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○藤樹の歌
○近江小川書院は十七間四方領主
○藤樹著書目
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中江原、字は惟命。西江と號し、又藤樹 と號す。江州高島郡小川の人なり。少より書を讀み、頗る發明する所有り。世徳行を以て稱す。其の學、王伯安 〔王陽明〕を宗とす。凡そ海内の王學、原 之を倡ふ。母に事へて至孝なり。弱冠(*にして)、初め大洲侯に仕ふ。侯道徳を信じ、特に登庸す。是に於て母を迎へて以て就て養んと欲す。母の曰く、「吾聞く、婦人疆を越えずと。願はくは之を守らん。」と。原 乃ち侯に上書して、田里に歸り、奉養を終へんと請ふ。許されず。喟然として歎じて曰く、「嗟忠孝兩ながら全きこと能はず。吾不肖と雖も、豈に一日も定省〔昏に父母の衽席を定め、晨にその安否を省ること〕を曠しうせんや。」と。即ち書を爲り、忍びざるの情を白す。忽ち行いて小川に歸る。母に事へて能く其の力を盡し、至らざる所旡し。其の心に謂く、「百爾徳行、孝に本かざる莫し。」(*と。)日に先づ孝經 を讀み、而後他書に渉る。大洲の士庶、千里を遠しとせず來學す。他に遠方より來游する者、勝て計ふべからず。郷人之を親しむこと親の如く、之を尊ぶこと神の如し。一郷皆論語 ・孝經 を誦み、勉めて孝悌を事とす。小川市橋君 の采邑〔領地〕に一民連坐〔まきぞへ〕して獄に繋がる(*る)者有り。親裁原 が許に來りて、悲傷して寃を邑宰に達し宥されんことを請ふ。原 曰く、「状の若きは死せず。然も予れ汝が爲に旨を明さん。」と。夜邑宰に抵る。邑宰履を倒にして之を迎ふ。宴を設けて酒を飮み、樂甚し。夜半乃ち還る。厥の明邑宰郷民を免す。小吏問ひて曰く、「何を以てか急に郷民を免す。」と。對へて曰く、「昨先生の來るを以てなり。」(*と。)吏の曰く、「先生前夜風月を賞するのみ。未だ嘗て彼に及ばず。」(*と。)曰く、「先生官舍に至る旡し。而るに夜間來て閑談す。余れ謂ふに、『必ず此の事(*ならん)。』(*と。)終席之に及ばざるも、鄙心感慨、必ず此が爲の故を知るなり。彼れ本と小罪(*なり)。它日之を出さば、則ち先生に報ゆる無し。故に爾り。」と。人の尊崇(*すること)此の如しと云ふ。孝經啓蒙 ・翁問答 を著す。又書簡一卷有り。慶安元年 秋八月卒す。年四十一(*なり)。郷人父母を喪ふが如し。先塋〔祖先の墓〕の側に葬る。題して藤樹先生之墓と曰ふ。祠廟を造る。邨老之を主り、四時祭祀す。一諸侯駕を門外に駐して、村老をして門を闢かしむ。肯んぜずして曰く、「凡そ■(广/苗:びょう:「廟」の古字:大漢和9400)に謁る者の■(广/苗:びょう:「廟」の古字:大漢和9400)門を違ること數百歩。輿を下り、蹙々として〔恭敬の貌〕入り堂下に拜する(*こと)、貴賤と無く一なり。今肩輿を石砌に接して戸を闢けと曰ふ(*は)、甚だ倨れり。神に交るの道に非ず。命を奉ぜず。」と。侯過を謝し、入んと請ふ。曰く、「晩し。願くは再び日を卜せよ。」と。急に去て顧みず。郷人の仰止〔仰ぎ見ること〕此の如しと云ふ。
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淡海吹起す、陸 王 の儒風。豈に翅だ身を善するのみならんや。人を誨へて忠有り。母の爲に祿を顫し、郷に旋つて色愉す〔顔色を愉快にして仕ふ〕。于嗟篤孝、性か學か。(*淡海吹起。陸王儒風。豈翅善身。誨人有忠。爲母顫祿。旋郷色愉。于嗟篤孝。性乎學乎。)
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○此の外訓點の書目
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山崎闇齋 名は嘉、字は敬義、京師の人。其の先は播磨宍粟郡山崎邑の人。因て以て焉を氏とす。父は山崎清兵衞 、木下家に臣たり。後仕を致して淨因 と號す。來て京師に家し、醫を以て業と爲す。母は佐久間氏、娠める有り。比叡山の神に祈る。一夜神を拜する時、老翁梅花一枝を携へ、來て左袖に納ると夢みて、遂に男を生む。即ち闇齋 なり。闇齋 幼より狡悍無類、淨因 之を患ふ。因て度して僧と爲し、妙心寺に籍して、絶藏主と號す。天資豪邁卓犖、一意に禪を修し、懈怠無し。然れども性行猶悛めず。嘗て倫輩と論議す。闇齋 詞理塞る。即ち其の夜竊に彼の寢に就き、紙帳に火す。衆議之を逐んと欲す。是の時に當り、土佐の公子某妙心寺に居る。公子■(耳偏+怱:そう::大漢和29123)明、藻鑑有り。歎じて曰く、「此の兒神姿非常なり。後當に爲すこと有るべし。乃ち之を土佐吸江寺に學ばしむ。是時土佐に谷時中 、野中兼山 有り。與に倶に儒學を切■(麻/非+立刀:び::大漢和53100)〔研究〕す。一び闇齋 を見て亦深く之を器とし、其の異端に陷るを惜みて、經籍を讀むことを勸む。闇齋 乃ち四書及び朱子文集 、語類 等の書を讀み、大に之を悦ぶ。盡く其の學を棄て、焉を學ぶ。闢異 一卷を著し、寺門に貼著して去る。遂に髪を復し儒と爲る。時に年二十五なり。土佐侯乃ち其の陳乞せず輙ち初服に還るを責む。闇齋 恐れて遂に京師に出奔す。帷を下し徒を延きて道學を講習す。從者日に衆く、履戸外に盈つ。闇齋 は師道に至嚴にして、君臣の如く然り。貴卿巨子と雖も、之を眼底に置かず。小過と雖も少も假色〔許容の顔色〕せず、善く罵る。其の書を講ずるや、音吐鐘の如く、面容怒るが如し。弟子震慄して敢て仰ぎ視る莫し。佐藤直方 嘗て云ふ、「闇齋 に師事す。戸に入る毎に、心惴々焉として獄に下るが如く然り。退きて戸を出るに及べば則ち洋々焉として虎口を脱するに似たり。」と。其の憚らるる、類ね此れなり。後闇齋 江都に如く。時に寒■(穴冠+婁:く・ろう・る・りょ:貧しい・苦しむ・窶れる:大漢和25628)〔赤貧〕洗ふが如し。特に書商に鄰りて賃居す。以て其の書を借閲す。是時に當て、井上河内侯 學を好みて士に下る。書商も亦數〃謁見す。一日侯 商に謂つて曰く、「寡人將に學ばんとす。爾の知る所、人の師爲るに足る者有らば、請ふ介を爲よ。」と。商曰く、「近ろ一儒生山崎嘉 といふ者有り。京師より來りて、小人の東家に住す。其の所以を視るに、尋常に度越す。閣下にして之を召さば其れ不虞の幸福を得ん。豈に感奮して恩に答ふるを思はざらんや。」と。侯大に喜び乃ち延致す。商歸りて闇齋 に告ぐ。闇齋 毅然として曰く、「侯道を問はんと欲せば、則ち先づ來り見よ。」と。商鄂然として以爲らく、「措大〔書生〕時勢に通ぜず。若し若のごとき人を薦めば、必ず上を陵ぎ上を無みし、累ひ自ら及ばん。薦めざるに若かざるなり。」と。他日侯 復た問うて曰く、「疇昔告ぐる所の山崎先生 は如何。」と。商の曰く、「小人惰に非ざるなり。前日既に命を渠に傳ふ。渠の曰く、『侯先づ來て余を見よ。』と。是れ頑愚曉すべからざるに非ずんば、即ち狂率〔氣違じみ輕々しきこと〕名を邀るなり。請ふ別に通儒を選べ。」と。侯 咨嗟〔歎賞〕良〃久しくして曰く、「方今、自ら師儒と稱する者、多くは道を行ふに意無し。東奔西走、其の技の售れ易きを欲す。寡人之を聞く。禮に、『來りて學ぶを聞き、往きて教るを聞かず。』と。山崎先生 能く之を守る。此れ乃ち眞儒なり。」と。即日駕を命じて、其の居を訪ふ。會津肥後侯 、加藤美作侯 、亦禮を厚くして闇齋 に師事す。而して會津侯 敬信最も深し。終始一の如し。闇齋 も亦感奮して答恩を思ふ。知つて言はざる莫し。會津侯 卒する後、又京師に歸る。上臺閣〔大臣〕・公卿・諸侯よりして、下布衣・閭閻の士に至るまで、其の門に入る者、無慮(すべて)數千人なり。闇齋 程朱の學を治む。孤峻褊隘、峭し(*ママ)畛域〔經界〕を設け、博覽を喜ばず。詩文を好まず、以爲く「物を玩べば志を喪ふ。」と。毎に片言も程朱を犯す者有れば、輙ち咆哮〔大聲叱呼〕勃怒、肯て同異に就て指趣を究めず。是を以て其の弊往々膠泥〔拘泥〕して融けず。支離〔條理まとまらず〕に淪み、固陋に墜るに至る。晩年大に神道を倡ふ。君子甚だ之を譏る。高足の弟子佐藤直方 、淺見■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋 、其の餘之に反く者も亦多し。天和二年 、年六十五にして沒す。門人垂加 と私諡す。著に朱易衍義 ・孟子要略 ・文會筆録 ・大學啓蒙集 ・中和集説 ・孟浩録 ・孝經刋誤附考 ・冲莫無朕記 ・中臣祓風水鈔 ・神代風葉集 ・垂加文集 有り。四十餘種を著す。
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また
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○此の肖像は
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先生 姓は熊澤、諱は伯繼、字は次郎八、後に助右衞門と更む。其の先は紀の人、中世(*なかごろ?)關左の人なり。祖考熊澤某 (*熊沢守久)、字は喜三郎、其の父と尾州に居る。勝國〔亡國豐臣氏の滅亡をいふ。〕の時、神祖 〔家康〕に事へ、後水戸侯に仕ふ。考某 (*野尻一利)、字は藤兵衞〔本姓は野尻なり。〕、喜三郎 の女を娶り、先生 を平安に生む。維れ元和己未 (*元和5年)なり。此の時祖考 未だ神祖 に事へず、平安の五條に居る。遂に其の家に育はれ、喜三郎 の嗣と爲ると云ふ。〔注略。〕寛永十一年甲戌 、先生 歳十有六、備前侯 に仕ふ。是れ板倉内膳正 (*重矩?重道?−後出。)・京極主膳 等の薦む(*る)所なり。十五年戊寅 、先生 歳二十、辭して其の官を退き、江州桐原に寓す。十八年辛巳 秋八月、江西書院に適き、教を藤樹先生 に受んと請ふ。藤樹先生 固辭して許さず。故に空く歸る。冬十一月、再び江西に往き、邑人淵田氏の家に寓して日を經。是に於て藤樹先生 其の志に感じて、始めて之に謁す。其の志す所を得、隨て江州に居る。數年其の考〔亡父〕野尻君 、其の弟仲愛君 、流憩君 、女弟三人、倶に此に居る。正保乙酉 (*正保2年)、備前侯 、京極主膳 に依て、再び求めて以て之を祿す。時に先生 歳二十七。備前の國政大に革る。承應甲午 (*承応3年)、備の前中二州大に飢ゑ、窘迫九萬人に及ぶ。國老計爲を知らず。乃ち事を先生 に委ぬ。先生 命を出し、政を施し民大に賑ふ。尋で■(阜偏+是:::大漢和41740)池を修め、瘠磽を■(艸冠/鯔の旁:し::大漢和31166)(ひら)く。上下安ずる所を得、遂に庠序〔學校〕の教を設く。其の擧、皆先生 に出づ。及び其の家弟 焉に與る。制して佛寺を減じ、淫祠を壞つ。慶安己丑 (*慶安2年)、先生 歳三十一、侯に東武に從ふ。侯伯・大夫・士の大に其の道を欽慕する、勝て數ふべからず。猷廟〔大猷院徳川家光 〕聞きて之を寵す。侯伯の門弟子と稱する者、紀伊大納言頼宣卿 ・大小路伊豆守信綱 ・板倉周防守重宗 ・久世大和守廣之 ・板倉内膳正重矩 ・松平日向守信之 ・堀田筑後守正俊 ・板倉内膳正重道 ・松平備前守某 ・淺野因幡守長治 ・中川山城守久清 ・松平備後守恆元 ・織田内匠頭信房 ・久世三四郎廣也 ・板倉市正重元 ・荒尾平八某 ・水野周防守忠増 ・本多下野守忠泰 ・松平若狹守直明 等と云ふ。明暦三年丁酉 、先生 歳三十九、病に■(遥の旁+系:よう・ゆう:由る:大漢和27856)つて備前を辭し、京洛に居る。是より前き先生 狩して山中に轉び、手足傷く。故に武事を辭すと云ふ。備前侯、其の季子池田輝祿 をして先生 の後爲たらしむ。是より先生 名を更め、了介 と稱す。京師に居り、雅樂を學び、國典を習ふ。一日微服して笛を吹く。安倍飛騨 といふ者有り。之を聽て曰く、「常人に非ず。其の心情の正なる、即ち音聲に發す。」と云ふ。先生 嘗て紫女物語 〔源氏物語〕を發揮して、其の微旨を得、後中院通茂卿 に傳ふ。洛の公卿・大夫の願て先生 に事ふる者、一條右大臣教輔公 ・久我右大臣廣道公 ・油小路大納言隆貞卿 ・中御門大納言資照卿 ・伏原三位宣幸卿 ・中院宰相通躬卿 ・野宮中納言定緑卿 ・野宮中將定基卿 ・清水谷大納言實業卿 ・押小路三位公起卿 ・久世中納言定清卿 諸君と云ふ。寛文丁未 (*寛文7年)、先生 歳四十九、京の令尹(*京都所司代)某誣を信じて先生 を逐ふ。先生 遯れて城州鹿背山に居る。己酉 (*寛文9年)、先生 歳五十一。播州明石侯松平日向守 (*松平信之か。前出。)縣官の命を受け、先生 を其の封内に待つ。是に於て明石太山寺の側に居る。其の軒を名けて息游と曰ふ。門人遂に之を稱す。延寶己未 (*延宝7年)、侯 に從ひ、和州矢田に移る。同州郡山侯本多下野守 (*本多忠泰。前出。)先生 を賓敬〔大切にして敬ふ〕する、矢田侯 に減ぜず。貞享四年丁卯 、又侯 に從て總州古河に移る。冬十月、上表して政事を演べて旨に忤ふ。乃ち禁錮せらる。元祿四年辛未 秋八月十七日、古河に殞す。壽七十有三を得。〔正室矢部氏は、元祿元年 八月廿一日先て殞す。〕共に其の地邑大■(阜偏+是:::大漢和41740)鮭延寺の土を買ふ。儒禮を以て之を葬る。諡して蕃山先生 と曰ふ。先生 の備前に在る、食邑蕃山を以ての故に、諡字と爲すなり。先生 四男七女を生む。其の矢部氏に出づる所なり。一女厚 、二女載 各〃播州の人に適く。伯某字は右七郎 、蕃山を氏とし、備前侯 に仕ふ。仲某字は左七郎 、野尻を氏とし、明石侯 に仕ふ。三女留 、江州の人に適く。四女咲 、備前の人に適く。五女房 、江州の人に適く。叔某(*字は)武三郎 、本多下野守 に仕ふ。季某字は左四郎 、明石侯 に仕ふ。六女俊 、播州の人に適く。七女某なり。
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先生 諱は維■(木偏+貞:::大漢和15163)、字は源佐、仁齋 と號す。姓は伊藤。洛陽の人なり。幼より凡ならず。既に長じて宋儒理性の學を好む。後、宋儒の學は聖人の正統に非ず、大學 の書は孔氏 の遺書に非ず、及び明鏡止水〔心の虚明なるに喩ふ。〕、冲漠無朕〔萬象森然に續き、無中に有、靜中に動ありとの意となる。〕等の説は皆老佛に出づと疑ひ、直に論 孟 を以て教授す。最も講説に善し。聖意を發揮し、學者を勸誘す。詳悉審明、親切着實、尋常の語の如し。聽く者驚動し、奮■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)する所多し。從遊する者門に繼ぐ。其の文や、思致確實、議論深長、綺字を用ゐず、艱澁を見さず。一篇出る毎に、四方爭ひ傳ふ。對州の醫生齎し歸つて朝鮮に流傳す。慶州府尹見て歎じて曰く、「旨新に、文佳なる。意はざりき、日本に斯る人有らんとは。」と。其の性や寛厚和緩、憤怒を見さず。■(涯の旁:がい::大漢和2930)幅〔裝飾〕を剪徹し、物に於て牴るゝ無し。貴賤少長と無く、愛して之を周くす。粗鄙暴悍の者と雖も、一再相見れば、則ち未だ薫然として心醉せざる有らず。家又屡〃空しけれども、之に處ること恬然として未だ嘗て其の足らざるを覺えざるなり。先に妣孺人〔亡母〕の憂に丁て服■(其/月::「期」の異体字か。:大漢和に無し)〔服すること一年〕す。尋で考府君〔亡父〕の喪に服すること三年。論孟古義 十七卷、中庸發揮 ・大學定本 共に一卷、論孟字義 二卷、童子問 三卷、文集 三卷、詩集 一卷を著す。緒方氏を娶つて、後瀬崎氏を娶る。五男三女皆能く家學を研く。嫡は長胤 (*伊藤東涯)、最も明穎にして、文を善くす。寛永丁卯 (*寛永4年)七月二十日生る。寶永乙酉 (*宝永2年)三月十二日卒す。年七十九。小倉山先塋の次に葬る。私諡して古學先生 と曰ふ。嗚呼悲い哉。銘に曰く、先生の高尚なる、利名に近かず。洙泗〔孔孟の學〕の正統、本邦の主盟なり。一時の用無きも、千載の榮有り。學か徳か。日月雙ら明かなり。(*先生高尚。不近利名。洙泗正統。本邦主盟。無一時用。有千載榮。學耶徳耶。日月雙明。)
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また
また
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此の寫本、家藏する者いと多しとぞ。
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嗚乎東涯先生 已ぬ。先生名は長胤、字は元藏、慥々齋と號す。東涯も亦た其の自ら號する所なり。竟に號を以て行はる。海内皆伊藤東涯 といふ者有るを知る。而して今已ぬ。嗟乎。蓋し孟子 歿してより、遺經僅に存して、聞きて之を知る者、世に其の人無し。西方の傑遂に間隙を投じて、世を擧げて傾動し、靡然として之に從ふ。碩儒巨師痛く之を排すと雖も、然れども其の説に浸淫し、以て聖經を解説す。我が古學先生本邦に勃興し、不傳の學を遺經に得て、以て天下に倡ふ。而して堂に升り奧を覩て、高弟と稱する者又鮮からず。先生は其の冢子〔嗣子〕にして緒方氏の出なり。膝下に生長す。趨庭の訓へ、異聞多きに居る。故に遺書を校訂して、諸を世に公にし、以て人の視聽を囘すに至る。蓋し繼志と述事と有らざれば、則ち曷んぞ能く川を障へ瀾を廻さんや。資稟〔生得の材幹〕甚だ異なり。三四歳能く字を知る。長じて博學強記、最も善く文を屬して世の爲に稱せらる。孳■(石偏+乞:こつ・かつ:石〈が硬いさま〉:大漢和24043)〔勉強〕種學〔學問の増殖をはかる〕、渟■(三水+畜:ちく::大漢和17999)〔たまること〕涵浸〔ひたすこと〕、能く測る莫し。沈靜寡默、恭儉謹愼。口人の過ちを言はず、表■(衣偏+暴:はく::大漢和34705)〔表面をかざる事〕を事とせず、防畛を設けず。終身仕へず、家に講學し、經義を剖析す。蠶絲牛毛、然も未だ嘗て強て以て人に語らず。而して就て問ふ者、日に衆し。遠近之を尊む。他の嗜好無く、祁寒暑雨、未だ嘗て手卷を釋てず。毎に得る所有れば、則ち輙ち之を筆す。故に其の書家に滿つ。既に稍梓に登す、文集三十卷。周易通解 等未だ刊布せず。寛文庚戌 (*寛文10年)四月二十八日に生れ、元文紀元 七月十七日己酉に死す。享年六十有七。加藤氏を娶る。子は男二人、曰く世俊 、曰く世倫 、倶に夭す。曰く善韶 、今纔に八歳なり。女一人、其の弟。門生喪事を經紀し、遂に先塋の次に葬る。私諡して紹述先生 と曰ふと云ふ。其の存日、季弟長堅 (*伊藤蘭嵎)をして余に需め其の集に序せしむ。頃ろ長堅 再拜謹み泣て以て告げて曰く、集の序亡兄 在日既に允さるゝことを蒙る。其の墓に誌すも、願はくは亦補袞〔宰相〕の手を藉らん。地下若し知る有らば拜辱餘り有らん。上臺の光を囘らし〔上臺閣を囘らし、の誤か〕、下草莽の巖穴を耀かし、公の徳を仰ぎ、永世極り罔し(*と)。且つ曰く、吾家兄弟八人、先人死する日、坐食家に在り。人或は其の出贅人の後爲るを勸むる者、亡兄 一も省みず。與に倶に苦を啖ひ淡を攻む。日に學行を勵し、以て似續を要す。昏頑〔理に暗く愚なること〕の質稍く成す所有りて、皆出て仕に就く。女は嫁して室有り。我を生む者は父母、而して我を長じ我を育ふ者は皆亡兄なり。今鴻文を獲て、其の言と行と之れ朽ちざらしめば、我亡兄に報ゆる、亦稍〃足れり(*と)。吾が祖公曾て其の父の業文を知る。余も亦先生を景慕せば、則ち豈に其の請ひに孤くべけんや。遂に之が銘を系けて曰く、
淳謹の質、汪々量り■(匚+口:は::大漢和3254)し。耿潔節に甘んじ、休聲遠く揚り、克く先志を纉ぎ、篤く聖賢を崇ぶ。文辭純正、典籍精研、家に居て孝友、厥の徳惟れ馨し。遺名千祀、堅■(玉偏+民:びん・みん:玉に似た美しい石:大漢和20916)〔堅きこと玉に次げる一種の美石〕銘を勒す。(*淳謹之質。汪々■量。耿潔甘節。休聲遠揚。克纉先志。篤崇聖賢。文辭純正。典籍精研。居家孝友。厥徳惟馨。遺名千祀、堅■勒銘。)