森繁夫『田捨女』

序

今は四十年からの昔、私が大阪の第三高等中學校の豫科にゐた頃、ひとり合點のあやしげな十七字を並べたり、俳人の逸話を語つたりして喜んでゐたものである。同宿の學友に丹波生れの土田卯之助といふ人があつて、自分の伯父になる田といふ家の祖先に捨といふ俳人があつて、その書いたものが殘つてゐるといふ事を話してくれた。私は初めて捨女の子孫の儼存する事を知つたのみならず、大阪へ出る前、私は神戸で兵庫縣の收税長であつた人の玄關番をしてゐたので、そこへ時々見えた（＊原文「え」は「江」字の変体がな）田氏—その頃は氷上郡長であつた—の顔も、よそながら知つてゐたので、土田君の話に一種の親しみを感じて、今にその時の事を記憶して居るのである。その後土田君は學校をやめて歸郷したので、いつとなく次第に疎遠になり、捨女についても特別の機縁もなく打過ぎて來たが、このたび森氏が熱心にその事蹟を探究して傳記を立て、田家に傳ふる遺稿を初め、洽く歌句を捜索結集して一書を編まれ、私に示されたので、ゆくりなく四十年前の舊知に再會した心地してなつかしさに堪へぬ。捨女は伊勢の美津女（＊杉木光貞妻。〔1582?～1647〕）と共に、女俳人の首倡（＊最初の作者）たるのみならず、女丈夫として傳ふべき人物であることは、改めて私がいふまでもなくこの書中に悉されてゐるから、私は只老人の思出話を述べて序文に代へる。

昭和二年八月

藤井紫影

田捨女　　目次

（＊ページ番号は省略。）

一、上梓に就いて
二、田氏系圖
三、田捨女年譜
四、小傳

（一）　出生地柏原
（二）　祖父母
（三）　父母　—　繼母、小父
（四）　兄、嫂
（五）　生立
（六）　婚姻

（七）　夫

（八）　誹諧と和歌　—　北村季吟

（九）　落飾　—　盤珪和尚

（十）　不徹庵　—　終焉

（十一）子孫

五、遺稿、遺文

（い）　發句
（ろ）　獨吟
（は）　連歌
（に）　歌文
（ほ）　尺牘
（へ）　附録　—　夫季成遺稿

六、遺墨、遺品

（一）　田艇吉氏所藏
（二）　田健治郞男所藏
（三）　田周太郞氏所藏
（四）　田俊之助氏所藏
（五）　龍門寺所藏
（六）　不徹庵所藏
（七）　其他

挿畫

（＊〔カッコ〕内は覆紙の付加記述。続けて挿画あり。）

一、田捨女畫像　〔不徹庵所藏〕
二、遺墨

い　短册　　〔柴田笥浦氏所藏〕
ろ　同　　　〔土居剛吉郞氏所藏〕
は　色紙　　〔田男爵所藏〕
に　〔嫂妙雲を弔ふ〕歌文　　〔田艇吉氏所藏〕
ほ　〔三男祖瑞に宛たる〕尺牘

三、遺作　〔自作〕刺繡觀音像　　〔田艇吉氏所藏〕
四、北村季吟〔より捨女に宛たる〕弔文　　〔田艇吉氏所藏〕
五、墓碑　　　〔龍門寺境内／碑石　竪二尺五寸、横一尺二寸／臺石　竪二○二寸（＊二尺二寸か。）六分、幅三尺一寸〕
六、〔捨女在世中の〕田家邸宅　　〔其後漸次修繕加作せり／（兵庫縣氷上郡柏原町大字下小倉八十二番屋敷田艇吉氏本邸）〕

一、上梓に就いて

長い年月に渉つてゐる、自分の、國學者歌人傳記編輯のことも、頃日になつて、さすがにやゝ眼鼻がついてきたものゝ、誰の生れた日が分つたとか、誰の享年が判明したとか、毎日のやうに、新事實の發見やら確認が加はり、同時にまた、愚にもつかぬ徒勞を敢てせねばならぬかと思へば、その徒勞が更に新資料を生むなど、さながら鼬ごつこの有樣である。過る晩春某の日、大西一外氏から、田捨女は元祿十一年歿と、諸書にあるが、園女編の「菊の塵」に據ると、元祿六年には既に故人になつてゐるらしい、との説を聞き、それが動機となつて、種々の調査の進行から、同君と共に、丹波柏原（＊かいばら）に、捨女の裔孫なる田艇吉翁を、南天莊同人なる、縣立柏原中學校長堀川美治氏の紹介に依つて、訪問することゝなり、次で、田翁并に田男爵助勢の下に、遺稿の蒐集から、矢繼早に本書の刊行を遂ぐるに至つたのである。本年（＊昭和2年）は捨女歿後、二百三十年に該り、其歿日なる八月十日は、陽暦に換算して九月五日に當るので、なるべくはその頃に發行して、之を記念しようと思ひ、可なりの努力を費したが、一旦脱稿後に、續出した新資料が頗る多く、田翁より寄與の文書も、重なり＼／、補足又補足といふ有樣で、意外の手間取りとなり、且つは、うちつゞく嚴しい炎暑といひ、何分業餘の、しかも連續的で無い夜間の少時間を用ふることゆゑ、思ふやうに運ばず、焦燥の氣分で、筆を走らした塲合が多く、不文、過誤も少くないであらうと、顧みて忸怩の情に堪へない。

由來名家の後裔が、その祖宗の遺品、違具を多く襲藏せることは、少數の例を除いては、まづ極めて稀なりとせねばならぬ、而かも幸なる哉、田家には、捨女自筆の文書、遺品夥しく保存せられ、就中その夫季成を弔ふ歌文、二百四十二句の發句集など、まだ世に知られざるものが頗る多い、（＊。）よりてこれ等の材料を採録し、加ふるに、同家の系譜、家記録の類と、わが蒐集の諸資料とを以てし、卷を成したのであるが、まづ順序として、歌句、小傳など、苟も捨女に關する事を掲げたる書籍は、悉くこれを、わが乏しき文庫に覓めて、凡そ左の諸書を引用した、（＊。）すなはち

書名		刊行年	編著者
一、　いつを昔	（其角全集）	元祿三	寳井其角
二、　句兄弟	（同）	元祿七	同
三、　俳諧錦繡緞	（同）	元祿十	同
四、　當座拂	（蕉門珍書百種）	元祿十六	井上千山
五、　菊の塵	（閨秀俳家全集）	元祿以後	渡會園女
六、　千鳥掛集	（俳諧文庫）	正德二	下郷知足
七、　俳諧温故集	（同）	延享五	板倉蓮谷
八、　誹諧家譜	（俳書大系）	寛延四	早川丈石
九、　古今短冊集		寳暦元	大夢庵毛越（＊別號雪尾。路通門。）
十、　俳諧古選		寶暦十	三宅嘯山
十一、誹論	（俳諧文庫）	明和元	八文字屋白露（＊八文字屋瑞笑。自笑の孫。俳号秋月下白露。）
十二、名家談叢	（俳諧文庫）
十三、俳諧百一集		明和二	八椿舍康工（＊尾崎康工〔やすよし〕）

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