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吉田篁とん 吉田雨岡 阪本天山 西山拙斎 佐々木琴台 |
信濃 東條耕 子藏著
篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)の先は、世〃近江の人にして、高祖祐益、佐々木氏より出で、了以(*角倉了以)と同族なり、豐太閤に仕へ、前田徳善院玄以(*前田玄以)の女を娶りて、慶也を生む、初め祐益致仕の後、亂に遭ひて、稍〃衰ふ、慶長中、前田氏太田夫人に駿府に侍す、夫人は水府威公(*徳川頼房)の母なり、祐益晩年此縁故に因りて威公に仕へ、采地若干を賜はる、卒して後、前田氏尼と爲り、日圓と稱す、夫人嘗て大猷公(*徳川家光)に功勞あり、日圓亦與る、出入して起居に候する毎に、眷遇比する者なし、慶也は父母の蔭を以て醫員に補し、食邑を加賜す、二女を生み、男なし、季女を以て長谷伊兵衞の子宗山に配して嗣子と爲す、時に歳十一歳なり、威・義・肅(*徳川綱條)の三公に歴事す、元禄中、法橋に敍すること例の如く、林菴と稱す、元の配早く歿し、雨宮氏を娶りて子なし、外戚戸次氏の子を養ひて嗣と爲す、名は訥言、字は子敏、愼齋と號す、又醫員と爲り、篤信を生む、字は興卿、享保乙巳九月丙辰を以て、歳四十九にして歿す、篤信奧山氏を娶り、延享二年四月五日を以て、篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)を小石川の邸に生む、篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)家學の殖多、愼菴(*愼齋か。)より始まると云ふ、
篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)は家の世蔭を以て、仕籍に補せられ、禄三百石を襲ぎ、時に林菴と稱す、明和中、擢でて侍醫と爲る、嘗て當直の日に於て、私に官署を出で、時に數〃近街の病者を訪ふ、府僚の有司、間〃之を知ると雖も、認めて知らずと爲し、敢て詰問せず、蓋し其方技に精しきを以て、治を請ふ者頗る多し、會〃後宮急症を病む者あり、俄に當直の侍醫を召す、篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)又私かに出でて在らず、諸曹各〃之を回護すれ共、密に掩ふこと能はず、執法憲吏事状を以て聞す、竟に呵責を受け、此罪科によりて、禄籍を沒收し、都外に放逐す、是よりして後、姓名を變じて佐々木坦藏と稱し、髪を蓄へて儒と爲る、名は坦、字は資坦、竹門と號す、幾ばくもなく、淺草馬街に僑居す、最後吉田氏に復す、
篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)は方技に精通すと雖も、素と醫たるを欲せず、逐はるゝ時に當りて、暫く治療をなし、國手の名あり、其業大に行はる、毎歳得る所の謝貲二百餘金、家産匱しからず、平生畫を好み、鑒識に長ず、若し佳品あれば、數金を惜まず、嚢を倒にして之を購ふ、宋・明・清諸家の眞跡、金石彝尊、衆物の奇器より、我土中世の舊記故録、折軸敗卷の雜品に至るまで、廣く捜り博く收め、儲へざる所なし、最後家道之が爲めに貧しきも、敢て憂と爲さず、
浪華の木巽齋(*木村蒹葭堂)、學を好み博を嗜み、蒹葭堂を築き、古今の書籍十萬餘卷を收藏す、又書畫・法帖・古器・名物を儲集し、尤も賞鑑に長ず、其人風流好事の聲、一時に傳播す、累世の素封、富王侯に■(人偏+牟:ぼう:等しい:大漢和597)し、其買購する所、一擲千金なり、故に珍器名物、自ら此に輻湊す、海内の文人墨客、招致せずして其家に寓居する者數十人、交寰宇に遍く、其人を知らざるなし、篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)は家道の富庶、遠く及ばずと雖も、收藏の儲集之と匹敵し、奇册珍卷此に充滿す、巽齋人をして其有る所を訪問せしむ、盡く是れ世間絶無希有の品種なり、故に千金を出して其欲する所を請ふ、篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)歳知命を踰え、自ら齡の長ぜざるを識り、之を賣致し、多く資材を得、子孫の爲めに田宅若干畝を購ふと云ふ、
篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)は博通の餘、能く書畫の眞僞を辨じ、傍ら古器新舊の鑒定を成す、今世の謂はゆる好事者流、蓋し篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)早く歩徑を啓きて、此に出づるに由る、乃ち是れ■(匚+〈勿/日〉:::大漢和2631)姦商・書■(巾偏+白:ばつ::大漢和8848)・黠估の之を稱揚する所以なり、亦篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)の説行はるゝに由りて、其著眼する所少からず、余が識る所、市野〔名は光彦、字は子邦、又清翁軒と號す〕(*市野迷庵)・高岡養拙〔名は秀成、字は實甫、一に醉月と號す〕・中村佛菴〔名は蓮、字は仲蓮、一に精廬と號す〕・狩谷■(木偏+夜:::大漢和14970)齋〔名は望之、字は卿雲、一に仰高と號す〕等、各博洽多識、鑒定の精核を以て、世に稱せらる、皆是れ篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)の遺論を祖述する者なり、
篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)初め井金峨(*井上金峨)に學ぶ、金峨より少きこと十三歳、金峨屡〃其才學を稱して措かず、醫を改め儒と爲るに及び、專ら漢學を奉崇し、首として考據學を安永・天明の間に唱ふ、近時清人考據の説盛に行はれ、人爭ひて元・明以上の古鈔影本を捜索するを知るもの、實に篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)より始る、余曩に其著す所の近聞寓筆に序して、詳に其事を言ふ、文長ければ此に贅せず、
篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)は古鈔數本を合せ、經史の異同を比對校勘するを好む、人の珍卷奇册を儲藏するを聞きては、百方之を求め、手自ら寫鈔す、其校定する所の諸書、皆精覈を極む、今按ずるに、篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)の爲す所は、多く近世清人盧見曾・畢元・孫星衍・段玉裁・戴士震・阮元等、諸家の言ふ所と暗合するもの多し、蓋し考證精核、氣運の然らしむと雖も、先鞭の見、諸家の前に在り、地を隔てて相同じ、眞に卓絶と謂ふべし、
篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)常に子弟に告げて曰く、經を解するは、古に近きを以て信と爲すべし、後世諸儒己の執る所に因りて、各〃一家の言を成す、論著する所あり、其道を信ずること、篤からざるにあらず、其業を講ずること精しからざるにあらず、之を要するに、明は宋に如かず、宋は唐に如かず、唐は漢に如かず、其古へに近きを以てなり、聖人は述べて作らず、信じて古を好む、吾が徒豈に服膺せざらんやと、
篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)は漢唐の傳疏に左袒し、盛に古義を唱ふ、專ら古文孝經孔傳・尚書孔傳・論語何氏集解の三書を研究するを以て主と爲す、三書皆書を成すあり、其尚書に於て力を用ふること最も勤む、嘗て書説五卷を著し、名づけて孔傳廣要と云ふ、蓋し宋・元より明・清に■(之繞+台:::大漢和38791)るまで、尚書を疑ふ者尤も多し、篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)之が爲めに侮を禦ぐ、其辯論立説、實に我邦人の未だ曾て及ばざる所なり、
篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)は寛政十年戊午九月朔日、痢を病みて歿す、歳五十四、谷中里の大雄寺に葬る、著す所、古文尚書孔傳指要五卷・論語集解考異・菅氏本論語集解考異各十卷・眞本古文孝經孔傳一卷・左傳杜解補葺五卷・眞本墨子考十五卷・經籍考二卷・活版經籍考・足利學校書目附考・廟略議・祭議略各一卷・留蠧書屋儲藏志二十卷・近聞寓筆四卷・近聞雜録一卷・清朝創業事略・欣然悦耳録・骨董小説各二卷・箕林山房文鈔六卷、其校定する所、陸徳明の經傳釋文三十卷・盧文■(弓偏+召:::大漢和9758)の攷證三十卷は、書舖松澤老泉、其遺託を奉じて、歿後に刊行すと云ふ、
篁■(土偏+敦:とん:小丘:大漢和5470)の男、名は唐臣、字は士貞、通稱は定吉、幼より聰慧能く歌詩を作り、學術大に富む、常に杜詩韓文を誦し、數首數篇を諳記す、
享和三年春、麻疹を病みて歿す、歳僅に二十二、太田錦城余が爲めに言ふ、
雨岡、本姓は小橋氏、父友古出でて塚原氏を繼ぎ、司衞の騎士吉田安立なる者と善し、之が爲めに養はれ、弱冠にして職を襲ぐ、雨岡亦然り、
雨岡初め井金峨(*井上金峨)に從ひて經義を學び、又澤旭山(*平沢旭山)に從ひて文章を嫺ふ、又和歌を好み、平春海(*村田春海)・橘千蔭と友とし善し、二子常に其詞才を稱して曰く、流暢典雅、古人に減ぜずと、
雨岡蚤に幹事の名あり、擢でて匠作令の屬吏と爲る、能く學術を以て吏務を潤色す、煩劇の中、誦讀を廢せず、
雨岡は天稟明敏にして、時態に達練す、寶暦中、本所火を失し、暮にしてやゝ熄む、餘焔猶熾にして、其翌日幕府出狩の途程を梗支す、故事若し誤りて火を失して延燒し、出狩又は登廟等の路に妨阻すれば、其罪輕からず、衆議出狩を廢して、日を改めむことを請ふ、雨岡急に命じて、望火樓の鼓版を撃ち、再び救火の役徒を集招す、白丁・健夫、星馳奔走して、火所に趣く、燼に灑ぎ火を掃ひて、■(益+蜀:::大漢和33873)淨洗ふが如し、自ら出狩の廢せざるを得たり、
明和中、謀を獻ずるものあり、長橋を花川渡の津に造らしむ、衆議皆言く、水底に橢石あり、植柱に便ならずと、且つ其費の巨劇なるを以て、遂に果さず、安永中、再び旨あり、諸曹をして之を衆議せしむ、雨岡は善く泳潛する者をして之を檢せしめ、能く址を按ずる法を得、斷然建言して策を上る、官之を許容し、竟に能く造作す、往來の庶人、官仕の者、外に農工及び商を論ぜず、人毎に錢二文を以て税と爲す、用費巨なりと雖も、官帑を糜さず、之を速成するを得たり、既に成るの後數日、江東吾妻神祠の賽祭に會す、都人士女始めて新架に歩す、舟楫を煩さずして此に濟る、呼んで吾妻橋と云ふ、公私今に至るまで皆之を便とす、按ずるに、江戸郭外東渡の水、皆隅陀川の下流なり、一を永代と曰ひ、二を大橋と曰ひ、三を兩國と曰ひ、皆長橋なり、四を厩渡と曰ひ、五を花川渡と曰ふ、皆官津なり、花川の渡は造營獨り最後に在り、貴賤遠邇、須臾も止まず、遞解・兌運等に便なる所以なり、其擧全く雨岡の建言する所に成ると云ふ、
天明丙午の歳、關東の諸州■(三水+降の旁:::大漢和17382)水あり、利根川溢るゝこと殊に甚し、隅陀の瀬溝合し、吾妻橋は下流に在るを以て、忽ち壞墮せんとす、雨岡時に本所南割溝に住居す、之を聞き、以て聞するに及ばず、役徒數十人に命じて、橋の中間數丈の、水勢猛激にして、最も衝突する所を斷つ、橋頼つて全く壞墮せざるを得たり、朝野の人、皆其■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)敏に歎服す、
明年丁未、天下歉荒す、關東殊に甚しく、米價騰躍す、官長賑濟の方を召議す、雨岡吏數輩を率ゐて、急に深川に趣き、謂はゆる貸倉なるものを檢視す、穀苞充滿せり、之を封じて以て聞す、是に於て奸商黠賈、僞りて貯儲する所を訴ふ、乃ち言つて曰く、諸侯給士の俸稟なりと、其封を啓かんことを請ふ、政府此が爲めに、其官署を遣して實否を考覈す、使者數人、項背相望み、辨白する能はず、是の時に當りて、執政相良侯意次(*田沼意次)、權朝野を傾け、賄賂盛に行はる、雨岡の議、阻みて行はれず、飛謗譁沸、幾ばくもなく免黜せらる、識る者竊に其屈抑を惜む、
雨岡罷黜の後は、意を官途に絶ち、復た世務を以て心を累はず、薙髪野服、自ら雨岡道人と號し、游歴の僧の如く、寰區に浪遊す、名山高岳、四方の勝境、遠しとして至らざるなく、足跡天下に半す、此を以て娯と爲す、其後舊職に復せんと薦むる者あり、問ふに其前僚の陰慝を以てし、■(女偏+合+廾:えん・あん:女が慕う:大漢和6505)婀(*原文「阿/女」に作る。)附和して、將に其贓穢の事状を告訐せんとす、雨岡敢て言はず、則ち其再三已まざるに及び、乃ち漫言して之に應じ、以て其意を絶つ、
享和二年壬戌九月、病に臥す、自ら其起たざるを知り、後事を經理し、一の闕漏なし、澹然として歿す、歳六十六、十一月九日なり、日暮里南泉寺に葬る、二子あり、伯は長融、字は川父、叔は孝善、字は志述、皆學を好む、雨岡平生起稿する所の稿本著述數十種、皆未だ全く成らず、盤遊餘録八卷・別録八卷・鼈嶼雜録四卷あり、
天山の先は、近江佐々木氏の庶族、阪本に食邑ある者、因つて氏と爲す、後甲斐の武田氏に仕ふ、甲陽軍鑑に見ゆる所、阪本武兵衞なる者は、此七世の祖と爲す、其子主計は新府に殉難し、其子隆息は尚幼し、逃げて出羽にゆき、最上侯に仕ふ、侯國除するに遭ひて、江戸に客死す、其子則俊は武技を以て聞ゆ、是時に當りて海内始めて靖く、鎭を大阪に置き、關西を防禦す、驍勇の者を募りて、内藤信正の麾下に隸副し、往いて此を守らしむ、則俊擢でて騎士となり、家を將ゐて此に移居す、其子俊政、讐を避けて出奔し、終る所を知らず、其季子俊英、始めて高遠侯に仕へ、高遠の人と爲る、其子英臣、選ばれて郡宰と爲り、職に在ること十八年、部下其威惠に服す、二子を生む、天山は乃ち其季子なり、
英臣は少壯より好んで武技を演じ、志を學に留めず、其晩年に及び、自ら文思なきを傷み、悔いて及ばず、故に天山をして其志を繼ぎ、以て學業を修めしむ、嘗て之を勵して曰く、藩中の子弟、未だ嘗て文事に慣はず、頑陋習を爲し、鄙野自ら甘んず、吾れ之を救はんと欲すれども、之に從ふこと能はず、汝其れ之を勉めよと、是より學に志し、遂に江戸に到り、文章を餘熊耳に學び、經義を宇■(三水+旡2つ+鬲:せん:川の名、ここは人名:大漢和49237)水に受く、
天山は餘・宇の二家に學び、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の言を奉崇すと雖も、中年の後、頗る異同あり、特に藏書に富みて專ら博渉を事とし、百家九流を論ずるなく、以て我土近人の雜著に至るまで研究せざるなし、身遠鄙に居ると雖も、都下の人、之に及ぶこと能はず、博聞宏見、以て一家の言を成す、
天山は意氣慷慨、■(目偏+禹:::大漢和23506)(*■(足偏+禹:::大漢和37713)・■(女偏+禹:::大漢和6556)か。原文は口偏の下にはねが見える。)々を好まずと雖も、兒女老媼も其話説を聞けば、雀躍歡抃す、又一丁を知らざる者も、其經を講じ、史を談ずるを聽けば、敬して服せざるなし、
天山尤も易學に深く、之を字句の間に求めず、專ら象數に探る、嘗て曰く、天地萬物、皆是れ吾師なり、象の物を生ずるを視、道の活處を觀るに、謂はゆる道は全く此に在り、默識神契、之を此に求む、三代以後、詩書禮樂、時に隨ひ宜を權(か)り、創立する所以なり、堯は自ら堯の道あり、舜は自ら舜の道あり、禹・湯・文・武・周公・孔子、亦皆然らざるは無し、然らば則ち、我れ自ら又我に任ずるの道あり、之を此に求む、章句の末節、文字の支流に拘泥すべからず、夫れ禮樂制度は、道の此に原づくにあらず、聖人道の形する所を視、之を名づけて仁義と曰ふ、孔子は專ら仁を言ひ、子思は智・仁・勇を併せて之を説き、孟子は仁・義・禮・智を比して之を論ず、皆擴げて之を言ふなり、蓋し往古其道ありて其名なし、故に云ふ、人の道を立て、仁と義とを曰ふも、古未だ仁義の稱あらず、即ち孔子の連名する所なり、世益〃降り、人益〃薄し、教法細密ならざるを得ず、名亦時に隨ひて起る、唐虞の廷は必ず戒むるに欽を以てす、蓋し其人皆忠信愨實、故に告ぐる所、此に止る、孔子の時、世已に澆季にして人皆愉薄輕佻なり、故に教ふるに忠信を以て主と爲す、其末に趨るを慮り、先づ其本を培ふなり、子思教ふるに誠を以てす、其外を飾るを慮り、先づ内を實にするなり、孟子性善を説き、四端を論ず、亦皆此に因らざるはなし、豈に古へ其言なきを以て廢せむや、學びて時に之を習ふも格物致知に在り、格物致知は論語に在らずして大學に在り、大學の書は齊魯の人の編する所、必ず晩周に在り、是を以て、其教法愈〃密に、其辭亦淺近を免れず、學者尊びて以て孔子の遺書と爲す者は、固に非なり、駁して以て聖人の書にあらずと爲す者も亦得と爲さず、若し格物致知を以て孔子の言ならずと爲して之を駁すれば、知・仁・勇及び仁・義・禮・智等、皆廢する所に在るなり、道を論ずる者、まさに其世を論じて其時を知るべし、強ひて一に拘はるは、其見必ず局ならざるを得ず、今之を易に求むれば、古は自ら古、後世は自ら後世、煥然明照、少の礙滯なし、學者專ら之を論語に徴す、論語は孔子歿して後數年にして成る、孔子教を萬世に垂れんと欲するの意、必ずしも此書に存するにあらず、孔子手づから制作する所は、易・春秋是なり、其業專ら此二書に在り、春秋は學者多く皆褒貶の説と爲すは非なり、呂大奎は以て名分を正すの書と爲す、余之に從ふ、然れども大奎は專ら左氏に依りて以て其事實を辨ず、余直に以て推を爲し、必ずしも左氏に據らず、夫れ孔子春秋を作り、豈に後に之が傳を爲す有る者を期せんや(*と)、
天山擢でて郡宰と爲り、舊俗愉惰の弊を改めんと欲す、而も民未だ熟化せず、恩を以て之に臨めば、横にして不遜、嚴を以て之を待てば、忿にして以て憾む、因つて刻薄の聲を得、美刺相半す、時に會〃其方正己に利ならざるを忌む者あり、飛語相起る、侯聞きて之を怒り、其禄秩を奪ふ、閉黜すること三年、幾ばくもなく、尋いで嗣子俊元に命じて、禄の半を賜ひ、閉黜赦解し、譴を承りて愼謹す、三年の久しき、喜慍の色を見さず、讀書これ耽る、絶えて吟咏を罷む、其嚴敬なること此の如し、
天明癸卯の歳、甚だ凶荒す、人民飢乏、餓■(艸冠/孚:::大漢和31076)相望む、是に於て上毛の州縣、兇賊競ひ起り、民家を掠鹵し、暴亂百出し、其勢奮迅し、徒黨已に數千萬人に至る、諸侯鎭藩、悉く皆警あり、之を治むる能はず、數日の間、延蔓して信濃の州界に抵る、天山時に任に在り、侯命じて之に一方を防がしめ、預め之が禦をなす、命を受くるの日、装飾既に飭ひ、械具已に備はる、將に其屬する所の歩卒若干人を率ゐ、早に諸藩の出す所に先だちて、一軍を發行せんとす、鄰境の鎭藩、皆其敏疾なるに服し、平生調練規律の備あるを稱す、
天山は性資強識、眼の一過する所は、終身忘れず、或は通志堂經解數帙を散置し、卷目を紛措し、試に其説を擧げて之を質問すれば、乃ち某氏の書、某氏の説と曰ひて、其一をも差はず、
天山嘗て父の武技を以て藩士を教授するを視、自ら槍法・銃術を演習し、之を學ぶ、既にして精熟し、槍は特に奧を極む、銃は童齔にして善くし、發すれば必ず的中す、而も慊意あり、明和戊子の歳、暇を告げて浪華に到り、銃の名家荻野照良に就いて之を質す、意猶滿たず、此に於て獨益〃研究し、發明する所あり、喟然として歎じて曰く、火技の天下に傳ふる人なし、我れ豈に自ら之に任ぜざらんや、夫れ力あり、銅熕を膝にして以て發し、數斤の鐵丸、殆んど兒戲の如きも、實に癡■(馬偏+矣:::大漢和44780)と爲す、若し乃ち小丸小藥も、唯敵一人のみ、將帥の任にあらずと、是に於て、其剏造する所の周發の術・銃炮要務は、實に古今の未だ嘗て有らざる所なり、
周發の炮術は、之を孫子に本づく、火攻皆之を易象に得と云ふ、蓋し天山好みて易説を研尋し、遂に悟りて微に入るを得たり、是に於て自ら機巧を出して、砲臺を創製し、名づけて周發と曰ふ、これを其轉旋端なく、遇隨發撃するに取り、萬鈞の重を運動して、鴻毛よりも輕くし、東西南北、向背常なし、意の赴く所、器相隨ふ、處として自在ならざるはなし、竊に謂ふ、向ふ所敵なしと、
我邦火技ありてより、其術を講究する者、多く學殖なく、徒に當時の制を傳ふるのみ、天山浪華に旅寓し、之を講究すること、此に數年、一も得る所なくして還る、講經の暇、偏く蠻夷異域の傳を捜討す、世の此に從事する者、以爲らく、彼皆其妙用神理、未だ入る處あらず、徒に軌を守りて、爲す所虚誇に近し、復た世に屑しとせられず、尋常の砲技は別に其利用を求むべしと、精を專らにし、思を凝し、以て寢食を忘るゝに至る、一旦發明する所あり、享保以降の人、始めて西洋諸州横文の書を知り、益〃此技に精妙なるを識る、天山僻地にあり、獨り之を造作す、其連發運用の簡便なること、符を彼に合す、時運の之をして然らしむと雖も、誰か千載の偉功と謂はざらんや、
天山嘗て謂ふ、我れ官に居り志を遂げず、其の■(女偏+鬼:::大漢和6600)たるや大なり、我れ惡んぞ再黜の■(女偏+鬼:::大漢和6600)なきを知らんや、三黜の柳下惠たらんよりは、寧ろ再任の榮なからむと、因つて自ら天山と號す、即ちこれを天山遯に取り、以て其志を表す、
天山仕を罷むるの後、諸州に漫遊し、寛政己未、歳五十にして郷に歸る、侯之を喜びて禄秩を賜ふ、上疏して命を拜し、固辭して受けず、以爲らく、出處進止、愼まざるべからずと、其言凛乎として餘意あり、抗■(骨偏+葬:::大漢和45284)平素に減ぜず、聞く者猶恟々たり、侯亦其意を悟り、敢て之を強ひず、唯廩俸を賜ひて、以て養老の資と爲す、其願ふ所に任せ、從ひて之を遠遊せしむ、藩法に大夫致仕すれば、老後俸を賜ふ、固より士に及ばず、士の俸あるは蓋し天山より始まる、一藩これを榮とす、
寛政戊午、歳五十三、關西の諸州に遊ぶ、縉紳・逢掖・武辨・方術の士、必ず館に輳り、交を納るゝ者數十百人なり、嘗て崎■(奧/山:::大漢和8542)に寓す、平戸侯素と其名を聞き、禮を厚くして款待す、遂に平戸に到る、蓋し平戸の地、蠻舶を抗拒し、警備法あり、其藩士大夫從つて技を學び、術を海濱に試み、習熟して驗あり、平戸闔國今に至りて遺教を傳ふ、歿して後、祠を立て之を祭る、
天山嘗て南紀の泰地浦に抵り、其海鰌を捕ふるを觀、其術の迂なるを笑ふ、人を用ふること甚だ衆く、物を獲ること極めて寡し、自ら火炮を製して、以て其技を試みんと欲し、泰地の邑長に示す、詩あり、云く、
見説らく鰌魚跳躍の雄、濤を蹴て石鯨と同からず、試に銃技を施し時相制せば、敢て讓んや昆明池水の功 (*見説鰌魚跳躍雄、蹴濤不與石鯨同、試施銃技時相制、敢讓昆明池水功)天山著述頗る多きも、容易に之を示さず、其人を誤るを恐るればなり、嘗て曰く、古人書を著す、其れ孰れか自ら是とせざる、然れども今之を視れば、未だ謬あるを免れず、我著す所、又焉ぞ其誤なきを保せんや、人の憂は好んで書を著すに在り、書を著すは、抑〃名を好むの弊なり、我れ則ちこれ亡しと、
西州を歴盡して病の侵すに値ふ、■(尸/彳+喬:::大漢和7812)を鸞■(山偏+喬:::大漢和8488)に留て春陰を過ぐ、呻吟未だ罷めず經業を窮むるを、鉛槧猶勤む老翰林、匹夫白璧を懷くに意無く、何ぞ方士に從て黄金を問はん、重章詞賦還て累多し、若かず清胸苦吟を止むるに (*歴盡西州値病侵、留■鸞■過春陰、呻吟未罷窮經業、鉛槧猶勤老翰林、無意匹夫懷白璧、何從方士問黄金、重章詞賦還多累、不若清胸止苦吟)是より後、再び詠を爲さず、神思自若、書を誦して輟まず、享和三年(*享和三年〔1803〕が癸亥。はじめ「享保三年」とあったのを水野氏のご指摘により改める。底本の誤りか、入力ミスか、現在底本を確認できず。)癸亥二月廿九日を以て歿す、歳五十九、崎■(奧/山:::大漢和8542)の皓臺寺の子院眞珠院に葬る、四男あり、伯俊元、家學を繼述し、亦火技に長ず、仲俊□(*一字欠)早く夭す、叔俊貞、宗家の嗣となりて、大阪に在り、季永貞、兄俊元、早く歿して嗣なし、母は皆吉田氏、又甥岡部俊通を養ひて子と爲す、通稱は八彌、火技を以て諏訪侯に仕ふ、
拙齋は本姓は坂本氏、備中鴨方邑の人なり、其先は世〃備中守大江元清に仕ふ、高祖章琳、猿挂より小坂に遷る、曾祖志摩、其舅氏嗣なきを以て、出でて西山を冒す、祖茂長坂本に歸復し、鴨方に遷る、父諒、字は恕玄、蘭皐と號す、宗人家祀を奉ずるものあるを以て、復た西山を冒し、以て祖志を繼ぎ、醫を以て著稱せらる、母は倉敷の岡氏、世の謂はゆる岡龍洲の同族なり、享保二十年乙卯八月十七日を以て生る、
拙齋は齠■(齒+乙繞:::大漢和48585)より好んで演史を讀み、以て戲弄に當つ、父此を以て病を致さんことを恐れ、時に卷册を奪ふ、則ち父の外出を窺ひて、復た竊に之を讀む、後、敢て之を禁ぜず、其好む所に任す、嘗て蒙求を讀む、快誦する能はずと雖も、略〃事實を解して謬らず、間〃乃ち之を評論す、父これを奇とす、
歳十六、父の命に依り、笈を負ひて浪華に遊び、方技を古林見宜に受け、經義を岡龍洲に學ぶ、時に龍洲齡已に高し、外孫那波魯堂をして代りて之を教へしむ、幾ばくもなく父の病を以て歸省す、父遂に起たず、看護侍養、盡さゞる所なし、喪服已に■(門構+癸:おは:終:大漢和41430)りて、亦北に上る、龍洲既に歿し、魯堂聖護院村に居り、帷を下して教授す、拙齋其塾に寄寓し、物徂徠の學を研窮し、時習の李王修辭の説を奉崇す、時に鳳字に翼を附すと、
魯堂初め漢學を主とし、物氏の説に服從すと雖も、■(立心偏+番:はん・べん:変心する・翻意する:大漢和11237)然として省悟する所あり、意を理學に刻み、洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)諸家の書を訪索し、沈潛反覆、心に契ふことあり、會〃韓使來聘す、其製述官南玉・書記玄仲擧等、理學に精密なりと聞きて、客館に筆語す、又接伴使に從ひて、與に倶に東行せんことを請ふ、旅次筆語疑ふ所を參決し、正に此に就く、蓋し是時に當りて、物氏の學盛に行はれ、韓使の經過する所、往還四十餘日、其接見する所の學士文人、率ね數百人に下らず、未だ嘗て一人の窮理修身の事に及ぶ者あらず、魯堂毎夜旅館に就いて、質問置かず、益〃理學の是にして時習の非なるを識る、遠く江戸に在りて、書を拙齋に寄せ、諭すに其舊習を棄て理學を遵奉するを以てす、幾ばくもなく韓使將に還らんとす、乃ち浪華に到る、拙齋初め南・元(*玄?)の二子に見えて其要務を問ふ、二子答ふるに、妄語せざるより始むるを以てし、其箋を傳へて示す、講究終日、尋常の筆語應酬に及ばずして辭し去る、是よりして後、戚然として感悟する所あり、盡く舊時の爲す所を廢棄し、前非を懲艾し、鋭意鑽研し、理學を發揮す、文は唐・宋を宗とし、詩は韓(*韓愈)・白(*白居易)を奉ず、名を正、字を士雅と改む、時に歳三十なり、
魯堂嘗て謂ふ、道は宜しく由る所を擇ぶべし、學は濂洛關■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)に從ふにあらずんば、焉ぞ其方を得ん、詩文は各〃其好む所に從ひ、甚だ之に害するなし、然れども人の門牆に依り、人の餘唾を■(手偏+庶:せき・しゃく:拾う・拾い取る:大漢和12624)ふは、丈夫は爲さずと、蓋し天明・寛政の間、物氏を攻撃する者、紛然として互出し、學風を一變し、時習を革改する、未だ嘗て之に由らざるはあらず、拙齋斷然として理學を奉ず、未だ必ずしも魯堂の着鞭にあらずんばあらず、
拙齋は少時善く病み善く怒る、後、自ら悔艾し、手ら十戒を寫して以て壁上に貼り、旦夕視て以て自ら警め、暴怒を制抑するを以て之が條首と爲す、中歳以降、温藉雍容、圭角を見すこと罕なり、病亦從つて安し、是を以て、精研の工、培養の力、老いて加〃これに倍す、
享保以後、文學殊に盛にして、十室の村里、學究あらざるなし、而して子弟僅に書を讀み、文を解するを知り、驕傲人を凌ぐ、詞藻・文章・經史・百家を論ずる無く、徒に學術を以て、夸衒の具と爲す、天明の初に至り、都鄙上下、貴賤老弱を論ぜず、風俗愉薄、弊習陋を極む、拙齋痛く規して之を戒む、其人を教ふるや、行實を以て先と爲し、信義を以て主と爲し、郷閭之に化す、是を以て一たび其門に入る者、謙虚人に過ぐ、間〃才を恃む者あるも、儀容語默、敢て倨慢ならず、薫陶の資する所、既に人心に遍し、童穉婦女も、自然に荒嬉惰遊、極めて玩ぶべしと爲し、■(食偏+易:::大漢和44204)を巷市に買ひ、犬を街路に嗾する者あること無し、
拙齋己を修むる、矜莊にして恭謙、歡笑の時と雖も、未だ嘗て惰容あらず、童兒厮隸も、辭し去れば、則ち起つて送る、平生家を治むる、寛にして法あり、嚴にして恩あり、妻子過失あれば、少しも假借すること無し、人或は其苛なるを疑ふ、其他雍和にして、比あるを見ず、
拙齋言論を善くし、經史を講説する毎に、能く人を感ぜしむ、物に接するに誠を推し、極めて歡情を盡す、客あれば輒ち書畫玩器を出し、家に儲藏する所は、咸な布陳坐縦して、以て展觀傳弄せしむ、此に於て、之に繼ぐに談諧を以てす、退去或は疲困に至れば、坐對怡々として、未だ倦色あるを見ず、是を以て、俗吏・販夫も之と居るを樂む、其優裕なる、務めて敢て畦畛を爲さず、
拙齋は課業の暇、子弟をして象戲・圍碁・投壺等の諸技を作さしめ、旁觀評品し、陶然として相娯む、是を以て嬌穉懶童も終日坐待して、之を厭ふ者なし、寛容温厚、自然に餘りあり、
拙齋書を讀むこと詳審、誤りては改竄し、疑ひては簽識す、故に一たび眼を過ぐれば、能く之を記すと云ふ、余嘗て宇士新(*宇野明霞)の句讀する所の文獻通考、及び太宰徳夫の句讀する所の管子全書を覩て、其讀書の詳審なるを識る、向に呂大圭の春秋五論を書肆に得、乃ち言ふ、拙齋の句讀する所と、余時に歳十八、未だ拙齋の何人たるを知らず、今之を追思し、始めて其手澤なるを知る、嗚呼吾輩書を讀み、苟も之を誦抄し、漫として省悟せず、眞に強記なる者にあらざれば、十に三四を記せず、謹みて念ふに、朱以て句讀し、誤を改め疑を簽すれば、才中人に及ばずと雖も、一讀の功、數讀に倍す、先修の士、心を用ふるの深切なる、企て及ぶべからず、
拙齋は操行苟もせず、人に師表たるに足れり、而して諧謔を好み、嘗て頼春水の大阪に到るを送り、因つて倶に菅茶山の許に抵る、佯りて行を送ると爲して出づ、春水未だ其意を知らず、既に數里を過ぎて、驛舍に到る毎に、輒ち將に分袂せんとす、笠を脱ぎ杖を停め、揖して之を謝す、拙齋曰く、興盡れば則ち囘らむ、君顧念するなかれと、且つ談じ且つ行き、一日程に及び、春水始めて一行なることを覺り、路上に對笑す、既にして茶山の家に抵り、未だ寒暄を言ふに及ばず、先づ語るに其事を以てす、遊弄戲謔、更に平生に似ず、
拙齋は理學に切磋し、識量文才、魯堂に超絶するも、敬んで之に事へ、老に至りて衰へず、魯堂聖護王府の侍讀を辭するに及び、拙齋を擧げて之を薦む、王は皇の弟なり、其初て謁するに及び、王親しく手づから團扇・煙袋の數物を出し、之を賜ふ、又點茶・吹笙を爲し、以て之を慰樂す、優遇尤も至る、竟に仕に就かず、
拙齋半百の後、信服する者甚だ衆し、里中一姥あり、固と相識らず、毎晨念咒の次、輒ち拙齋の名字を唱ふ、蓋し一郷に領袖し、後進に模範たるを以てなり、拙齋始め之を知らず、後、之を聞き、詩を賦して曰く、
蘇公廳下曾て字を求む、白傅門前能く詩を解す、嗟我卿に於て寸効無し、枉て老嫗をして生祀に擬せしむ (*蘇公廳下曾求字、白傅門前能解詩、嗟我於卿無寸効、枉教老嫗擬生祀)拙齋は石を愛する癖あり、自ら許すに米顛を以てす、藏する所數十百品、自ら華嶽・匡廬の稱謂を命じて、堂廡に貯へ置く、其戸壁に描くに、南宮石を拜する圖を以てし、朝と無く暮と無く、撫玩自ら娯む、又紫石英の四五寸許りなるものあり、高さ八分五厘、濶さ一寸二分、厚さ六分、大さ棗栗の如く、日に暎じて瑩徹し、中に富嶽の眞形を含む、削成突兀、紫氣之を罩む、嶽頂皓白なること豆許り、雪のごとし、光彩目を爍す、■(敬/手:::大漢和12808)げて之を瞰れば、突として山峰雪を戴く状の如し、珍重特に至る、啻に連城のみならず、名づけて玉芙蓉と曰ふ、勝を探り人を訪ふに、必ずしも身を離さず、常に座側に在り、嘗て平安に遊ぶ、諸貴人其事を傳へ聞き、爭ひ請ひて撫覽す、因りて遂に至尊の宸覽を經、既に匣を製して之を藏す、自ら蓋上に題するに、天覽の二字を以てす、斯事籍甚四方に聞ゆ、石顛の印を刻して、贈る者あるに至る、是亦一奇行なり、
巍々たる義公の筆、■(册+立刀:さん・せん:削る・除く:大漢和1917)修獲麟を祖とす、書は石室の秘を探り、館に老儒紳を延ぶ、彰考微闡を主り、文質日に彬々、前史の穢を一洗して、愈〃皇統の眞を知る、特書正閏を分ち〔神功を后妃傳に黜け、大友を帝紀に陞せ、正朔を南朝に繋ぐの類、皆大義の係る所にして、特筆直書、以て前史の失を革正する者尤も多し、〕微意君臣を警む、謹嚴名器重る、勸懲袞鉞陳ぶ、豈に止〃王家の衡ならんや、抑〃東府の親たり、功は當に補洛に擬すべし、志は彝倫を敍るに在り、永く濟世の美を懸け、寧ろ效んや藏山の珍、南董と遷固と、瞠乎として後塵を避く、猗歟君子國、君子人の若き有り、一百世を達觀して、理亂目中に新なり、誰か繼述美を成して、億齡王春を輝す (*巍々義公筆、■修祖獲麟、書探石室秘、館延老儒紳、彰考主微闡、文質日彬々、一洗前史穢、愈〃知皇統眞、特書分正閏〔*割註省略〕微意警君臣、謹嚴名器重、勸懲袞鉞陳、豈止〃王家衡、抑〃爲東府親、功當擬補洛、志在敍彝倫、永懸濟世美、寧效藏山珍、南董與遷固、瞠乎避後塵、猗歟君子國、有若君子人、達觀一百世、理亂目中新、誰成繼述美、億齡輝王春)天明の末、白川侯定信(*松平定信)、蚤に懿親を以て政務に宰輔す、頗る文思あり、賢才を寤寐し、格を破り程を放ち、累に學殖操行ある者を辟す、躁進奔競の者、牋を上り策を獻じて、以て登庸を冀ふ、拙齋常に之を厭薄し、素より時學の賤行を病み、習俗の浮靡に趨くを檢し、乃ち書を栗山(*柴野栗山)に致し、以て建議して、奔競を抑へ、愉惰を勵し、異學を禁ずる等の事を勸む、栗山舊と拙齋と善し、時に教官に補せられ、諸生を訓督す、蓋し慶長以降、江都の學政、一に朱子に遵ひ、異論あること無し、是の時に當りて、衆家汎濫、朱子を謗詆するを以て大家碩儒と爲し、理學を攻駁する者甚だ衆し、栗山能く之を洞視し、將に其弊を糾正せんとす、會〃旨を奉じて學政を料理す、又拙齋の書を得て大に喜び、之を奏す、侯、其區畫處置する所、拙齋の言ふ所と自ら相符合す、遂に能く其言を擧用すと云ふ、
琴臺は近江源氏の嫡流なり、左衞門尉定綱、始めて此に封ぜられてより、世〃食邑を襲ぐ、其子信綱、檢非違使尉に至り、近江守に任ず、其第三子壹岐守泰綱、弟近江守氏信、分れて南北の二宗と爲り、泰綱は六角に居り、氏信は京極に居る、其子孫始めて六角・京極の族あり、而して六角は常に江源の大宗たり、泰綱頼綱を生み、頼綱宗綱を生む、宗綱は弟時信を以て嗣子と爲す、時信氏頼を生み、氏頼滿高を生む、滿高滿綱〔一に滿經に作る〕を生み、滿綱久頼〔初め高康、一に政頼に作る〕を生む、久頼高頼を生み、高頼定頼を生む、皆六角郷觀音寺・箕作・和田等に居る、定頼は從四位下に敍せられ、彈正大弼に任ず、室町幕府管領職を賜ひ、近江守故の如し、闔族一門之を尊崇して箕作殿と曰ふ、其子左京大夫義賢、其子右衞門督義弼〔一に義治に作る〕、覇業を起すに意あり、織田右府(*織田信長)と抗戰すること數年、元龜中、右府、柴田勝家等をして、近江の諸邑を略せしむ、觀音寺・箕作・和田・六角の諸城、風に靡きて奔敗し、特に鯰江城を保つ、義賢父子兵を出して敢て戰ふ、右府の軍屡〃之に苦む、幾ばくもなく、右府幕府義昭(*足利義昭)を京師に幽し、朝倉義景を越前に滅し、淺井長政を江中に殺す、數月の間、兵勢大に振ふ、義賢兵を募るに援なきを以て、拒支する能はず、國を棄てゝ、伊勢・伊賀・紀伊の山中に棲遲し、其蹤跡を晦す、近江の一州、悉く右府に屬す、遠祖兵庫助成頼、始めて佐々木の莊に居りしより、五百有餘年、忽諸泯絶す、義賢既に歿し、義弼高野山に在り、豐太閤海内を混一するに及び、其華冑なるを愍み、殊に義弼射御の故事に達練するを以て、之を召し、之をして左右に候し、顧問に備へしむ、辭して應へず、最後京師の加茂に潛居す、慶長十七年十二月廿三日、歳六十八にして歿す、義弼の弟、中務大輔高定、觀音寺城に居り、宗族の淪沒するに及び、竊に奔逃して大溝に隱居す、是を琴臺六世の祖と爲す、按ずるに、義賢父子の始末、諸家之を記さず、故に詳に之に及べるのみ、
高定は舊しく大溝に居る、慶長五年、照祖(*徳川家康)其事を傳聞し、名家の陥淪を愍憐し、新に千石を賜ひて、扈從隊と爲す、四子あり、伯右近大夫高賢禄を襲ぎ、仲民部少輔高和、叔桂治醫官と爲り、法眼に敍す、季は四郎定好なり、高和は台徳公の扈從となり、別に二千石を賜ふ、其子高秀〔初の名は久高、通稱は外記なり〕、延寶五年、歳四十二にして歿す、子定賢二郎と稱す、僅に四歳にして禄を襲ぐ、九年四月、痘を病みて夭す、故事に未だ十五歳に至らざる者は、嗣を立つることを得ず、采邑除し、遂に其祀を絶つ、此時に當り、家族遺臣四方に流落す、高秀の妾に吉田氏なる者あり、大溝の農家なり、是より先き既に孕めるありと雖も、辭して郷里に還り、男を生む、名は高久源兵衞と稱す、母族の吉田氏を冒す、其子高元、源太と稱す、家産頗る豐饒、大に田宅を購ふ、人之を素封と稱す、延享元年甲子三月十六日を以て、琴臺を大溝に生むと云ふ、
琴臺幼より産業を好まず、讀書これ好む、父其凡ならざるを知り、之をして醫たらしめんと欲す、故に責むるに農桑稼穡を以てせず、遂に平安に遊び、山脇東洋の塾に寓す、然りと雖も、其好む所にあらず、竊に將に儒者と爲らんとし、贄を松永淵齋(*松永尺五の孫)の門に執る、幾ばくもなく父の疾を聞き、郷に還る、時に二十三歳なり、〔淵齋、名は深原、字は貞夫、淵齋と號す、京東堀河の講習堂に居る、昌三(*松永尺五)の曾孫(*未考)、宋學を奉崇して時名ある者なり、〕
琴臺父を喪ひ、之が爲に服すること三年、能く禮制を終る、大溝侯其異行を聞き、將に之を門閭に旌し、衆庶を警戒せんとす、辭謝して曰く、賞賜を受くるが爲に親の喪に服せず、子たるの職に供するのみと、
琴臺は父を喪ひしより後、田宅資材を以て之を族人に託し、毎年遊學の費金三十兩を請ひ、再び平安に遊び、博く名士に交る、本姓に歸復して佐々木源三郎と稱す、下太刀賣街に僑居し、教授を行と爲す、
琴臺は三十歳の後、江都に到り、下谷車坂に■(人偏+就:::大漢和1115)居す、常に此に往來し、其熟知と稱する者、僅に三人、林儼〔字は稚瞻、松林山人と號す、長崎の人なり、清客の胤子にして、書畫篆刻を善くす、〕・三浦衞興〔字は淳夫、瓶山と號す、石見の人にして富山の儒員なり、〕・僧慈周〔字は六如、葛原老衲と號す、近江の人にして、東台に居る、〕なり、皆詞藝を以て著聞する者なり、
明和の初、琴臺將に程朱の學を研究せんとし、贄を村士一齋〔名は宗章、字は行藏、駿河臺に居る、〕(*村士〈すぐり〉玉水)に執る、一齋專ら山崎氏(*山崎闇齋)の學を修め、性理を以て世に著顯すと雖も、詞藻文藝、兼治むること能はず、たゞ以て洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の諸書を講習するのみ、操行見るべく、經義聞くべしと雖も、博通宏覽、記誦辭章の才、遠く井金峨(*井上金峨)・東藍田(*伊東藍田)・關松窗(*関松窓)等に及ぶ能はず、常に菅野兼山・稻葉默齋と友とし善く、苟も人に交らず、琴臺已に其門に入ると雖も、少壯より交遊する所の者は、多くは是れ堀河・■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒なり、故に一齋心竊に之を不平とし、之を忌嫌す、嘗て其徒、宮潛三なる者の爲に文一篇を削正し、以て琴臺に示す、其中毛を吹きて瘢を索むるの語あり、一齋改めて毛を吹き疵を求むるに作り、悍然として曰く、韓非(*韓非子)に從ふに若かずと、琴臺曰く、苟も讀書の人、誰か此語の韓非に出づるを知らざらんや、後世苛責之を吹求と謂ふ、元・明以還の人、能く毎に之を用ふ、朱子の董子才に與ふる書に云く、毛を吹いて疵を求め、垢を洗ひて瘢を索むと、載ち文集に在り、先生未だ之を見ざるかと、一齋赧然たり、此のごときの類、前後一ならず、琴臺嘗て謂ふ、理學を奉崇するの人は、學行兩つながら修り、自ら大家と號すと雖も、文章詞藻を論ずるに至りては、極めて疎陋と爲す、宜なるかな、堀河・■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒、均しく是れ之を視、窮措大・村學究の如し、寡聞狹見、詆を免るゝを得ずと、一齋之を聞き益〃之を悦ばず、其他同門の士、琴臺の才を忌刻し、謗議沸起し、竟に排擯せらる、其門籍を削除して、其徒たるを許さずと云ふ、
琴臺、一齋の爲めに拒絶せられてより、師意を迎合し、之に附和する者、以て輕俊の才、先輩を陵轢し、其器を驕誇すと爲し、之を■(女偏+戸:と・つ:妬む:大漢和6082)忌する者愈〃多し、然りと雖も、學術の富、文藻の贍、與に席を爭ふ能はず、謀議の在る所、聲價相隨ふ、
琴臺將に褐を諸侯に釋かんとす、前後數囘、之を聘する者あるに至る、一齋の徒、讒間して之を阻抑し、以て愉薄にして欺詐多しと爲す、萬犬虚を吠え、遂に禄仕を得べからず、故に意を當世に絶ち、衡門に優遊す、嗚呼古より今に至り、有志の士、幸に有爲の時に出で、群小の爲めに娟嫉せられ、其抱負する所をして、此に展べざらしむ、蓋し同を褒め、異を伐つの弊習、肺肝に固結し、其學の由る所を惡み、其子弟に及ぶ、何ぞ狹隘の甚しく、洪量人を寄る能はざる、一齋の琴臺に於ける、一は之を局屈に失ひ、小忌を以て、之を拒絶するに至り、一は寛緩に失ひ、細諱を以て、之を衝溌するに至る、眞に以て惜むべし、
琴臺は天資寛裕、物と忤はず、四十歳の後、人其器宇を嘉し、交を納るゝ者、其數を知らず、松宮觀山・山縣柳莊・平賀鳩溪・林子平等のごとき、各〃琴臺の韜略に長ずるを悦び、裨益を請ふこと少からず、此數士は皆凡士ならずと雖も明哲身を全うするの故を識らず、其終を善くせず、琴臺能く之を禮貌し、稱して得難きの人と謂ふ、見る所ありと謂ふべし、
琴臺細行を矜(をし)まず、任侠自ら喜ぶ、誠を推し物に及び、汝爾の間に自ら快とす、故に學就りて身逾〃窮し、名立ちて志逾〃逸す、是を以て、世の介僻の輩、新知と舊職とを論ぜず、暗に之を毀刺するも、其才學の美を覆沒する能はず、琴臺亦自ら世の清議を犯すを知ると雖も、人に俯仰するを欲せず、
琴臺、常に時世の勢を知るを以て、事務と爲す、故に古を論じ今を評す、皆此を以て斷と爲す、其言に曰く、書を讀む者は時勢を知らざるべからず、陳壽、三國志を著し、魏を紀して蜀を傳ふ、習鑿齒、漢晉春秋を著し、漢に繼いで魏を越す、其識の高下あるに關はるにあらず、時なり、壽(*陳寿)、志(*三国志)を晉武受禪の初めに撰む、晉、魏の禪を受け、魏廢せられ、蜀已に破亡す、安ぞ魏を尊ばざるを得んや、鑿齒(*習鑿歯)、春秋(*漢晋春秋)を元帝中興の後に作る、蜀、宗室を以て漢緒を存す、猶元帝の藩緒を以て晉統を復するがごとし、安ぞ蜀を尊ばざるを得んや、司馬温公の通鑑(*資治通鑑)・朱文公の綱目(*通鑑綱目)、理勢亦是の如し、北宋、周の禪を受く、温公魏を以て正統と爲さざるを得ず、南渡偏安、文公蜀を以て正統と爲さざるを得ず、陳と習と、司馬と朱と、地を易へば、則ち皆然り、四子は均しく能く時勢を識る者なり、此説、我土の人、未だ考に及ばざる所なりと、
琴臺は意を仕途に絶つと雖も、其實此に在らず、將に通籍を幕府に求めんとす、故に侯臣となるを願はず、忍侯正識〔阿部豐後守〕、其學術を信じ、徴すに二百石を以てす、秋田侯義眞其名族を嘉し、聘するに三百石を以てす、皆辭して應へず、東叡大王屡〃之を招致し、經史を講説せしめて之を聽く、優待甚だ渥し、後、居宅千歩の地を芋坂の側に賜ふ、遂に此に移居す、
琴臺嘗て一侯家の聘に應じて、裾を其邸に曳き、遇するに實禮を以てす、後、侯語りて曰く、吾れ江源より出で、均しく是れ佐々木の庶流なり、今先生と一堂に相遇ふ、嫡分庶るゝも、祖宗の親を忘れず、請ふ先生自愛せよと、蓋し其侯家舊譜を傳ふるあり、其言不文、以て之を遠きに傳ふるに足らず、力を琴臺に假りて之を修飾し、以て完備と爲さんと欲す、琴臺對へて曰く、孤生援なく、衰頽の自ら及ぶ所と爲る、以て祖宗の休烈を奉揚する能はず、實に慚愧の至なり、古より建國の君、興家の臣、皆身を干戈の間に出し、櫛風沐雨、備に艱難を嘗め、以て子孫の爲に業を立つ、之が子孫たる者、生れて無事の時に遇ひ、坐して富貴を享け、般樂怠傲、祖宗の勤勞を知らず、以て嗟嘆すべし、亦學術の不明の故に由るのみ、侯此に意あらば、敢て佚遊して以て其職を忘るゝなくんば則ち可なり、譜牒を修飾し、時目を■(火偏+玄:::大漢和18948)耀するの擧あるを必とせずと、侯大に恥ぢて止む、
琴臺、門衰へ祚薄しと雖も、現然たる名家の遺裔、閥閲の餘族なるを以て、世に自負するの意なし、嘗て曰く、我れ貧甚しと雖も、猥に他姓を冒すの虚托を爲さずと、此一言凛乎として世の他姓を冒す者の頭腦を■(石偏+乏:::大漢和24110)するに似たり、
琴臺は寛政十二年庚申八月廿日を以て、病みて谷中芋坂の家に歿す、歳五十七、同邑感應寺に葬る、娶らずして子なし、妾藤氏二女を生む、皆夭す、遺言して碣銘を人に請ふを許さず、余向に其墓を展するに、墓表に仁里源先生之墓の七字を題するのみ、此れ蓋し忍侯阿部正識の書する所なり、
近時其學を傳ふる者頗る多し、北條蠖堂〔名は伸、字は子伸、相模の人にして、生徒に教授す〕・木村鶴皐〔名は衆、字は子容、江都の人にして書を善くす、忍侯の儒官なり〕・海野蠖齋〔名は■(玉偏+爰:::大漢和21122)、字は君玉、庭瀬侯の儒官にして、最後執政に至る〕・遠藤葵岡〔名は信成(*信威?)、字は士允、小倉侯の儒官なり〕・僧白石〔名は軼、字は玄暉、近江の人にして、東台に居る〕等是なり、經義遺訓、北條・木村・遠藤の三家に存す、詩燈は獨り蠖齋・白石の二人に傳ふ、二人師教を遵奉し、■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の詩學を辯駁す、之に繼ぎて、山本北山・市河西野(*市河寛斎か。)相起り、唐に於ては杜・韓・元・白、宋に於ては蘇・陸・范・楊、以て言志の規法と爲す、是に由つて天下の詩相一變して清新流麗の風と爲る、其首唱の功は、之を琴臺に讓らざるを得ず、
余向に津逮書目二十卷・本朝經籍通考八卷・侯家藏板書目六卷・補訂近世名家著述目録六卷等の四書を編著す、慶長中より今世に至る諸家の遺編、盡く之を收載す、散逸を包羅し、捜索最も勤む、然れども其書名を知りて、未だ之を得ざるもの多し、文化の末、嘗て遠藤葵岡と交歡し、盡く琴臺の遺書若干種を覽るを得たり、因つて其目撃する所を記す、葵岡も亦既に世を謝し、復た覽るを得べからず、僅に其梗■(既/木:::大漢和15363、58223)を示す、仁里周易説稿十二卷・反易辨二卷・易象起原一卷・仁里書説稿十五卷・今文尚書説稿三卷・書序辨一卷・仁里謝説稿十五卷・詩大小序辨一卷・辨叶音説一卷・仁里論語鈔説六卷・春秋獨斷三十六卷・三體獨斷二十六卷・史記律數解・史記生鐘分考・同生黄鐘術考各一卷・老子解二卷・管子律算概考各一卷・孫子合契・靜思堂詩鈔十卷・琴臺文集六卷・琴臺雜著・仁里雜筆若干卷、未だ全く成らず、
余嘗て琴臺の自筆する所の井田説一篇を、書估慶元堂莊司に得、其價銀六十錢、語りて曰く、素と其學術を知る者にあらざれば之を購ふ人なしと、余高直を論ぜず、嚢を倒にして之を買ひ得たり、現金■(貝偏+余:しゃ:掛買する:大漢和36786)(をぎのり)を肯ぜず、後其文集を檢するに、載せざる所なり、今にして記さゞれば、恐くは相散逸せむ、故に之に附す、井田説に曰く、先儒井田を言ふ者、皆云く、開方三百歩、其内を井畫す、則ち一區百畝、九區九百畝、八家之を受け、各〃百畝を私と爲し、中區百畝を公田と爲す、公田の内、八十畝を以て八家と爲す、十一の賦、二十畝を餘し、八家各〃復た二畝半を受け、廬舍の地と爲す、乃ち餘地なく、恰も十一の法に當ると、按ずるに、此の如くなれば、是れ十一にして一を賦するなり、十にして一を賦するにあらざるなり、既に其十一の合はざると、又二畝半を以て廬舍の地と爲すは、經文になき所なり、其説餘地二十畝に過ぎず、賦に充つべき無し、乃ち意を以て法を設け、以て孟子の謂はゆる五畝の宅を解するなり、要は未だ井田の法を解せざるなり、凡そ算法に法あり實あり、量地を以て之を言ふ、其實は高下曲斜、固より齊しからず、一は乃ち之が法を設く、開方・開平是なり、謂はゆる井田法や、實にあらざるなり、是故に、法公田ありて實に公田なし、其公田あるは乃ち賦法のみ、司馬法に曰く、百畝を夫と爲し、夫三を屋と爲し、屋三を井と爲す、是れ其言實なるものなり、若し果して八家一井の地を受けば、何ぞ夫・屋・井の名を設け、三を以て之を言はんや、三屋を以て井と爲せば、是れ中區百畝も、亦一夫の私田たること疑なし、此を以て之を言ふ、一井九百畝にして九夫各〃十畝の粟を出せば、一井九百畝、九十畝の粟を出す、正に十一の賦に當る、是れ井田の法なり、後儒司馬の言ふ所を解かず、意を以て法を設く、十一の法に合はざる所以なり、其地形必ず高下曲斜あり、若し法を執り形を畫けば、僅に十井と雖も、平正を得べからざるや必せり、故に聖人法を設けて之を平正す、乃ち高下曲斜ありと雖も、法に由りて之を用ふれば、千里の地、原濕墳衍盡く井法を設くべし、盡く平方を開くべし、乃ち一夫百畝、三夫一屋、三屋一井を以て法となすも、其實は或は五畝、或は七畝、其地形の高下曲斜に隨ひて、之が畔界を積五・積七・正滿・百畝と爲す、乃ち一夫と爲し、三夫にして後、屋を爲し、三屋にして後、井を爲せば、後世阡陌の田と雖も、何ぞ井法を施すべからざらむや、秦井田を破りて阡陌と爲すは、蓋し丈量の法のみ、其地形は周・秦固より異なるべからず、學者宜しく深く思ふべし(*と)、
先哲叢談續編 大尾
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