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谷時中三宅寄斎小倉三省永田善斎江村専斎


譯註先哲叢談(後編) 卷一

東條耕子藏著
谷素字は時中、通稱は大學、後三郎左衞門と稱す、土佐の人

時中の先、其出づる所を詳にせず、父を宗慶と曰ひ、世々農桑〔農業〕を業とす、時中が學に志あるを以て、州の高知眞常寺に書を讀ましむ、時中乃ち親鸞派〔眞宗本願寺派〕の僧天室なる者に從ひて學ぶ、遂に教に從ひ剃髪して慈冲と號す、後眞常寺に住し、緇徒〔僧侶〕を聚めて佛教を講説するの暇、毎に好んで經史を讀み、最も漢魏の傳註〔經書の註釋、歴史の傳疏〕を究む、後其入釋〔佛教に歸すること〕の非を悟るも、未だ學の總攝(そうせつ)を得ず、老佛に泛濫す〔ウカウカして歸向の定まらぬこと〕、南村梅軒が程朱の訓に適從すと聞き、百方千端其書を訪求し、始めて語孟集註學庸章句、朱子文集等を得て讀了り、浮屠の人倫を廃棄する〔父母を顧みず妻子を養はざること〕を慚愧(ざんぎ−ママ)す〔恥づ〕、是に於て又髪を蓄へて俗に還り、名を素、字を時中と改め、大學と稱し、儒と醫とを以て高知に教授す、時に元和の初なり
時中總角(そうかく)〔アゲ卷にて幼年〕にして頴悟、神宇儔(ちう)に超ゆ〔等輩を拔く〕、嘗て天室が大學の「生財有大道」の章を講説するを聞く、講畢りて天室語りて曰く、貲財(しざい)〔資貨〕は人を殺し身を喪ふの本なり、其の之あるの難きよりは、之なきの易きに若かずと、時中曰く、財本と人を殺すに心なし、人貪奪して〔ムサボリ取る〕自ら敗亡を取るのみ、譬へば明燈の蛾を殺さゞれども、蛾自ら明燈を撲つが如し、眞に憫むべしと、天室大に之を奇とす
時中が眞常寺に住持せし時、■(手偏+邑:ゆう:拱く・敬礼する:大漢和12105)遜(いうそん)〔謙遜〕して人に降るを欲せず、固(も)と屈する所なし、權要〔權力ありて要路に立つもの〕の士に遇ふも唯長揖(ちやういつ−ママ)する〔手を拱するだけ頭を下げぬこと〕のみ、未だ曾て之を拜せず(、)貴冑豪族に遇ふも、直に之を名(ない)ひ、丈(さま)を以て呼ばず、人之を矜誇なり〔高慢に構へてホコルこと〕とす、一士人大に不遜〔無禮〕なるを怒り、刀を揮ひて將に之を脅喝せん〔オドカス〕とす、曰く、賣僧(*まいす)何の徳ありて、常に士大夫の上に在りて飽(*原文「鉋」は誤植か。)食暖衣す、若し一言の説くべきなくんば、身首處を異にせんと、刄頷下〔オトガイの下〕に加ふ、時中神色變ぜず〔顔色が易はらぬこと〕、自若として曰く、爾が欲する所に任す、吾死生を視ること一の如し、何ぞ以て恐るゝに足らんと、士人異として害を加へず
時中の經籍を訪求(ばうきう−ママ)する時、騷亂の後僅に干戈〔ホコにて戰亂を指す〕を脱し、文運未だ闢〔開〕けず、書を獲(う)ること最も難し、而るを况んや高知は南州の僻邑〔片田舎〕にして捜索するに術なし、之を平安、浪華若くは長崎に求め、積年の久しき、多く之を儲藏す、其田畝(でんほ)〔田地〕に服事せしを以て、家本と貧しからず、書籍を購買するの故を以て、饒資〔資力に富むこと〕富財、之が爲に蕩盡す〔傾け無くす〕、嘗て曰く、富貴なるも志を失へば、田産數百石、此れ子孫に嘉貽(かたい)する〔ノコス〕所以にあらず、吾聖賢の書を讀んで道義を講明し、之を以て子孫に傳ふるに若かずと、乃ち之を鬻却(いくきやく)し〔賣る〕、僅に數頃(すけい)の田を存し、以て口を糊すべからしむと云ふ
時中程朱の學を土州に唱ふ、當時之を南學と稱し、從遊〔弟子〕甚だ多し、土佐侯屡之を徴(め)す、曾て侯の使者に謂つて曰く、州内の民禄を公廩〔藩の庫にて公米〕に食まざるを以て、必ず臣僕にあらずと爲すことを得んや、國に仕ふるは市井〔民間と云ふが如し〕の臣と謂ひ、野に在るは草莽(*原文は■(艸冠+奔:もう:「莽」の俗字:大漢和31133)の字体を使う。)の臣と謂ふ、均しく是れ州侯の民なり、臣叨(みだ)りに〔其實なく(、)にて謙辭〕浮名を竊(ぬす)み、儒術を以て妄りに尊聽を駭かず、而して學未だ精微〔クワシキこと〕を極めず、躬(み)自ら道義を研究する之れ暇あらず、惡ぞ以て王侯に師範するに足らんやと、辭して就かず、侯及び士大夫之に由りて益祟重(しうてふ)(*崇重)す
時中資性豪邁〔氣象が雄偉にて小事に頓着せぬこと〕にして畏敬する所なし、晩年に至り、磨錬蕩滌〔放縦な性行の修養を積み身持の修まりたること〕し、程朱を尊信すること、逾(いよ\/)益堅確なり、初年老佛に沈淫(しんえん−ママ)し〔迷ひて深入りする〕、衆家に泛濫(へんらん)せるを懲警し、慨然として道を求むるに切なり、深く許魯齋(きよろさい)、薜(せつ)敬軒等が存養踐履(ぞんやうせんり−ママ)の實行篤學をなすを慕ひ、■(糸偏+眞:しん・ちん:麻糸・細緻:大漢和27775)密(しんみつ)〔綿密〕厚重、一身を拘束し、動靜周旋平常尤も謹む、故に其師弟の間に於ける、教育頗る嚴なり、野中兼山、小倉三省及山崎闇齋皆之が誨督を受く、時中能く三子の凡ならざるを先識し、遇するに弟子の禮を以てせず、三子も亦能く時中の人となりに心服す、後皆見る所を以て一世を振起す〔フルヒオコス〕。(*ママ)時に闇齋が剛毅〔ツヨク動かぬ氣風〕(*頭注「剛穀」とするのは誤植。)威重(ゐちよう−ママ)〔オモオモしく威儀あること〕、師道〔先生たる道〕甚だ嚴なるは、葢し時中の遺風を沿習する〔引繼ぐ〕所なり
時中は慶安二年己丑十二月晦日を以て家に歿す、年五十二、高知城外の瀬戸山に葬る、著す所文集六卷及び語録四卷あり、皆門人の輯録する所なり


三宅寄齋、名は島、字は亡羊、江南野水翁と號す、通稱は寄齋、又以て號となす、一説に通稱は玄蕃(げんば)、和泉の人

寄齋は宇多源氏、佐々木秀義の第三子、三郎盛綱の裔〔末孫後胤〕なり、盛綱の第二子加地左兵衞尉信實邑を備後の兒島に食む、因りて地を以て氏となす、五世の孫兒島高徳備後三郎と稱し、殊に武功を以て元弘建武〔後醍醐天皇の年號〕の間に顯はる、後大和の多武峰(たむのみね−ママ)に隱れ、入道して〔佛門に歸す〕義清法師と號す、其子孫皆足利將軍に給仕(きふし)す、寄齋は高徳七世の孫なり、父某豐太閤(*原文「閣」は誤植。)に仕へ、泉州堺五奉行の一人となると云ふ
寄齋歳十一にして父を失ひ、復た仕官せず、十九にして伏見に遊び、又京に遊ぶ、紫野大徳寺に寓して、書を讀み、力學(りよくがく−ママ)する〔學を勤む〕こと此に年あり、遂に醇儒(じゆんじ−ママ)〔純粹の儒者〕を以て聞ゆ、其學常師〔定まりたる先生〕なく、自ら漢唐の註疏を以て、子弟に教授す、間ま程朱の書を講ず、從ひ學ぶ者頗る衆し
寄齋少壯より性行苟(いやしく)もせず〔軽々しくせぬこと〕、伏見に遊ぶ時、隣に富翁あり、一女容色甚だ都(と)〔雅にして美〕なり、甞て寄齋を招ぎて家に寓宿せしめんとす、辭して行かず、他日或人之を問へば、曰く瓜田に履を把らず〔嫌疑を避くる成語〕と
石田三成近江の佐和山に在り、文學の士を崇重(しうちやう)し、藤原惺窩を招(まね)ぐ、惺窩行かんとして果さす(*「ず」の誤植。)、又寄齋の名を聞き、其臣戸田某をして禮を卑(ひく)くし〔辭を鄭重にす〕幣を厚くし、慇懃(いんきん−ママ)〔懇親〕を通ぜしむ、約するに時々經史を講説し、治道(ぢだう−ママ)を訓導せんことを以てす、恩遇〔待遇の厚きこと〕頗る優なり、三成の意蓋し入幕の賓〔典故ある語にて幕僚たること〕を以て機密(きぐう−ママ)を謀謨(ばうぼ)し、得失を論定せんと欲するなり、時に秀吉既に薨じて、群僚和せず、朋黨相搆ひ、人々異志を蓄ふ〔謀叛の意なり〕、三成秀頼に固結し、勢い朝野を傾け、之に附する者衆し、寄齋之と往來すること僅に三囘、病ありと稱して再び交はらず、既に三成が善良を誣告(ふこく−ママ)し、不軌を包藏し〔叛心を抱く〕、權柄(けんへい)を擅(ほしいまゝ)にせんと欲することを知るなり、其翌年に至り、果して關原の役ありといふ、三成の臣柏原某寄齋と友とし善し、其完聚(くわんしう)〔盛にして流散せざること〕の時に當り、賄(まいな)ふ〔■(貝+各:ろ・る:まいなう・まいない・財貨:大漢和36738)〕に金十五兩を以てし、縁故を吐露し〔ワケをイフ〕、固く三成に左袒し〔味方する〕、麾下に屬せんことを請ふ、寄齋肯んぜず〔承知せず〕
寄齋資性謙虚〔己を空くして人に下る〕にして退讓自ら將ゐ、敢て名の高さを欲せず、然りと雖も其操行を聞き、慕附する者衆し、特に藤惺窩と交情最も密なり、惺窩は寄齋より長ずること十九歳、而も之を愛敬し、稱して以て謹厚の君子となす
寄齋歳不惑〔四十〕を踰えて、其學術を信ずる者少なからずとなす、近衞應山侯(左大臣尋信公)津公高虎(藤堂和泉守)福岡侯長政(黒田筑前守)宇和島侯秀宗(伊達遠江守)弘前侯信義(津軽越中守)關宿侯重宗(板倉周防守、時に京都所司代)等皆賓師〔臣とせずして先生とす〕の禮を以て之を遇す、饋贈(くわいさう−ママ)〔送りもの〕も亦尠(*原文ルビ「すくな」は一字衍字。)なからず、故に禄四五百石を以て、之を聘する者ありと雖も、辭して應ぜず
寄齋久しく輦轂(れんこく)〔天子の膝下〕の下に教授し、道を縉紳〔公卿〕の間に唱へ、學博く行修まり、後進に領袖〔頭領株〕たるを以て、聲一時に高く、竟に叡聞に達し〔天子の御耳に達す〕、後陽成天皇、後水尾天皇皆内旨あり、辟(め)して經を便殿(べんでん)に講ぜしめ、屡顧問〔諸事の御下問〕に備へらる、寵遇〔眷顧恩顧〕優渥、布衣(ふい)〔無位無官〕を以て昇りて公卿(こうけい)と禁■(門構+韋:き:宮中の小門・役所:大漢和41425)(きんゐ−ママ)〔禁裡〕に列することを得たり、又器財名香の賜あり、人皆之を榮とす
寄齋天正八年庚辰正月元日を以て、泉州堺に生れ、慶安二年己丑六月十八日を以て、平安油小路の家に歿す、壽を得ること七十、洛北〔京都の北郊〕鷹峰(たかのみね)に葬る、其墓石の正面に亡羊子之墓の七字を題するのみ、此地は後陽成帝の寄齋に賜ふ所、鷹峰四十間四方塚といふものなり
寄齋の義子〔養子〕名は道乙、字は子燕、鞏革齋(きやうかくさい)と號す、平安の人、本姓は合田氏、寄齋に學び、其師説〔先生の意見〕を篤信するを以て、之を養ひて嗣(つぎ)となし、女を以て之に妻(めあ)(*原文ルビ「めは」は誤植か。)はし、三宅氏を冒さ〔稱す〕しむと云ふ、道乙史學に精(くわし)く、甞て國訓〔假名の和讀〕を朱子の通鑑綱目に施して世に刊行す、今坊間に之を道乙點と稱す、後進之を便とす、其裔分れて四家となる、一は三宅氏と曰ひ、津侯に仕ふ、二は合田氏と曰ひ、阿波侯に仕ふ、三は又三宅氏と曰ひ、備前侯に仕ふ、四は星合氏と曰ひ、中津侯に仕ふ、皆能く箕裘〔遺業〕を繼ぎて家聲を墮(おと)さず、今日に至ると云ふ、中に就き近時備前の三宅徴、字は元献、牧羊と號す、津の三宅昌綏、字は君靜、錦川と號す、皆經義を以て世に名あり、蓋し皆寄齋が徳澤〔徳の高きオカゲ〕の及ぶ所なりと云ふ
寄齋が曾祖名は宗徹、字は通翁、葦牧齋(ゐぼくさい)と號す、永正中甞て使を奉じて明に入り〔足利將軍の使節となり明に渡る〕、■(贍の旁:せん・たん:多言する・至る・見る・補給する、ここは人名:大漢和35458)仲和(せんちうわ)を見る、(名は僖、字を以て行はる、錢塘(せんたう)の人書畫を善くす)葦牧齋の額字を書せんことを請ひ、之を得て還る、其眞蹟〔親筆〕三字の行書及び跋文一幅、今尚家に傳へて、以て珍寶となす


小倉三省、名は克、字は政義、三省と號す、通稱は彌右衞門、土佐の人、國侯に仕ふ

三省の先は近江の人なり、祖政信、通稱は勝右衛(*ママ)門、尾張黒田の城主但馬守山内盛豐に仕ふ、盛豐は織田右府〔信長〕に屬し、弘治三年丁巳尾張岩倉に戰死す、政信亦從ひて此に死す、盛豐の子對馬守一豐豐太閤に從ひ、北條氏政を討ちて功あり、太閤之を賞して遠州掛川城を賜ふ、父政康、通稱は勝介一豐に仕へ、勇武を以て聞ゆ、神祖〔家康〕海内を統一するに及び、一豐を土佐の高知城に封じ、土州侯となす、一豐政康が屡勳勞〔手■(手偏+丙:へい・ひょう:持つ:大漢和11903)(*柄)と骨折〕あるを以て拔擢し〔家中より抽出し〕て以て上太夫となす、歳八十にして致仕し、家に老い、承應三年甲午の三月を以て卒す、年九十一、三省父の蔭補(いんほ)〔オカゲの任命〕を以て、火器隊長〔足輕の鐵砲組長〕となり、又中太夫となり、更に上太夫となり、采地三千石を襲(*原文ルビ「おう」は誤植か。)ふ

三省坦懷虚襟〔公平にして人を容る〕、衆の善を取るを喜ぶ、人亦懽(よろこ)んで謀議を陳す、其上太夫となるに及び、野中兼山と同じく時中の門に出づるを以て、學術指趣頗る相匹似(ひつじ)す〔同等對比〕、而して兼山は資性剛斷英特、徃勇嚴果(けんくわ−ママ)〔決斷に勇なること〕自ら行うて敢て傍慮を顧みず、故に山野の荒蕪(わうぶ−ママ)、海濱の廣瀉〔海岸の淺き處〕を闢き、磽■(石偏+角:かく:硬い石・痩せ地:大漢和24232)(きやうかく−ママ)〔地味の惡しき土地〕を變じて膏腴(がうゆ−ママ)〔地味の肥い(*ママ)たるをいふ〕となし、津呂港を穿堀して海運に便するの類、一朝にして盛功成り、事業永く彰(あらは)れ、聲望(*原文ルビ「せつぼう」は誤植。)南州に遍(あまね)し、三省均しく其職に在り、官蹟功烈遠く及ばざるが如し、而して人物の高き殆と(*ママ)其上に出づ、平生實踐體察を以て、性命の源(げん)を自得し、固より誇耀(こえう)して人に勝つを欲せず、務めて後進を啓導す〔蒙を開き智を誘ふ〕、實に南州理學の巨擘〔首魁〕たり
三省甞て藩制を議し、死刑の中情の輕き者を擇び、墨〔顔に入墨す〕■(鼻+立刀:ぎ・げい:鼻切る:大漢和2249)(び)〔鼻を切る〕・■(非+立刀:ひ・び:足切る:大漢和2033)(ひ)〔足を切る〕の刑を用ひ、死を救ふ前後若干人、一日獄を斷じて〔裁判す〕罪死に抵(いた−ママ)る、其蹟冤に出で救ふべきが如し、罪の疑はしきを以て、特に之を輕くし、州外に放逐す、愴然憫惻〔アハレミイタム〕して曰く、寒時服單〔一重もの〕たり、恐くは路に凍餓せんと(、)乃ち爲に■(糸偏+褞の旁:うん・おん:くず麻・古いきぬ綿:大漢和27757)袍(をんはう−ママ)〔ヌノコ(、)即ち綿の入りたる衣〕(*「うんぽう」=粗末な服)及び酒食を與へて去らしむ、其人流涕して曰く、放逐は吾罪を犯したればなり、寧ろ死するも那(な)の恩を忘れんやと、深く感謝す、平生の慈惠率ね此に類す
三省は野中兼山と土州に功績あり、當時の人屡國に其人あるを稱す、而して兼山は果なる處多く、寛〔ユルヤカ〕なる處少し、加ふるに嚴毅威重を以てす、進退規矩〔尺度に適す〕、才饒(あまり)〔餘〕ありて徳贍(た)〔足〕(*原文「瞻」は誤植。)らず、三省は之に反し、温柔寛量にして物と忤(さか)〔逆〕ふなし、持節退讓急遽を好まず、甞て兼山を諫めて曰く、公強ひて人を知らんと欲し、好んで其の明を用ふ、厥照すこと自然にあらざれば、恐くは反りて過察に入らん、夫れ明とは理に順ひ先づ覺るの謂(いひ)、猶堯が丹朱の囂訟(がうしやう)を知るが如き是なり、察とは詐を逆(むか)ひ不信を億するの謂、猶徳宗の疑察却つて奸佞〔腹惡しく口ヘツラフ〕の爲に罔(もう)せらるゝが如き是なり、意を用ふるの公私、事を辨ずるの緩急〔早い遲い〕、相去る何ぞ啻に千里ならんや、競々〔危み謹む貌〕業々、須く事を始めに愼むべく、悔(くゐ)を後に貽(のこ)す勿れと、三省歿するに至り、亦爭友の闕隙〔スキヒマ〕を補弼(*原文は■(弓+丙字の下をふさいだもの+弓:ひつ:〈=弼〉:大漢和9825))(ほひつ)〔オギナヒタスケル〕するなく、事寢(や)や放肆〔我まゝ遣ハナシ〕なり、特に其植功以て奢靡(しやび)〔オゴリ〕に至り、諸大夫と和せず、之が爲に讒せられて、遂に自殺(*原文ルビ「しさつ」は誤植。)するに至る、此に由りて之を觀れば、三省が學に親切なる所、徳を涵養する〔ヤシナフ〕所、以て二人の優劣を視るべし
三省承應三年甲午夏、父の喪を執り、哀戚〔カナシミウレヘ〕甚し、羸痩(るいさう)〔ヤセル〕毀瘠(きせき)〔身のヤツレヤセル〕して疾起る、秋七月十五日に至りて卒す、時に歳五十一、州の五臺山の傍島に葬る


永田善齋、名は道慶、字は平安、又平庵に作る、通稱は善齋、石薀と號す、平安の人、紀侯に仕ふ

善齋年十四、洛東〔鴨川の東〕の建仁寺稽古間(*澗か。)に從ひて詩を學ぶ、一夜緇徒數輩來訪す、時庚申に丁(あた)〔當〕る、古澗乃ち衆をして詩を作らしむ、善齋も亦同賦す、曰く

一宵清話共ニ相親ム、忽チ朱欄ヲ轉シテ月色新ナリ、且ツ喜ブ三彭今伏スベキヲ、靜ニ香■(火偏+主:しゅ:灯心・灯火・たく:大漢和18965)ヲ焚テ庚申ヲ守ル(*一宵清話共相親、忽轉朱欄月色新、且喜三彭今可伏、靜焚香■守庚申)
古澗曰く、句は則ち佳なり、山僧は竹欄ありて朱欄なし、何ぞ妄説〔不實をいふ〕するや、其言甚だ驕れり、善齋意不平を含む〔抱くと同じく心に持つこと〕、後數日を經て古澗人の爲に畫鷹(ぐわよう)の詩を作りて曰く
高ク斯圖ヲ掛レバ狡兎藏ル、劍■(令+羽:れい・りょう:羽・矢羽:大漢和17108)鉤爪勢將(ニ)翔ラントス、架頭未(ダ)了セズ縲絏〔囚人を縛す繩〕ニ在リ、鳥亦清溪ノ公冶長(*高掛斯圖狡兎藏、劍■鉤爪勢將翔、架頭未了在縲絏、鳥亦清溪公冶長)
其佳句なるを自負〔自慢〕して止まず、善齋之を難じて曰く、小子朱欄を以て竹欄に譬ふ、猶且つ之を指瑕す〔キズを示す〕、今畫く所碧絲條(へきしじやう)〔青色の糸〕にして縲(るい)は黒索〔クロ糸〕なり、絏(せつ)は攣(らん)なりと、又鷹何の罪ありて縲絏を以てせん、請ふ改めて可ならん、古澗赧然(たんぜん)たり〔面の赤くなる〕、是より善齋が夙慧(しゆくけい)〔少年にして才智の發達せること〕の聲、五山緇流の間に著(あらは)る
善齋平生甚だ飮食を謹む、甞て蘇文忠が河豚(かとん)烏賊の説を以て、之を屏風(へいふう−ママ)に寫して自ら警(いま)しめ、又來遊者をして觀ぜしむ、蓋し人を警悟する〔イマシメサトス〕所以の意深し
善齋始め藤惺窩に學ぶ、惺窩歿して後、林羅山と師友の契(けい)〔チギリ〕あり、常に其誨督を受く、平生程朱の學を以て根底となすと雖も、近世の儒流が宋學を回護し、其説に拘泥して〔ナヅム〕門戸の見を成す者と大に異なり、甞て朱子の行状人意に慊らざる〔不滿〕もの數條を議す、未だ好んで高論をなすを免れずと雖も、能く朱子を學ぶ者と謂ふべし
善齋壯年より行けば必ず鐵杖の重さ五十斤なるを携ふ、甞て高野に行かんとし、路を山中に取る、蒼奴〔人足荷持〕一人從ふ、深く入ること數里、老樹蓊欝(あううつ)として〔木の枝が茂りてコンモリしたる形容〕四に人逕なし、一僵木(きやうぼく)〔タヲレたる樹〕あり、長さ數丈、大さ合抱(がうはう)〔一カゝヒ〕許(ばかり)(、)木忽ち蠕々(じゆ\/−ママ)として動く、其状行かんとするものゝ如し、之を熟視すれば三丈餘の老蟒(らうまう)〔ウワバミ〕なり、奴愕怖して之を避く、善齋曰く、吾聞く蛇類(だるゐ)は鐵を忌むと、杖を以て其尾を撃てば、鱗(りん)の堅きこと岩石の如く、自若として〔平氣〕過ぐ
善齋は元和中林羅山に從ひて駿府に遊び、又江戸に來る、時に羅山善齋を紀侯に薦め、褐を儒官に釋かしむ〔褐を釋くは仕官す〕、移りて和歌山に居る、侯之を優遇す、有司〔役人〕に命じて其書堂を營み、士大夫を教育せしむ、國中學に嚮ふ、是よりして而後殆ど二百年、絃誦〔讀書學問〕の業、今に至りて愈盛なりと云ふ
善齋紀に仕ふる百(*「事」の誤りか。)五十年、寛文中年八十七にして歿す、著す所文選膸二卷、膾餘雜録五卷、■(三水+勿:ぶつ・びつ・こつ:深幽・潜み隠れる・汚濁する:大漢和17108)潜文集十二卷あり(*■(三水+勿:ぶつ・びつ・こつ:深幽・潜み 隠れる・汚濁する:大漢和17108)潜居〈びっせんきょ〉は永田善齋の号。)


江村專齋、名は宗具、字は專齋、又以て通稱となす、倚松菴と號す、平安の人

專齋は村上源氏、赤松の庶族〔支族〕なり、曩祖(のうそ)〔先祖〕赤次郎則村入道して圓心と號す、元弘中北條高時獨り威權を擅(ほしいまゝ)にし、萬乘〔天子〕を廢立(はいりつ)するに當り、始めて播州摩耶城に據りて、勤王(きんわう)し〔忠を皇室に盡す〕賊を討(たう)ず、後足利將軍に從ひ、武功を以て封を此に受け、子孫一州に繁延す、永禄中同族なる州の三木城主別所小三郎晴定織田右府の爲に攻められて、其所領を喪〔失〕ふ(、)專齋の曾祖を江村民部大輔孝興と曰ふ、又州の三石城に在り、既に三木城の守(まもり)を失ふと聞き、其禦ぐ〔防守〕べからざるを知り、窺(ひそか)に京に奔(わし)り、新在家に隱居し、跡を市井に混じ〔民間に下りて平民の仲間入す〕、慶長癸卯の歳を以て歿す、孝興榮基を生み、榮基既在を生む、乃ち專齋の父なり、既在は聞香〔香を■(火偏+主:しゅ:灯心・灯火・たく:大漢和18965)して嗅ぐこと〕の技を以て世に著稱せらる、豐太閤屡召して其法を問ふ、是時に當り海内搶攘(さうじやう)〔騷亂〕し、日に干戈を尋ぬ、既在身閑散〔ヒマ〕に在りて當世に意なし、某氏を娶り、永禄乙丑を以て、專齋を新在家に生むと云ふ(、)專齋幼にして新在家に在り、十五歳の時平安に遊び、醫術を法印徳岩に學び、又自ら濂洛の學〔朱子學〕を攻(おさ)む、遂に儒(じ−ママ)を以て肥後侯加藤清正に遊事す、食禄五百石、清正卒して後、其禄を辭す、寛永中美作侯森忠政其名を聞きて之を聘〔招致〕し、遇するに賓師の禮を以てし、月俸七十人口を饋(おく)る、遂に又之に遊事して以て終る
專齋の弟を久七郎と曰ふ、始め江州の佐々木義秀に仕ふ、佐々木氏亡ぶるの後、薙髪〔剃髪〕して久茂と號し、聞香を既在に受け、又其技(ぎ)〔ワザ〕を以て世に鳴る、豐太閤屡其家に臨む、是を以て專齋亦謁見することを得、金帛(きんはく)の賜(たまもの)を受くること、前後數次時人之を榮とす
專齋少壯より務めて修養をなし、齒(よはい)九十を過ぎて、視聽衰へず〔眼も耳も達者〕、少壯の時と異なるなし、後水尾上皇之を聞きて召見し、修養の術を問はせらる、專齋奏して〔天皇に申し上げる〕曰く、臣固より他術なし、平生唯一の些字を持するのみ、上皇問はせらる、曰く食を喫する〔喰ふ〕些〔少し〕、思慮も些、養生も些のみ、上皇大に之を感賞し給ふ
專齋好んで和歌を詠ず〔作る〕、兼ねて其説に精(くは)し、細川幽齋、木下長嘯子〔幽齋長嘯子は當時和歌を以て名ある人〕等皆之と交る、寛文四年甲辰齢(れい)甫(はじ)めて一百歳自ら和歌三詩を詠ず(、)曰く

もゝとせになるまで飢えず寒からず
道ある御世のみちにひかれて
なにもせで身のいたづらに過ぎしゆえ(*ママ)
今日もゝとせの春にあふかな
もゝとせもなほあきたらず行末を
思ふこゝろぞもの笑ひなる
其詞藻〔詩歌の采華に富むこと〕傳播して〔評判高くなる〕叡覽に入る、七月に至り、勅して院參〔上皇の宮に參内すること〕を許され、鳩杖(きうじよう)一、黄金一を賜ふ、後又扇紙等の賜あり、草莽(さうきく−ママ)の士〔民間無位無官の人〕(*頭注に士を「土」とするのは誤植。)にして、至尊の顧問たること此の如きは、儒林〔學者社會〕の榮と謂ふべし
專齋鳩杖の賜あつてより、家に額して賜杖堂と曰ふ、子孫世々此に居る、三子あり、長は宗覺字は斯民、好菴と號す、次は宗眠字は友石、剛齋と號す、次は宗祐字は惠夫、愚菴と號す、三子の後皆文學を以て世に名あり、文學を以て侯家(かうか)に仕ふ、其榮耀(えいえう)〔顯達〕繁衍〔盛昌〕(*原文ルビ「けんえん」は「はんえん」の誤り。)、世に希なる所たり、是れ專齋が徳澤の致す所にあらずや
專齋伊藤坦菴と友愛殊に渥(あつ)〔厚〕し、坦菴專齋より少きこと五十八年、後進を以て之を視ず、常に吾家の畏友〔及ばざる恐るべき朋〕と稱す、坦菴深く專齋の人となりに服し、心を傾けて〔及ぶ限り意を用ふること〕推奉(*原文ルビ「さいはう」は「すいはう」の誤り。)す、甞て專齋平日の談話數百條を記し、題して老人雜話と曰ふ、好古者之を寶とす、坦菴又甞て專齋の肖像に賛して曰く
人生百ニ滿ツ古來難シ、青無ク休有ル還(また)更ニ難シ、孫子蝉聯最モ得難シ、一家獨リ自ラ三難ヲ併ス(*人生滿百古來難、無青有休還更難、孫子蝉聯最難得、一家獨自併三難)
畢(おはり)に書して曰く、余弱冠(じやくくわん)〔二十〕にして專齋老人と相交はる、此に數十年、年分不偶なり〔齢の違ふ〕と雖も、氣類頗る相同じ、聚會(しうくわい)往來殆ど虚日(きよじつ)なし、老人往事を談ず、疊々として聴くべし、一も浮誕〔ウキタ嘘〕なし、余毎に倦(けん)を忘る〔イヤにならぬ〕、其人となり、恂々和易(わゐ)、室に在りて忿疾〔立腹して罵言す〕の聲を聞かず、其面常に和煦(わく)〔和易和煦は打解けて仲好き形容〕の色あり、眞に所謂寛厚の長者なり
專齋鳩杖を賜ふの年九月二十六日を以て、綾小路の家に歿す、歳を享くる一百、洛東の善正寺に葬る、法謚(ほふし)を仙壽院日榮居士と曰ふ、今に至るまで、遠方の人京に遊ぶ者は必ず其墓に謁すと云ふ
或は云ふ、江北海が衆に傳(つと)ふる所、專齋が眞蹟楷書二行、實に希世の珍なりと、今其語を此に附載す曰く
名利兩ラ好ムベカラズ、名ヲ好ム者、之ヲ利ヲ好ム者ニ比スレバ差(ヤゝ−ママ)勝ル、名ヲ好メバ則チ爲サゞ(ザ)ル所有リ、利ヲ好メバ則チ爲サゞ(ザ)ル所無シ(*名利兩不可好、好名者、比之好利者差勝、好名則有所不爲、好利則無所不爲也)


谷時中三宅寄斎小倉三省永田善斎江村専斎

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