龍草廬、始めて彦根侯の廩■(食偏+氣:::大漢和44316)を受く。○河靜齋(*河口静斎)、斯文源流を著し、自ら其學の授受を述ぶ。時に年四十八なり。○永富獨嘯菴、京に遊び、山脇東洋の家に寓す。時に年十九なり。○古賀精里生まる。○去年十一月二十五日、向井橘洲歿す。年六十八なり。 |
1751 | 辛未 | 寶暦元 | ○六月二十四日、祇園南海歿す。年七十六なり。○紀平洲(*細井平洲)、始めて江戸に來り、芝三島街に僑居す。時に年二十四なり。 |
1752 | 壬申 | 二 | ○七月十五日、元淡淵(*中西淡淵)、江戸に歿す。年四十四なり。○八月十二日、山縣周南歿す。年六十六なり。○山本北山生まる。○龜田鵬齋生まる。○九月、太宰春臺の紫芝園稿(*紫芝園漫筆か。)刻成る。○十二月晦日、孔文雄(*日下生駒)歿す。年四十一なり。 |
1753 | 癸酉 | 三 | ○五月十二日、松崎白圭歿す。年七十二なり。○良華陰(*良野華陰)、鄭玄の注せし今文孝經を南都東大寺に得て、校定・上木す。鄭注の世に出づるは、斯擧より始まると云ふ。 |
1754 | 甲戌 | 四 | ○正月二十日、物玄覽(*荻生北渓)歿す。年□□(*欠字。八十二)なり。○三月十一日、莊子謙(*荘田子謙)歿す。年五十八なり。○八月十七日、石筑波(*石島筑波)歿す。年四十七なり。○十二月、高蘭亭(*高野蘭亭)、松觀海(*松崎観海)をして文を作らしめ、壽藏を相州圓覺寺の後山に建つ。○十二月十六日、河靜齋(*河口静斎)歿す。年五十二なり。 |
1755 | 乙亥 | 五 | ○正月六日、雨森芳洲歿す。年八十八なり。○二月十三日、香川修菴歿す。年七十三なり。○七月、秋山玉山、富嶽に登り、其紀行(*富岳紀)を著す。莊子謙(*荘田子謙)の紀行(*芙蓉記)と世に傳播す。○七月二十一日、田龍溪(*八田龍渓)歿す。年六十四なり。○十月十日、飛圭洲(*飛鳥圭洲)歿す。年四十二なり。 |
1756 | 丙子 | 六 | ○三月、井金峩の讀學則刻成る。○五月三日、三浦竹溪歿す。年六十八なり。○永富獨嘯菴、糖を製造する事に依りて長州に幽囚せられ、三閲月にして放ち歸さる。是より薙髪して獨嘯菴と稱す。時に年二十五なり。 |
1757 | 丁丑 | 七 | ○六月二十二日、伊藤東里生まる。○七月六日、高蘭亭(*高野蘭亭)歿す。年六十八なり。○七月十七日、梁蛻岩(*梁田蛻巌)歿す。年八十六なり。私に諡して循古先生と曰ふ。 |
1758 | 戊寅 | 八 | ○六月十七日、中井甃菴歿す。年六十六なり。私に貽範先生と諡す。○八月、高暘谷(*高階暘谷)、書を清の沈徳潛に贈る。○十月朔日、清■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟(*清田■叟)・皆川淇園・富士谷北邊(*富士谷成章・皆川北辺)の三人に與ける、時を限りて一夜に百詠を賦し、各五律百首を作る。 |
1759 | 己卯 | 九 | ○七月二十一日、服南郭(*服部南郭)歿す。年七十七なり。○閏七月十三日、石川麟洲歿す。年五十三なり。麟洲の學は、向井滄洲より出づ。木順菴(*木下順庵)の派なり。浪華に在りて木門の學を唱ふる者は、蓋し麟洲より始まると云ふ。 |
1760 | 庚辰 | 十 | ○七月二十六日、長坂圓陵歿す。年二十四なり。○九月十九日、鳴錦江(*成嶋錦江)歿す。年七十二なり。○九月十日、稻葉迂齋歿す。年七十七なり。 |
1761 | 辛巳 | 十一 | ○二月十八日、土屋藍洲歿す。年七十六なり。○蘆東山(*芦野東山)、赦に遭ひて郷里に歸る。其幽囚に在ること、此に二十四年なり。○六月十三日、河天門(*小河天門)歿す。年五十なり。○九月三日、中村蘭林歿す。年六十五なり。○十一月二十七日、井蘭臺(*井上蘭台)歿す。年五十七なり。 |
1762 | 壬午 | 十二 | ○三月十七日、五井蘭洲歿す。年六十六なり。○八月十三日、山東洋(*山脇東洋)歿す。年五十八なり。 |
1763 | 癸未 | 十三 | ○十二月四日、阮東郭(*菅沼東郭)歿す。年七十四なり。浪華の地、物氏の學を唱ふる者、東郭より始まり、菅旨谷(*菅谷甘谷か。)に及ぶと云ふ。○十二月十一日、秋玉山(*秋山玉山)歿す。年六十六なり。 |
1764 | 甲申 | 明和元 | ○春水、病有り。醫を尋ねて大坂に至り、遂に留まりて、講説して業と爲す。年十七なり。○八月十六日、多田蒙齋(*多田東渓)歿す。年六十三なり。○十一月二日、根武夷(*根本武夷)歿す。年六十二なり。○井金峩、始めて漢・宋を折衷するの學を唱へ、經義折衷を著す。○朝鮮來聘す。 |
1765 | 乙酉 | 二 | ○二月七日、中根東里歿す。年七十二なり。○五月二十八日、江南溟(*入江南溟)歿す。年八十なり。○六月二十三日、和智東郊歿す。年七十三なり。劉文惠(*多紀元孝か。)、命を奉じて躋壽館を建て、井金峩(*井上金峨)を招き、經營拮据、一に其指畫に從ふ。 |
1766 | 丙戌 | 三 | ○三月、高暘谷(*高野暘谷)歿す。年四十八なり。○三月五日、永富獨嘯菴歿す。年三十五なり。○十月十六日、武梅龍(*武田梅龍)歿す。年五十一なり。私に諡して文靖先生と曰ふ。○十月二十五日、木蓬莱(*木村蓬莱)歿す。年五十一なり。 |
1767 | 丁亥 | 四 | ○三月、山縣柳莊、罪有りて市に斬せらる。年四十一なり。○四月十二日、赤松太■(广+叟:そう:隠す・隠れる・捜す・求める:大漢和9438)歿す。年五十九なり。(*「太■(广/臾:ゆ::大漢和9398)」とも。)○六月八日、服仲英(*服部仲英)歿す。年五十五なり。○九月二十日、原雙桂歿す。年五十なり。○十一月八日、岡白駒(*岡田龍洲)歿す。年七十六なり。○十二月十二日、冢旭嶺(*冢田旭嶺)歿す。年七十なり。 |
1768 | 戊子 | 五 | ○二月六日、野田剛齋歿す。年七十九なり。○皆川淇園の論孟學庸解稿成る。 |
1769 | 己丑 | 六 | ○二月、南宮大湫、始めて江戸に來る。時に年四十二なり。○十月十二日、青木甘藷(*青木昆陽)歿す。年七十二なり。 |
1770 | 庚寅 | 七 | ○三月、永田觀鵞(*永田東皐)の儒林姓名録成る。○四月三日、良華陰(*良野華陰)歿す。年七十二なり。私に諡して文惠先生と曰ふ。 |
1771 | 辛卯 | 八 | ○正月四日、劉龍門(*宮瀬龍門)歿す。年五十三なり。○五月、熊澤臺洲(*熊坂台洲か。)の西遊紀行刻成り、世に流傳す。諸儒、皆其文才を稱し、聲價大に彰はれり。○井金峩(*井上金峨)、二本松侯に遊事し、東奧に留まり、七閲月にして辭して歸る。 |
1772 | 壬辰 | 安永元 | ○正月、江北海(*江村北海)の日本詩撰成る。○三月九日、伊藤錦里歿す。年六十三なり。○八月五日、村士淡齋歿す。年七十三なり。○十二月十二日、田邊晉齋歿す。年八十一なり。私に諡して守正先生と曰ふ。 |
1773 | 癸巳 | 二 | ○正月二十四日、瀧鶴臺歿す。年六十五なり。○三月十日、江北海の六十の壽に、宴を東山酒樓に開く。○北山、孝經集覽を著す。時に年二十二なり。 |
1774 | 甲午 | 三 | ○正月、山中天水、其郷里を奔り、京師に遊學す。時に年十七なり。○五月、黒澤雉岡、褐を田安府の侍讀に釋く。時に年六十二なり。○十月二十三日、鵜士寧(*鵜殿士寧)歿す。年六十五なり。 |
1775 | 乙未 | 四 | ○八月、龍草廬、致仕して郷に歸り、再び京に講説す。○十二月二十三日、松崎觀海歿す。年五十一なり。 |
1776 | 丙申 | 五 | ○正月四日、村士玉水歿す。年四十八なり。○四月二十八日、餘熊耳(*大内熊耳)歿す。年八十なり。○六月朔日、木■(三水+壇の旁:::大漢和18416)洲(*鈴木■洲)歿す。年六十二なり。○六月二日、蘆東山(*芦野東山)歿す。年八十一なり。○六月十六日、宇子迪(*宇佐美■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水)歿す。年六十七なり。○九月二十九日、物金谷(*荻生金谷)歿す。年七十四なり。 |
1777 | 丁酉 | 六 | ○太宰春臺の校定せる古文孝經孔傳は、清人鮑以文(*鮑廷博)が翻刻し、之を其知不足齋叢書中に收むる者、始めて東渡し、浪華の木世肅(*木村巽斎、木村蒹葭堂)もまた塾に刻して、盛に世に行はる。○六月十一日、稻垣白巖歿す。年八十三なり。 |
1778 | 戊戌 | 七 | ○三月三日、南宮大湫歿す。年五十一なり。○三月二十六日、伊藤蘭嵎歿す。年八十五なり。○江村北海の日本詩選續編成る。○十一月二十九日、谷玄圃(*横谷玄圃、横谷藍水)歿す。年五十九なり。此人六歳にして明を喪ひ、其の文學に從事するは、皆之を傍讀の力に得し者なりと云ふ。 |
1779 | 己亥 | 八 | ○山本北山、作詩志■(穀の偏の「禾」を「弓」に作る。:こう::大漢和9844)・作文志■(穀の偏の「禾」を「弓」に作る。:こう::大漢和9844)の二書を著し、大に李攀龍・王世貞等の修辭の説を辯駁し、物徂徠・服南郭(*服部南郭)等の詩文を彈斥す。井金峩(*井上金峨)と相謀り、時習を排詆し、江戸の文學、之が爲めに一變すと云ふ。 |
1780 | 庚子 | 九 | ○正月二十一日、石王塞軒歿す。年八十なり。○九月二十五日、林東溟歿す。年七十三なり。終りに臨んで自ら墓表の文を撰ぶ。○紀平洲(*細井平洲)、尾府に仕へて侍讀と爲る。時に年五十五なり。 |
1781 | 辛丑 | 天明元 | ○正月十九日、湯常山(*湯浅常山)歿す。七十四なり。○頼春水、其本國の召しに應じて儒官と爲る。○山中天水、江戸に來る。山本北山と經義を論じ、遂に之が爲めに辯駁せられ、其門人と爲る。時に年二十九なり。 |
1782 | 壬寅 | 二 | ○三月十四日、江北海(*江村北海)、宴を東山に開き、七十の壽を爲す。四方の士、詩歌を以て祝賀する者數百人なり。其門人、其詩歌を編輯し、上木して東山壽筵集と曰ふ。○三月二十九日、片山兼山歿す。年五十三なり。其學は漢・魏の傳注を主とし、時習を一變すと云ふ。 |
1783 | 癸卯 | 三 | ○春水(*頼春水)、其君に從ひて、始めて江戸に來る。○四月十八日、松君山(*松平君山)歿す。年八十七なり。○奧田三角歿す。年八十一なり。○八月二十三日、梅澤西郊歿す。年四十なり。○皆川淇園の詩經繹解成る。 |
1784 | 甲辰 | 四 | ○二月、太田錦城(*大田錦城)、始めて江戸に來る。時に年二十なり。○四月二十四日、高芙蓉(*大嶋芙蓉)歿す。年六十三なり。○四月、井金峩(*井上金峨)、東叡大王に從ひて、日光山に登る。病に罹り、途中家に歸る。幾くもなく歿す。時に六月十六日、年五十三なり。 |
1785 | 乙巳 | 五 | ○二月二十三日、清田■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟歿す。六十七なり。○三月、龜田鵬齋の鵬蹲居雜識成る。○五月二十二日、小川泰山、■(病垂+祭:さい・せい:病気・疲れる・肺結核〈=肺癆〉:大漢和22458)を病みて夭す。年十七なり。○七月十日、大鹽鼇渚歿す。年六十九なり。 |
1786 | 丙午 | 六 | ○市河寛齋、李唐の諸家の詩の、彼に佚して我國に存する者を集録し、名けて全唐詩逸と曰ふ。○皆川淇園の書經繹解成る。 |
1787 | 丁未 | 七 | ○奧貫友山歿す。年八十なり。○十一月、皆川淇園の名疇問學擧要等成る。○山本北山の春秋孔志・周易集解疏義・論語集説・較定孝經・經義撮説等成る。 |
1788 | 戊申 | 八 | ○正月、柴栗山(*柴野栗山)、徴されて儒官と爲り、時に年五十三なり。○二月二日、江北海(*江村北海)歿す。年七十六なり。○六月十四日、井太室歿す。年六十九なり。○太田錦城(*大田錦城)の學考成る。時に年二十四なり。○劉桂山(*多紀桂山)、井金峩(*井上金峨)の遺文を集め、金峨焦餘稿と號して世に刊行す。 |
1789 | 己酉 | 寛政元 | ○九月十一日、那波魯堂歿す。年六十三なり。○市河寛齋、詩社を結び、江湖詩社と曰ふ。○享保中より、物徂徠・太宰春臺等、古學に左袒し、程朱を排撃し、此に四十年なり。其他、程朱を辯駁する者、踵を接して起る。故に異學を禁ずるの令有り。 |
1790 | 庚戌 | 二 | ○五月、柴栗山(*柴野栗山)・岡田寒泉、旨を奉じて學政を料理し、五科目を立てて教諭し、士を造る。是に於てか、程朱の學大に振起すと云ふ。○九月六日、山中天水歿す。年三十三なり。○九月二十二日、片北海(*片山北海)歿す。年六十八なり。 |
1791 | 辛亥 | 三 | ○正月十五日、平澤旭山歿す。年七十四なり。○太田錦城(*大田錦城)の中庸考・論語大疏・學説指要・教説發揮等成る。 |
1792 | 壬子 | 四 | ○二月二日、龍草廬歿す。年七十四なり。○閏二月六日、安清河(*安達清河)歿す。年六十七なり。○五月二十四日、新井白蛾、賀州に歿す。年六十八なり。○八月二十五日、永田觀鵞歿す。年五十五なり。○十一月七日、千葉芸閣歿す。年六十六なり。 |
1793 | 癸丑 | 五 | |
1794 | 甲寅 | 六 | ○五月、山本北山、唐山諸子の著述中より我邦の事實を載する者を集録し、題して日本外史と曰ふ。凡そ四十五卷なり。蓋し松下西峰の異稱日本傳に遺漏する所を補ふなり。 |
1795 | 乙卯 | 七 | ○山本北山の孝經樓漫録・避暑漫鈔等成る。○九月十日、三浦瓶山歿す。年八十一なり。○異學の禁制より、世の士大夫、皆舊習を改め、大に正學に向ふ。文藝を業とする者と雖も、多く皆其家世の學を改め、以て宋學を奉崇す。江戸の學、之が爲めに一變すと云ふ。 |
1796 | 丙辰 | 八 | ○正月十四日、石作駒石歿す。年五十七なり。○五月五日、太宰春臺の五十年忌なり。○六月十五日、源東江(*沢田東江)歿す。年六十五なり。○十二月六日、黒澤雉岡歿す。年八十四なり。○海外、清の嘉慶元年なり。 |
1797 | 丁巳 | 九 | ○清朝に山井鼎(*山井崑崙)の七經孟子考文、物叔達(*荻生北渓)の同補遺を翻刻して以て來り、總二百卷二套(*二組)二十四卷を贈る。○江戸の書舖小林崇山房(*小林高英)、太宰春臺の爲めに其墓側に建碑して、以て其浴恩の事を記す。 |
1798 | 戊午 | 十 | ○平安に、皆川淇園・巖垣龍溪(*岩垣龍渓)・村瀬栲亭・佐野山陰を以て、人呼んで之を古學四大家と謂ふ。而も、別に當時宋學を唱ふる者なり。○九月朔日、吉田篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)歿す。年六十八なり。○山本北山の文用例證・作文率・文事正誤等成る。 |
1799 | 己未 | 十一 | ○龜田鵬齋の大學私衡・中庸辨義成る。○三月二十四日、岡田朝陽(*岡田新川)歿す。年六十三なり。○江戸の東藍田(*伊東藍田)・市川鶴鳴・冢田大峰(*冢田大峯)・戸崎淡園・豐島豐洲、始終其學を改めず、益古學を唱ふ。人呼んで之を關東の五異學と謂ふ。 |
1800 | 庚申 | 十二 | ○五月十一日、服部栗齋歿す。年六十五なり。○六月十二日、種村箕山歿す。年七十九なり。○九月、頼春水、徴されて江戸に至り、書を昌平學舍に講ず。 |
1801 | 辛酉 | 享和元 | ○正月八日、赤松滄洲歿す。年八十一なり。○四月五日、關松■(片+總の旁:そう::大漢和19883)(*関松窓)歿す。年七十餘なり。○六月二十九日、紀平洲(*細井平洲)歿す。年七十四なり。 |
1802 | 壬戌 | 二 | ○山本北山、我邦の典詁・名物を蒐羅して、綱を提げ目を列べ、部を一百二十に分ち、題して事類集成と曰ふ。凡そ一千卷なり。安永庚子の歳(*安永9年=1780)より稿を起し、是歳に至ること、凡そ二十三年にして成る。近世、著書の廣大なる、稻若水(*稲生若水)の庶物類纂の後、未だ曾て此の如く卷帙の浩瀚なる者有らず。 |
1803 | 癸亥 | 三 | ○三月二十一日、熊坂台州(*熊坂台洲)歿す。歳六十五なり。○七月九日、菱岡山歿す。年五十六なり。○十月十六日、細合半齋歿す。年七十七なり。 |
1804 | 甲子 | 文化元 | ○正月二十五日、十時梅崖(*十時梅■(涯の旁:がい::大漢和2930))歿す。年七十三なり。○二月五日、中井竹山歿す。年七十五なり。○六月六日、小田穀山歿す。年六十五なり。○七月二十九日、伊藤東所歿す。年七十五なり。私に諡して修成先生と曰ふ。 |
1805 | 乙丑 | 二 | ○九月八日、菊地衡岳(*菊池衡岳)歿す。年五十九なり。私に諡して泰忠先生と曰ふ。 |
1806 | 丙寅 | 三 | ○四月朔日、古屋昔陽歿す。年七十三なり。○十一月十四日、戸崎淡園歿す。年七十八なり。 |
1807 | 丁卯 | 四 | ○五月十六日、皆川淇園歿す。年七十四なり。私に諡して明經先生と曰ふ。○八月十一日、奧田尚齋歿す。年七十九なり。浪華松山の一心寺に葬る。自ら墓銘を撰す。○十月、紀平洲(*細井平洲)の嚶鳴館遺稿刻成る。○十二月朔日、柴野栗山歿す。年七十二なり。 |
1808 | 戊辰 | 五 | ○正月二十八日、三繩桂林歿す。年六十五なり。○十一月十九日、清田龍川歿す。年六十二なり。 |
1809 | 己巳 | 六 | ○四月、伊東藍田歿す。年七十六なり。斯人、物金谷(*荻生金谷)の門人なるを以て、徂徠學を奉ずる者、皆之を推尊す。寶暦以降、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の遺老殆ど盡き、世に存する者無し。故に人之を物氏の學の巨匠と呼べり。 |
1810 | 庚午 | 七 | ○七月八日、市川鶴鳴歿す。年五十七なり。○清人鮑廷博(*鮑以文)校刊する所の知不足齋叢書第二十一集より二十五集に至る者、始めて東渡す。中に鄭注孝經二卷を收む。尾張の岡田朝陽(*岡田新川)の群書治要中に表章せし所なり。 |
1811 | 辛未 | 八 | ○朝鮮來聘し、對馬州に館す。 |
1812 | 壬申 | 九 | ○五月十八日、山本北山歿す。年六十一なり。私に諡して述古先生と曰ふ。○十二月十日、倉成龍渚歿す。年六十五なり。 |
1813 | 癸酉 | 十 | ○十月晦日、篠崎郁洲(*篠崎三島)歿す。年七十七なり。○十二月十四日、尾藤二州(*尾藤二洲)歿す。年六十九なり。 |
1814 | 甲戌 | 十一 | ○三月二日、龜井道載(*亀井南溟)歿す。年七十二なり。寶暦中より、物徂徠の學を關西に唱へ、此に五十年、終始一なるが若し。今に至るも、其學風存すと云ふ。○七月五日、蒲生君平歿す。年四十七なり。○十一月七日、豐島豐洲歿す。年七十八なり。 |
1815 | 乙亥 | 十二 | |
1816 | 丙子 | 十三 | ○二月十九日、頼春水歿す。年七十なり。○九月、原念齋の先哲叢談刻成る。 |
1817 | 丁丑 | 十四 | ○四月朔日、荻野鳩谷歿す。年一百なり。○五月四日、古賀精里歿す。年六十八なり。○五月二十四日、伊藤東里歿す。年六十なり。私に諡して恭敬先生と曰ふ。○八月九日、岡田寒泉歿す。年七十一なり。 |
1818 | 戊寅 | 文政元 | |
1819 | 己卯 | 二 | ○二月、龜田鵬齋、泉岳寺の鈞上人と謀り、赤穗四十七義士の碑を其山中に建つ。都人、打ち摺る者衆し。○七月十八日、皆川篁齋歿す。年五十八なり。 |
1820 | 庚辰 | 三 | ○三月十九日、原念齋歿す。年四十七なり。斯人、編中に係らずと雖も、此書に先鞭せる故を以て之を書す。○七月十日、市河寛齋歿す。年七十二なり。寛政中より詩社を結び、此に三十年、專ら■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園・赤羽の舊習を矯め、清新流灑の詩風を振起するは、斯人より始まると云ふ。 |
1821 | 辛巳 | 四 | ○十月、龜田鵬齋の國字攷・善身堂一家言等刻成る。○十二月、太田錦城(*大田錦城)の洙泗仁説・一貫名義等成る。○海外、清の道光元年。 |
1822 | 壬午 | 五 | ○六月、清人徐稼圃、長嵜に來り、劉桂山(*多紀桂山)の醫■(月+卷の頭+貝〈偏〉:よう・しょう:余る・無駄・残り:大漢和36878)・太田錦城(*大田錦城)の九經談・村瀬栲亭の藝日鈔、三書を求む。 |
1823 | 癸未 | 六 | ○四月九日、太田南畝(*大田南畝)歿す。年七十五なり。○同日、葛西因是歿す。年六十なり。○十二月、太田錦城(*大田錦城)の學庸原解刻成る。 |
1824 | 甲申 | 七 | ○二月、山本北山の尚書勤王師刻成る。 |
1825 | 乙酉 | 八 | ○四月二十三日、太田錦城(*大田錦城)歿す。年六十一なり。 |
1826 | 丙戌 | 九 | ○三月九日、龜田鵬齋歿す。年七十五なり。 |
1827 | 丁亥 | 十 | ○正月十九日、物徂徠百年忌なり。其曾孫荻生維則(*荻生桜水)、大に時流を其■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園に集む。 |
近世儒林に其人乏しからず、載籍多しと雖も、僅に其言行を記すのみ。著述の■(目? 圍?)、生卒之年の如きは闕略もまた少からず。焉ぞ子姪の状を記し、門人の譜を撰する者有るに至るも、事蹟の詳かなるは得て知るべけんや。苟も然らざれば、則ち一時高名の士と雖も、其履歴は茫乎として詳かなるべからず。豈に遺憾なるに非ずや。友人東條琴臺に於ける、此に見る有りて、儒林小史を撰し、經籍志華を之れ出し、今年表一卷を以て上梓し、一日余に示す。余披きて之を讀む。先哲叢談及び後篇・続篇・餘編の中に就きて、推すに干支を以てし、表を作るに譜を以てし、而して先哲の生卒、著述の前後を■(辨ずる? 浮ぶる?)こと、諸を掌に指すが如し。史・漢、既に年表有れば、則ち藝苑に遊ぶ者も亦斯書を以て坐右の紺珠に充つべし。
歳は著雍(*「戊」の異称)困敦(*「子」歳)(*文政11=1828)建酉(*建除家の説)の月に在り。北峰山崎美成(*北峰は山崎美成の号)識す。(*以下、「美成之印」陰刻、「字之卿?」陽刻の押印あり。)