1998年10月15日(月)

1989年9月から1991年7月末、ペレストロイカ後期のソ連崩壊前に、わたしたち家族は夫の留学に伴ってモスクワに住んだ。その頃、ロシアは社会主義の中央統制型経済から自由市場経済への移行を探っていた時期だった。
わたしたちが日本へ帰ってからモスクワはどんな風に変わっていったのだろう。2年間、激変するロシアを体験したわたしたちにとって興味はつきないところだ。順調に市場が開かれ、慢性的な物不足が解消し、人々が行列に並ぶこともなくなったのかどうか。物価の上昇はどれくらいか、ロシアのニュースを聞くたびに、ロシアの状態をくわしく知り、人々の表情をできるだけとらえたいとテレビに目をこらした。
こちらに来る前、 多くの市民は給料の遅滞や不払いに苦しめられ、人々の給料は月100ドルにも満たなくて、生活が大変であること、貧しい人々が増え、年金生活の老人が食べるものにも困り、路上生活者が増え、町の治安は悪くなったことなどを聞いた。他方、経済の変革の波にうまく乗ったノーブイ・ルスキイ(新ロシア人)と呼ばれる大金持も出現したということも知った。
一握りの持つ者と持たないものとの差は広がるばかりで、社会不安の要因になっているとのニュースが伝えられていた。本当にその通りなのだろううか。 そのとおりだとすると、ソ連時代よりもっと厳しくつましい生活を人々は強いられ、急に氾濫した西側の消費生活の情報を指をくわえて眺めさせられ、人々の間には不満がくすぼっているとばかり思っていた。

ところが、ここモスクワに来て第一に驚いたことには、信じられないくらいに自動車が増えていたことだ。また、フロントガラスや窓ガラスが割れ、ビニールやテープでそれをふさいでいる9年前にはよく見かけた車がないではないか。その上、メルセデス、フォルクス・ワーゲンやヴォルボなどの高級車がたくさん町を走っている。
わたしの住んでいるアパートでも半数近くは、外車ではないだろうか。 これは、以前のモスクワの人々の生活から見れば、嘘みたいな、いや、夢のようなことである。
西側の豊かな消費生活の情報を極力、知らせないように配慮したソ連時代の為政者たち。西側の電気製品を買おうと思うと月収の10倍近いお金が要った。自動車ならなおさらのこと。ソ連国民がソ連の自動車以外のものに乗るとは誰も思っていなかった。
たったの10年足らずでモスクワはすっかり変わってしまった。
子どもたちの洋服も以前は、時代遅れでいかにも粗悪、一回着せればほつれが出たり、ちぢんだりしたソ連製のものだったが、そんなものを着ている子どもは今ではいない。
上のむすめの通うモスクワ1741番校の学生たちも外国製の彩り鮮やかなファッショナブルで華やかな洋服に身をつつみ、おっとりと豊かそうである。こどもたちはアメリカ製のローラーブレードに乗り、レゴで遊んでいる。モスクワも日本も親の気持ちは同じである。子どもたちの喜ぶことを出来るだけやってやりたい。だからお誕生日やお祭りの日には無理をしてでもプレゼントが欠かせない。
赤ちゃんのオムツさえ変わった。9年前に下のむすめが生まれたころには、ビニール製のおむつカバーでさえ、手作りのものだった。紙おむつなどとんでもない。産院で紙おむつを使ったところ、
「これは一体、何なの。」
と、小児科医にたずねられたものだが、今やどこの店角にもパンパースはあるし、外出時や夜間に紙おむつを使うのはあたりまえ。トイレでは紙おむつを流さないようにと宣伝には必ず付け加えられている。
もちろん、こうした外国製の商品の値段は、日本で買うのとほとんど変わりがない。
だけど日本で聞いてきたように月100ドルの給料では、どう見ても買えるものではない。どうやってロシアの人々はこの消費生活を支えているのだろうか。
魔法を見ているようだ。しかし、これは魔法ではなく、これが現実なのだ。
とにかくモスクワの人々は、生活の変化についていくのに 必死である。抑えられてきた人が当然もつべき消費欲に火が点き、それを満たすためがんばらなくてはならない。
残念ながら、多くの能力のある人たちが給料の支払いの悪い専門の仕事を辞めて、サービス業やビジネスマンに職を変え、月千ドルほどの収入を得ていると聞いている。事実、わたしたちの89年からの知り合いで、化学研究所に勤めていたイリューシャも外国資本の企業に営業勤めているし、近所のむすめたちのともだちの父親も大学で数学を教えていたが、今は 銀行勤めの身となった。。
その他、転職できない多くのロシア人は与えられた仕事の時間や労力を削ってまでアルバイトに精を出す。 こんなことではちっともロシアは良くなったにはならないではないか。

それにまた、わたしにとっては、店先にロシアの製品が異常に少ないのが気にかかる。今までは自国でともあれまかなっていた物資がほとんど外国製のものに取って代わられてしまっている。
食料品店では、ドイツ、フランス、オランダのチーズやハムが並んでいる。電化製品の店にいっても、日本のパナソニックやソニーが幅を利かせ、その間隙をぬって韓国のデウ社やサムソンそしてフィリップス社の製品が所狭しと並んでいるのはどこでも似たり寄ったりである。
テレビでは盛んに派手な西側製品のコマーシャルをやって、人々の消費熱を上げようと必死だ。それもアメリカやドイツ・フランスのものを直輸入し、ロシア語で吹き替えをしただけのものである。
ロシア製品は性能が悪くて値段も高いということで、見向きもされなくなってしまった。工場や会社での生産活動はどうなってしまっているのだろう。とにかく、ロシア製のものをほとんど見かけない。
どこかがアンバランスなのだ。それは何なのだろう。経済の基礎となるべき生産が見捨てられてしまっているとしか言いようがない。昔通り(ロシア製の)ものがなく、外国製品が氾濫しているだけのなのだ。ロシアでは生産して利潤をあげ、再生産というサイクルがうまく機能していない。
そして、その上がった利潤から公共の事業や福祉に参画するための税金が支払わない。そのため、国の経済基盤が築けないのだ。
サービス業で利益を得ている人たちも、税金を払っていない。

どうなっていくのだろうか、ロシア経済は。と、思っていた矢先、この9月にルーブルの大暴落がおきてしまった。国家経済が完全に破綻してしまったのだ。
そうなっても誰も暴利をむさぼる企業や人たちから税金を徴収できない。国の法のかなり粗い網の目をくぐり、帳簿は闇から闇へと葬られる。手の出しようがない。だから国家収入は入らない。
政治家はあわてて、ルーブルがもうこれ以上下がらないように、ルーブルの出し惜しみをしてみたりするがそれはただの子どもじみた小手先の政策だ。
経済の評論家はロシア人がドルを持つことを規制しようという意見を出してみたり、ロシア人が持つ外貨は全て銀行に預けことを義務づけようという案が出たりしてかまびすしいが、ちっとも実践的な策ではない。
ロシア人は自国通貨のルーブルを全く信用していないし、銀行はいわんやおやである。
人々は国会で改革案が出るたび、自衛のため、ますます自分の利益を守り、蓄えることに奔走するであろう。
こういう場合、まず最初に直撃されるのはいつも弱者と決まっている。年金生活のおじいさんやおばあさん。親のいない子どもたち、障害を持つ人々は、町行く人々の喜捨を頼って生きている。
モスクワは以前とは違ってステキな消費物資に溢れている。一見、人々の生活はそれなりに安定を取り戻しているかのように見える。以前よりずっと豊かで便利な生活を送っている。ほとんどの市民は自給自足の生活を基盤に、贅沢品を貨幣経済で賄っている。 例えば、日本人ならば大工や左官やに頼んでしまう家の修理や車の修理なども器用にほとんど自分でやってしまう。
また、6月から8月までの3ヶ月間は、ダーチャと称する別荘で大半の人は休暇を過ごす。冬の間の野菜不足を解消するため、大人たちはそこで農作物をつくり、マリネやジャムを煮て蓄える。
こうして人々は自分で生活を切り盛りしている。
大切な自分の職を捨てて、給料の少しでもいい職に就こうと考えているのは前に書いた通りである。。そして多くのこころあるインテリゲンチャアたちが、本来の能力をいかんなく発揮することもなく、副業に手を出さざるをえない実状はロシアの未来を憂える一つのかぎでもある。本当なら、研究に専念し、安心して目的に向かって歩みたいにちがいない。それなのに、その高い能力にいヶ月45ドル〜100ドルの給料しか貰えなかったり、のみならず、全く給料が支払われないことも実際にある。

ロシアは文化大国である。オペラを聞いてもバレエを鑑賞しても、博物館にある絵画を見に行ってもそこの深さに感動する。
しかし本当に未来をみつめるこころある知識人たちは、愁いている。そしてそれをバネに人間の普遍的なあり方を探ろうとする作業に入っていく。

下の娘が生まれ、産院からモスクワ大学の寮に帰ってきたとき、タクシーの中から、あの有名なソ連の良心である物理学者・サハロフ博士のお葬式に出会った。博士の死を悼む市民の列が長蛇となって交通を遮断していた。列に並ぶ人たちの手に手に一輪の花々が握られていた。
わたしたちがよく知る人たち、市井の人たちは懐が深く、人間味溢れている。こんなに魅力のあふれる正直でどっしり構えたロシアの人たちが大好きである。そういう人たちがこの国の文化を支えているのも確かである。

経済の恩恵からも文化を饗する喜びからも、あぶれた極貧の弱い人たち。
どうか、どうかこの人たちが一日も早く寒く長い凍てつく冬の時代から脱するのを願わずにはいられない。
 
 

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