ブラザース・フォア
初来日を辿って
1962年(昭和37年)に
タイムスリップ
ブラザース・フォアは1958年(昭和33年)の結成以来、半世紀が経ちました。
ブラザースフォアのファンとして、彼らの初来日した1962年にタイムスリップして、当時の様子をまとめてみました

時間を追って辿ってみましょう

(注:青色文字は記事の内容です)

来日前
3月7日記事
(スポーツニッボン)
来日1カ月前

既報のように4月2日来日する・・・>とあるので、来日自体はもっと以前から決まっていたらしいです。

彼らは、各国の民謡を取材する第一の仕事地として来る>、また、4月4日〜5日に東京で公演とテレビ出演(交渉中)を行うと報じています。

清潔なブラザース・4><地味ながらも清潔なムード、素晴らしいハーモニー>と評価されています。



3月8日記事
(サンケイ新聞夕刊)
サンケイホールの公演は産経新聞の主催で、公演日時と料金が発表になりました。

A席1500円。 当時と現在では物価差が約10〜15倍あるので、現代の感覚では結構高い料金設定と思えます。

コーラスと共に巧みな楽器の演奏でも有名>と評しています。


3月12日記事
(サンケイ新聞)
彼らは産経新聞の招きで来日することが伝えられており、
アメリカの白人四人によって編成されたボーカルコンポで大学のクラスメートよって組まれた若いクワルテット
彼らが有名になったのは、・・・・有名なマネジャー、モルト・ルイスに認められたもの・・・>と紹介しています。


3月15日記事
(読売新聞)
ブラザース・フォアがスワン・プロモーションの招きで4月に来日・・・>と産経新聞ではなくスワン・プロモーションとなっていますが、確かにプロモータはそうでした。

今度の来日に当たっても「日本の民謡をじかにわれわれの耳で聞いて、そのいくつかをわれわれのレパートリーに加えたい」・・・>とありますが、それがこの後に続く来日で歌われた「ソーラン節」「さくらさくら」につながっていくのでしょう。。


3月21日関係資料

プロモータであるスワンプロモーションからの予定です。
日本公演の日程が発表され、東京サンケイホール、京都会館第一ホール、大阪国際フェスティバルホールなど5日間連続のリサイタルで、当時は一日に二回の公演もこなすハードスケジュールだったことがわかります。


3月29日記事
(朝日新聞)
ロック・リズム全盛時代の逆をリバイバル調・コーラスの若いグループ「ブラザース・フォー」> と紹介されている。当時のロックは今のロックとはちょっと違って、エルビス・プレスリーなんかを代表とするロックンロールあるいは当時急に流行ったツイス ト音楽という物だったと記憶します。
ブラザース・フォアはその逆を行ったということではなくて、当時,音楽が従来のものとは大きく変わっていく中での一つ の新しい流れととらえることができるでしょう。

ぼくたちは正規の音楽教育をうけていないが、ただ子供でも喜んでくれる歌、みんなから愛されるポピュラー・ソングを歌いたい」というのがモットー。日本訪問は日本の民謡を研究し、取材するのが目的だそうだ
かれら自身からフォークソングではなく、ボピュラーという言葉がでたのであれば興味深い発言です。


3月30日記事
(読売新聞)
来日前に、アメリカでのマイク・カークランドへの取材内容となっています。記事を下記に再掲すると、

われわれの目的は若い日本人たちにアメリカのよさ を売り込むことにある。アメリカの若い世代の生態は日本の若い世代にゆがめられて伝えられているように思う。アメリカの学生もこの危険な時代にわれわれが 直面している重大な問題を真剣に考えている。われわれ公演は、国家的な後援はないが、われわれなりの文化交換なのだ。日本の学生とアメリカの学生の相互理 解を深めることが少しでもできれば成功だと思う


この理解には当時の米国の時代背景の理解が必要です。

この当時は東西冷戦、特にソ連と米国の緊張関係です。1962年10月にキューバ危機が起こっていますので、正にその直前の極めて緊張感の高い状況がありました。それが「この危険な時代」ということでしょう。

また、一方では当時の米国はまだまだ人種差別の国であり、公民権運動の真っ只中にありました。日本から米国を見る目は確かに「米国は人種差別のある国だ」 という意識でした。しかし、米国では学生層を中心として急速に意識変革が始まっており、そのあたりが日本には十分に伝わっていなかったのが「日本の若い世 代にゆがめられて・・・」ということの背景だったかも知れません。

もう、一つこのマイクのメッセージで重要な事は「日本の学生と」と言っていることです。「社会人」や「大人」ではなく「学生」と交流し相互理解をはかっていきたいというメッセージは、よく考えるとなかなか意味深いものがあります。

確かに、彼らの音楽は正にその日本の学生を中心に受け入れられ広められていったわけで、このマイクの語った目的は十分以上に達成できたわけです。

4月2日広告
(朝日新聞)
大阪支社発行で、大阪公演の料金を知ることができます。

A席は800円ですので、東京の1500円比べると寸分と差がありますね。



来日前の記事を見て、来日一か月も前からいろいろな新聞で、彼らの来日を伝えていたのには驚きです。それだけアメリカのヴォーカルグループへの人気と期待の 大きさがうかがわれます。また当時の記事には「フォークソング」の言葉は見当たりません。そんな時代だったんですね。

次に、来日後の記事をみていきましょ う。
来日
4月3日来日
午前1時30分、東京羽田空港着のノースウエスト機でブラザースフォア一行七人がいよいよ来日しました。

右からボブ〜ディック〜ジョン〜マイクです。

左のメガネの紳士は誰れだったのかは不明です。マネージャーでしょうか。

コントラバスはボブさんがハンドキャリー?一席確保したのでしょうか?

実は、この遠征が彼らにとって初めての海外公演だったそうです。

私達ファンも期待し待ち望んでいましたが、彼らやマネジャーも大きな期待と不安でこの深夜の東京に降りたったのでしょう。


4月3日記事
(産経新聞)
産経新聞は早速朝刊で報じています。
大学を出たばかりのいかにも若さにあふれたグループで共演のクリスタル・シスターズから花束を贈られ「日本の流行歌や民謡をならって歌いたい」と語っていた

クリスタル・シスターズは女性4名のグループだったようで、当時流行っていたアンドリュース・シスターズの日本版みたいなものだったようです。



4月3日記者会見

来日したその日の午後には、赤坂のクラブ「花馬車」にて記者会見が行われました。その後、コーラスも披露したようです。
その中でリーダーのマイクカークランドは「学生たちのためにす ぐれたフォーク・ソングやバラードの紹介に力を注いでいる」と語り、初めてフォークソングというフレーズが紹介されています。
下の写真は左からディック〜マイク〜?〜ジョン〜ボブ。


来日日の4月3日の日程をまとめてみました。
午前1時30分   来日
午後3時〜    記者会見
       4時〜    レセプション(演奏もあり)

レセプションでの曲目は
遙かなるアラモ
グリーン・フィールズ
マリアンヌ
あたりの数曲を歌ったようです
    
*初日からかなりのハードスケジュールですが、全体はもっとハードスケジュールでした。

全体日程

4月3日 
  早朝(深夜)来日
  午後、記者会見、レセプション
4月4日 
  東京サンケイホール・コンサート
   花馬車出演(2ステージ)
4月5日 
  東京サンケイホール・コンサート
  花馬車出演(2ステージ)
4月6日 
  京都会館第一ホール・コンサート
4月7日 
  京都会館第一ホール・コンサート(2ステージ)
4月8日 
   大阪フェスティバルホール・コンサート(2ステージ)
4月?日  離日
  (10日間滞在となっているようです)

「花馬車」公演

ポスターからここでの公演は 4月4日と5日の二夜、午後9時30分からと10時40分からの二回あったことがわかります。2ステージ構成だったのでしょう。

ところで「花馬車」とは?
これは赤坂のホテルニュージャパンの当たりにあった高級ナイトクラブです。当時、赤坂には「金馬車」「銀馬車」「紅馬車」といった馬車系と呼ばれる高級ナイトクラブがあったそうです。

基本的には今で言うライブハウス、食事を取りながら音楽を楽しむという場でありますが、お客は相応の身分の男性客であり、それを取り囲む高級ホステスとの遊行の場でした。

そこで毎夜繰り広げられていた世界は一般庶民とは無縁の世界、ブラザース・フォアの「爽やか」「ウイウイしい」「汚れのないハーモニー」「純情派」・・・とも対極にある世界だったようです。

一体どんなステージになっていたのか?タバコにむせながら、ほとんど聞いていない客の中で止むなく歌ったのか、あるいは、そういう猥雑な世界に一風のそよ風を送り込み、一時でも爽やか空間を作りだすことが出来たのか?
タイムマシンがあれば是非訪問したい場ですね。




4月4日記事
(スポーツニッポン)
4日の朝刊です。前日の花馬車での演奏写真と共に来日を報じています。

日本の方に純粋なアメリカ音楽を聞いてもらい、日本からは美しい民謡を取材するために来ました。アメリカではツイストがさかんです。このリズム(ロック)は根強いものですが、僕たちは美しいバラードやフォーク・ソングが専門で、ツイストは歌いません

続いて興味深い記述があります。
・・・その後フジTV出演、またコロンビアでレコーディング(愛と死のかたみ)英語版の予定

さて、問題はこの「愛と死のかたみ」です。調べてみるとこの日本映画は1962年の公開で、主題歌を及川三千代、島倉千代子が歌っています。その年の紅白でも歌われたということでご存じの方もいるでしょう。興味のある方はYouTubeにもアップされています。

しかし、この曲が実際にレコードとなり発売された記録はありません。実際にレコーディングしたのであれば、その音源は非常に貴重ですね。真相はいかに?



4月4日記事
(報知新聞)


これも4日の朝刊で花馬車の様子と共に報じています

花馬車で期待通り清潔感に満ちたコーラスを聞かせた

・・・それぞれが音楽には無縁だったが趣味のコーラスが職業にまで発展した
現代では趣味が仕事は、あたりまえのことですが、当時は素人の趣味の歌がプロの歌になると言うのは日本ではまだまだ珍しい時代だったので、こういう記述もなったのだと思います。

記事の写真は<マリアンヌを歌う>となっています。



4月4日初公演


日第1回公演が午後6時45分から東京サンケイホールで行われました。

この日の公演は、原信夫とシャープス・アンド・プラッツ、デュークエイセス、クリス タルシスターズの演奏をはさんで三部構成で行われました。

第一部  ブラザース・フォア
第二部  デューク・エイセス
           クリスタル・シスターズ等
第三部  ブラザース・フォア


彼らは、うすいブルーのシャツ姿で歌ったようです。

曲目は、
グリーン・フィールズ、
イエロー・バード、
遙かなるアラモ、
グリーンスリーブス、
ング・ハレルヤ、
ライダース・イン・ザ・スカイ、
マリアンヌ、
ロック・アイラ ンド・ライン、
ビューティフル・ブラウン・アイズ、
ロービン・ギャンブラー、
グッドナイトアイリーン、
ミッド・ナイト・スペシャル
など17曲位を演奏したようです(順不同、各記事からの推定)。

スイング・ハレルヤと記事にはありますが、どんな曲だったのでしょうか?新聞にはそのような曲名で書いてありますが、「漕げよマイケル」ではなかったかと推定も出来ます。

4月5日記事
(産経新聞)

これも産経新聞は早速朝刊で報じています。

・・・先行は音楽にはまったく無縁の電気工学、医科、歴史、放送といった変わりダネで、日本の”ダーク・ダックス”といったところ

おなじみの17曲を披露。かざり気のない清潔な歌いぶりに、満員の聴衆から割れるような拍手がおくられた





4月5日記事
(産経新聞)


これまで四重唱団の場合、大抵はエネルギッシュでショーマンシップに満ちた舞台を見せるのだが、このブラザース・フォアは大変もの静かに唄を聞かせる行き方でステージ・マナーもおとなしい。
これまでの四重合唱がどのグループを指すのか不明ですが、当時の米国からの来日歌手・グループの中には日本(日本人)を馬鹿にしてひどい振る舞いをするものも少なくなかったので、それと対比しても良いマナーと評価されたのだと思います。

<全体を聞いて、日本のダーク・ダックスとよく似た印象を受ける。民謡の多いレパートリー、ダイナミックな唱法を避けて、微弱音の美しい音色でハーモニー をつくってゆくところなどが両者のよく似た点である。彼らの「グリーン・スリーブス」を聞いているとダークの「北上夜曲」を聞いているような気分になって しまうのだ。>

ここでもダーク・ダックスとの共通点ということで書かれている。実際はかなり違いますが、一般庶民への説明としては分かりやすい例えといったことろでしょう。

彼らの音色はやわらかく、響きがあって、よくのびる。強い声を出さなくても、彼らの生得の楽器、音質のよさを思い知らされる演奏でもある
確かにその通りだったでしょう。簡単にうたっているようで、難しいのがブラザース・フォアの歌。

ヒット曲の「グリーン・フィールズ」「イエロー・バード」など・・・・繊細なフィーリング、リリカルな歌の表情など味わい深かった。
「リリカル」とは情緒的とかいう意味。


4月5日記事
(日刊スポーツ)


ブラザース・フォアは「イエロー・バード」を皮切りにアメリカ各地に伝わる民謡を17曲歌った
オープニング曲はイエロー・バードだったのでしょうか。だとすると、翌年二回目来日のオープニング曲「牛追いの歌」なんかに比べて、ちょっと地味な曲から始まりましたが、当時は一般の人にはグリーン・フィールズよりイエロー・バードの方が知られていましたかも知れません。



4月6日記事

(朝日新聞)

彼らの地味なコーラスはロックやツイスト全盛のアメリカでも珍しい人気を集めているグループ

初めての日本公演で聞く歌は、 明るく見事でアメリカの知性の下地を何となく感じさせる魅力がある

かつて来日したグループと比べるとショーマン臭さがなく声域のそろった汚れのない ハーモニーを聞かる。カレッジ気質をそなえたムードともいえるし、その点は日本のダーク・ダックスとも似ているが、彼らにはアメリカのフォークソングのシ ンが感じられる。民謡には言語のカベをのりこえて訴える要素がある。そういう”歌のふるさと”をドライでもなく、ウェットでもなく清潔な感覚で楽しませる グループだ

最後のドライでもウェットでもなく・・・は確かに彼らの良さ(ある人にとっては物足りなさ)を現していて、これは今日も続くブラザース・フォアの歌声に引き継がれています。



1963年のLP
「THE  BIG  FOLK  HITS」
のライナーノートから


1962年日本にもちょっとやって来ましたが、全く気取りのない素直な態度で4人とも育ちのよい坊やみた いな感じをうけました。外来音楽界の多い昨今でもブラザース・フォアくらいみんなに良い印象を与えたグループは少ないと思います。実はこの来日が彼らに とっては初の海外旅行でしたが、1963年になってヨーロッパにも行き喝采を博しています>・・・中村とうよう氏解説より


テレビ・ラジオ出演
テレビ放送
4月6日、午後9時15分からフジテレビ「ザ・ビックショー」に出演しました。タップの中野ブラザーズが共演、原信夫とシャープス・アンド・フラッツが演奏を受け持ったようです。
演奏曲目は
@イエローバードAロービンギャンブラーBビューティフルブラウンアイズCロックアイランドラインDマリアンヌE遥かなるアラモFグリーンフィールズ放送当日のテレビ番組欄
上のテレビ欄の解説部分
演奏曲目が7曲紹介されています


下はそれの番組紹介(掲載新聞不明)
こちらの方は演奏曲目が
「イエロー・バード」「華やかな船」「マイ・タニ」「ライダース・イン・ザ・スカイ」「日暮れどき」「グリーン・フィールズ」
と紹介されていますが、実際にはこの曲ではなく、上の7曲になったのでしょう

「華やかな船」とはThe Gallant Argosyという曲で日本発売のLPには収録されていない(シングルで発売はされた)


ジオ放送

ラジオ放送は4月7日夜10時半からTBSラジオ「特集  ブラザース・フォア・コンサート」として、4日夜のサンケイホールでの録音を流したようです(録音中継)。

4月7日記事
(東京中日新聞)

・・そのまじめなステージ・マナーと、味わい深いアンサンブルは四人をたちまち全米の人気者にし、特に「みんなに愛される歌をうたってゆく」ことを目標にして世界民謡、フォーク・ソングを中心にうたい、その人気はアメリカ人としては珍しく共産圏にまで及んでいる
最後の共産圏とは昔のソヴィエト連邦のことで、モスクワにも公演に行ったことがあります。



4月7日記事
(東京新聞)

1959年ワシントン大学出身の仲間がプロに転向したアメリカ版ダーク・ダックスということろ
このようなグループは珍しかったので、ダーク・ダックスとの相似性で説明した記事が多かったですね。

その他のトピックス
楽屋での写真
真剣にチューニングをしています。貴重な写真ですね。サンケイホークでしょうか?天井が低いのでベースのやボブさんの頭は天井につきそうです。



THE  TIMES記事

4月13日記事。

・・・一行はいかにも大学卒らしい若さに溢れており、ホープ・ソングを得意とするだけに「ツイストは性に合わない」。・・・・また日本の歌も(愛と死のかたみ)習って帰りたい・・・>とあります。
ここでも「愛と死のかたみ」の話しが出てきています。
また、フォーク・ソングではなくホープ・ソング(hope song)となっていて、当時の様子がわかります。ついでにディックの名前も「ィック」と誤っています。

兵役についての質問が出ると、「まだ招集はこないが、いずれは来るだろう」とちょっと暗い表情

四、五の両日はナイト・クラブに出演したが、やはり春陽のもと、校庭で唄いまくる方がぴったりとしそうなグループだった>でしょうね〜。



ジャパン・タイムス記事

月4日の記事。写真とその説明(一番下の部分)です。
ここでもFOLK  SONGという言葉は使われていなくて、米国の最近のヒット曲を歌うと書かれています。


1962年公演のパンフレット
(表紙)

LP「SONG  BOOK」アルバムの写真の流用です



コンサートチケット
(サンケイホール)

これは席番が印刷されていない見本チケットの写真です





コンサートチケット
(大阪フェスティバル・ホール)

東京とは若干デザインがちょっと違っていますし、料金も安いですね


サイケイホール座席図


残念ながら今は取り壊されしまいましたが
ブラザース・フォアはこの初回と1964年、1965年で使用しました
2階席でもみたことありますが、崖の覗く様に急な席でした



1962年来日公演
の与えたもの
1960年前後、米国にアメリカン・フォーク・ソングのブームが起きました

1959年 
トム・ドゥーリー(キングストン・トリオ)
1960年 
グリーン・フィールズ(ブラザース・フォア)
1960年 
ドナ・ドナ(ジョーン・バエズ)
1961年 
漕げマイケル(ハイウェイメン)
1961年 
花はどこへいった(キングストン・トリオ)
1962年 
500マイル(ピーター・ポール・アンド・マリー)

ブラザース・フォアが初来日した1962年の日本の音楽の状況はまだその前夜という感じでした。

1962年の日本での洋楽のヒット曲をみるとよく分かります

「悲しい片思い」
・・・ヘレン・シャピロ
「愛さずにはいられない
」・・・レイ・チャールズ
「ヴァケーション」
・・・コニー・フランシス
「霧の中のジョニー」
・・・ジョン・レイトン
「ブルーハワイ」
・・・エルヴィス・プレスリー
「ヘイ・ポーラ」
・・・ポールとポーラ
「トゥナイト」
・・・サウンドトラック
「ロコモーション」
・・・リトル・エヴァ
「ヤングワン」
・・・クリフ・リチャード
そして
「花はどこへ行った」
・・・キングストン・トリオ
(1961年来日済み)

ほとんどはポップス歌手で、プロの作詞・作曲家が曲を作り歌手が歌うスタイル。また,日本人によるヒット曲もこれらの歌を日本語化した曲も多数あった時代でした。

日本でのアメリカンフォークソングのブームは何時だったのかについてはいろいろと見方もあると思いますがピークは1964年(この年はブラザース・フォア とピーター・ポール・アンド・マリーが来日)から1967年(この年、フジテレビで「フォークソング合戦」がゴールデンタイムに放送される)あたりではな いかと推定します。

その後は、日本ではブラザース・フォア、キングストン・トリオ、ピーター・ポール・アンド・マリーを先達とし、日本独自の新しい音楽創造の試みがなされ、 それがいわゆるジャパニーズ・フォーク生み出していきました。その流れは一つの大きな歴史ストーリーとして改めて語られるべきでしょう。

いずれにせよ、この1962年のブラザース・フォアの来日の評判、影響が多くのアマチュアバンドを生み出すきっかけとなり、その後の日本の音楽会に与えていったインパクトは極めて大きいものであったと、今、振り返ってみて言えるでしょう。
 
資料提供
貴重な資料・情報提供に感謝いたします
Hiroki & Yuji Collection
Mr. Unno
DEO