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文學士 藤田篤譯註
(1998.6 公開。2011.5 難字表記改訂。)
藤原肅字は斂夫、惺窩と號す、北肉山人、柴立子、廣胖窩は皆其別號、播磨の人
惺窩は中納言定家十二世の孫なり、世々播磨三木郡細河村を食む〔封邑として領す〕、父爲純の時土豪別所長治の爲に侵略せらる、爲純長子爲勝と與に、之を禦ぎて利あらず、皆死す、是時に當り、織田右府覇を唱へ、其臣羽柴秀吉盛に事を用ふ、惺窩乃ち秀吉に告げ、死者の爲めに、一たび之を雪がんと欲す、秀吉答ふるに時を待つに若かざるを以てす、是に於て其地を
甞て關白秀次の召に應じて、五山の緇徒〔僧侶〕と與に、同じく詩を相國寺に賦す、他日復た召さるゝも、辭するに病を以てし、弟子に謂つて曰く、君子小人黨あり、黨に非ずして交はるも、終に相容るゝを得ず、余を以て秀次に交はるは、唯終に相容れざるのみにあらず、後必ず悔の追ふべからざるものあらん、余復た見ることを欲せずと、秀次聞きて之を
播磨の赤松廣通學を好み、獨り流俗を抜きて惺窩を師尊す、甞て學校を剏め〔創立す〕、
此邦に宋學を講ずる者、僧の玄惠を以て始となす、爾後間之を唱ふる者あれども、其學振はず、惺窩專ら朱説を奉ずるに至り、林羅山、松永昌三、那波活所の諸賢、皆其門に出で、時の爲に歸仰せらる、之に繼ぎて山崎闇齋獨立して自ら振ひ、亦洛閩〔朱子学〕を以て宗とす(*尊崇する)、是に於て乎、朱學始めて大に行はる、闇齋が
一日直江
釋承兌、靈三、共に才學を以て自負す、甞て惺窩を
羅山先生の撰せる行状に曰く、先生酒を嗜むも、然も或は旬を經て唇を沾ほさず、或は痛飮すれども、輙ち醉うて亂れず、又曰く、先生男あり、小字(*おさなな)を冬と曰ひ、女あり既に
惺窩旁ら倭歌を好み、時に吟詠して情緒を發舒〔ノベル〕す、其集四卷本集に合せて世に刊行す、羅山始めて至る、倭歌を賦して之に贈り、以て其成立を庶幾す
歌に曰く、
なれこぶし雲の上までいや高き惺窩集二版あり、一は則ち羅山の編次、菅得菴の續編、合せて八卷、字に
なのまことをもしかれとぞ思ふ
林忠一、名は信勝字は子信、羅山と號し、又三郎と稱す、文敏と羅山其先は加賀の人、後紀伊に私諡 す、平安の人なり、大府に仕ふ、薙髪して道春と稱し、民部卿法印となる
林恕、一名は春勝字は子和、春齋と稱し、鵝峰と號す、春齋の幼時、羅山江戸に來る、春齋母と與に平安に居り、文詞に於ては那波活所を師とし、筆札〔書道〕に於ては松永貞徳を師とす、年十七始めて江戸に入る、此より家庭に私 に文穆と謚す、羅山の第三子、父の職を襲ひて治部卿法印となる
林鳳岡人となり、豪俊雄邁〔傑出〕、其學亦父祖に承けて、通博多識、一代の碩儒〔大儒〕たり、天和新政の時に當り、夙夜公署に在り、幾ど虚日なし、一夕大君〔將軍〕に侍す、命あり、曰く吾未だ汝が詩を作るを見ず、試に戇 名は信篤、字は直民、鳳岡と號し、又整宇と號す、私に正献と謚す、春齋の男にして先職を襲ふ、初め春常と稱し、大藏卿法印たり、後從五位下大學頭に改め、晩に大内記と稱す
玉殿沈々トシテ冬夜長シ、九牧晷(*九州)ヲ繼ギテ影{火+旁}(*{王+旁}か。)煌、寒花添ヘ得タリ徳輝ノ美ヲ、一抹ノ紅雲建章ヲ遶ル鳳岡素と文藻〔文字の綾〕に屑々たらず〔頓着せざること〕、而して思致敏{扌+(ト/ヨ/足の脚)}(*捷)、其才概見すべし
言已むべからず、實に惟れ情に迫る、碑誄〔死者の功徳を稱述すること〕の立つ、爾の雲仍 (*子々孫々)に示す、徳は其固有、教は典型に由る、源濬 〔深〕くして流遠し、本立ちて道成る、崇基隆なるかな、惺窩先生遠く(*頭注に「遐は遠」とあり。)絶紐を維 〔繋〕ぎ、太平を恢啓す、羅山峨々〔高き貌〕、博知叡明、交喪復古、文献〔文書〕徴するに足る、鵝峰峻々奕葉 (*ママ)〔累代〕大に鳴る、讀耕豊熟し梅桐薫盈す、家林璧を聯ね、房園英をを(*衍字)蜚 〔飛〕す、鳳岡期に應じ、周鼎〔徳川氏に譬ふ〕以て興る、先生時に遭ひ、乃ち其名を得たり、温和慈惠、朴質忠貞、身を薄くし志を厚くし、古を好み榮を恐る、手巻を釋てず、義精を厭はず、翩々たる詩賦、玉振金聲、彈冠事に莅 み(*原字は三水を付す。)、規模遠宏、本朝通鑑法を麟經〔春秋〕に取り、貞享 (*ママ)以降、式權衡を賛 け、洙泗の風、頽廃日久し、雙樹嚢螢、禅房牖(まど)を開く、先生新に拜す、國子祭酒〔大學頭〕、冠服始めて儼なり、絳袍〔赤色の服〕藻綬、遠近徳に懷 (*ママ)、束脩禮存、侯伯權貴、駟を結んで〔四馬に駕して〕門に造る、春秋祭祀、惟れ恭惟れ享く、升降周旋、樂音餘響、殿下親 ら臨む、屡祭儀を觀、側ら行殿〔假舍〕を造り、來燕來宜、例經義を講ず、珍魂(*音に「くわい」とあり。或いは「塊」の誤りか。)奇玩、玉泉酒肴、庭實に粲々、大徳名を揚げ、福を享け壽を延ぶ、先生三全、顧ふに是れ天祐〔天のタスケ〕、物に終りあり、天地遁るゝなし、陰陽消長、四時行健、八十九齢、奄 〔倏〕ち厥 〔其〕命を殞す、戦々兢々、身を保し性を全くす、謚して正献と曰ふ、遺言銘を求む、吾と夫子〔先生〕と、義丹青を貫く、豈に敢て之を辭せんや、慟哭〔大に哀泣す〕薦 りに臻 る、悲風衣 に入り、涙雨巾を霑 す、今より自後誰にか諮詢〔尋ね問ふ〕せん、銘を石に勒〔刻〕し、用つて後人を啓く。
菅玄同、字は子徳、得庵と號し、又生白室と號す、播磨の人得庵年二十四にして、京に入り、曲直瀬玄朔を師として醫を學ぶ、既にして惺窩の門に入り、專ら儒學を修む、且つ好んで群書を聚む、架上挿む所、萬卷啻ならずと云ふ、久しくして名
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[ ] 参照書()との異同 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10) ・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25) ・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。 |