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先哲像傳 


 中江藤樹  山崎闇齋  熊澤蕃山  伊藤仁齋  伊藤東涯

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※冒頭の章にも○印を付けた。

中江藤樹

藤樹中江氏、名は原、字は惟命、通稱は與右衞門といふ。江州高島郡小川村の人なり。藤樹と號し、また頤軒(いけん)、■(口偏+黒:もく・ぼく:静か・黙る・欺く・しわぶき:大漢和4283)軒ともいふ。慶長十三年に生れ、幼より書を好み、十一歳大學を讀みて、發明する事あり。それより勤學怠ることなく、遂に我が國に初て陽明王氏の學を倡へ、篤學修行をもて、其の名海内に著(あらは)る。弱冠〔二十歳頃〕にして豫洲侯に仕へたりしが、後に母の故をもて致仕して〔仕を辭し〕、家に歸り、講學して孝養を盡す。世俗その徳行を崇んで近江聖人と稱す。熊澤蕃山も此の門に出づ。其の外英才の人多く諸國より聚(あつま)り、別に居を構へて、學びたる處、今に某々(それ\/)の所は誰某(たれなにがし)の居のあとなど言ひて、名所故跡の樣に言(いひ)なせりとぞ。藤樹歿後、門人三年の際(あひだ)、心喪(しんさう)を勤めんとせしかども、領主の許(ゆるし)なく、各悲歎して、「吾々の誠のたらぬより許されざりし。」とて、泣々(なく\/)其の地を去りしとぞ。弟子の心醉はさらなり、馬卒の廉直に化せし話東遊記にも載す。郷里の風俗は、道路にて遺物を拾はざるに至りしとぞ。慶安元年秋八月、病んで卒す。其の地に葬る。享年四十一。

○藤樹の歌

降ると見ば積らぬ先に拂へたゞ風吹く松に雪折はなし
また門人熊澤蕃山の歳晩備前に還るを送れる詩に、
舊年幾日も無し。何ぞ意はん、旗亭に上らんとは。汝が雲霄の器〔大なる才能〕を送り、吾が犬馬の齡に羞づ。梅花■(髟/丐:ひん::大漢和45387)邊に白く、楊柳眼中に青し。惆悵す〔うらみいたむ〕、滄江の上り。西風客をして醒めしむ。(*舊年無幾日。何意上旗亭。送汝雲霄器。羞吾犬馬齡。梅花■邊白。楊柳眼中青。惆悵滄江上。西風教客醒。)
蕃山後に師説に背く事多し。よりて藤樹の門人清水氏これを辯じて、集義和書顯非を著し、熊澤が言行學術著述にひがこと多きをこと\〃/くのべて刻行す。

中江藤樹の像

○近江小川書院は十七間四方領主分部侯よりの除地(ぢょち)〔除きて年貢を取らぬ地〕にて、月六囘(たび)程づつ講書あり。領主の儒臣これを勤むるよし山田氏筆記に見ゆ。また講堂に藤樹の深衣〔支那の儒者の服〕の像あるよし、東遊記に載す。今こゝに出す肖像は京師某の珍藏にて、其の先人は(*にて)藤樹に親炙せし者の圖せしよし、却て講堂の像に優れりとぞ。

○藤樹著書目

學庸解 翁問答 鑑草 孝經啓蒙 論語郷黨翼 大學啓蒙 大學考 論語解 藤樹規 持敬圖説 原人 文録 書翰 咏草 春風 大乙神經(たいいつしんけい) 日用要方 小醫南針 神方奇術 醫筌 捷徑醫筌 藤樹先生遺稿 藤樹先生行状 藤樹先生學術旨趣大略 知止歌小解 心學文集 江西文集

藤樹の事歴は年譜其の外藤井臧(ざう)(*藤井懶斎)撰傳に詳なり。今松崎堯臣撰す(*る)記事を記す。

中江原、字は惟命。西江と號し、又藤樹と號す。江州高島郡小川の人なり。少より書を讀み、頗る發明する所有り。世徳行を以て稱す。其の學、王伯安〔王陽明〕を宗とす。凡そ海内の王學、之を倡ふ。母に事へて至孝なり。弱冠(*にして)、初め大洲侯に仕ふ。侯道徳を信じ、特に登庸す。是に於て母を迎へて以て就て養んと欲す。母の曰く、「吾聞く、婦人疆を越えずと。願はくは之を守らん。」と。乃ち侯に上書して、田里に歸り、奉養を終へんと請ふ。許されず。喟然として歎じて曰く、「嗟忠孝兩ながら全きこと能はず。吾不肖と雖も、豈に一日も定省〔昏に父母の衽席を定め、晨にその安否を省ること〕を曠しうせんや。」と。即ち書を爲り、忍びざるの情を白す。忽ち行いて小川に歸る。母に事へて能く其の力を盡し、至らざる所旡し。其の心に謂く、「百爾徳行、孝に本かざる莫し。」(*と。)日に先づ孝經を讀み、而後他書に渉る。大洲の士庶、千里を遠しとせず來學す。他に遠方より來游する者、勝て計ふべからず。郷人之を親しむこと親の如く、之を尊ぶこと神の如し。一郷皆論語孝經を誦み、勉めて孝悌を事とす。小川市橋君の采邑〔領地〕に一民連坐〔まきぞへ〕して獄に繋がる(*る)者有り。親裁が許に來りて、悲傷して寃を邑宰に達し宥されんことを請ふ。曰く、「状の若きは死せず。然も予れ汝が爲に旨を明さん。」と。夜邑宰に抵る。邑宰履を倒にして之を迎ふ。宴を設けて酒を飮み、樂甚し。夜半乃ち還る。厥の明邑宰郷民を免す。小吏問ひて曰く、「何を以てか急に郷民を免す。」と。對へて曰く、「昨先生の來るを以てなり。」(*と。)吏の曰く、「先生前夜風月を賞するのみ。未だ嘗て彼に及ばず。」(*と。)曰く、「先生官舍に至る旡し。而るに夜間來て閑談す。余れ謂ふに、『必ず此の事(*ならん)。』(*と。)終席之に及ばざるも、鄙心感慨、必ず此が爲の故を知るなり。彼れ本と小罪(*なり)。它日之を出さば、則ち先生に報ゆる無し。故に爾り。」と。人の尊崇(*すること)此の如しと云ふ。孝經啓蒙翁問答を著す。又書簡一卷有り。慶安元年秋八月卒す。年四十一(*なり)。郷人父母を喪ふが如し。先塋〔祖先の墓〕の側に葬る。題して藤樹先生之墓と曰ふ。祠廟を造る。邨老之を主り、四時祭祀す。一諸侯駕を門外に駐して、村老をして門を闢かしむ。肯んぜずして曰く、「凡そ■(广/苗:びょう:「廟」の古字:大漢和9400)に謁る者の■(广/苗:びょう:「廟」の古字:大漢和9400)門を違ること數百歩。輿を下り、蹙々として〔恭敬の貌〕入り堂下に拜する(*こと)、貴賤と無く一なり。今肩輿を石砌に接して戸を闢けと曰ふ(*は)、甚だ倨れり。神に交るの道に非ず。命を奉ぜず。」と。侯過を謝し、入んと請ふ。曰く、「晩し。願くは再び日を卜せよ。」と。急に去て顧みず。郷人の仰止〔仰ぎ見ること〕此の如しと云ふ。

藤井懶齋撰する傳銘に曰く、

淡海吹起す、の儒風。豈に翅だ身を善するのみならんや。人を誨へて忠有り。母の爲に祿を顫し、郷に旋つて色愉す〔顔色を愉快にして仕ふ〕。于嗟篤孝、性か學か。(*淡海吹起。陸王儒風。豈翅善身。誨人有忠。爲母顫祿。旋郷色愉。于嗟篤孝。性乎學乎。)


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山崎闇齋

闇齋山崎氏、名は嘉、字は敬義、闇齋と號す。後垂加と號す。俗稱嘉右衞門といふ。其の先は播州宍粟(しさは)郡山崎に住む。よりて氏とす。父を山崎淨因といひ、醫をもて京師に住す。母佐久間氏嘗て比叡山の神に祈りて闇齋を産む。元和四年に生れ、幼にして狡悍無類(ぶるい)なりしかば、父うとんじて、妙心寺に遣りて、僧とす。絶藏主(ぜつざうす)と號す。或日、佛堂に在りて看經し〔經文を默讀すること〕、俄に起つて、大に笑ふ。師駭きて其のよしを問ふ。答へて云ふ、釋迦の虚談を笑ふといへり。長ずるに及び、四方に遊び、土州吸江寺に寓す。時に谷時中儒經(じゆけい)を講ず。遂に兼山三省の兩先達に就て儒を學び、忽珠子(じゆず)を擲つて闢異(びやくい)と云ふ一書を著す。土州の太守、其の浮屠〔佛〕を詆る甚しきを見て、これを憎む。此に於て、闇齋洛に歸る。後、加藤侯井上侯、また會津侯(*後出の会津肥後侯か。)に游事す。晩年また神道に歸し、これを弘む。これより垂加の號あり。垂加の文字は神道より出づるとぞ。學ぶ處其の奧義を極めざるなし。遂に此の道中興の祖となる。天和二年卒す。享年六十五。其の門人私諡(わたくしにおくりな)して垂加靈社長命(すゐかれいしやみおやをさのみこと)と稱す。葬墓はK谷にありて、山崎嘉右衞門敬義墓と題す。

闇齋初め佛に入り、後儒となり、最後(もつとものち)に神道を修(しゆ)す。されば伊藤仁齋嘗て云ふ、「闇齋僧を厭ひ、儒に歸し、晩年神道を主張す。もし此の人長壽ならば、つひには伴天連〔基督教の宣教師〕とならん。」と評せしとぞ。此の論は春臺も云へり。いかなる深味あるかは知らねども、大儒に似合ず特操なきやうに思はる。

闇齋門人に接しては少しのあやまちも許す事なし。講談の折から鵜飼金平(*鵜飼練斎)はさみもてあそびつゝ爪を切る。闇齋是を見て、聲を勵し、「師席にて爪を切る。何の禮ぞ。」と。金平はさらなり。有あふ人々色をうしなへりとぞ。

闇齋五六歳の時群童と遊ぶ。あるひと菓子を出し、「兒輩吾ために藝盡しせよ。」と云ひければ、何れも或はうたひ、または舞ひなどして其の菓子を請ひ得たり。闇齋獨り大いに泣きけるのみ。よりて其の人諭して云ふ、「兒とゞまれ。汝にも與ふべし。」とて菓子を出しければ、首(かしら)を掉りて云ふやう、「吾はこれが爲ならず。人みなその能する藝あり。吾獨りなし。こゝをもて泣く。」とありしかば、其の人歎異して、「これ凡童にあらず。」と云ひしとぞ。

闇齋著書目録に、
垂加文集  同(おなじく)續集  同拾遺  文會筆録  闢異  四書序考  大學啓發集  孟子要略  朱易衍義  仁説  小學蒙養集  孝經外傳  孝經詳略(せんりやく−ママ)  中和集説(ちうくわしふせつ)  逐録  逐鹿評  大家商量集  讀書要  夜寐箴(やびのしん)  刑經(けいけい)  武銘  帳書抄略  程書抄略  明備録  朱書抄略  冲莫無朕説(ちうばくむちんせつ)  本朝改元考  經名考  大和小學  孝經刋誤(せんご)附考  雲谷記  温泉遊艸  敬齋箴  不自棄文  江府紀行  遠遊記行  再遊記行  會津風土記  責沈文  朱子輯要  中臣祓風水草(*後出「中臣祓風水鈔」)  日本書紀注  神代卷風葉集  感興詩注  喪禮儀略  本朝事蹟異稱考  白鹿洞書院掲示集注  自從抄

○此の外訓點の書目
四書  孝經  小學  近思録  周易本義  太極圖説  周子書  論孟精義  學規  社倉法  拘幽操  朱子奏剳(しゆしそうたふ)  朱子訓子點  朱子訓蒙詩  山北紀行  神代卷  古語拾遺  洪範全書  城南雜録  五友子 

闇齋の事歴は山崎家譜(闇齋自記)(*原文割注)また大高坂季明(*大高坂芝山)の撰傳、水足安直(みたるやすなほ)の撰行實(ぎやうじつ)、何れも長文ゆゑ略す。角田簡(すみだかん)の略傳(*近世叢語)に、

山崎闇齋名は嘉、字は敬義、京師の人。其の先は播磨宍粟郡山崎邑の人。因て以て焉を氏とす。父は山崎清兵衞、木下家に臣たり。後仕を致して淨因と號す。來て京師に家し、醫を以て業と爲す。母は佐久間氏、娠める有り。比叡山の神に祈る。一夜神を拜する時、老翁梅花一枝を携へ、來て左袖に納ると夢みて、遂に男を生む。即ち闇齋なり。闇齋幼より狡悍無類、淨因之を患ふ。因て度して僧と爲し、妙心寺に籍して、絶藏主と號す。天資豪邁卓犖、一意に禪を修し、懈怠無し。然れども性行猶悛めず。嘗て倫輩と論議す。闇齋詞理塞る。即ち其の夜竊に彼の寢に就き、紙帳に火す。衆議之を逐んと欲す。是の時に當り、土佐の公子某妙心寺に居る。公子■(耳偏+怱:そう::大漢和29123)明、藻鑑有り。歎じて曰く、「此の兒神姿非常なり。後當に爲すこと有るべし。乃ち之を土佐吸江寺に學ばしむ。是時土佐に谷時中野中兼山有り。與に倶に儒學を切■(麻/非+立刀:び::大漢和53100)〔研究〕す。一び闇齋を見て亦深く之を器とし、其の異端に陷るを惜みて、經籍を讀むことを勸む。闇齋乃ち四書及び朱子文集語類等の書を讀み、大に之を悦ぶ。盡く其の學を棄て、焉を學ぶ。闢異一卷を著し、寺門に貼著して去る。遂に髪を復し儒と爲る。時に年二十五なり。土佐侯乃ち其の陳乞せず輙ち初服に還るを責む。闇齋恐れて遂に京師に出奔す。帷を下し徒を延きて道學を講習す。從者日に衆く、履戸外に盈つ。闇齋は師道に至嚴にして、君臣の如く然り。貴卿巨子と雖も、之を眼底に置かず。小過と雖も少も假色〔許容の顔色〕せず、善く罵る。其の書を講ずるや、音吐鐘の如く、面容怒るが如し。弟子震慄して敢て仰ぎ視る莫し。佐藤直方嘗て云ふ、「闇齋に師事す。戸に入る毎に、心惴々焉として獄に下るが如く然り。退きて戸を出るに及べば則ち洋々焉として虎口を脱するに似たり。」と。其の憚らるる、類ね此れなり。後闇齋江都に如く。時に寒■(穴冠+婁:く・ろう・る・りょ:貧しい・苦しむ・窶れる:大漢和25628)〔赤貧〕洗ふが如し。特に書商に鄰りて賃居す。以て其の書を借閲す。是時に當て、井上河内侯學を好みて士に下る。書商も亦數〃謁見す。一日商に謂つて曰く、「寡人將に學ばんとす。爾の知る所、人の師爲るに足る者有らば、請ふ介を爲よ。」と。商曰く、「近ろ一儒生山崎嘉といふ者有り。京師より來りて、小人の東家に住す。其の所以を視るに、尋常に度越す。閣下にして之を召さば其れ不虞の幸福を得ん。豈に感奮して恩に答ふるを思はざらんや。」と。侯大に喜び乃ち延致す。商歸りて闇齋に告ぐ。闇齋毅然として曰く、「侯道を問はんと欲せば、則ち先づ來り見よ。」と。商鄂然として以爲らく、「措大〔書生〕時勢に通ぜず。若し若のごとき人を薦めば、必ず上を陵ぎ上を無みし、累ひ自ら及ばん。薦めざるに若かざるなり。」と。他日復た問うて曰く、「疇昔告ぐる所の山崎先生は如何。」と。商の曰く、「小人惰に非ざるなり。前日既に命を渠に傳ふ。渠の曰く、『侯先づ來て余を見よ。』と。是れ頑愚曉すべからざるに非ずんば、即ち狂率〔氣違じみ輕々しきこと〕名を邀るなり。請ふ別に通儒を選べ。」と。咨嗟〔歎賞〕良〃久しくして曰く、「方今、自ら師儒と稱する者、多くは道を行ふに意無し。東奔西走、其の技の售れ易きを欲す。寡人之を聞く。禮に、『來りて學ぶを聞き、往きて教るを聞かず。』と。山崎先生能く之を守る。此れ乃ち眞儒なり。」と。即日駕を命じて、其の居を訪ふ。會津肥後侯加藤美作侯、亦禮を厚くして闇齋に師事す。而して會津侯敬信最も深し。終始一の如し。闇齋も亦感奮して答恩を思ふ。知つて言はざる莫し。會津侯卒する後、又京師に歸る。上臺閣〔大臣〕・公卿・諸侯よりして、下布衣・閭閻の士に至るまで、其の門に入る者、無慮(すべて)數千人なり。闇齋程朱の學を治む。孤峻褊隘、峭し(*ママ)畛域〔經界〕を設け、博覽を喜ばず。詩文を好まず、以爲く「物を玩べば志を喪ふ。」と。毎に片言も程朱を犯す者有れば、輙ち咆哮〔大聲叱呼〕勃怒、肯て同異に就て指趣を究めず。是を以て其の弊往々膠泥〔拘泥〕して融けず。支離〔條理まとまらず〕に淪み、固陋に墜るに至る。晩年大に神道を倡ふ。君子甚だ之を譏る。高足の弟子佐藤直方淺見■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋、其の餘之に反く者も亦多し。天和二年、年六十五にして沒す。門人垂加と私諡す。著に朱易衍義孟子要略文會筆録大學啓蒙集中和集説孟浩録孝經刋誤附考冲莫無朕記中臣祓風水鈔神代風葉集垂加文集有り。四十餘種を著す。


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熊澤蕃山

蕃山、姓は熊澤、名は伯繼、字は了介、また了海とも書す。通稱次郎八、後に助右衞門と改む。蕃山と號し、また息遊軒ともいふ。本姓は野尻氏なり。父を野尻一利といひ、加藤左馬助に仕へ、後致仕して、京師五條にて蕃山を生めり。熊澤は外祖父守久なる者養うて子とす。よつて其の姓を冐す。蕃山元和五年に生る。幼(いとけなき)より深智衆に超え、十六歳にて岡山烈公(*芳烈公、池田光政)に仕へ、後京師に遊學して、徳を成し、材を達し、また備藩に仕へて、祿三千石を賜り、刑政に與り、國中の舊典を改革して、流弊を一新し、海内の耳目を驚し、徳澤下に及ぶ。故あつて備藩を去り、京師に居り、又播州等に隱れ、息遊軒と號し、和歌など吟し、樂みとせしが、後又明石侯に仕へ、移封〔國替〕に從ひ、下總古河に徙り、上表建言せし事にて、罪を幕府より被り、其の地に幽蟄せられ、後元祿四年八月十七日卒す。年七十三。古河大堤邑鮭延寺中に葬る。其の傍に妻矢部氏の墓もあり。

蕃山、學は藤樹に出づるといへども、後やゝ異同あり。實に經世有用(うよう)の學識なりとぞ。又多藝に渉り、學を好み畫をよくし、和歌に通ず。其の詠歌一二首をこゝに記す。

寛文七未の年、さはることありて、吉野の山深くすみ侍る比、
此の春は吉野の山のやま人となりてこそ見れ花の色香を
おなじ申の年(*寛文8年)、閑居にて、
つたへ來て春は神代にかはらぬを人のこゝろぞむかしにもにぬ
おなじ江にねぶるかもめの心をもしらで千鳥のたちゐなくらん

蕃山罪を被りしは貞享四年の冬なり。其の翌春歸鴈を見て、

老の身の見んことかたき故里に春待得てや歸る雁がね
たとひ蘇武李白の詩、「蘇武匈奴に在り。十年漢節を持す。白鴈上林に飛び、空しく一書札を傳ふ。(*蘇武在匈奴、十年持漢節、白鴈上林飛、空傳一書札)」云々。〕にならへる鴈がねに玉章(たまづさ)をつたふる事ありとも、人の知らざるがために、おほやけの命(おほせ)をそむくべからず。
ゆく鴈に關はなくともおほやけのいましめあれば文もつたへじ

また蕃山備前にて、今樣を作り、童子に教へ歌はせしとて今に殘る。此の歌越天樂〔雅樂の曲名〕に合(かなへ)りとぞ。

人はとがむともとがめじ。人はいかるともいからじ。いかりとよくとをすてゝこそ、つねな〔つねにの誤か。〕こゝろは樂しめ。

蕃山京師遊學の時、加賀の飛脚の話に、危急の難儀ありしも、馬卒の篤實により再生の恩を受けたるは藤樹先生の徳化の然らしむるよしを聞きて、「夫こそ適從すべき良師なり。」とて、江州小川に尋ねて隨從を請ひしに、「人に教ふべき程の學文なし。」とて許されず。蕃山ひたすら願ひて二日の間藤樹の門にたゝずみて歸らず。此の時藤樹の母のとり持にて、漸く内へ入りてつひに師弟の約をなせしよし、東遊記(*橘南谿の著)に見ゆ。學を成就せんには立志の堅固ならざれば得難し。蕃山の超凡、此の一事にて萬事はしらると思はる(*る)のみ。

蕃山小倉少將元政の稱心庵にて樂を奏して樂しめり。蕃山嘗て云ふ、「笙は舌にて調子定り、絃も笙を聞きて調べ、篳篥も笙を聞きて舌をしらぶるなり。笛ばかり調ぶる事はなく、笙・篳篥を聞きて、それに應じて吹くものなり。ことに絃に笛一管は吹にくし。調子さとからでは、絃にあはずして和(くゎ)せざるもの也。笛よければ面白きものなり。」といはれしよし。その音樂に巧なるを見るべし。また木がらしといへる笛を某へかへしおくる時の歌あり。

音も高く吹つたへたる木がらしの昔にかへるしらべたがふな

熊沢蕃山の像

○此の肖像は蕃山みづから己の小照を畫きたるよし。今河洲の民家に藏す。原圖は被甲乘馬の姿なれど、今衣服を改めて此に加ふ。

蕃山著書目左に記す。

集義和書  集義外書  大學小解  中庸小解  論語小解  二十四孝評  夜會記  三輪物語  宇佐問答  三社託解  神道大義  繋辭解  五倫書  大學或問  孝經小解  孝經外傳或問  女子訓  易解  源氏外傳  紫女物語  葬祭辨論 

蕃山の履歴は、門人巨勢直幹(ちょくかん)の實記草加定環(くさかていくゎん)の行状菱川大觀傳記あり。今定環撰の行状こゝに擧ぐ。

先生姓は熊澤、諱は伯繼、字は次郎八、後に助右衞門と更む。其の先は紀の人、中世(*なかごろ?)關左の人なり。祖考熊澤某(*熊沢守久)、字は喜三郎、其の父と尾州に居る。勝國〔亡國豐臣氏の滅亡をいふ。〕の時、神祖〔家康〕に事へ、後水戸侯に仕ふ。考某(*野尻一利)、字は藤兵衞〔本姓は野尻なり。〕、喜三郎の女を娶り、先生を平安に生む。維れ元和己未(*元和5年)なり。此の時祖考未だ神祖に事へず、平安の五條に居る。遂に其の家に育はれ、喜三郎の嗣と爲ると云ふ。〔注略。〕寛永十一年甲戌先生歳十有六、備前侯に仕ふ。是れ板倉内膳正(*重矩?重道?−後出。)・京極主膳等の薦む(*る)所なり。十五年戊寅先生歳二十、辭して其の官を退き、江州桐原に寓す。十八年辛巳秋八月、江西書院に適き、教を藤樹先生に受んと請ふ。藤樹先生固辭して許さず。故に空く歸る。冬十一月、再び江西に往き、邑人淵田氏の家に寓して日を經。是に於て藤樹先生其の志に感じて、始めて之に謁す。其の志す所を得、隨て江州に居る。數年其の考〔亡父〕野尻君、其の弟仲愛君流憩君、女弟三人、倶に此に居る。正保乙酉(*正保2年)、備前侯京極主膳に依て、再び求めて以て之を祿す。時に先生歳二十七。備前の國政大に革る。承應甲午(*承応3年)、備の前中二州大に飢ゑ、窘迫九萬人に及ぶ。國老計爲を知らず。乃ち事を先生に委ぬ。先生命を出し、政を施し民大に賑ふ。尋で■(阜偏+是:::大漢和41740)池を修め、瘠磽を■(艸冠/鯔の旁:し::大漢和31166)(ひら)く。上下安ずる所を得、遂に庠序〔學校〕の教を設く。其の擧、皆先生に出づ。及び其の家弟焉に與る。制して佛寺を減じ、淫祠を壞つ。慶安己丑(*慶安2年)、先生歳三十一、侯に東武に從ふ。侯伯・大夫・士の大に其の道を欽慕する、勝て數ふべからず。猷廟〔大猷院徳川家光〕聞きて之を寵す。侯伯の門弟子と稱する者、紀伊大納言頼宣卿大小路伊豆守信綱板倉周防守重宗久世大和守廣之板倉内膳正重矩松平日向守信之堀田筑後守正俊板倉内膳正重道松平備前守某淺野因幡守長治中川山城守久清松平備後守恆元織田内匠頭信房久世三四郎廣也板倉市正重元荒尾平八某水野周防守忠増本多下野守忠泰松平若狹守直明等と云ふ。明暦三年丁酉先生歳三十九、病に■(遥の旁+系:よう・ゆう:由る:大漢和27856)つて備前を辭し、京洛に居る。是より前き先生狩して山中に轉び、手足傷く。故に武事を辭すと云ふ。備前侯、其の季子池田輝祿をして先生の後爲たらしむ。是より先生名を更め、了介と稱す。京師に居り、雅樂を學び、國典を習ふ。一日微服して笛を吹く。安倍飛騨といふ者有り。之を聽て曰く、「常人に非ず。其の心情の正なる、即ち音聲に發す。」と云ふ。先生嘗て紫女物語〔源氏物語〕を發揮して、其の微旨を得、後中院通茂卿に傳ふ。洛の公卿・大夫の願て先生に事ふる者、一條右大臣教輔公久我右大臣廣道公油小路大納言隆貞卿中御門大納言資照卿伏原三位宣幸卿中院宰相通躬卿野宮中納言定緑卿野宮中將定基卿清水谷大納言實業卿押小路三位公起卿久世中納言定清卿諸君と云ふ。寛文丁未(*寛文7年)、先生歳四十九、京の令尹(*京都所司代)某誣を信じて先生を逐ふ。先生遯れて城州鹿背山に居る。己酉(*寛文9年)、先生歳五十一。播州明石侯松平日向守(*松平信之か。前出。)縣官の命を受け、先生を其の封内に待つ。是に於て明石太山寺の側に居る。其の軒を名けて息游と曰ふ。門人遂に之を稱す。延寶己未(*延宝7年)、に從ひ、和州矢田に移る。同州郡山侯本多下野守(*本多忠泰。前出。)先生を賓敬〔大切にして敬ふ〕する、矢田侯に減ぜず。貞享四年丁卯、又に從て總州古河に移る。冬十月、上表して政事を演べて旨に忤ふ。乃ち禁錮せらる。元祿四年辛未秋八月十七日、古河に殞す。壽七十有三を得。〔正室矢部氏は、元祿元年八月廿一日先て殞す。〕共に其の地邑大■(阜偏+是:::大漢和41740)鮭延寺の土を買ふ。儒禮を以て之を葬る。諡して蕃山先生と曰ふ。先生の備前に在る、食邑蕃山を以ての故に、諡字と爲すなり。先生四男七女を生む。其の矢部氏に出づる所なり。一女、二女各〃播州の人に適く。伯某字は右七郎、蕃山を氏とし、備前侯に仕ふ。仲某字は左七郎、野尻を氏とし、明石侯に仕ふ。三女、江州の人に適く。四女、備前の人に適く。五女、江州の人に適く。叔某(*字は)武三郎本多下野守に仕ふ。季某字は左四郎明石侯に仕ふ。六女、播州の人に適く。七女某なり。


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伊藤仁齋

仁齋伊藤氏、名は維貞、字は源祐、初の名を源吉と云ふ。仁齋と號し、また古義堂と稱す。外に棠隱、櫻隱の號あり。京師の人、その先は泉州の住なり。家もと商賈なり。仁齋寛永四年七月廿日に生れ、幼時句讀を習ふ時、すでに儒をもて一世に鳴らんと志す。親戚醫を勸むる者あれども隨はず、自ら刻苦(こくく)して性理學〔宋儒の性命理氣の學〕を修む。年三十七八の頃より、宋儒の説を疑ひ、是より程朱を排斥して、古學を倡へ、門戸を開き、堀川に住して、堀川學と稱するに至り、生徒刺を投じて來學する者數をしらず。肥後侯その名行を欽慕して、祿千石をもて聘すといへども、老母の侍養人なきをもて、辭して仕へず。生涯處士をもて終る。利祿に移されざる斯の如し。故をもて年五十八の頃まで家道甚薄かりしとぞ。然れども遂に一代の儒宗となり、國として門人あらざるはなく、たゞ飛騨・佐渡・壹岐、この三國の人來學せざるのみとぞ。其の盛んなる比類なし。寶永二年三月十二日卒す。享年七十九。小倉山に葬る。私諡(わたくしにおくりな)して古學先生といふ。

仁齋は世儒(せいじゅ)の異樣を好むに似ず。節分〔立春の前夜、邦俗追儺豆打を行ふ。〕の夜は禮服を著して、勵聲にて豆をまき、また佛の地を過れば、必ず其の本尊を拜し、また近隣の人義井(ぎせい)〔共用の井〕を浚ふ事あれば、同じく出でてこれを助けなどせし、すべて其の人となり物やはらかに、愛相よく、謙退深く有りしとぞ。

仁齋の歌に、

前庭を眺めて
風わたる竹の枯葉をそのまゝにこずゑに止むるさゝがに〔蜘蛛〕の絲
七夕(しちせき)〔この夕、烏鵲翼を延べて橋とし、織女天河を渡りて牽牛と交會すとの傳説〕
さかしらに〔賢だてして〕誰がいひ初めて七夕(たなばた)の今宵なき名の空にみつらん
月をながめて
代々を經てながめし人のかずにまた我をもゆるせ秋の夜の月
戒愼恐懼の意(こゝろ)を
思ひとれば此の身の外に道もなし身を守るこそ道をしるなれ

仁齋の性質は酒を好まず。故に新年の詩句に、「平生酒を善くせず。一盞即ち醺然たり。(*平生不善酒。一盞即醺然。)」と作れり。また義士小野寺十内と交り厚く、其の母九十の壽を賀する詩あり。其の詩に、

母氏年高し九十疆。憂ひ無く病無く又傷むこと無し。老莱〔楚の人、孝にして、七十二歳の時父母猶存す。常に斑爛の衣を服し、嬰兒の戲をして親を喜ばせりといふ。〕の孝思誰か能く識らん。膝下猶ほ呼んで小郎と爲す。(*母氏年高九十疆。無憂無病又無傷。老莱孝思誰能識。膝下猶呼爲小郎。)

また大石良雄仁齋の門に學ぶ。

仁齋著書目に、

論語古義  孟子古義  中庸發揮  大學定本  童子問  語孟字義  古學先生集  大極論  大學非孔氏之遺書辨  春秋經傳通解  周易乾坤古義  讀近思録鈔  仁齋日札  送水野侯國字序(みづのこうをおくるこくじのじょ)  和歌集  文式  性善論  心學原論 

仁齋の事歴は、東涯撰する古學先生行状記、其の外諸事に委し。北村可昌撰べる墓碑銘に、

先生諱は維■(木偏+貞:::大漢和15163)、字は源佐、仁齋と號す。姓は伊藤。洛陽の人なり。幼より凡ならず。既に長じて宋儒理性の學を好む。後、宋儒の學は聖人の正統に非ず、大學の書は孔氏の遺書に非ず、及び明鏡止水〔心の虚明なるに喩ふ。〕、冲漠無朕〔萬象森然に續き、無中に有、靜中に動ありとの意となる。〕等の説は皆老佛に出づと疑ひ、直にを以て教授す。最も講説に善し。聖意を發揮し、學者を勸誘す。詳悉審明、親切着實、尋常の語の如し。聽く者驚動し、奮■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)する所多し。從遊する者門に繼ぐ。其の文や、思致確實、議論深長、綺字を用ゐず、艱澁を見さず。一篇出る毎に、四方爭ひ傳ふ。對州の醫生齎し歸つて朝鮮に流傳す。慶州府尹見て歎じて曰く、「旨新に、文佳なる。意はざりき、日本に斯る人有らんとは。」と。其の性や寛厚和緩、憤怒を見さず。■(涯の旁:がい::大漢和2930)幅〔裝飾〕を剪徹し、物に於て牴るゝ無し。貴賤少長と無く、愛して之を周くす。粗鄙暴悍の者と雖も、一再相見れば、則ち未だ薫然として心醉せざる有らず。家又屡〃空しけれども、之に處ること恬然として未だ嘗て其の足らざるを覺えざるなり。先に妣孺人〔亡母〕の憂に丁て服■(其/月::「期」の異体字か。:大漢和に無し)〔服すること一年〕す。尋で考府君〔亡父〕の喪に服すること三年。論孟古義十七卷、中庸發揮大學定本共に一卷、論孟字義二卷、童子問三卷、文集三卷、詩集一卷を著す。緒方氏を娶つて、後瀬崎氏を娶る。五男三女皆能く家學を研く。嫡は長胤(*伊藤東涯)、最も明穎にして、文を善くす。寛永丁卯(*寛永4年)七月二十日生る。寶永乙酉(*宝永2年)三月十二日卒す。年七十九。小倉山先塋の次に葬る。私諡して古學先生と曰ふ。嗚呼悲い哉。銘に曰く、
先生の高尚なる、利名に近かず。洙泗〔孔孟の學〕の正統、本邦の主盟なり。一時の用無きも、千載の榮有り。學か徳か。日月雙ら明かなり。(*先生高尚。不近利名。洙泗正統。本邦主盟。無一時用。有千載榮。學耶徳耶。日月雙明。)


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伊藤東涯

東涯伊藤氏、名は長胤(ちやういん)、字は源藏、また通稱に用ゐる。慥々齋(ざう\/さい)と號す。仁齋の長子なり。よく家學を修して、遺書を校刻して、孝志を表す。其の居堀川の東涯にあり。よつて自號(みづからがう)とす。東涯寛文十年四月二十八日生れ、母は緒方氏、餘弟四人は皆、繼母瀬崎氏の生むところにて、よく愛弟を守り、かつ兄弟ともに家學を主張す。世人歎賞して、伊藤の五藏といふ。殊に東涯および季子才藏(*蘭嵎)學力優る。よつてまた伊藤の首尾藏と云ひしとぞ。東涯の人となり恭倹謹愼、まことに篤行の君子儒なり。人他を非謗する事を語れば、「惡しきことなり。」と答へ、人の他を美譽することを語れば、「それは善き事なり。」と答へたるのみにて、何の言葉も出さず。すべて訥々然として、言ふ事の能はざるごとくありしとぞ。父の業を守り、終身官途に就かず。家居して、天下の英才を教育し、他の嗜好なく、手暫も書を釋つる事なかりしとぞ。門下の授徒豪傑多く出づる。元文元年七月十七日卒す。享年六十七。小倉山に葬る。私諡(わたくしにおくりな)して紹述先生といふ。

東涯の學識比敵〔雙ぶ〕の者なし。江戸には徂徠あり。東西藝園の主盟たり。此の二人の右に出づる者さらになかりし。東海談(*篠崎東海著)に云ふ。「ある國君當世の名人を問ふ。答へて、『儒者には伊藤源藏(東涯と號す。)(*割注)、荻生惣右衞門(徂來と號す。)(*割注。ママ)、歴算(*暦算)は中根丈右衞門(名は璋、字は伯珪)(*割注)、久留島喜内、筆道は細井次郎太夫(廣澤)、官職裝束は壺井安右衞門(名は義知、鶴翁と號す。)(*割注)、神道は加茂の梨木氏(名は祐之)(*割注)、俳諧は松木次郎右衞門、下りて戲臺(けたい)狂言は市川團十郎(才牛と號す。)(*割注)。』とあり。」(*と。)其の頃一時有名の尤轟きたるさま見るべし。

東涯途中にて、藥袋を書生に拾はせ見れば、數の金あり。こよなき物を拾ひしとて、其の年の暮、伊勢の御師に屬して、大神宮に納めしよし、畸人傳(*近世畸人伝)に見ゆ。用意のほどいと尊し。またある夜途中往來せしとき、誤りて人家の用心水の桶にいばりして、翌日それと悟りて、人を遣し洗ひ淨めて、再三わびするとぞ。闇(くらき)を欺かざるともいふべきか。

東涯書籍を檢閲するに誡むべき詩あり。

童謡奴僕蟲鼠の邊、燈火煙中梅雨の天、醉後睡前竝に忙裏、切に書生を戒む、謹て編を繙け。(*童謡奴僕蟲鼠邊。燈火煙中梅雨天。醉後睡前竝忙裏。切戒書生謹繙編。)

また仁齋と同じく、小野寺の母を賀する詩に、

小野寺氏(秀和、字は十内。)(*割注)母某(それがし)氏九十の壽(淺野内匠侯京邸官)(*割注)
羨む君が官政遑あらざるの時、慈母九旬絲髪垂る。況んや復一堂養に違はず、更に晨夕門に依るの思〔戰國策に「王孫賈の母、に謂つて曰く、『汝朝に出でて晩に來れば、吾則ち門に倚りて望む。暮に出でて還らざれば、吾則ち閭に倚りて望む。』と。」(*とあり。)〕無し(*無きを)。(*羨君官政不遑時。慈母九旬絲髪垂。況復一堂不違養。更無晨夕依門思。)

また萱野三平の傳文あり。この戲場(けぢやう)にて、扮名早野勘平なるものなり。ともに紹述集に見ゆ。

東涯著書目に、

唐官鈔  學問關鍵  用字格  童子問標釋  古學指要  訓幼字義  勢遊志  古今學變  經學文衡  制度通  辨疑録  經史博論  名物六帖  読易私説  異學辨  語孟字義標注  通書管見  鄒魯大旨  釋親考  大學定本釋義  天命或問  助字考  復性辨  中庸發揮標注  刋謬正俗  盍簪録  同餘録  古學先生行状  三奇一覽  經史論苑  秉燭談  周易經翼通解  周易義例卦變考  四書集注標釋  帝王譜略  和漢紀元録  大極管見  本朝官制圖  後漢官制  明官制圖  歴代官制沿革圖  沿革圖考  東涯漫筆  間居筆録  古今教法  唐官品圖  ■(車偏+酋:ゆう・ゆ:軽い車・使者の車・軽い:大漢和38436)軒小録  三韓紀略  紹述先生文詩集  読易圖例 

此の寫本、家藏する者いと多しとぞ。

東涯の墓碑文は内大臣藤原常雅公撰す。篆額は權中納言藤原俊將(としまさ)卿、筆者は右中將藤原英朝(ふさとも)卿なり。人みなこれを榮とす。太宰春臺も賞歎して、「匹夫にして是の尊寵を受く。何ぞ其の榮なるや。(*匹夫而受是尊寵、何其榮也。)」と云ふ。

嗚乎東涯先生已ぬ。先生名は長胤、字は元藏、慥々齋と號す。東涯も亦た其の自ら號する所なり。竟に號を以て行はる。海内皆伊藤東涯といふ者有るを知る。而して今已ぬ。嗟乎。蓋し孟子歿してより、遺經僅に存して、聞きて之を知る者、世に其の人無し。西方の傑遂に間隙を投じて、世を擧げて傾動し、靡然として之に從ふ。碩儒巨師痛く之を排すと雖も、然れども其の説に浸淫し、以て聖經を解説す。我が古學先生本邦に勃興し、不傳の學を遺經に得て、以て天下に倡ふ。而して堂に升り奧を覩て、高弟と稱する者又鮮からず。先生は其の冢子〔嗣子〕にして緒方氏の出なり。膝下に生長す。趨庭の訓へ、異聞多きに居る。故に遺書を校訂して、諸を世に公にし、以て人の視聽を囘すに至る。蓋し繼志と述事と有らざれば、則ち曷んぞ能く川を障へ瀾を廻さんや。資稟〔生得の材幹〕甚だ異なり。三四歳能く字を知る。長じて博學強記、最も善く文を屬して世の爲に稱せらる。孳■(石偏+乞:こつ・かつ:石〈が硬いさま〉:大漢和24043)〔勉強〕種學〔學問の増殖をはかる〕、渟■(三水+畜:ちく::大漢和17999)〔たまること〕涵浸〔ひたすこと〕、能く測る莫し。沈靜寡默、恭儉謹愼。口人の過ちを言はず、表■(衣偏+暴:はく::大漢和34705)〔表面をかざる事〕を事とせず、防畛を設けず。終身仕へず、家に講學し、經義を剖析す。蠶絲牛毛、然も未だ嘗て強て以て人に語らず。而して就て問ふ者、日に衆し。遠近之を尊む。他の嗜好無く、祁寒暑雨、未だ嘗て手卷を釋てず。毎に得る所有れば、則ち輙ち之を筆す。故に其の書家に滿つ。既に稍梓に登す、文集三十卷。周易通解等未だ刊布せず。寛文庚戌(*寛文10年)四月二十八日に生れ、元文紀元七月十七日己酉に死す。享年六十有七。加藤氏を娶る。子は男二人、曰く世俊、曰く世倫、倶に夭す。曰く善韶、今纔に八歳なり。女一人、其の弟。門生喪事を經紀し、遂に先塋の次に葬る。私諡して紹述先生と曰ふと云ふ。其の存日、季弟長堅(*伊藤蘭嵎)をして余に需め其の集に序せしむ。頃ろ長堅再拜謹み泣て以て告げて曰く、集の序亡兄在日既に允さるゝことを蒙る。其の墓に誌すも、願はくは亦補袞〔宰相〕の手を藉らん。地下若し知る有らば拜辱餘り有らん。上臺の光を囘らし〔上臺閣を囘らし、の誤か〕、下草莽の巖穴を耀かし、公の徳を仰ぎ、永世極り罔し(*と)。且つ曰く、吾家兄弟八人、先人死する日、坐食家に在り。人或は其の出贅人の後爲るを勸むる者、亡兄一も省みず。與に倶に苦を啖ひ淡を攻む。日に學行を勵し、以て似續を要す。昏頑〔理に暗く愚なること〕の質稍く成す所有りて、皆出て仕に就く。女は嫁して室有り。我を生む者は父母、而して我を長じ我を育ふ者は皆亡兄なり。今鴻文を獲て、其の言と行と之れ朽ちざらしめば、我亡兄に報ゆる、亦稍〃足れり(*と)。吾が祖公曾て其の父の業文を知る。余も亦先生を景慕せば、則ち豈に其の請ひに孤くべけんや。遂に之が銘を系けて曰く、
淳謹の質、汪々量り■(匚+口:は::大漢和3254)し。耿潔節に甘んじ、休聲遠く揚り、克く先志を纉ぎ、篤く聖賢を崇ぶ。文辭純正、典籍精研、家に居て孝友、厥の徳惟れ馨し。遺名千祀、堅■(玉偏+民:びん・みん:玉に似た美しい石:大漢和20916)〔堅きこと玉に次げる一種の美石〕銘を勒す。(*淳謹之質。汪々■量。耿潔甘節。休聲遠揚。克纉先志。篤崇聖賢。文辭純正。典籍精研。居家孝友。厥徳惟馨。遺名千祀、堅■勒銘。)
*巻2了

 中江藤樹  山崎闇齋  熊澤蕃山  伊藤仁齋  伊藤東涯

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《凡例》
〔〕原文の割注・旁記
詩・賛の書き下し文は、漢字平仮名交り文に改めた。詩の場合は、緑色で白文を併記した。
緑色はその他にも心覚えのために任意に付したものがある。(<font color="#008B00">・・・</font>タグ)

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